父の写真帳に前掛け姿のがあって、その前掛けに味醂という文字が見えていた。味醂の扱いがあったのだが記憶では味りんを絞った後の味りん粕の事と思っていた。記憶では味りん粕で奈良漬用の粕の粘度の調整をしていた。アルコ―ル分の不足は25度の焼酎を足して使っていた記憶がある。
福田村の事件から隣接地の柏と流山の事が気になっていたが、最近のつくばエクスプレス の開業で子育てと境域環境の問題で流山が人気となっている。
都営大江戸線新御徒町駅で流山に短時間で行くにはつくばエクスプレス に乗り換える。改札口の乗り継ぎのやり方を忘れ、係の人に聞く。まずシルバ-パスを改札口に入れ、その後にSUICAを改札にタッチする。するとシルバ-パスが出て回収する。つくば行きに乘るのだが、降りる流山セントラルパ-ク駅は普通電車しか止まらず、南流山駅で乗り換える。流山セントラルパ-ク駅は新しいので奇麗だが、近所に周辺地図の範囲が少ないので、いつもの様に感ピュ-タ-ですすむことにした。地図の外れに平和台とあって、事前調べた流山市役所の方だった気がした。多くの都市は駅前か市役所の建物が高いか大きい。パーク駅から西へ向かうのだが、上り坂で先が見えない。道は広く家は新しい。坂を上りきったところの交差点で先に大きな建物が見えた。多分流山市役所と思い進むとバス停があって、次の停留場が流山駅だった。流山電鉄の流山駅は市役所と隣接しているが、目的地の流山市博物館はすでに二回ほど見学していたのだが車だったので、迷子となる。それでも市役所と近い所と記憶していて、ようやく博物館の案内板を見つけてゆくが裏口入場となった。車の時は小高い所にあると記憶していたが、市役所自体が小高い所でやはり水害の記憶があって立地したと思う。今の流山は随分市の居住地域が広がって、市役所の位置が流山電鉄の方に偏っているので、書類を集めるには車だろう。市役所の来訪者駐車場はとにかく広い。
流山博物館の展示は郷土の歴史。
イベントの宣伝文
江戸川、坂川、みりん、小林一茶、新選組……現代の流山を語るうえで欠かせないキーワードの多くは江戸時代にルーツを持ちます。言い換えれば、現代の流山のルーツは江戸時代にあり、と言えるかもしれません。
でも自分から言わせれば味りんが無ければ、江戸川水運もない。江戸という都市に運よく味りんの生産地となり、外食産業の発達でかば焼きの照りの元となる味りんが発達した。ブランドは天晴と万上。今は万上味りんしかブランドとして記憶にない。天晴の方が古いようだ。
明治の最初の福神漬の甘味は味りんの様な文献があった。同時に醤油は銚子だった。作っていたのが江戸川下流の行徳伊勢宿と押切だった。野田の醤油の可能性も捨てきれない。明治中頃から砂糖に甘味が味りんから切り替わったが
サッカリンという人工甘味料の可能性も捨てきれない。
江戸川水運の事を学芸員に聞いたが流山にもあったという。この文献はやはり関宿の方が揃っている気がして、学芸員は水運と水害は関宿という。そこで水運の書類を見れば荷物の内容が判る気がする。東京は戦災と震災と土地の高騰による移転で多くの商家の書類が消えた。地方は家が広く土蔵などがあって結構先祖の書類が残っている。葛飾郡は南葛飾郡だけが戦災にあっていて消えてしまった気がする。今は地方でも家が小さくなって、記録と記憶が消える。
博物館を出て流山駅に行く。改札口に人がいて、到着した乗客を確認して、切符を回収していた。一瞬30年以上前のの改札の風景。紙の切符。スイカとパスモが使えない。券売機はまるで食券販売機と間違える。
駅の中で観光案内図をとり、万上味りんへの引き込み線跡を歩く。今は味りんの工場はキッコ-マンの工場で味りんはブランドとして残っている。新選組近藤勇の捕縛地の土蔵後に行くが保存工事中。残念。江戸川が駅より近いので川風に当たり、喉が渇いたので古い商店跡の飲食店で味りん系の飲み物をとる。その後流電でJR馬橋駅に行き、金町駅で浅草雷門バス停で降りる。今日の歩数は15000歩。
流山電鉄は経営がきびそうだが、高齢男性よりバイト感覚の女子高生に休日に車内検札をさせた方が各駅での駅員による検札より人気が出る気がする。鉄道オタクでも乗らない電車で唯一残るのはオタクだろうとJRの電車で居眠りの夢でキャラクタ-に会った。
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