(沢渡温泉 まるほん旅館)
嫁さんと長女が一泊二日で京都・大阪に帰省するというので、二人を駅に送ったその足で、懸案となっていた中之条町の高野長英関連史跡を訪ねることにした。八王子から片道約二時間半のドライブである。
最初の訪問地は、沢渡温泉まるほん旅館の駐車場。この場所は、高野長英の弟子の一人、福田宗禎(そうてい)の屋敷跡である。残念ながら、昭和二十年(1945)の大火で焼失してしまい、一切の建物は残っていないが、まるほん旅館向い側の駐車場に説明板が建てられている。
福田宗禎屋敷跡
福田家は、屋号を「丸大」といい、湯宿と医者を兼ねていた。明治まで沢渡には、上中下(かみ・なか・しも)の湯があり、源泉をめぐって東に福田家、西に関口系の家が宿屋を開いていた。福田家は、「丸本」六右衛門と本家とする「丸本」系と、「丸大」喜右衛門を本家とする「丸大」系の二系統があった。享保年間、「丸大」の婿となった関根浅右衛門は宿と医者を兼ね、その子宗禎は、家伝薬七宝丸とともに医者として有名になった。
二代目宗禎浩斎は、二宮洞庭に学び、富山藩医になるなど医学を修めて帰省、家業についた。研究熱心な宗禎浩斎は、蘭方医学研究を志して高野長英の弟子となり、その評判を聞いて患者も年間三千人を越えたといわれる。
(沢渡温泉 見晴公園)
浩斎福田翁墓碑
見晴公園の一角に福田家の墓所があり、そこに宗禎(浩斎)の墓碑がある。
福田宗禎(徳郎・浩斎)は、寛政三年(1791)、沢渡温泉の丸大福田家に生まれた。宗禎は襲名で、浩斎は五代目である。三十歳のとき父が没したため帰郷して家業を継いだ。医師として名を上げ、多くの弟子を養成したが、自らの精進も怠りなく、常に新しい医学研究を求めていた。天保二年(1831)、高野長英の弟子となり、ゲッシェルの外科医学書を翻訳した。長英の著書「救荒二物考」(きゅうこうにぶつこう)の刊行、火災にあった長英の塾再建にも援助をした。蛮社の獄で入牢した長英の身を案じつつ、天保十一年(1840)、五十歳で没した。
浩斎の墓碑は、明治十三年(1880)、嫡子宗禎(文同)によって建立されたものである。
福田家の墓
(鍋屋旅館)
中之条の市街地に戻って、鍋屋旅館を訪ねる。中之条に潜入した高野長英を匿った田村八十七(やそしち)の屋敷跡である。
田村八十七らは、手を尽くして長英をかくまったとされるが、当時、長英の人相書きが出回っており、証拠となるものは全て焼却したため、今となっては長英が中之条で潜伏した詳細は明らかではない。
鍋屋旅館
(町田家)
町田家のシイの木
鍋屋旅館から数十メートル東の町田家は、(恐らく)高野長英をかくまった町田明七の屋敷跡である。今も町田氏が居住されている。町田家には樹齢三百年樹高九メートルというシイの大木がそびえている。
(高野長英先生淹留之地)
高野長英先生淹留之地碑
横尾の高橋景作が高野長英の塾「大觀堂」に入り、天保七年(1836)には塾長に進んだ。大飢饉となったその年、長英は福田宗禎方に逗留しながら、日本最初の生理書「医原枢要」の出版費用を柳田禎蔵(鼎蔵)と共同出資した。この時、ソバと馬鈴薯が凶作に良いという話を福田・柳田両氏から聞いたことが、「救荒二物考」の出版に繋がった。天保九年(1838)、江戸の大火で長英の自宅が全焼した折には福田・柳田両名が筏で木材を送る等、二人は長英を熱心に支援した。
柳田家は昭和三十年代に前橋に移住したため屋敷跡は跡形もないが、その後、長英の曽孫長運氏による「高野長英淹留之碑」が建てられた。
(中之条町歴史と民族の博物館)
中之条町歴史と民族の博物館
旧吾妻第三小学校校舎
教育資料室
中之条町歴史と民族の博物館は、明治初期の擬洋風建築である旧吾妻第三小学校校舎を活用したものである。高野長英が高橋景作に宛てた書状や沢渡温泉の歴史をたどる展示などが見所である。