史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

田蓑橋 Ⅱ

2025年02月08日 | 大阪府

(NTTテレパーク堂島第二ビル)

 テト(旧正月)休暇が一週間も続く。その間、ハノイ市内のレストランやスーパーなどは軒並み閉まってしまう。タクシーで移動しようとしても、ほとんどつかまらない。生活にも支障があるし、何より退屈なので、この時期はハノイを脱出するのが賢明である。

 深夜1時にハノイを出て、朝7時に関西空港に着く夜行便にて大阪に降り立った。飛行機の中では、いつものことながら十分寝ることはできなかったが、そんなことは言っていられない。体力の続く限り、大阪市内の史跡を訪ねる。

 最初に訪ねたのは、NTTテレパーク堂島第二ビルの南側に建つ朝陽館の碑である。何十年振りとなるが、明治天皇聖躅碑と並んで、大村藩蔵屋敷跡碑が建てられていることを新たに発見した。建碑は長崎県立大村高等学校関西同窓会による。

 

明治天皇聖躅

 

 明治十年(1877)二月十六日、明治天皇が製藍所(朝陽館)に滞在したことを記念したもの。

 

大村藩蔵屋敷跡

 

(ABCホール)

知らないうちに福沢諭吉誕生地碑の横に中津藩蔵屋敷跡碑が建立されていた。

 

豊前國中津藩蔵屋敷之跡

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西郷従道―維新革命を追求した最強の「弟」 小川原正道著 中公新書

2025年01月19日 | 書評

本書は「大西郷の弟」というだけで、これまであまり注目されることのなかった西郷従道に脚光を当てたもの。隆盛と兄弟とはいえ十五歳も離れており、この年齢差もあって維新前は目立った活動はなかった。精々、文久二年(1862)の寺田屋事件の前夜、その他大勢の一人として寺田屋に集結していたことと、薩英戦争時には西瓜売りに変装して敵艦に乗り込んだこと、いとこの大山巌とともに西郷や大久保の用心棒を務めていた程度である。

従道が明治政府において重きを成すようになったのは、明治二年(1869)から翌年にかけて山県有朋とともに渡欧したことが大きかった。その辺りの事情について、本書には「洋行から新知識を携えて帰った信吾(従道)への信頼と期待が、急速に高まっていった。事実、それまで西欧に関する知識をもとに兵制改革を主導してきた大村益次郎や山田顕義などには、洋行して軍事情勢を学んだ経験はなく、信吾は廃藩置県などの大改革にも参与していくことになる」と記述されている。

明治六年(1873)の政変では、従道は兄隆盛と袂を分かって明治政府にとどまっている。筆者は「兄弟の間でどのようなやりとりがあったのか、正確なところは分からない」としながらも、「元帥西郷従道伝」から妻の清子とのやりとりを引用している。

――― 政変後に従道が「われわれも鹿児島に帰ることになるだろうから、いつでも出発できるように準備をしておきなさい」と語ったため、帰郷の覚悟を決めていた。だが、従道が隆盛を会って「兄さんが東京に残れと申されたよ」と東京に留まることになった。さらに、「世間でお祖父様がヨーロッパの先進諸国を見てきたから兄弟の意見が分かれたと言うていることとは違うんですよ」と孫の従宏に証言している。

少なくともこの時点では兄弟の信頼関係は確固たるものがあった、続く台湾出兵についても「従道の出兵の背後には、なお、隆盛の存在があった」としている。台湾から戻った従道は、鹿児島に帰省して隆盛と面会し、隆盛下野後の政治情勢について詳細に報告して了解を求めている。まだこの時点でも、隆盛と従道の間に「信頼と合意」が成立していたのである。

実兄西郷隆盛が鹿児島で決起し賊軍の将となると、従道は「この戦争は隆盛の意志によるものではなく、隆盛は周囲に騙されているに過ぎないという理解と、天皇に対する忠誠心、そして、この戦争そのものが持つ、軍事上の意義」を心の支えとして、徹頭徹尾政府のために尽くした。従道は、西南戦争下で陸軍卿代理に任じられ、主に銃器や弾薬の確保に努め、全国の不平士族が鹿児島と連動して挙兵しないよう警戒した。この戦争を通じて、従道は完全に兄と離別して自立を果たしたといえる。

西南戦争後、従道は薩閥を代表する顔として重用された。明治十一年(1878)五月には参議兼文部卿に任じられ、明治十四年(1881)には農商務卿に就いている。当時、郵船汽船三菱会社と共同運輸会社が激しい競争を展開していたが、従道は両社の役員を招いて協約を締結させて、敵対的競争をやめさせた。しかし、直後に協約は破綻し、再び競争が激化する様相を呈すると、今度は両社を合併させ、日本郵船会社が設立されるに至っている。

明治十八年(1885)、第一伊藤内閣が発足すると、海軍大臣に就任。明治二十三年(1890)には内相に就き、明治二十六年(1893)に再び海軍大臣に就き、明治三十一年(1898)十一月まで、日清戦争中も含めて実に五年に渡って在任している。

歴代の内閣で従道が重用された背景には、もちろんこの時点で既に彼が薩閥を代表する存在になっていたこともあるが、伊藤博文や山県有朋、井上馨といった長州閥とも良好な関係を維持し、一方で山本権兵衛や白根専一、品川弥二郎らを発掘・育成・重用し良き「幇助者」となった。さらには大隈重信や板垣退助らとも関係良好で、「自然に妥協性・調和性」を発揮していたという。ひと言でいえば、坐りが良い存在だったのだろう。

明治二十九年(1896)八月、第二次伊藤内閣を率いた伊藤博文が辞表を提出すると、後継首班の候補として従道の名が上がった。松方邸で元老会議が開かれ、黒田や井上が代わるがわる従道を説得したが、「例のぐずぐず」にて終わった。

明治三十一年(1898)、大隈内閣が倒れると、再び首相候補として従道が取り沙汰された。新聞では連日従道の動きが伝えられ、時には「西郷内閣」の構成まで報じられた。周りの期待をよそに従道は固辞し続け、遂に首相の座につくことはなかった。

おそらく本人が「了」といえば、首相になることは可能であっただろう。しかし、彼の脳裏には常に「賊将の弟」といううしろめたさがあった。明治二十二年(1889)、憲法発布の大典に合わせて大赦を受け、隆盛は正三位の官位を回復し、名誉を回復していた。従道自身はそれを上回る正二位に叙されており、そのことも従道の本意ではなかった。死を前に従道は盛んに位階や爵位の返上を漏らすようになる。

そのことを知った田中光顕(当時、宮内相)は、大山巌と相談し、隆盛の嫡男寅太郎を侯爵とすることで対応した。この授爵によりようやく兄という存在を肩から下すことができたと筆者は従道の心中を察している。

明治三十五年(1902)七月十八日、この日の午前六時、従道は目黒の本邸で死去した。胃がんと言われる。五十九歳であった。彼の死去に合わせて様々な追悼記事が出されたが、総括すると「国家的大局観を持ちながら、あえて首相にはならずに、首相を支え、実務を有能な部下に任せて、その責任を負い、自分を殺して調整に努めた人物」と評する記事が多かった。

従道が明確なビジョンを示さず、周囲を笑わせながら調整し、常に安定と安寧を追求した原点には、兄・隆盛の存在があった。隆盛は倒幕維新を実現したカリスマ的リーダーであったが、そのカリスマ性ゆえに政府を去り、私学校党に擁されることになってしまった。そのことを従道は誰よりも理解していた。従道にとって隆盛は反面教師でもあったのである。彼は兄の名を借りてカリスマ的リーダーになることも可能であったが、慎重にそうならない道を選んで歩んだのかもしれない。

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「幕末の大砲、海を渡る ― 長州砲探訪記 ―」 郡司健著 鳥影社

2024年12月27日 | 書評

文久三年(1863)に長州藩が起こした攘夷戦争(下関戦争=広義ではその後の四か国連合艦隊との戦闘まで含むが、ここでは文久三年の攘夷戦争のことを指す。)の報復として、その翌年元治元年(1864)六月、英・仏・蘭・米の四か国連合艦隊が下関に来襲し、三日間に渡って戦闘が交わされた。連合艦隊は長州藩の砲台を破壊し、さらに上陸して大砲の火門に釘を打ったり、砲架に火を点けたりして使用不能にした。このとき下関の各砲台に設置されていた大砲のうち54門が、連合艦隊に戦利品として接収され、四か国に分配された。その一部が今もオランダ、ブランス、イギリス、アメリカに残されている。本書は筆者がその四か国に残る大砲を訪ねた記録であるが、単なる旅行記ではなく、大砲の詳細な調査研究成果の論文にもなっており、非常に読み応えがある。

山口県在住の直木賞作家古川薫氏(故人)がフランスのアンバリッド廃兵院で長州砲を発見し、その返還運動に尽くされたことは私も知っていた。そこで昨年のパリ訪問時には、アンバリッド廃兵院で長州砲を探してみたが、見つけることができなかった。本書第三章「パリの大砲」によれば、アンバリッドには三門が保管されていた。荻野流一貫目玉青銅砲(和式砲)は、回廊の内側に置かれていたというが、昭和五十九年(1984)、フランス大統領の好意により、長州藩主の甲冑と相互貸与の形で返還され、現在は長府博物館に展示されている。

残る二門は西洋式カノン砲である。一門は北門を入ってすぐのところ、向かって右側(西側)の大砲群の中にあったという。本稿が書かれたのが令和十六年(2004)のことで、私が訪れたのとは二十年の時差がある。この二十年で保管場所が二転三転している。第六章「欧州の長州砲のその後」によれば、その後「アンバリッドの北門前庭に置かれていた十八ポンド砲は砲架に乗せられ、さらに西の端(エッフェル塔寄り)に移された」という。さらに令和二十六年(2014)には北門前庭東側に移されたとされている。そこは見たはずなんだけど、なぜ見つけられなかったのだろう???

なお、残る一門(二十四ポンドカノン砲)は行方不明となっていたが、これもアンバリッドの中庭に置かれていることが判明した。中庭も一周したんだけど。いやあ、気が付かなかったな。

第二章は「オランダの下関砲」。古川薫氏の著作によれば、一門はアムステルダム国立博物館(おそらくアムステルダム国立美術館のことだろう)、一門は所在不明とされていた。筆者はデン・ヘルダー(アムステルダムから電車で約一時間半)の海軍博物館を訪ね、そこで一門の青銅砲と対面している。その砲耳に刻まれた「26」という数字が、イギリスの海軍が鹵獲・分配した際に作成した記録(ヘイズ・リスト)の識別番号26であることを突き止めた。この辺りの記述は、一片のミステリー小説のようである。

筆者はイギリスとアメリカの長州砲も丹念に追跡している。イギリスの長州砲は、ウリッジ(Woolwich)の王立大砲博物館敷地内にあるロタンダ展示館に二門が展示されているとされている。ところが、ウリッジの王立大砲博物館(Fire Power Royalartillery. Museum)を調べてみると、2018年に閉鎖されてしまったようで、その後、長州砲がどこに保存されているのか行方が分からない。また、かつてイギリスのポーツマスには三門の長州砲が存在していたことが確認されているが、これも行方知れずとなっている。ロタンダ展示館にあった長州砲が同じ運命をたどらないよう祈るばかりである。

アメリカの長州砲は、ワシントンDCのネイヴィーヤード内ダールグレン通りの西側に保存されている。ヘイズ・リストによれば、アメリカに分配された長州砲は一門しかなく、それがこのボンベカノン砲である。具体的な計画があるわけではないが、いつかワシントンDCにあるこの長州砲も見てみたいと思う。

一般的には、四か国連合艦隊の近代兵器の前に、長州藩は旧式の兵器によって対抗したため、あっけなく敗北したとされている。筆者は「連合艦隊側ないし英国側の防長制圧からさらに大阪等への進撃・制覇の意図を結果的に阻止できたことを考えれば、欧米連合艦隊に対して良く頑張ったというべきであろう」としている。「連合艦隊側ないし英国側の防長制圧からさらに大阪等への進撃・制覇の意図」というのは、本書で初めて知ったのだが、新しい解釈を提示するのであれば、その根拠(できればイギリス側の資料)を開示してもらいたいものである。筆者は参考文献として「拙著前掲」書を挙げているが、「大阪学院大学通信」という大学の発行している論文集のようで、残念ながら一般的には入手が難しそうである。

筆者が指摘するように、長州藩が旧式で戦ったという従来の見方は改める必要があるだろう。長州藩では天保十二年(1841)、高島秋帆が行った徳丸原での西洋流銃陣演習にも人を送り、それを契機に和流から西洋流への転換を図っている。「旧式とはいえ、当時欧州でも前年までは通常実戦に使用されていたレベルの大砲を、鉄製と銅製の違いはあるが」使っていたという指摘は正確である。技術の差といえば、数年の間に生じたイノベーションまで取り入れることはできなかった。その程度の差であったが、この時代、戦争の続いた欧米での兵器の革新が目覚ましかったのも事実である。

長州藩の戦国期の砲術家郡司讃岐は「当初、防府三田尻に住み、朝廷から認められた参内鋳物師の塚本家を継ぎ洪鐘・仏具等の鋳造に携わるとともに、岳父中村若狭守隆安(隆康)から隆安流(隆安函三流・隆康流、・高安流ともいう)砲術を伝授され、仏郎機、石火矢とも呼ばれる大銃の鋳造にも携わっていた。(中略)彼は砲術と鋳砲の技により毛利家に召し抱えられ、防府から萩へ移住した。」とされる。

その後、郡司讃岐は、松本(松下村塾のあった松本村)と椿青海に鋳造所を開いた。その二つの鋳造所は幕末まで存続した。彼の子孫は、砲術家五家と鋳造家二家に分れ、代々大砲の運用(砲術)と大砲あるいは洪鐘等の鋳造に関わってきた。筆者は、青海鋳造所を継ぐ郡司家(幕末期の当主は郡司富蔵信成)の末裔である。本書奥がきによれば、連結会計について著書もある公認会計士が本職のようだが、本書は歴史家顔負けの仕上がりとなっている。執筆動機には先祖の製造した大砲の行く末を知りたいという熱意があるだろうが、それにしても凄まじい執念を感じる一冊である。

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「日本医家伝」 吉村昭著 中公文庫

2024年11月25日 | 書評

山脇東洋、前野良沢、伊藤玄朴、土生玄碩、楠本いね、中川五郎治、笠原良策、松本良順、相良知安、荻野ぎん、高木兼寛、秦佐八郎といった、江戸時代後期から近代にかけて登場した医師12名を取り上げる。吉村昭は、この後、「日本医家伝」で取り上げた12人のうちの6人を題材にして「めっちゃ医者伝」(笠原良作)、「冬の鷹」(前野良沢)、「北天の星」(中川五郎治)、「ふぉん・しーほるとの娘」(楠本いね)、「白い航跡」(高木兼寛)、「暁の旅人」(松本良順)に長編化している。

これまでも「ふぉん・しーほるとの娘」、「白い航跡」、「暁の旅人」を読んでいたので、でっきり吉村昭の得意分野だと思っていたが、本書の「旧版文庫版あとがき」によれば、当初「クレアタ」という季刊雑誌の編集長をしていた岩本常雄氏から依頼があった際、「私には未知の分野で、調査もどのようにすべきかわからず、満足のゆける作品を書くことは不可能に思えた」と告白している。つまり「日本医家伝」を手掛ける前の吉村昭氏は、近代医史については得意分野ではなかったのだろう。それがこの作家における一つの大きな作品群の潮流の一つになったことを思い合わせると、「日本医家伝」の重みが理解できる。

個人的に興味深かったのが、前野良沢であった。歴史の授業で「ターヘル・アナトミア」「解体新書」「杉田玄白」「前野良沢」と呪文のように記憶したが、本書によれば、翻訳事業を進めるにつれ、杉田玄白と良沢の間にはずれが生じ、次第に溝が深まり、両者は距離を置くようになったというのである。その理由は野心家の杉田玄白が刊行を急いだことにあったらしい。一方の良沢は、「解体新書」は甚だ不完全な訳書であり、さらに年月をかけて完全なものにしてから刊行したいと考えていた。良沢は学者としての良心から自分の名を公けにすることを辞退し、その結果、「解体新書」の訳業をリードした前野良沢の名前は剥除された、というのである。良沢は、「解体新書」の刊行後も、オランダ語研究に没頭し、多くの訳書を残したが、それを刊行することすらしなかった。杉田玄白と前野良沢、その名前は常に並び称されるが、筆者吉村昭がどちらに好感を抱いているかは明らかであろう。

本書でもっとも感銘を受けたのが、笠原良策(白翁)である。福井の医家に生まれ、若くして名声を得ていた良策であるが、ある日西洋医学の優れていることを聴き、西洋医学に強く引き付けられた。三十一歳のとき、京都に上って蘭医日野鼎斎の門に入り、研鑽に励んだ。いったん福井に戻って西洋医学を広めたが、それに飽き足らず再び京都に上って蘭医学の修得に努めたとされる。

その頃、西洋には「種痘」により天然痘を予防する治療法が確立していて、既に中国でも種痘法が伝わっていた。当時、日本では毎年のように天然痘が流行して多数の人が死亡していた。幸い命は助かっても顔に見にくいあばた(痘痕)が残り、人々を終生嘆き悲しませていた。

良策は痘苗輸入が急務であることを説いて、幕府の輸入許可を求める嘆願書を提出したが、何度も役人の手で握りつぶされたしまった。福井藩主松平春嶽へ建言するという最終手段により、ようやく幕府から牛痘輸入許可がおりた。嘉永2年(1849)、長崎に痘苗を入手しに行く途中、京都で痘苗を入手することに成功し、まず京都で苦心の末に種痘に成功し京都での普及を果たした。当時の種痘は、人から人へ種継ぎをしていくしか確実な方法が無く、種痘を施した幼児を連れて雪深い藩境の峠を越えるという決死行によって福井城下に痘苗を運んだ。金とか名誉ではなく、とにかく民を救いたいという一心でここまでやる彼の情熱に心を動かされるものがある。

吉村昭は、この短編を端緒として「めっちゃ医者伝」(のちに改題・補填して「雪の花」)を発表している。「雪の花」を原作として、来年には映画化されるらしい。笠原良策(白翁)は、一般にはほとんど知られていない人物であるが、「福井にこんなにエライ人がいたんだ」という感動で熱くなる。「雪の花」も読んでみたいし、映画も見てみたいと思う。

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「関東・東北戊辰戦役と国事殉難戦没者」  今井昭彦著 御茶の水書房

2024年11月23日 | 書評

タイトルを見て、全国の戊辰戦争の戦跡や殉難者の墓を訪ねてきた私としては、避けて通れない書籍だと確信した。年に数冊、日本から取り寄せることができるその中の一冊に、迷うことなくこの本を選んだ。もし値打ちものなら、「戊辰掃苔録」の竹さんにも紹介しないといけない。

しかし、期待が高かっただけに、読み進めていくうちに期待は途端に落胆に変わってしまった。その理由は下記の3点に集約される。

  • プロローグにおいて、国事殉難者は靖国神社を頂点としたピラミッド体系に整理されるとしている。本書は、それを具体的に証明するものかと思って読み進めたが、どうもそうではない。ところどころ、西軍の殉難者がカミとして祀られているとか、東軍の殉難者がホトケとして葬られているという記述が散見されるが、最後まで体系的な解説を読むことはできなかった。筆者にしてみれば、前著で言及済ということかもしれないが、前著を未読の読者にしてみれば、消化不良感が残る。
  • 平成二十九年(2017)に野口信一氏が「会津戊辰戦死者埋葬の虚と実—戊辰殉難者祭祀の歴史—」(歴史春秋社)において、会津落城後の、西軍(新政府軍)による東軍戦没者への「埋葬禁止令」は、虚構であったと主張した。従来から定説となっている、東軍戦没者の遺体が放置され、埋葬されなかったというのは事実に反するとしたのである。本書では、「第四章 会津戊辰役と殉難戦没者」のうち、ほぼ一節を割いて会津城攻防戦の経緯を追い、戦没者の遺体が阿弥陀寺や長命寺に埋葬された経緯を解説している。だから東軍戦没者の遺体は埋葬が禁じられたのか、やはり野口氏が主張するように埋葬禁止は虚構だったのか、それについての著者の最終的な見解は明確にはなっていない。

――― 埋葬作業というものは、単純なものではなく、それを巡っては、様々な事例が考えられることに留意する必要があるだろう。今後の検討課題である。

として、本書で結論を出すことを避けている。プロローグにおいて「果たして「五〇年目の真実」とは、どうであったのか。本書では、こうした野口説を念頭に置きながら、再検討を試みるものである」としておきながら、「それはないだろう」という気がする。

  • 結局のところ、本書において大半を占めているのは、出流山事件、梁田における戦闘、白河城攻防戦、二本松攻防戦、母成峠の戦い、そして会津鶴ヶ城攻防戦の経緯に関する記述である。けれど、これくらいの記述であれば、ほかにもっと詳しく描いている本はいくらでもある。特に新発見があるわけでなく、やや退屈であった。

本書の副題は「上州・野州・白河・二本松・会津などの事例から」である。メイン・タイトルと合わせると随分と長いタイトルであるが、タイトル、中身とも要領を得ない。結局のところ最後まで読んでも何が言いたいのか分からないものであった。

とはいうものの、白河市付近での建碑状況(表1)や会津西軍墓地での土佐藩埋葬者一覧(表2)、土佐藩の戊辰役殉国者墳墓一覧(表3)など、網羅的なリストが掲載されているのは有り難い。改めてこのリストと照合して、抜けがないか確認したところ、新潟県村上市の一部の墓地は未踏であることが判明した。いずれ新潟県内はもう一度回らなければならない。その日が待ち遠しい。

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「悲劇の改革者 調所笑左衛門」 原口虎雄著 草思社

2024年10月27日 | 書評

本書は昭和四十一年(1966)に中公新書から発刊された「幕末の薩摩 悲劇の改革者調所笑左衛門」の主題・副題をひっくり返して改題し、実に五十八年ぶりに復刊したものである。それまで「悪の張本人」とされ、怨嗟の的であった調所に光を当て、彼の功績を浮かび上がらせた名著である。自宅の本棚には「幕末の薩摩」があるが、改めてこの本を手にとって調所笑左衛門という人の事歴を追ってみることとした。

この人物が「悪役」とされるのは、お由羅騒動で斉興・お由羅側についたためである。つまり、明治維新の勝者である薩摩藩の討幕派からは蛇蝎のごとく嫌われたのである。そのため調所一族は零落し、孫のノブ女は、鞠や押絵の内職に励み、夜になると一里も離れた町まで呼び売りに出かけ、時に旅館の二階まで上がって鞠を売った。「金助鞠鞠(まいまい)」と寒風の中で叫ぶ少女の哀音は、地方郷士の憐みをさそったという。

調所笑左衛門広郷は江戸と国元を往復する茶坊主であった。しかし、その後御小納戸勤を命じられ、ついで御小納戸頭取御用、御取次見習を兼務した。さらに御使番、町奉行へと栄進した。いずれも時の藩主島津重豪の引き立てによるものであった。

文政七年(1824)、五十歳のとき再び君側に招かれ御側御用人という重要ポストに任じられた。そして文政十一年(1828)、重豪の命により藩政改革の大任を奉じ、家老中にも指揮せよとの上意を受けた。一介の茶坊主に過ぎなかった調所がこうして抜擢されたのは、彼の有能さを重豪が見抜いたからにほかならない。重豪の見立てに狂いはなかったといえよう。

一口に「改革」というが調所の手がけた改革は多岐にわたる。

  1. 当時の薩摩藩にとって最大の課題が財政改革である。調所がやったことの筆頭に挙げられるのが五百万両にも及ぶ借金の踏み倒しである(実際には二百五十カ年年賦の無利子償還)。証文を集めてすべて焼き払ってしまったというからかなり乱暴な手口である。
  2. 続いて冗費削減と国産開発。藩費の半分以上を占める営繕費用の削減。木材などの資材を直接調達したり、手続きを簡素化することで支出の合理化を進めた。
  3. 冗費削減の典型例として挙げられるのが南西諸島と大阪を結ぶ海運の大改正。大船を建造して米や砂糖をタイムリーに廻送できる体制をととのえた。
  4. 菜種子、櫨蠟、煙草、椎皮、椎茸、牛馬皮、海人草、鰹節、捕鯨、櫓木、硫黄、明礬、石炭、塩、木綿織物、絹織物、薩摩焼などの物産開発に手を付けた。同時に流通の合理化をすすめた。
  5. 三島方を設置して奄美三島の黒糖の専売化を推進した。島民への生産強制、品位改良、密売の徹底的取締り、運賃の削減、交換比率のペテン的低率適用、そして高値での売りさばき。
  6. 農政改革では、従来、「上見部下り」と呼ばれ、天災を口実に年貢の軽減を受ける悪弊が常態化していたのを「定免制」に転換した。
  7. 軍制改革。家禄高に応じた軍賦を逃れるため、高の売買が横行していたが、その改革に着手した。

調所は多方面の改革を精力的に、しかも二十年の長きにわたって取り組んだ。彼はもともと茶道や花、囲碁、将棋、詩歌、角力などを好んだが、藩政改革に従事するとフッツリとやめ、部下がこれらの趣味に走ることをひどく嫌ったという。毎年、十月頃に国元を出発し、途中長崎、大阪、京都に逗留しながら陣頭指揮をとった。一年のうち家族と同居するのはわずかに二~三か月という生活を二十年以上にわたって続けた。毎日、登庁前に来客と用談し、帰宅後も夜半まで応接に忙殺された。「とにかく大変な精力家で、たまに徹夜をしても、翌日ちょっと居眠りするだけで精神が爽やかになった」というから一種の超人だったのだろう。側近のものでも調所のだらけた姿を見たことがないといわれる。反調所派や反由羅派があら探しに奔走したが、何も見つからなかった。徹頭徹尾生活は質素であり、これだけ権力を掌中にしながら一切汚職に手を染めることもなかった。

調所の眼からすれば、斉彬は「偏に洋癖に固まり珍奇を衒ひ(てらい)、無用の冗費をつくされ、用度(必要な費用)為に空竭(くうけつ:すっからかんになる)に至らん」「(斉彬)公は高祖重豪公の風あれば、或いは驕奢に募り、わずかに立ち直らんとする御家の先途も危からん」と映じた。江戸育ちで、しかも重豪の膝下に愛育された斉彬を、全く所帯の苦労を知らぬハイカラ若殿と感じたのは無理もないことで、「財布の底を見ないで行なう文明開化は、重豪で充分に懲りていた」とされる。

しかし、日本に危機が迫り、老中阿部正弘をはじめとした幕閣からも諸侯からも斉彬の登場を嘱望されていた。調所の判断ミスがあったとすれば、新しい時代が来ていることを察知できなかったことであろう。

嘉永元年(1848)時点で、斉興は58歳、斉彬は既に40歳になっていたが、斉興は頑なに家督を譲ろうとしなかった。そこで斉彬は阿部正弘と結託して、調所の密貿易事件を密告し、まずは斉興の両翼というべき調所と二階堂志津馬を失脚させるべく、周到な手を打った。密貿易というのは、弘化三年(1846)、琉球の使者池城(いけぐすく)が中国へ渡航して交渉し、十万両の品物を薩摩から密輸出し、同時に琉球の残留外国人を連れ帰ることを取り決めた、このことを指している。当時薩摩領内の津々浦々には密貿易の専門家がいた。公許された琉球貿易を隠れ蓑にして、その裏では盛大な藩営密貿易を行っていた。調所はその陣頭に立ち、年に二度は必ず長崎に立ち寄って指揮をしていた。この秘密が絶対に漏れないように周到な裏面工作を行っていたというから、これが幕府の知るところとなった(実は斉彬から阿部へ意図的に漏らした)とは、さすがの調所も驚倒したであろう。このままでは藩主斉興の立場が危ういと思った調所は、罪を一身にかぶって服毒自殺を遂げた。彼は「改革が完成するまでは隠退しない」と周囲に伝えていたという。無念の死であった。齢七十三。

幕末の薩摩藩が圧倒的な財力によって、政局をリードし、遂には倒幕の主体となったのは周知のとおり。その財力を築き上げた最大の功労者は調所笑左衛門であり、本来討幕運動にかかわった人たちは調所に足を向けて寝られないはずである。斉興―由羅―調所VS斉彬という対立図式でみれば、調所は怨嗟の対象であり悪役となってしまうが、調所を抜擢したのは斉彬の曽祖父である重豪であるし、由羅の子久光なくして討幕はあり得なかった。幕末の薩摩藩は、単純な対立構造で説明できるものではなく、両者は複雑に絡み合っている。維新の功労者であっても、調所笑左衛門を悪人呼ばわりすることはできないはずなのである。

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「川路利良 日本警察をつくった明治の巨人」 加来耕三著 中央新書クラレ

2024年10月27日 | 書評

本書は、今から二十年前の平成十六年(2004)に講談社+α文庫より「日本警察の父 川路大警視」として発刊されたものを再編集して改題したものである。さすがにこの二十年で見直された歴史について、最新の知見が反映されていないのはしょうがないとして、明らかな誤り(たとえば、出羽米沢出身の千阪高雅を石川県士族としたり、京都府参事の槇村正直のことを植村正直と表記したり…)は訂正して欲しかった。

川路利良という人物の特質が一番よく表れているのが、明治六年の政変の後、西郷隆盛が辞職して帰郷すると、文武の薩摩系官吏が一斉にあとを追って辞職した場面である。この時、警保助兼大警視であった川路は、ほかの警保寮の奏任官とともに太政官に上申書を提出している。

「臣等惶恐(せいきょう)俯(ふし)て惟(おも)ふ。刑罰は国家を治ル要具、則(されば)一人を懲して千万人恐る。」

公明正大であるべき法の執行に愛憎(私情)を挟むのはおかしい。「曩(すで)に京都府参事槇村正直、拒刑の罪あり」――― それを拘留しておきながら、今ふいにそれを解くのは「臣等驚き且つ怪しむ」。邏卒たちが懸命にその職務を遂行するのは「一に信賞必罰法令厳重にして、以て之を約束せざるなし」だからであって、「今若し政府愛憎を以て、法憲軽重するが如き曖昧倒置の挙措ありと誤認せば、即ち曰はん、国家の大臣信ずるに足らざるべしと、既に如斯(そのごとく)、況(いわん)や区々の法令約束何の頼む所ありて能く勤労せん。数千の属員をして一度離心を抱かしめ、法令行はれざるに及んで、遂に制馭する能はざるの勢に至る必せり」これは「近衛の士卒非役を命ずる者数千人」も同罪と断じた。

川路は幕末以来、西郷によって卑賎の身から引きたてられた経歴をもつ。周辺の人間は誰もが川路も西郷のあとを追って下野するだろうと考えていたが、川路の発想は全く異なっていた。ここに彼の思想や国家観を見ることができる。国家の仕事を遂行するのに、愛憎だとか恩義とかを持ち込むべきではないというのである。

川路は「冀(ねがわ)くば政府速(すみやか)に明諭し、(槇村)正直の為に下す所の特命の旨と近衛兵動揺のことの由とを審」せよと主張し、この上申書の勢いそのまま上司である大久保利通に迫った。大久保は川路に対して懸命の説得を行い、最後は「もう少し時期を待って欲しい」と懇願することで川路はようやく矛を納めるところとなった。川路は、よく言えば筋を通す熱血漢、悪く言えば融通がきかない頑固者であった。

川路と対照的だったのが、同じ薩摩出身の同僚、坂元純煕であった。坂元は、川路が洋行する直前に川路と並んで警保寮助大警視に就任し、川路の留守中警保助として実質的に警察を取り仕切った人物である。坂元は警保寮が司法省から内務省に移管された明治七年(1874)一月十日、辞表を提出した。この時、鹿児島出身の警察官吏約百余人もこれに従った。坂元は一旦鹿児島に戻ったものの、旧近衛兵の連中とはそりが合わず、間もなく東京に戻ってきた。しかし、さすがに内務省には戻れず、陸軍省に入った。西南戦争にも少佐として従軍した(因みに川路は西南戦争時には臨時的に陸軍少将に昇進している)。

彼は連日眠る時間を惜しんで職務に尽くした。睡眠時間を四時間と定め、死ぬまでそれを実践した。己に厳しいだけではく、警察官に「警官は人民のために死すべし」と訓示し、警察官は国家、国民の盾であり、滅私奉公以外につとめようはないとし、厳格な規律をもとめた。今なら過労死を厭わないパワハラ上司ということになるだろう。しかしながら、我が国の警察の草創期にこのような意思堅固な指導者を頂いたことは、現代日本の警察の姿を思い合わせると警察にとっても幸運だったのではないだろうか。

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ミュンヘン Ⅲ

2024年10月11日 | 海外

(聖ルートビッヒ教会)

シーボルトは、安政五年(1859)、鎖国が撤廃されると和蘭商事の評議員として二度目の来日を果たし、長崎に滞在した。文久元年(1861)には幕府に招聘され江戸に赴いたが、わずか四か月で職を解かれて長崎に戻った。このとき日本の関連資料を精力的に収集し、翌年にはそのコレクションをオランダ、アムステルダムに送っている。オランダに戻ったシーボルトは、そのコレクションの購入をオランダ政府に要請したが最終的に断られ、バイエルン国王ルートビッヒ二世にコレクションの購入を依頼した。以降、シーボルトはミュンヘンに移り、ここでコレクションの整理に没頭した。このころシーボルトは3回目の日本渡航を計画しており、その資金作りのためにもできるだけ早くコレクションを整理し売却する必要に迫られていたのである。しかしながら、風邪をこじらせたシーボルトは敗血症を引き起こし、1866年10月18日、ミュンヘン市内で息を引き取った。享年70。シーボルトの葬儀は、ミュンヘン大学の大学教会を兼ねる聖ルートビッヒ教会にて行われ、10月21日にはミュンヘン南墓地に葬られた。

 

聖ルートビッヒ教会

 

(勝利の門)

勝利の門(Siegestor)のことを「米欧回覧実記」では凱旋門と記している。

――― 府ノ北ニハ、凱旋門アリ、伯林(ベルリン)ニテミル所ト、同法ノ結構ナリ、

 

勝利の門

南側より撮影

 

勝利の門

北側より撮影。こちらが正面である。

 

勝利の門の脇の並木道

 

(エングリッシャーガルテン)

「勝利の門」に続いてエングリッシャーガルテン(Englischer Garten)が紹介されている。

――― 此辺ニ公苑アリ、「インギリス・ガーテン」ト云、区域広大ニテ、中ニ大池ヲ掘リ、河流ヲ曲折ス、水流急ニシテ、時ニ淙淙(そうそう)ノ声アリ、山丘ノ設ケナケレトモ、樹老鬱ニテ、水清麗ナル、亦一種ノ勝概アリ、中央ニ亭アリ、麦酒茶菓ヲ売リテ、憩息ノ地トス、其亭ハ支那風ヲ模シタルトテ、木製ノ奇亭ナリ、

「勝概」とは「優れた景色」を意味する漢語表現である。

 

エングリッシャーガルテン

 

エングリッシャーガルテン

 

中国の塔Chinesischer Turm

「中国にもこんな建物はないだろう」というほど奇妙な形をした建造物。周囲はビア・ガーデンになっている。平日の昼間というのにたくさんの老若男女が集まってビールを飲んでいる。ミュンヘンの人たちの無上の楽しみなのだろう。

 

レバーケーゼ(leberkasse)

 

ここでドイツ料理の一つであるレバーケーゼなるものを注文してみた。Leberはレバー、Kasseはチーズのことらしいが、実態としてはソーセージの肉をケーキ状に固めたもので、大きなソーセージみたいな食べ物である。ドイツ人は余程ソーセージが好きなのだろう。でなきゃ、こんな食べ物を思いつくはずがない。

店員に勧められるまま断り切れず、お皿にフライド・ポテトを山盛りにされ、どう考えても本日の食事はこれでお終い。腹いっぱいである。

 

ビール

 

精算時にコインを渡され、飲み終わったジョッキとコインを渡すと、1€が返金される(デポジット方式)。ウェイターを使わなくてもジョッキが回収できるといううまい仕組みである。

 

昼間からビールを楽しむ人たち

 

ジョッキの返還場所

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ミュンヘン Ⅱ

2024年10月08日 | 海外

(五大陸博物館)

一旦バスで中央駅まで戻り、そこからトラムに乗ってKammerspieleという電停で下車すれば、五大陸博物館が近い。

シーボルトが二回目の日本渡航した際に集めた資料は、シーボルトの死後、1868年にギャラリー館にて展示されることになった。これがのちのミュンヘン国立民族学博物館(現・五大陸博物館=Museum Fünf Kontinente)へと引き継がれる。最終的にバイエル公国は、シーボルトからの要請を受け入れ、1874年頃、彼の日本関係資料約5,400点の購入を決めている

 

五大陸博物館

 

日本関係の展示

 

ハイネの描いた江戸とその周辺の展示

 

五大陸博物館に行けばシーボルト・コレクションの一部だけでも見ることができるのでは…という淡い期待を持っていたが、残念ながらシーボルト・コレクションは公開されていなかった。

代わりにハイネが明治初期の江戸やその周辺で描いた絵を展示していた。これはこれで興味深いものであった。

 

(ミュンヘン・レジデンス)

ここからエングリッシャーガルテンまで全て徒歩で移動である。

明治六年(1873)五月六日、岩倉使節団一行はミュンヘン市内を視察している。最初に訪れたのが拝焉(バイエル)王の宮殿である。これまでオーストリアで見てきた各所の宮殿と比べても引けを取らない豪華絢爛な宮殿である。この宮殿は、現在州立博物館として公開されミュンヘン・レジデンス(Residenz München)と呼ばれている。

 

――― 拝焉王ノ宮殿ハ、府ノ中央ナル広街ノ衝ニアリ、「パレイ・ローヤル」ト名ク、荘麗ナル宮ナリ、築造新ニシテ粋白ナリ、先王「マキシミリアン」ノ代ニアタリ、此宮ヲ経営シタリ、高廠ナル三層ノ殿ニテ、窓ヲ開ク恢宏ナリ、裏面ノ建築ハ旧(ふる)シ、東面ニ菩提寺、芝居アリ、門ニハ兵隊アリテ守ル、熊毛ヲ背ヨリ欹(そばだ)テタル帽兜(ぼうとう)ヲ冠シ、藍衣ニ銀鈕釦(ぼたん)ヲ施ス、普魯西(プロシャ)ノ兵ト異ナリ〈今朝騎兵ノ隊ヲナシテ過ルヲ見シニ是モ同装ニテアリヌ〉、裏面に大苑ヲ抱ク、樹陰清ク、層層ニ榻(こしかけ)ヲ列シ、酒茶ヲ売ル、是モ王宮ノ囲ヒノ内ニ属セリ、王宮モ縦覧ヲ許ストナリ

 

ミュンヘン・レジデンス

 

中庭

 

中庭

 

中庭の銅像

 

祖先画ギャラリー

 

祖先画ギャラリー 

 

グロット宮殿(Grotto Courtyard):貝殻でできた装飾

 

グロット宮殿

 

アンティクアリウム(Antiquarium)

 

アンティクアリウム

 

ストーブ

 

選帝候の寝室

 

豪華な調度品

 

騎士の像

 

インペリアル・ホール(Imperial Hall)

 

置時計

 

飾り部屋(Ornate Rooms) 

 

緑のギャラリー(Green Gallery)

 

客人のための寝室

 

時計

 

 

出入口にあった彫像

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ミュンヘン Ⅰ

2024年10月08日 | 海外

ミュンヘンはシーボルト終焉の地である。滞在時間は短いが時間の許す限り、シーボルトの足跡を追ってみたい。

シーボルトの生まれ育ったヴュルツブルクもミュンヘンから電車で二時間程度の距離にある。ヴュルツブルクにもシーボルト所縁のスポットがあるが、今回は時間の都合で立ち寄ることができなかった。

明治六年(1873)五月五日および六日、岩倉使節団も、当時バイエルン(拝焉国)公国の首府であったミュンヘン(「米欧回覧実記」ではミュンチェン、漢字では慕尼克と表記されている)を訪れている。

――― ミュンチェン府ハ、英語の慕尼克ニテ、北緯四十八度九分、東経十一度三十二分ニ位シ、人口十七万四千六百八十八人アリ、此辺ハ、山谷間ニ開ケタル、平衍(へいえん)ナル高原ニテ、東南ニハ「アルフス」山脈ノ「チロリー」ニ走ル峰峰、一帯ノ遠岑(えんしん)、白雪ヲ瑩(みが)キテ、蜿蜿嶄嶄(えんえんざんざん)タリ、冬ハ山風烈シク、夏ハ炎熱甚シトナリ、「チロリー」ノ山脈、最高ノ峰ハ、海面ヲ抜クコト一万五千尺ニ及フ、

「遠岑」とは遠くに見える山のこと。蜿は「うねるさま」、嶄は「山が高いさま」をいう。

 

(バヴァリア)

岩倉使節団一行は、王宮や勝利の門、エングリッシャーガーテンを見学した後、市の南にあるバヴァリア(Bavaria-Statue)を訪れた。

――― 河ヲ渡リテ南スレハ、一ノ広野ニ至ル、高所ヲ占テ、一宇ノ博物観アリ、此ニ石像ヲ集ム、其前ノ広場ハ。以テ調練場トス、山峰右ニ環繞(かんにょう)シ、府中ノ烟火ハ、前ニ湧ク、眺望甚タ快ナリ、此ニ一ノ大銅像ヲ立ツ、一千八百三十三年ヨリ鋳造ヲ始メテ、十年ニテ成就セリ、其長サ五十八尺(約17・5メートル)、身ノ幅八尺(2・4メートル)、女神ノ立像ナリ、左手ニ草ノ箍(わ)ヲ執リテ、首上ニ挙ケ、右手ニ剣ヲ執リテ、獅子ニヨリカゝル、当国ノ保護神ニ象(かたど)ル、是ヲ石ノ方台、高サ三十余尺ノ上ニ安立ス、其重サ八十噸、中ヲ空シクシテ、石台ノ中腹ヨリ、螺旋ノ階ヲ施シテ、観客ヲ上ラシム、因テ是ニ上レハ、守人燭火ヲ与フ、之ヲ執リテ級ヲ拾ヒ、上ルコトスヘテ六十五級ニテ、石基ヲ尽ス、又六十級ニテ、像ノ領(うなじ)ニ至ル、面部ノ両側ニ、榻(こしかけ)アリ突出ス、即チ両齶(りょうがく)ナリ、此ニ六人ヲ坐セシメテ余リアリ、咽喉ノ大サハ、長大ノ人モ、首ヲ屈スルニ至ラス、目睛(もくせい)及ヒ口孔より明(あかり)ヲ引ク、此ヨリ府中ヲ一眺ス、此左手ノ横(よこた)フヲミル、老樹ノ横タワルカ如シ、欧洲ニテ無双ノ大像ナリ、

 

「箍」は普通に訓読みすると、樽などを締める「たが」であるが、ここでは「わ」と読ませている。つまり草で編んだ環のことである。

 

実際に行ってみると、「米欧回覧実記」に描かれているとおりであった。「実記」の記述が正確を期していることが改めて確認できた。

 

(旧南墓地)

バヴァリアから旧南墓地には62番のバスを利用するのが便利である。

旧南墓地内のシーボルトの墓は、日本風の宝篋印塔を模した形をしているので近くまで行けば直ぐに見つけることができる。

 

シーボルトの墓

 

墓標

 

シーボルトの肖像

 

強哉矯

 

墓石背面に刻まれている「強哉矯」という言葉は「中庸」の一節。「強なるかな矯たり」と読み下すらしい。現代日本語に訳すと「まことに強いことよ」となる。

 

Exforscher Japans:元日本研究者

 

 

シーボルトは、1796年、ドイツのバイエルン公国ヴュルツブルグ生まれた。父は大学教授。長じてヴュルツブルグ大学に医学、植物、動物、地文、人種の諸学を学んだ。1822年、和蘭東インド会社に入り、1823年、長崎出島に商館付医員として着任した。医学・博物学の研究の傍ら、日本人を診療し、医学生の教授に当たった。文政九年(1826)、商館長スツルレルの江戸参府に随行して日本人との交友を深めた。文政十一年(1828)八月、帰任に当たり、いわゆるシーボルト事件により国外追放を受け、オランダに帰った。帰国後は日本関係の著作の執筆に従事した。日蘭修好条約、通商条約が結ばれてからは、日本の外交政策について種々画策して、安政六年(1859)七月、和蘭商事会社評議員として再来日を果たした。文久元年(1861)幕府より顧問として招聘を受け、江戸に上って種々建言し、また学術面でも教導に当たったが、必ずしも彼の熱意を満たすものではなく、幾ばくもなくして解職。同年十二月、長崎に帰り、翌文久二年(1862)、日本を去った。翌年、オランダ政府の官職を辞し、1866年、ミュンヘンで没した。年70。

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