本書「航西日記」は長らく渋沢栄一の手によるものとされてきたが、近年の研究の結果、前半三分の二は杉浦譲、後半の三分の一(杉浦が帰国後の部分)が渋沢栄一の作であることが明らかになった。渋沢栄一については改めて説明の必要もないだろうが、杉浦譲(号・藹山(あいざん))という人は明治十年(1877)に41歳という若さで世を去ったこともあって、あまり世の中に知られているとは言い難い。天保六年(1835)の生まれで、渋沢より5歳の年長。甲斐出身の幕臣である。通称は愛蔵。甲府勤番士ののち、江戸で外国奉行支配書物出役。文久三年(1863)および慶応四年(1867)の二度にわたって渡欧した。維新後は明治政府に出仕し、郵便制度の確立などに努め、郵便切手の創始者としても知られる。本書によれば過労のため明治十年(1877)没。
慶応三年(1867)一月十一日、徳川昭武一行が乗船したフランス郵船アルヘー号は横浜港を出港した。昭武に随行したのは外国奉行向山一履(黄村)、傅役(もりやく)山高信離(のぶあきら)、田辺太一、杉浦譲、渋沢栄一のほか、水戸藩からの警護役七名や伝習性、さらに商人として万博に参加した清水卯三郎らである。
彼らは上海、香港に寄港し、インド洋から紅海に入り、スエズ運河の開削工事を見ながら地中海に出て、マルセイユに上陸した。欧州上陸に至るまでも、彼らは観察を怠らない。
――― 土地がやせ、飲水も自由でなく、生活が困難なので、どうしても勤勉でなければならない。地味の肥えているかやせているかのちがいは、民の苦楽のちがいであることがまざまざとわかる。肥沃な土地に生まれて遊惰安逸にすごし、こんな土地もあるということを知らずにすむのは、幸せというべきか、また不幸というべきか。やせた土地の民は勤勉で剛健、事があればすぐに武器をとって起つ。富国強兵の基礎である。肥沃の民は遊惰で柔弱で、戦場にたつことをきらう。亡国の原因をなすものである。
と評する。一般論としては正しいかもしれない。フィリピンやマレーシアやベトナムの人たちは、黙っていてもバナナやパパイヤができる土地で生活しており、猛暑の中、汗水をたらして働くことにさほど価値を見出さないというのも理解できなくはない。
ただし、そういう土地にあっても、中国やインドから出稼ぎ目的で渡ってきて、そこに生活の基盤を置いている連中はちょっと違う。己の才覚と人脈が生活の糧である。
明治六年(1873)六月二十二日(太陽暦では七月二十三日)の項では、カリナニ新聞というフランス現地で発刊されている新聞の記事を転載している。欧州における日本人の習俗に関する評判についての記事であり、今に連なる日本人論の走りみたいなものである。
その記事によれば、「日本人は平常、精神や行いをつつしむことがなく、淫楽に耽ることを楽しんでいるだけ」という記事が上海で発刊されている漢字新聞に掲載されたという。その証拠にあげられているのが、オールコック(初代駐日英公使)が日本国内旅行を企画したとき、日本の茶店の制度が良くないため、別に旅宿を設けるよう希望したことである。日本人は怠惰淫逸であって不潔、性情も日に日に堕落し、その結果、人口も年々減少しつつあるという。確かに当時の日本において、宿場の飯盛り女は当たり前のように性的サービスを提供していたし、公衆浴場における混浴も当たり前という社会であった。道徳観念の発達した西洋人からみれば、「淫逸」と評されてもしかたないだろう。
当該記事にはこれに対する反論も掲載されている。日本男性は身体強壮であって、女性は健康で血色も美しい。西洋の発明を取り入れることに力を尽くし、知能も優れている。日本は衰弱する人種ではない。むしろ、かつてインド洋や太平洋までさかんに航海を行った伝統にかえって、再び盛んになるだろうというのである。
どちらが正しいというものではなく、両論とも日本人の本質を突いているというべきであろう。注目すべきは、杉浦譲が敢えてこの長文の日本人論を「航西日記」に転載したという事実である。海外からどのように見られているのかを気にする日本人の性質は、この頃から今に至るまで脈々と受け継がれている。
私もベトナムに住んで2年が経とうとしている。この国は日本とほぼ同等の国土面積を有し、人口も1億人に達した。つまり外形的には日本と遜色ない国力を有しながら、経済力(GDP)でいえば日本の十分の一にも満たない規模である。この違いは「日本人は優秀でベトナム人はそうでないから」生じた結果なのだろうか。ベトナム人と2年ほど一緒に仕事をしてみて、私には両国民の能力にそれほどの差があるように思えない。(他人の迷惑をまったく顧みないとか、衛生観念・公共意識が完全に欠落しているとか、法やルールを守ろうという意識がないといった)欠点を論うとキリがないが、ベトナム人は押しなべて勤勉であるし、手先も器用だし、従順である。
ベトナムは19世紀の前半にフランスの侵攻を受け、フランスの植民地とされた。そのため西洋文明との接触は日本より数十年も早い。蒸気機関を積極的に取り入れた形跡はないが、少なくとも銃砲などの武器については西欧の優位性を理解して採用している。にもかかわらず、何故ベトナムでは我が国のように近代化が進まなかったのだろう。これはベトナムに限った話ではなく、アジア全般にいえることである。中国にしても、西洋文明との接触は日本よりずっと早かったのである。
私が感じているのは、当時のリーダーの資質の差ではないかということである。西洋文明に接した日本には、大久保利通や伊藤博文といった政治家にとどまらず、「航西日記」の著者である渋沢栄一や杉浦譲、あるいは啓蒙思想家福沢諭吉といった人たちが、各分野で西欧の文明を咀嚼して我が国を導こうとした。「航西日記」においても、単に西洋の進んだ文明を紹介するのではなく、それを支える社会の仕組みにまで筆が及んでいる。渋沢らは、国力の源は軍事力ではなく経済力である(つまり富国あっての強兵である)ことに着目し、その背景には経済活動に誰もが参加できる民主的な競争社会があることを見抜いた。そこで彼らは紙幣や株券、公債の仕組みを研究し、帰国後銀行制度や商業会議所などのソフト面を重視し、それを積極的に我が国に導入しようとした。
清王朝期の中国や阮朝時代のベトナムに、そのようなリーダーはいなかった。ベトナム人や中国人のために弁解すれば、彼らは近代化する前に独立する必要があった。この時期に革命家や独立運動家として著名な人は生まれたが、その先の近代化まで手が回らなかったという不運な側面は否定できない。幸いにして日本は植民地化を免れ、近代化において先行することができたが、日に日にその先行者としてのアドバンテージは失われつつある。我が国は既に人口減少時代を迎えており、このままいくと自分の孫やひ孫の時代には、経済力でも人口の多いほかのアジアの国に抜かれてしまうのではないか、という危機感をいだかざるを得ない。