史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

館林 Ⅳ

2019年10月12日 | 群馬県

(田中正造記念館)

 

 

田中正造記念館 

 

 せっかくだから館林の田中正造記念館を訪ねることにした。いうまでもなく、足尾銅山鉱毒事件で活躍した田中正造の功績を顕彰する記念館である。時系列に田中正造の事績をパネル展示している。

 銅山が流す鉱毒が渡瀬川流域に拡散し、川魚が死滅したのみならず、農産物も壊滅的な被害を受けた。木が伐採された山は大雨が降ると土砂崩れが発生し、鍰をためるダムが決壊して、多くの住民が被災した。

 明治三十四年(1901)、田中正造は銅山の操業停止を訴え、それが受け入れられないと知ると、明治天皇に直訴するという「禁じ手」に出た。直訴は未遂に終わったが、田中正造の住民を助けたいという情熱がなせる行為であった。

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中之条 Ⅳ

2019年09月21日 | 群馬県

(清見寺)

 お盆ということもあって清見寺は大勢の人が集まっており、駐車するスペースを見付けるのに苦労した。

 

 清見寺

 

 

 町田家の墓

 

 清見寺に町田明七の墓を探して広い墓地を一周した。私が探した限り、町田家の墓地は墓地中央の一か所しかなかったので、ここに明七が眠っているのであろう。

 たぶん町田家の墓にある「町田氏奥津城」の左手の墓石だと思われるが、墓石の文字を読み取るのを怠ってしまった。

 

(林昌寺)

 

 林昌寺

 

 

小渕恵三之墓

 

 林昌寺は柳田禎蔵の菩提寺である。禎蔵の墓を探して広い墓地をグルグルと歩き回ったが、見つけることはできなかった。柳田家の墓石は複数見付けたのだが…。代わりに?元総理大臣小渕恵三の墓に出会うことができた。

 

(吾妻神社)

 横尾の吾妻神社は和利宮とも呼ばれ、古くから地域の崇敬を集めた。拝殿をはじめ、境内の献額に、天保九年(1838)の絵馬、文政六年(1823)の句額、明治十一年(1878)の算額などがある。

 

 

 吾妻神社

 

 

篁菴先生碑銘(高橋景作碑銘)

 

 参道入口には高橋景作の顕彰碑が建てられている。篆額は東久世通禧。明治三十四年(1901)、門人による建碑。

 

 

 吾妻神社の句額

 

 文政六年(1823)の句額は、十一の小間に分れていて、各小間に俳句と作者の肖像が描かれている。句額序文にある「樹つら樵士」は、高橋景作のことで、「花すみれ」の句をあげている。句額の画家は不詳。

 

(高橋景作生家)

 

 

高橋景作生家

 

 横尾の高橋景作の生家である。さすがに当時の建物は残っていないが、前庭に建つ大きな蔵は関係資料を保存するためのものであろうか。

 景作は、寛政十一年(1799)、横尾村名主高橋政房の長子に生まれ、幼時より俊才として知られ、医学を志して伊藤鹿里に学んだ。その後、高野長英の塾大觀堂に入って一年あまりで塾頭となった。天保九年(1838)、横尾村に戻り、医師として診療にあたる傍ら、郷里の子弟を育てた。蛮社の獄で投獄されていた長英は、弘化元年(1844)、牢舎の火災に乗じて脱獄した。景作は、潜行した長英をここから一キロメートルほど北方の文珠院に匿ったとされる。念のためその辺りを車で走ってみたが、文珠院を発見することはできなかった。

 

 

高橋景作生家と関係資料

 

 

高橋景作句碑

 

 雲雀より上に馬なく峠かな

 

 この句は、天保十五年(1844)高橋景作が中之条を離れる師を見送った際に詠んだものである。

 

 

篁菴高橋盈卿翁之墓

 

 高橋景作は明治八年(1875)、七十七歳で没した。高橋家の墓は、生家跡の裏山にある。

 高橋家には、たくさんの遺品が残された。三十六年二十冊に及ぶ日記も伝わったが、長英逃亡期間のものは残されていない。ほかに自ら書写した和・漢・洋にわたる写本、メスフラスコ、秤などの医療用具、大觀堂の陶印、文人墨客との交流を示す書画や書簡、自筆の書幅や文芸作品など多岐にわたっており、景作の生涯を語る貴重な資料となっている。

 

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中之条 Ⅲ

2019年09月21日 | 群馬県

(沢渡温泉 まるほん旅館)

 嫁さんと長女が一泊二日で京都・大阪に帰省するというので、二人を駅に送ったその足で、懸案となっていた中之条町の高野長英関連史跡を訪ねることにした。八王子から片道約二時間半のドライブである。

最初の訪問地は、沢渡温泉まるほん旅館の駐車場。この場所は、高野長英の弟子の一人、福田宗禎(そうてい)の屋敷跡である。残念ながら、昭和二十年(1945)の大火で焼失してしまい、一切の建物は残っていないが、まるほん旅館向い側の駐車場に説明板が建てられている。

 

 

福田宗禎屋敷跡

 

 福田家は、屋号を「丸大」といい、湯宿と医者を兼ねていた。明治まで沢渡には、上中下(かみ・なか・しも)の湯があり、源泉をめぐって東に福田家、西に関口系の家が宿屋を開いていた。福田家は、「丸本」六右衛門と本家とする「丸本」系と、「丸大」喜右衛門を本家とする「丸大」系の二系統があった。享保年間、「丸大」の婿となった関根浅右衛門は宿と医者を兼ね、その子宗禎は、家伝薬七宝丸とともに医者として有名になった。

 二代目宗禎浩斎は、二宮洞庭に学び、富山藩医になるなど医学を修めて帰省、家業についた。研究熱心な宗禎浩斎は、蘭方医学研究を志して高野長英の弟子となり、その評判を聞いて患者も年間三千人を越えたといわれる。

 

(沢渡温泉 見晴公園)

 

 

浩斎福田翁墓碑

 

 見晴公園の一角に福田家の墓所があり、そこに宗禎(浩斎)の墓碑がある。

 福田宗禎(徳郎・浩斎)は、寛政三年(1791)、沢渡温泉の丸大福田家に生まれた。宗禎は襲名で、浩斎は五代目である。三十歳のとき父が没したため帰郷して家業を継いだ。医師として名を上げ、多くの弟子を養成したが、自らの精進も怠りなく、常に新しい医学研究を求めていた。天保二年(1831)、高野長英の弟子となり、ゲッシェルの外科医学書を翻訳した。長英の著書「救荒二物考」(きゅうこうにぶつこう)の刊行、火災にあった長英の塾再建にも援助をした。蛮社の獄で入牢した長英の身を案じつつ、天保十一年(1840)、五十歳で没した。

 浩斎の墓碑は、明治十三年(1880)、嫡子宗禎(文同)によって建立されたものである。

 

 

 福田家の墓

 

(鍋屋旅館)

 中之条の市街地に戻って、鍋屋旅館を訪ねる。中之条に潜入した高野長英を匿った田村八十七(やそしち)の屋敷跡である。

 田村八十七らは、手を尽くして長英をかくまったとされるが、当時、長英の人相書きが出回っており、証拠となるものは全て焼却したため、今となっては長英が中之条で潜伏した詳細は明らかではない。

 

 

 鍋屋旅館

 

(町田家)

 

 

町田家のシイの木

 

 鍋屋旅館から数十メートル東の町田家は、(恐らく)高野長英をかくまった町田明七の屋敷跡である。今も町田氏が居住されている。町田家には樹齢三百年樹高九メートルというシイの大木がそびえている。

 

(高野長英先生淹留之地)

 

 

高野長英先生淹留之地碑

 

 横尾の高橋景作が高野長英の塾「大觀堂」に入り、天保七年(1836)には塾長に進んだ。大飢饉となったその年、長英は福田宗禎方に逗留しながら、日本最初の生理書「医原枢要」の出版費用を柳田禎蔵(鼎蔵)と共同出資した。この時、ソバと馬鈴薯が凶作に良いという話を福田・柳田両氏から聞いたことが、「救荒二物考」の出版に繋がった。天保九年(1838)、江戸の大火で長英の自宅が全焼した折には福田・柳田両名が筏で木材を送る等、二人は長英を熱心に支援した。

 柳田家は昭和三十年代に前橋に移住したため屋敷跡は跡形もないが、その後、長英の曽孫長運氏による「高野長英淹留之碑」が建てられた。

 

(中之条町歴史と民族の博物館)

 

 

中之条町歴史と民族の博物館

旧吾妻第三小学校校舎 

 

 教育資料室

 

 中之条町歴史と民族の博物館は、明治初期の擬洋風建築である旧吾妻第三小学校校舎を活用したものである。高野長英が高橋景作に宛てた書状や沢渡温泉の歴史をたどる展示などが見所である。

 

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桐生

2019年09月14日 | 群馬県

(桐生天満宮)

 桐生は古くから養蚕業や絹織物業で栄えたが、江戸期に入って桐生天満宮を中心に市街地が形成されていった。桐生の織物業は幕府にも高く評価され、桐生は天領とされた。

 桐生天満宮に至る直線道路の両側には、江戸時代から続く当時の区割りや古い建物が今も伝えられている。

 

 

桐生天満宮

 

 桐生天満宮の公式ホームページによれば、その起源は「第十二代景行天皇の時代」というから、西暦でいうと紀元後70~130年となる。景行天皇は日本書紀に現れる天皇で、実在性は定かではないが、ともかくこの神社の歴史はとてつもなく古いということである。社殿は寛政五年(1793)の落成。県指定の重要文化財である。

 桐生天満宮の境内に橘守部筆の筆塚があると聞いたので、わざわざ足を伸ばしてみた。

 

 

筆塚

 

 公式ホームページの境内案内にも筆塚のことは記載がなかったので、本当に存在しているのか不安であったが、意外とあっさりと見つかった。ただし、この筆塚は全文が壮麗な草書で書かれており、素人は一文字も判別できない。

 橘守部は、文化六年(1809)、武蔵幸手に移住し、その折、桐生、足利の機業家らから支えられながら、独学で古典研究に励んだ。守部は文政十二年(1829)に江戸に戻り、その後、多数の書を著し晩成の人といわれるが、その基礎は幸手時代に培われたのであろう。

 

 

矢野本店店舗および店蔵

 

 桐生市内の伝統的建造物群保存地区の建物は、大正年間に建てられたものが多い。ひと際広い敷地を誇るのが矢野本店である。店舗は大正五年(1916)に建てられたもので、当方は決して大正生まれではないものの何か懐かしさを覚える建物である。和風の店舗に隣り合って、有鄰館と呼ばれる洋風のレンガ造りの倉庫が並んでいるのが面白い(現在はギャラリーや舞台、コンサート会場として利用されているらしい)。矢野本店は、享保二年(1717)、創始者である初代矢野久左衛門が近江から来住し、寛延二年(1749)、二代久左衛門が桐生新町二丁目に店舗を構えたことに始まる。清酒・味噌・醤油の醸造業のほか質商として家業を広げ、明治期以降は荒物・薬種・染料・呉服・太物・銘茶部門を扱うようになった。昭和二年(1927)、十代目の久左衛門が桐生最初の百貨店である矢野呉服店を開業するなど、桐生の商業発展に大きく貢献し今日に至っている。

 

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玉村 Ⅱ

2019年09月14日 | 群馬県

(藤枝家墓地)

腰椎ヘルニアを再発してもう三か月近くが経過したが、さっぱり改善の兆しもみられず、痛みと戦う日々が続いている。

この日も休みをとって朝から通院であった。診察が始まる時間には待合室は人であふれていて、いったい何時になったら自分の番が回ってくるのかとため息をついた瞬間、意外と早く自分の名前が呼ばれた。待合室にひしめいていた多数の老人は、診察よりもリハビリだとか注射や点滴が目的のようで、診察を待っている人は存外少ないのかもしれない。

幸いにして早々に病院から解放されたので、病院の近くでレンタカーを借りて久々に遠征することにした。腰は痛いが、運転席に座っているだけであれば痛みを忘れることができる。目的地は、高野長英が潜伏していたことで知られる群馬県中之条町である。

八王子JCTで中央道から圏央道に乗り換えようとしたところで、車の列が微動だにしない大渋滞に遭遇してしまった。いつもはだいたい日の昇る前にこの辺りは通過していて渋滞に逢ったことはなかったので、これは予想外であった。休日ならいざ知らず、平日の昼間でも普段からこんなに交通量が多いのだろうか。予定外の時間のロスとなりスタートから躓いてしまった。あっさりと中之条町遠征は諦めて、同じ群馬県ながら比較的近場の玉村町、桐生市にカーナビの目的地を設定し直した。

 

 

藤枝家墓地

 

 竹さんより、「お探しの鈴藤勇次郎という人の墓は、実家である刀匠藤枝家に移されているらしい」という情報をいただいた。かつて前橋の隆興寺で鈴藤勇次郎の墓を探して、出会うことができなかった時点でギブアップしていたのだが、俄然再挑戦の意欲が沸いてきた。

 といっても、藤枝家の墓がどこにあるかを探し当てる必要があった。玉村町歴史資料館に問い合わせたところ、実に懇切丁寧に地図付きで場所を教えていただいた。

近くに大きな墓地があるが、藤枝家の墓はそこから少し離れた畑の中に単独で存在している。

 

 

賢光院英義居士(藤枝太郎英義の墓)

 

 藤枝英義(てるよし)は、文政六年(1823)、上野国川井村(現・玉村町)の生まれ。父は刀工藤枝英一。松平大和守家に仕え、主家が川越に移ると君命を受けて転住した。鈴藤勇次郎の実兄に当たる。明治九年(1876)、五十四歳で死去。

 

 

藤枝玉鱗子之墓(金華院玉鱗居士)

藤枝英一の墓

 

 藤枝太郎英義、鈴藤勇次郎兄弟の父、藤枝英一(てるかず)の墓である。玉鱗子と号した。嘉永四年(1851)没。

 

 

為藤枝家先祖菩提

 

 ということで、藤枝家の墓域にある墓石を一つひとつ確認したが、残念ながら鈴藤勇次郎の墓を発見することはできなかった。ただし、墓誌に藤枝英一や藤枝英義らの名前とともに、鈴藤勇次郎の名前も刻まれていたので、恐らく藤枝家の墓に合葬されているのだろう。

 墓誌には、「幕末海軍士官小十人格咸臨丸乘組 賢栄院誠昌勇道居士 慶應四戊辰年八月二十四日 英一二男 鈴藤勇次郎(諱)致孝」と記録されている。

 

(慈恩寺)

 廃藩置県後、川越藩を離れた藤枝英義は慈恩寺に移り住み、農具を作ったり、村人の相談に乗ったりして過ごした。

 

 

慈恩寺

 

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前橋 Ⅴ

2019年03月09日 | 群馬県
(都丸邸)


都丸邸

 小栗上野介忠順が権田村観音山に用水を引き建築にかかったが主の死により未完に終わった屋敷が、前橋市総社町に移築されて現存している。
 周辺は「都丸」姓の表札を掲げる家が多く、その中から旧小栗屋敷を探し当てるのは少々骨が折れる。高崎市の出している「偉人小栗上野介」というパンフレットに掲載されている写真と照らしてこれで間違いないと思う。

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高崎 Ⅵ

2019年03月09日 | 群馬県
(阿弥陀堂 田口家墓地)


阿弥陀堂


真仙得忠居士 藤庭偕忠居士 金光照忠居士
(小栗父子の家臣の墓)

 小栗又一の墓の横にある父子の家臣の墓を写真に収めるため、再度阿弥陀堂を訪問した。ここに葬られているのは、沓掛藤五郎、多田金之助、塚本真彦の三名。いずれも慶應四年(1868)閏四月七日、又一とともに斬首された。

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甘楽

2019年03月09日 | 群馬県
(楽山園)
 楽山園は、織田信長の次男信雄がこの地に城下町を築いた際に造った庭園である。


名勝楽山園


楽山園


御殿跡

 楽山園は典型的な池泉回遊式庭園である。池を中心に中島や築山を配置し、起伏ある地形を作りだしている。一見すると手入れの行き届いたゴルフ場のようでもある。
 庭園に隣接した場所に御殿(藩邸跡)がある。今、建造物は残っていないが、かつてここで小幡藩の政務が執られていた。
 小幡藩は、元和元年(1615)天下統一を成し遂げた徳川家康が、織田宗家を継いだ織田信雄に大和宇陀三万石と小幡二万石を与えたことがその始まりで、その翌年、信雄の四男信良が仮陣屋に入り藩政が開始された。織田家の藩政は八代百五十二年続いたが、明和四年(1767)、小幡藩の内紛(山県大弐の明和事件)により織田家が出羽高畠に移封され、代わって親藩である松平忠恒がこの地に入った。以来、四代にわたって松平家の統治が続き、明治維新を迎えた。
 幕末の藩主は松平忠恕(ただゆき)。幕府の奏者番や寺社奉行といった重職を歴任したが、戊辰戦争では早くから新政府への恭順を表明した。維新後は知藩事に任じられたが、廃藩置県により免職。明治三十五年(1902)、七十八歳で没した。

(食い違い廓)


食い違い廓

 甘楽の街には城下町の風情が色濃く感じられる。楽山園近くの山田家主屋の東南側には食い違い廓と呼ばれる石垣が残されている。この奇妙な石垣は、戦時の防衛のため造られたといわれるが、下級武士が上級武士と出会うのを避けるためのものとも言われている。

(松平家大奥)
 食い違い廓のある山田家のちょうど向い側に松平家大奥があった。今は江戸後期に築造された庭園が残されているのみである。大奥には奥方と何人かの腰元が住んでいたといわれる。幕末、ペリーが来航した際、将軍が江戸城大奥の女官たち十五~十六人を親藩である小幡藩のこの屋敷に疎開させたと伝えられている。


松平家大奥庭園

(中小路)
 中小路は織田氏の統治時代に造られた道路で、道幅は十三~十四メートルもある。車の無い時代にこのような広い道路を作ったのは、全国的に珍しい。中小路沿いにある書院造りの屋敷や石垣は、城下町時代の面影を今に伝えるものである。写真左手の大きな屋敷は、小幡藩の勘定奉行も務めた高橋家もの。無患子(ムクロジ)の巨木が中小路を見下ろしている。


中小路

(大手門)


甘楽町歴史民俗資料館


大手門礎石

 陣屋の内と外を分ける場所に門が設けられた。陣屋の正面にあたる場所には、大手門が置かれた。現在、ここにあった四脚門は残っていないが、門を支えた礎石が残されている。
 大手門近くには甘楽町歴史民俗資料館が開設されている。建物は大正十五年(1926)に甘楽社小幡組製糸工場の繭工場として建設されたレンガ造り二階建て、瓦葺きのものである。
 織田信雄の肖像画や書状などのほか、この地域で養蚕に使われていた道具類も展示されている。入館料二百円。

(雄川堰)


雄川堰

 小幡の街を流れる雄川堰(おがわぜき)は、開削時期は不明であるが、藩政時代以前から存在していたといわれる。一級河川雄川から引き込んだ大堰があり、そこから取水して陣屋内に張り巡らされた小堰から成っている。古くから生活用水、非常用水、灌漑用水として活用されてきた。雄川堰は江戸時代から受け継がれる貴重な歴史遺産であると同時に、小幡の街並みに風情を添えている。私が訪れた時、楽山園にも雄川堰周辺にもほかに観光客らしき姿はなかった。全国的にはあまり有名とはいえない街であるが、落ち着きのある良い街並みである。もっと注目されて良い。

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安中 Ⅱ

2019年03月09日 | 群馬県
(南窓寺)
 安中市板鼻の南窓寺には算学者、天文学者小野良佐栄重の墓がある。


南窓寺


壽算榮重居士
(小野良佐(りょうすけ)栄重の墓)

 小野良佐は、宝暦十三年(1763)、碓氷郡中野谷村に生まれた。江戸で関流算学者藤田貞資の門下で算学を学び、更には伊能忠敬について天文学を学び、海岸線の測量にも参加した。また、天文、暦術、算術に関する図書の編集にも関係し、寛政九年(1797)には郷土板鼻に和算塾を開き、文化八年(1811)には恩師藤田貞資の遺命により関流数学師範の免許皆伝が伝達され、関流六伝の家元として日本和算数学界の中心的地位を授けられた。「上毛の数学栄重を得て始めて大なり」と称された。天保二年(1831)没す。

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碓氷峠 Ⅱ

2019年03月09日 | 群馬県
(めがね橋)
 碓氷峠を越えて坂本側に降りてくると、めがね橋と呼ばれる巨大な構造物に出会う。正式には「碓氷第三橋梁」といい、国指定重要文化財に指定されている。急勾配でしられる碓氷峠は、路線決定と工事が難航した。軽井沢―直江津間は明治二十一年(1888)に開通していたが、それから五年後の明治二十六年(1893)四月にようやく開業を迎えた。碓氷線には、当時の土木技術の粋を集めて、二十六のトンネルと十八の橋梁が造られたが、なかでもこのめがね橋は二百万個以上のレンガを使用した、国内でも最大のレンガ造アーチ橋である。


めがね橋

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