史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

フランクフルト

2024年09月22日 | 海外

ロシア、北欧を周遊した岩倉使節団一行は、明治六年(1873)五月三日、フランクフルト(漢字表記は仏蘭克弗)に到着した。五日の朝十時半にはミュンヘンに向けて出立しており、フランクフルト滞在時間はわずか数日であった。

以下、「米欧回覧実記」の記述

――― 仏蘭克弗「オンセ」米因府トハ、普国(プロシャ)ノ仏蘭克弗「オンセ・オデル」ニ分別セル名称ナリ、北緯五十度十分東経八度三十七分ニ位ス、人口九万〇九百三十二人ノ都会ナリ、元ハ独立都府ニテ、共和政治ヲ以テ、聯邦ニ加わハリ、且独逸聯邦ノ政府モ、此府ニ設ケタリシニ、一千八百六十六年ノ戦ヒニ、普国ニ滅サレ、今ハ其州県ニ隷ス、此政府ハ米因(マイン)河ノ下流ニヨリ、日耳曼(ゲルマン)ノ中心ニ位シ、貿易ノ要衝ナレハ、豪富ノ商賈(しょうこ)多ク、殊ニ猶太ノ族多ク、蓄財最モ富ムト云、其市街ハ、久シキ名都ナレハ、古時ノ規制ニヨリテ、街路狭隘ニテ、不規則ナリ、古キ屋造多クシテ、皎美(こうび)ナラサレトモ、中間ニ大路ヲ通シ、四囲ニハ星形状ノ土壁ヲ匝(めぐら)シ、狭長形ナル花園ヲ処処ニ修メ大路ハ塢上(おじょう)ヲユク、米因ノ河岸ニハ、向岸ノ平原広濶ニテ、遠巒(えんらん)ヲ望ミ、流水清ク、中ニ長橋ヲ架ス、風景美ナリ、

短い滞在時間であったが、岩倉使節団は「ハリマ・ガーデン」(Palmengartenのことか?)や禽獣園(動物園)、大聖堂、紙幣工場を見学している。

 

フランクフルト国際空港

 

フランクフルト市街:マイン(Main)川が東西に走る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「航西日記」 杉浦譲・渋沢栄一共著 大江志乃夫現代語訳 講談社学術文庫

2024年08月24日 | 書評

本書「航西日記」は長らく渋沢栄一の手によるものとされてきたが、近年の研究の結果、前半三分の二は杉浦譲、後半の三分の一(杉浦が帰国後の部分)が渋沢栄一の作であることが明らかになった。渋沢栄一については改めて説明の必要もないだろうが、杉浦譲(号・藹山(あいざん))という人は明治十年(1877)に41歳という若さで世を去ったこともあって、あまり世の中に知られているとは言い難い。天保六年(1835)の生まれで、渋沢より5歳の年長。甲斐出身の幕臣である。通称は愛蔵。甲府勤番士ののち、江戸で外国奉行支配書物出役。文久三年(1863)および慶応四年(1867)の二度にわたって渡欧した。維新後は明治政府に出仕し、郵便制度の確立などに努め、郵便切手の創始者としても知られる。本書によれば過労のため明治十年(1877)没。

慶応三年(1867)一月十一日、徳川昭武一行が乗船したフランス郵船アルヘー号は横浜港を出港した。昭武に随行したのは外国奉行向山一履(黄村)、傅役(もりやく)山高信離(のぶあきら)、田辺太一、杉浦譲、渋沢栄一のほか、水戸藩からの警護役七名や伝習性、さらに商人として万博に参加した清水卯三郎らである。

彼らは上海、香港に寄港し、インド洋から紅海に入り、スエズ運河の開削工事を見ながら地中海に出て、マルセイユに上陸した。欧州上陸に至るまでも、彼らは観察を怠らない。

――― 土地がやせ、飲水も自由でなく、生活が困難なので、どうしても勤勉でなければならない。地味の肥えているかやせているかのちがいは、民の苦楽のちがいであることがまざまざとわかる。肥沃な土地に生まれて遊惰安逸にすごし、こんな土地もあるということを知らずにすむのは、幸せというべきか、また不幸というべきか。やせた土地の民は勤勉で剛健、事があればすぐに武器をとって起つ。富国強兵の基礎である。肥沃の民は遊惰で柔弱で、戦場にたつことをきらう。亡国の原因をなすものである。

と評する。一般論としては正しいかもしれない。フィリピンやマレーシアやベトナムの人たちは、黙っていてもバナナやパパイヤができる土地で生活しており、猛暑の中、汗水をたらして働くことにさほど価値を見出さないというのも理解できなくはない。

ただし、そういう土地にあっても、中国やインドから出稼ぎ目的で渡ってきて、そこに生活の基盤を置いている連中はちょっと違う。己の才覚と人脈が生活の糧である。

明治六年(1873)六月二十二日(太陽暦では七月二十三日)の項では、カリナニ新聞というフランス現地で発刊されている新聞の記事を転載している。欧州における日本人の習俗に関する評判についての記事であり、今に連なる日本人論の走りみたいなものである。

その記事によれば、「日本人は平常、精神や行いをつつしむことがなく、淫楽に耽ることを楽しんでいるだけ」という記事が上海で発刊されている漢字新聞に掲載されたという。その証拠にあげられているのが、オールコック(初代駐日英公使)が日本国内旅行を企画したとき、日本の茶店の制度が良くないため、別に旅宿を設けるよう希望したことである。日本人は怠惰淫逸であって不潔、性情も日に日に堕落し、その結果、人口も年々減少しつつあるという。確かに当時の日本において、宿場の飯盛り女は当たり前のように性的サービスを提供していたし、公衆浴場における混浴も当たり前という社会であった。道徳観念の発達した西洋人からみれば、「淫逸」と評されてもしかたないだろう。

当該記事にはこれに対する反論も掲載されている。日本男性は身体強壮であって、女性は健康で血色も美しい。西洋の発明を取り入れることに力を尽くし、知能も優れている。日本は衰弱する人種ではない。むしろ、かつてインド洋や太平洋までさかんに航海を行った伝統にかえって、再び盛んになるだろうというのである。

どちらが正しいというものではなく、両論とも日本人の本質を突いているというべきであろう。注目すべきは、杉浦譲が敢えてこの長文の日本人論を「航西日記」に転載したという事実である。海外からどのように見られているのかを気にする日本人の性質は、この頃から今に至るまで脈々と受け継がれている。

私もベトナムに住んで2年が経とうとしている。この国は日本とほぼ同等の国土面積を有し、人口も1億人に達した。つまり外形的には日本と遜色ない国力を有しながら、経済力(GDP)でいえば日本の十分の一にも満たない規模である。この違いは「日本人は優秀でベトナム人はそうでないから」生じた結果なのだろうか。ベトナム人と2年ほど一緒に仕事をしてみて、私には両国民の能力にそれほどの差があるように思えない。(他人の迷惑をまったく顧みないとか、衛生観念・公共意識が完全に欠落しているとか、法やルールを守ろうという意識がないといった)欠点を論うとキリがないが、ベトナム人は押しなべて勤勉であるし、手先も器用だし、従順である。

ベトナムは19世紀の前半にフランスの侵攻を受け、フランスの植民地とされた。そのため西洋文明との接触は日本より数十年も早い。蒸気機関を積極的に取り入れた形跡はないが、少なくとも銃砲などの武器については西欧の優位性を理解して採用している。にもかかわらず、何故ベトナムでは我が国のように近代化が進まなかったのだろう。これはベトナムに限った話ではなく、アジア全般にいえることである。中国にしても、西洋文明との接触は日本よりずっと早かったのである。

私が感じているのは、当時のリーダーの資質の差ではないかということである。西洋文明に接した日本には、大久保利通や伊藤博文といった政治家にとどまらず、「航西日記」の著者である渋沢栄一や杉浦譲、あるいは啓蒙思想家福沢諭吉といった人たちが、各分野で西欧の文明を咀嚼して我が国を導こうとした。「航西日記」においても、単に西洋の進んだ文明を紹介するのではなく、それを支える社会の仕組みにまで筆が及んでいる。渋沢らは、国力の源は軍事力ではなく経済力である(つまり富国あっての強兵である)ことに着目し、その背景には経済活動に誰もが参加できる民主的な競争社会があることを見抜いた。そこで彼らは紙幣や株券、公債の仕組みを研究し、帰国後銀行制度や商業会議所などのソフト面を重視し、それを積極的に我が国に導入しようとした。

清王朝期の中国や阮朝時代のベトナムに、そのようなリーダーはいなかった。ベトナム人や中国人のために弁解すれば、彼らは近代化する前に独立する必要があった。この時期に革命家や独立運動家として著名な人は生まれたが、その先の近代化まで手が回らなかったという不運な側面は否定できない。幸いにして日本は植民地化を免れ、近代化において先行することができたが、日に日にその先行者としてのアドバンテージは失われつつある。我が国は既に人口減少時代を迎えており、このままいくと自分の孫やひ孫の時代には、経済力でも人口の多いほかのアジアの国に抜かれてしまうのではないか、という危機感をいだかざるを得ない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「東京・横浜 激動の幕末明治」 安藤優一郎著 有隣新書

2024年07月27日 | 書評

ペリーは、当初幕府から条約交渉の場として提案のあった浦賀を拒否し、江戸もしくはその近くを主張して譲らなかった。幕府はその圧力に屈し、横浜村での交渉を提案した。半農半漁の寒村であった横浜が歴史の表舞台に登場したのは、嘉永七年(1854)二月十日、日米和親条約の交渉がこの地で開始された場面からである。その後、三月三日に条約が調印される。

安政五年(1858)、日米通商修好条約が締結された。交渉の結果、江戸、品川、大阪、平戸は開港場から外され、箱館、神奈川、長崎、新潟、兵庫の五港が開港されることが決まった。ハリスは神奈川と横浜の両方を開港地として条約に明記するよう主張したが、幕府は神奈川だけで良いと応じたため、条約では横浜は開港地とされなかった。

神奈川は街道上にあって陸上交通の要衝であっただけでなく、神奈川湊を備えていたため水上交通でも要衝の地であった。人の往来の激しい神奈川に開港場を設置すると、外国人とのトラブルが起きることは明らかであった。神奈川に開港場を置くことは、攘夷の志士にその機会をわざわざ与えるようなものであった。そこで横浜開港案が浮上し、幕府は「横浜は神奈川の一部」という論法で強行突破を図った。

当然、欧米の外交団は横浜開港に猛反発し、神奈川の開港を強く要求した。特に通商条約締結の先鞭を切ったハリスは強硬であった。横浜のことを「出島」とまで表現し、憤激のあまり「自分の目の黒いうちは横浜開港を認めない。」と言い切っている。

この勢いに幕府は腰砕けになり神奈川における居留地設置を受け容れたが、一方で日本との貿易のために横浜に来た外国商人たちは、続々と横浜の居留地に住み始めた。横浜は大型船舶が停泊できる天然の良港を備えていたことに加え、もともと農村であったため未開発の土地が広がっていた。住居だけでなく倉庫にも転用可能な土地が、人口密集地であった神奈川と比べてまだまだ残されていたのである。ついには商人たちの方から「横浜を開港地にして欲しい」と懇願されるに至り、外交団も横浜居留地として認めざるを得なくなる。

安政六年(1859)六月に開港となった横浜であるが、勅許を得られないまま通商条約を締結したことで朝廷から厳しく責め立てられることになった。そこで幕府は、七、八年から十年以内に条約を破棄して攘夷を実行すると約束してしまう。文久三年(1863)には横浜・箱館・長崎の鎖港をイギリスに申し入れる。その後、鎖港交渉は横浜に絞られるが、いずれにせよ欧米列強は相手にしなかった。その年末、幕府は横浜鎖港を目的として使節団(正使池田長発)をヨーロッパに送ったが、もちろんそのような無茶な交渉がうまく行くはずもなかった。

最終的に横浜が貿易港として朝廷から認められたのは、慶應元年(1865)九月、四か国連合艦隊が兵庫沖に集結して威嚇し、これを受けて将軍慶喜が強く勅許を求めた結果、ようやく正式に開港地となったのである。実際に開港されて六年の歳月が過ぎていた。その間、横浜は常に政争の具となったが、たくましく発展を続けた。

横浜は自由貿易の舞台として、日本の経済に大きな影響を与える存在となったが、欧米人が居住地に住んだことにより、同時に西洋の生活文化の発信地になった。現代に生きる我々にとっても、横浜といえばお洒落でハイカラなイメージが強いが、そのイメージは明治から続いているのである。たとえばガス灯やアイスクリーム、テニス、競馬などは横浜が発祥の地となっている。

明治に入って東京築地にも居留地が設けられ外国人がそこに居住したが、その規模は横浜居留地と比べるとはるかに小さかった。築地居留地の面積は約二万八千坪にとどまったのに対し、横浜居留地は明治七年(1874)の段階で約三十七万八千坪に達した。築地には貿易商人はほとんど居住しておらず、公使館や領事館のほか、宣教師や医師、教師が多く、彼らが設立したミッションスクール(明治学院大学や立教大学等)や病院が置かれたが、横浜のような文明開化の発信地とはならなかった。

明治十年代に入ると、東京に貿易港を築き、横浜の貿易業務を東京に移管しようという計画が浮上した。事実上の横浜廃港につながりかねない計画であり、横浜としては看過できない議論であった。激しい反対運動が展開された結果、東京築港案は頓挫したが、対照的に横浜港の改良事業は進展を見せた。今日に続く横浜発展の基礎はこの時期に築かれたのである。以来、わずか百五十年ほどの間に、東京の発展とともに横浜にも人口が集中し、現在では人口三百七十万人超と大阪、名古屋を抜いて全国一の巨大都市にまで成長を遂げている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「福沢諭吉 変貌する肖像」 小川原正道 ちくま新書

2024年07月27日 | 書評

福沢諭吉といえば、明治を代表する啓蒙思想家である。「西洋事情」「学問のすゝめ」「文明論之概略」「丁丑公論」など多くの著作があるが、個人的には読み通したことがあるのは「瘦我慢之説」くらいのもので、福沢をとりまく評価の変遷を読んでも今一つピンと来ないものがあったが、その中でも「なるほど」と思ったこと2点について書き残しておきたい。

ちょうどこの本を読んでいるさなかに、一万円札の肖像が福沢諭吉から渋沢栄一へ切り替わった。福沢諭吉が一万円札の顔として登場したのは、昭和五十九年(1984)のことである。福沢が文化人の象徴として紙幣の顔に取り上げられた背景には、「学問のすゝめ」に代表される啓蒙思想家としての側面が国民一般の間に広く認知されていることがある。

しかし、一万円札の肖像に選ばれた昭和五十年代にあっても、福沢論は定まっていなかった。国権論者・国家主義的という批判もあれば、「脱亜論」(明治十八年(1885))の解釈を巡って、福沢の「闇」の部分の論評も盛んにおこなわれていた。「脱亜論」は「時事新報」上に無署名で発表されたこともあって、戦前論壇で注目を集めることはなかった。これが福沢の論説として取り上げられるようになったのは戦後のことである。左派イデオロギーの立場からは、福沢は「経済的不平等について無関心」「資本家を擁護し、労働階級の抵抗を恐れた」(小松周吉1962)「「富豪の致富」を積極的に奨励した「ブルジョアイデオローグ」」(家永三郎1963)「帝国主義的国内政策の模倣」(ひろた1962)「下流人民を切り捨て、朝鮮民衆の可能性を無視して、これを踏み台に日本の資本主義化を促進しようとした」(ひろた1976)と激しく批判された。

1977年に政治史研究家坂野潤治が「朝鮮に永続的な立脚点を構築しようと主張した福沢」にとって、清仏戦争で中国が敗北すると日本に「朝鮮改造の好機」が訪れたが、甲申事変(朝鮮の親日派勢力によるクーデター)が失敗に帰すと、福沢は「朝鮮改造論」を放棄せざるを得なくなり、「脱亜」を宣言せざるを得なくなったと解釈した。筆者によれば「これが脱亜論の通俗的解釈として、今日まで継承されていくことになる」という。これが一点目の「なるほど」。

明治六年の政変で敗れた板垣退助らが、明治七年(1874)一月、民選議院設立建白書を提出すると、俄かに民会設置に関する議論が熱を帯びた。福沢は、「文明論之概略」で人民が地方の利害を論ずる場として民会の必要性を主張して以来、民会設置の重要性を繰り返し説いた。明治八年(1875)一月には、同じ明六社に属する加藤弘之、森有礼との鼎談で、加藤が「時期尚早」を唱えたのに対し、「尚早」とは何の「時」を基準にしていうのかと疑問を呈し、民選議院が時期尚早なら廃藩置県も尚早であると反論した。福沢が民権派であることを強く印象付ける一幕であった。

ところが明治十年代に入って自由民権活動が激化すると、官民調和論を唱え始める。「官」と「民」が権力のバランスを保ちつつその相互が「調和」するというものである。このことをもって福沢を変節漢と批判する声が上がった。

幕末に鎖国攘夷論が盛んな時には開国論を唱え、文明開化が進んで西洋への心酔が進むと逆にこれを排撃した。福沢の主張がよく変わるという声は福沢の存命中からよく指摘されていた。

これに対し、慶應義塾長を務めた鎌田栄吉は、福沢の主張が変わることをコンパスに例え、「その一脚は中心に固着して毫も移動することなく之に反して他の一脚は自由自在に伸縮弛緩して大小何れにても勝手次第の輪郭を画く」と表現した(鎌田1901)。

時代は下がるが昭和四十一年(1966)に早稲田大学出身の政治学者・木村時夫が「たしかに福沢は時代によって変貌する」が、「彼は決して機会主義者や変節漢ではない。・・・一言もって評するならばナショナリストこそが、彼に冠しうる最も妥当な称号であるように思われる」と述べたのも、鎌田栄吉のコンパス論に連なる批評であろう。これが2点目の「なるほど」である。

昭和二十六年(1951)に歴史学者の遠山茂樹が「歴史上の人物を現代的関心から取り上げる場合…往々にして誤りをおかしやすい」として自分の現代的関心にとって都合の良い一面のみを強調し、無条件に持ち上げる傾向があり、「福沢諭吉の場合でも、戦時中は国権論者(国家主義者)としての福沢が説かれ、戦後には、完全無欠な民主主義者であるかのように、礼賛の辞が捧げられる。これは歴史の勝手な利用であり、不遜な冒瀆である」という指摘は福沢批評にとどまらず、歴史上の人物を解釈するときに肝に銘じなければならないことだと思う。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五日市 Ⅲ

2024年06月08日 | 東京都

(東町太子堂)

三泊四日の東京出張であったが、ハノイに戻る最終日の朝、嫁さんがまだ寝ているうちに五日市まで往復して東町太子堂を訪ねてきた(あきる野市五日市178)。自宅から片道二十分のドライブである。

 

東町太子堂

(勧能学校跡)

 

東町太子堂は、即ち勧能学校跡である。勧能学校というのは、明治五年(1872)の学制発布に伴い、五日市村に作られた学校で、現・五日市小学校の前身である。明治六年(1873)、勧能学舎の名称で発足し、明治八年(1875)、勧能学校と改称された。この地にあった太子堂がそのまま学舎として利用された。

自由民権運動が盛んになった明治十年(1877)代には各地から民権家がここに集まり、活動の拠点の一つとなった。五日市憲法草案の起草で知られる千葉卓三郎も、同校初代校長永沼織之丞のもとで助教となり、第二代校長も務めている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「新・幕末史」 NHKスペシャル取材班 幻冬舎新書

2024年05月24日 | 書評

本書は、近年ヨーロッパやアメリカで発見された機密文書をもとに、グローバル・ヒストリーという視点で幕末史を見直そうと試みである。グローバル・ヒストリーというのは、日本史や世界史という垣根を越えて歴史を俯瞰しようという新しい潮流のことをいう。幕末日本は世界の覇権争いと深く関わっていたというのが本書の肝である。

本書を執筆したのは、「NHKスペシャル取材班」である。彼らは歴史の専門家ではない。従って、最新の歴史研究では疑問が呈されている「薩長同盟」とか「船中八策」といった言葉が何の注釈もなく使われており(たとえば、町田明広先生は薩長同盟のことを「小松・木戸覚書」という表現をとっている)、その点では違和感は残るものの、欧米の博物館や学者に取材して新しい視点で歴史を切り開く姿勢には感心した。フットワークの軽さと綿密な取材力がマスコミの強みであろう。

たとえば文久元年(1861)に起きたポサドニック号による対馬占拠事件(ポサドニック号事件あるいは露寇事件などと呼ばれる)についても、日本側では唐突にロシアによって対馬の一角を占拠されたという印象が強いが、実はロシアでは周到に計画されたものということが明らかにされた。この時、イギリス駐日公使オールコックは「イギリスの軍艦を対馬に送ってその圧力でロシアを退去させよう」と提案した。小栗上野介は「目の前の虎を追い払うために、狼を迎え入れるようなもの」と反発したが、幕府はイギリスの提案を受け入れた。小栗の危惧したとおり、これを手始めにイギリスは日本への関与を強めていくことになる。

グローバル・ヒストリーという視点は非常に新鮮だが、それだけで幕末史を料理しようとすると無理が生じる。「江戸総攻撃を食い止めたのは、列強の秘密外交だった」と断言しているが、確かに外交団から圧力をかけられたのは一つの要因であるが、それだけが理由ではなかろう。慶喜が徹底恭順を貫いたこと、山岡鉄舟の談判や天璋院や和宮らの嘆願、その他様々な要因が重なって総攻撃中止が決まったのであって、列強からの圧力だけが理由ではない。マスコミは、大衆受けするセンセーショナルな表現を好む傾向がある。本書でもマスコミのそのような性癖が散見される。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「幕末史の最前線」 町田明広著 インターナショナル新書

2024年04月27日 | 書評

「はじめに」において町田先生の見解が提示される。

「人物の叙述においても、執筆者それぞれの研究成果から導き出された「解釈」を基に叙述される。人物から歴史を叙述する機会は数多いが、その際にはさらなる配慮が必要であろう。そもそも、執筆者は自らが選定する人物に対して、何らかの興味関心があるはずであり、その人物に対するイメージは、プラスに傾いていることは否めない。人物を通して歴史を叙述する場合、その人物の好悪や先入観をできるだけ遠ざけ、客観的にその人物をとらえることが必要である。人物顕彰に陥ってはならず、マイナス部分にも目配りすべきである」

という筆者の姿勢にはまったく同感であり、この姿勢の上に書かれている故に町田先生の著述はいずれも安心感がある。

本書では、井伊直弼、吉田松陰、マシュー・ペリー、徳川慶喜、平岡円四郎、島津久光、渋沢栄一、松平容保、佐久間象山、坂本龍馬、五代友厚といった、いずれも幕末維新期に活躍した十一人を取り上げている。

最初に取り上げられるのが井伊直弼である。この人ほど評価が分かれる人物はいない。難局における責任を一身に背負い、通商条約を結び我が国を開国に導いた英雄と称される。一方で安政の大獄における苛烈極まりない処断から、血も涙もない専制的な悪人のイメージも付きまとう。どちら側に立つかによって評価が左右される人物の典型である。

安政五年(1858)六月十八日、ハリスとの交渉を終えた岩瀬忠震、井上清直は江戸城での評議に臨み、その場で大老井伊直弼から「窮した場合は調印をしても良い」との言質を得たため、岩瀬らはそのまま翌日日米修好通商条約に調印してしまう。

この時、直弼は「勅許を待たざる重罪は、甘んじて我等壱人に受候決意につき、また云う事なかれ」と言い残した(「公用方秘録」写本「開国始末」)。直弼の剛毅果断の性格により、欧米列強の植民地から日本を救った偉人というイメージは、ここから生まれている。

ところが、昭和六〇年代になって彦根藩の公式記録「公用方秘録」は改竄されていることが判明したという。公開されたオリジナルの写しによれば側近宇津木六之丞に勅許を待たずに調印したことを責められると「無念の至り、身分伺いするより致し方ない」と後悔の言葉を口にした。つまり「その点に気が付かなかったことは残念である」と言って大老職の辞任すらほのめかしたのである。この様子に剛毅果断さを感じることは難しい。筆者は「直弼の人間臭さが感じられる」と遠慮がちに評しているが、彼が日本の植民地化を救おうとか前向きの理由で条約調印に踏み切ったとは思えない。筆者がいうように本来開国の恩人は、むしろ「歴史から忘れられている岩瀬忠震」という指摘は的を射ているといえよう。

「島津久光=幕末政治の焦点」(講談社、2009年)で島津久光に焦点を当て、従来一種のピエロとして取り扱われてきた久光の実像を浮かびあがらせた町田先生の筆は、本書でも健在である。

「「久光―小松―西郷・大久保」という意思命令系統によって、中央政局における薩摩藩の周旋は図られた。維新は、西郷と大久保だけでなされたわけではない。」「久光は史上稀に見る剛腕の君主であり、かつ政治家であったことは間違いなく、もっと評価されるべき偉人」という筆者の主張に異論はないが、我々のような一般読者を納得させるためには、証拠の一つでも提示してもらえると有り難い。つまり久光が小松帯刀や西郷・大久保に重要な政局において明確に指示しているような書簡や藩の公式記録を見せてもらえると、説得力が増すと思うのである。

勝手に想像するに、藩主(あるいはその父)の反幕・抗幕的な発言を証拠として残る形で作成することは、藩のリスク管理上避けるべきことだったと思われる。従って「そのような証拠を見せて欲しい」と言ったところで、基本的には残っていないというのが実際であろう。従って町田先生の主張は、「状況証拠を積み上げる」という手法に拠らざるを得ない。それは坂本龍馬の章で「龍馬は薩摩藩士であった」という主張においても同様である。状況証拠はそろっているが、決定的証拠がない。仮に龍馬が薩摩藩士だったとして、彼が幕長戦争に参戦したのは何故なのだろう。これも薩摩藩の指示によるものなのか。薩摩藩としては表立って長州を支援するわけにいかなかったので、「薩摩藩士のようで薩摩藩士ではない」龍馬に参戦させたということだろうか。

「あとがきにかえて」では「大河ドラマ」の功罪について触れている。「史実と違うことが事実のように受け止められて、一人歩きしてしまう危うさ」を指摘する。一方で「扱われる対象に関心が高まり、研究や史料の発見が進む」という「功」もあるという。

筆者は先年放映された「青天を衝け」について「きめ細やかな時代考証に基づき、脚本が史実を丁寧に扱っている」「史実ほど劇的で物語性に富んでいるものはありえない」と評しているが、まったく同感である。「青天を衝け」では、廃嫡された渋沢篤ニの物語、つまり偉人渋沢栄一の「負の側面」もありのまま描いており、非常に好感を持てた。

本書はJBpressというビジネスマンを対象としたウェブメディアに連載したものを改稿してまとめたものである。一般人にも分かりやすく書かれており、幕末史に馴染みのない人にも読みやすく、歴史の解釈の面白さを感じることができる。入門書としてもお勧めの一冊である。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「五代友厚」 楠木俊詔著 平凡社新書

2024年04月27日 | 書評

五代友厚という人は、薩摩藩出身でありながら、武力倒幕にも公武合体にも加担せず、いわば独自の路線を歩んだという意味で異色の人である。明治維新という革命は武力倒幕だけで成立したわけでもないし、政権が交代した以上に経済、文化、風俗等様々な分野で大きな地殻変動が起こった時期であった。その時、たまたま政治ではなく、経済分野に渋沢栄一や五代友厚といった海外通のリーダーが存在していた。渋沢や五代がいなければ、ほかの経済通の人物がその肩代わりをしたかもしれないが、結果的にこの二人は東京と大阪という二大商業圏の経済を確立する上で重要な役割を果した。

五代友厚が経済人として活躍するに至った経緯は、本書で詳しく述べられている。

藩校造士館に学んで頭角を現すと、幕府が長崎に開いた海軍伝習所に派遣された。この中には税所四郎左衛門(篤)や川村与十郎(純義)らがいた。一旦薩摩に戻されるも、藩命により1862年(文久二年)に再び長崎に赴任した。ここで彼は商社マンのように軍艦や船舶、武器弾薬などを購入した。本書にはこの時期、薩摩藩が海外から調達した艦船を一覧表にして掲載しているが、想像を超える数である。おそらく五代友厚はこの取引の大半に関与していたであろう。この経験を通じて、彼は外国との交渉術や海外の商習慣などへの理解を深め、グラバーらとの人脈を築いた。外国語を習得するとともに、西欧列強の文明や産業、経済、軍事力をリアルに理解することができた。この先、経済人として生きていくにあたって、長崎での経験が大きな財産になったことは想像に難くない。

五代友厚の人生において、二つ目の転機となったのが、薩英戦争であった。戦争の砲火が交わされる直前に、薩摩藩の商船三隻がイギリスに拿捕された。それに乗っていた五代友厚と寺島宗則(当時は松木弘安)が捕虜としてとらえられた。作家加治将一氏の推論によれば、真偽のほどは不明ながら、五代と寺島はイギリスと示し合わせて、生麦事件の賠償金の担保として、戦争を回避するために独断で商船を引き渡したという。

「西洋かぶれ」の二人がイギリスの捕虜となったことは、薩摩では極めて評判が悪かった。藩内には「不利な条件で勝手に講和に持ち込もうとしている」「藩の実情や軍隊の情報をイギリスに流している」といった噂が流され、二人への反感は一層強まった。五代が藩の中枢と距離を置くようになったのは(もともと政治や軍事に興味がなかったのもあるだろうが)薩英戦争が一つの契機となっている。

五代友厚といえば「大阪経済の父」とか「関西経済の生みの親」「大阪市立大学開学の祖」と称えられるが、同時に北海道開拓使官有物の払い下げ事件で、巨万の富を得た(正確には「得ようとした」)政商として、三菱の岩崎弥太郎と並んで悪評が高い。どうやら高校の日本史の教科書にもそのように記載されているらしく、「悪徳商人」のイメージがぬぐい難い。

現在、五代友厚の名誉挽回に熱心に活動されているのが、大阪市立大学を卒業され一般財団法人大阪教育文化振興財団評議員などを務められている八木孝昌氏である。私は残念ながら「新・五代友厚伝」(八木孝昌著 PHP研究所)を読んでいないが、本書でも概略が触れられているので、八木氏の主張はだいたい理解できた。つまり、事実としては、五代は官有物のうち二つの小さな事業である岩内炭鉱と厚岸官林を引き受けようとしたに過ぎない。これに対し「東京横浜毎日新聞」などが払い下げを一手に引き受け、巨万の富を得ようとしたと批判したが、八木氏はこれを「誤報」と結論付けた。筆者は、「歴史家でもない筆者は、八木孝昌の分析が100%正しいと判断する資格はない。とはいえ、当時の政治状況や言論界の姿を考慮すると、裏話を隠す気風のある点を暴露した八木の執筆は、素人ながら大まかに信頼できると判断する」と、八木氏の主張を控えめに支持している。

筆者には同じ平凡社新書に「渋沢栄一」という書籍もあり、本書最終章では東西の両巨頭を対比させて批評している。両者は共通するところもあれば、相反しているところもあって、とても面白い比較論になっている。

幕末に海外に渡航して現地で西欧の経済を見聞したというのは共通の体験である。渋沢は銀行や株式市場といった市場のインフラに興味をもった。これに対し五代は金融業にはほとんど関心を示さず、彼の関心は製造業とくに鉱山業や造幣、繊維、貿易、鉄道事業等に向かった。筆者の解釈によれば、渋沢は徳川慶喜の下で、その後は大蔵官僚として日本国全体の政治、経済、社会をみる眼を養ったが、五代にはそのような「全国的なことに関心を持つ野心」はなかったとする。

一方で両者ともに東西で商法会議所(のちの商工会議所)の開設に関与し、人材育成の必要性から商法講習所(後の一橋大学もしくは大阪市立大学(現・大阪公立大学))の創立に尽力したという共通点もある。渋沢が九〇歳を超えるほど長生きしたのに対し、五代は明治十八年(1885)四十九歳という若さで世を去っている。五代が渋沢栄一ほどの会社の設立に関与できず、しかも地域としては大阪に限定的であり、社会貢献事業や民間外交にまで手を広げることができず、知名度の点では渋沢の後塵を拝することになっている。その最大の理由は、寿命の差にあるのかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「アンコール王朝興亡史」 石澤良昭著 NHKブックス

2024年03月30日 | 書評

カンボジアのアンコール遺跡群を見学するにあたって、「もう一冊読んでおきたい」と思って入手したのが、この本である。我が国におけるアンコール遺跡研究の第一人者である上智大学教授石澤良昭先生の著作で、おそらく現在、書店などでもっとも入手しやすく、しかも最も網羅的にアンコール遺跡群について解説している本であろう。大きな書店でも一般向けにアンコール遺跡を分かりやすく解説した本はなかなか置いていないのが現状であり、そういう意味でとても貴重である。

アンコール遺跡を見ていると不思議に思うことが多々ある。たとえば、今から千年以上も前にどうやってこれほどの石造りの大建造物を築くことができたのか。その疑問に本書は的確に答えてくれる。

アンコール地方において、9世紀に王がバライと呼ばれる貯水池を建造し、さらに水路を整備することによって二期作、三期作の水稲耕作が可能となった。カンボジアは雨季(6月から10月)と乾季(11月から5月)の別がはっきりしており、この水利事業が遂行されるまで、雨季は洪水に悩まされ、乾季にはほとんど耕作物は取れなかった。バライの完成によりアンコールの大地は豊穣の沃野となったのである。バライ方式による農業生産は、歴代の王に引き継がれた。そのため今も各地に大小のバライが存在し、地域の灌漑施設として利用されている。

結果として食糧増産がもたらされ、扶養、人口の増加が進んだ。それ故、建寺に必要な莫大な労働力を確保でき、大寺院の建立が可能となったのである。

本書によれば、西暦1000年頃の世界の人口は、諸説あるが、コルトバ(現スペイン)約60万人、コンスタンチノーブル(現トルコ)約50万人、北宋の開封(現中国)約40万人に続き、アンコール地方は世界第四位の約25万人に達していたという(因みに平安時代の京都の人口は10万人程度といわれている)。その約百年後(12世紀初期~13世紀)、アンコール王朝は最盛期を迎え、約60万人から100万人近い人口が集中していたとされる。つまりこの百年ほどの間に三倍近い人口増加を実現していたということになる。

これほどの隆盛を誇ったアンコール王朝が、15世紀に入ると急速に衰退し滅亡したのは何故か。これも不思議極まりない疑問である。

本書によれば、当初フランス人研究者により、ジャヤヴァルマン七世によって成し遂げられた数多くの大規模な寺院建設が、アンコール王朝を破産させ、衰退に追い込んだという建寺疲労説が唱えられていた。しかし、13世紀末にアンコール・トム都城を訪れた中国人周達観の詳細な報告書にはアンコール地方の殷賑ぶりが活写されている。当時はまだアンコールの農業経済が維持されていたことが分かる。またジャヤヴァルマン八世(治世1243~1295)は52年に及ぶ長期安定政権を実現し、仏教からヒンドゥー寺院への再生工事を積極的に進めた。少なくともこの時期、衰退の兆候は見られない。これらの状況証拠から筆者は建寺衰退説には否定的である。

アンコール都城が陥落したのは、直接的には14世紀半ばから約80年に及ぶ前期アユタヤ朝との数次にわたる戦争に起因している。1431年頃、前期アユタヤ朝はアンコール・トム都城を包囲し、徹底した焦土作戦に出た。都城内の楼閣、王宮、倉庫、家宅はすべて放火され、前期アユタヤ朝の完全勝利となった。アンコール都城は灰燼に帰し、26代続いた王朝は終焉を迎えた。王族をはじめカンボジアの人々は、アンコールを放棄し、アンコールから遠く離れた南方を目指して逃亡した。そして二度とこの地が都に戻ることはなかった。シャム人はアンコール遺跡を略奪の対象とは見たが、ここに居住しようとは考えなかったようである。何故、せっかく攻め落としたアンコールにシャム人が住もうとは思わなかったのか、これも不思議である。

本書はこれからアンコール遺跡を見に行く人にはお勧めの一冊である。私は訪問前に一度読み、帰ってからもう一度目を通した。もちろん事前に知識を仕入れておくためにも有用であるし、一旦見学した後これを読むと「なるほど」と目を開かされることも多かった。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「絶滅する「墓」」 鵜飼秀徳著 NHK出版新書

2024年03月30日 | 書評

筆者は、京都嵯峨の正覚寺の住職で、「宗教と社会」をテーマに取材、執筆、講演活動を続けている。「仏教抹殺」「仏教の大東亜戦争」(文春新書)などの著書もある。

本書を読んで感心したのは、筆者の墓に対する執念である。私も約三十年にわたって幕末維新期に活躍した人物の墓を訪ね歩いてきたが、筆者は被葬者の名前よりもその墓に埋葬される人たち、或いは埋葬した人たちの思いとか、死生観等により強い興味を持っているのかもしれない。北は北海道のアイヌの墓から、沖縄の墓まで全国をきめ細かく取材しており、そのエネルギーに脱帽である。本書に紹介されている墓でいえば、私も沖縄の玉陵、高野山奥の院の膨大な数の墓石群、佐柳島(香川県)の埋め墓、新島の流罪人の墓などは実際に見てきたが、とても筆者の足もとに及ばない。

今や我が国における火葬率は99%に達しており、今後益々土葬は減っていくだろう。しかし、土葬にはそのようにする理由や背景があり、それを理解しないまま反対するのではなく共存の方法を考えられないか、というのが筆者の問題提起であろう。しかし、我が国では土葬に対する忌避感が強く、土葬が可能な墓地も非常に限られている。しかし海外に目を向けてみると意外と土葬を行っている国は多い。私が現在在住しているベトナムも土葬の国であるし、欧米でも土葬が主流である。衛生面の問題も生じるし、何よりも場所が不足してしまう。何千何万という死者のために場所を確保していては、やがて生活する場所がなくなってしまうだろう。多面的に考えて火葬というのは合理的な葬り方であるが、埋葬というのは合理性だけで判断できないところに難しさがある。

筆者は我が国で消えゆく土葬やその土地特有の葬送を「絶滅危惧墓」と呼んでいる。筆者の危機感は、本書末尾の「結びに代えて」に集約されている。

――― コストやつきあいの煩わしさを考えれば、「墓は無用」と考える人がいるのも分かる。ただ、先人が大切にし、祀り続けてきた墓を、効率重視でなくしてしまうのは、人類が受け継いできた智慧の放棄といわざるを得ない。

という主張には頷けるものがある。

私も自分の代で先祖から受け継がれてきた菩提寺の墓を整理しようとは思っていない。本書でも記載されているように、我が国では江戸時代に寺請制度が整備され、すべての人民はどこかの檀家に組み込まれた。寺では歴代檀家の戒名や俗名などを記した死者の帳簿「過去帳」を制作し、現代まで伝わっている場合が多い。これによって、我々はその気になれば家系図を江戸時代まで遡ることが可能となっている。

菩提寺に墓があることの重要性は理解しているつもりだが、私はどうしてもその墓に入ることに抵抗がある。そもそもお前は仏教をどれほど信仰しているのか。法事のたびに聞かされる読経は退屈なだけだし、意味も分からないし、有り難くも何ともない。むしろ苦痛なだけである。自分が墓に入ることで、子供や孫にその苦痛を強要するのは気が引ける。仏教の教えに共感もしていないし、仏教徒であるという自覚もない。「葬式仏教」という言葉があるが、普段何にも仏教徒らしいことをしていないくせに、葬式や法事のときだけご都合主義的に仏教徒になるというのも違和感がある。

自分はそもそも死後の世界とか輪廻転生など信じていないし、「死ねばそれっきり」だと思っているので、そんな人間がお寺に金を払ってお寺に弔ってもらう必要など毛頭感じない。これが全国津々浦々の墓を掃苔してきた私の結論である。

本書によれば、最近は納骨堂への永代供養や樹木葬、海洋散骨などが増えているという。エコ意識が進むアメリカでは、微生物によって遺体を分子レベルで分解してミネラルたっぷりの土壌を生成し、それを園芸用肥料に使ったり、自宅の庭に撒いたりという「コンポスト葬」なるものまで出現しているという。今後もさまざまな葬送の方法が考案されるだろう。個人的にはできるだけ手間のかからない方法で遺骨は処理して欲しい。といっても、現代の日本の法律によれば勝手に遺骨を自宅の庭に埋めたら、死体遺棄罪に問われるらしいので、邪魔だったら骨壺を段ボールにいれて屋根裏の納屋に放り込んでおいてもらっても結構。間違っても墓に入れないように、と願っている。

ただし、一方で筆者がいうように先祖から受け継がれてきた墓を自分の一存で「墓じまい」してしまうまでの決断はできない。面倒ではあるが、菩提寺の墓はそのまま維持しないといけないだろう、とぼんやり考えている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする