(千葉県庁立体駐車場)
明治天皇行在所舊蹟
千葉県庁立体駐車場の前に明治天皇の行在所を示す石碑が建てられている。明治十五年(1882)、明治天皇は下総八街村付近で行われた近衛兵の演武を親臨大閲のため、五月一日および三日、県女子師範学校のあったこの地を行在所として宿泊したことを記念したものである。昭和三年(1928)十一月の建立。
(千葉県庁立体駐車場)
明治天皇行在所舊蹟
千葉県庁立体駐車場の前に明治天皇の行在所を示す石碑が建てられている。明治十五年(1882)、明治天皇は下総八街村付近で行われた近衛兵の演武を親臨大閲のため、五月一日および三日、県女子師範学校のあったこの地を行在所として宿泊したことを記念したものである。昭和三年(1928)十一月の建立。
(稲毛)
御野立所
JR稲毛駅を出て北西に三分ほど歩いた県道133号線沿いに明治天皇野立所跡碑が建てられている(千葉市稲家区稲毛東3‐17‐12)。
明治十五年(1882)五月一日、明治天皇は、伏見宮、北白川宮と大山巌とともに赤坂仮御所を出発し、江戸川軍橋を渡って市川、船橋、幕張、稲毛を経て、千葉女子師範学校(現・千葉市中央消防署付近)に宿泊し、翌五月二日、丹尾台および大塚において近衛師団の機動演習を展覧した。翌日には四谷ヶ原にて演習を統監し、前日と同じく千葉女子師範学校に宿泊した。ここはその際に休息をとった場所とされている。
(幕張三丁目公園)
幕張三丁目公園
幕張駅近くの住宅街の中に幕張三丁目公園と名付けられた小さな公園がある。この場所は、江戸時代北町奉行所の配下にあった天領幕張町の代官所(大須賀家)のあったところである。当時の建物は、昭和四十三年(1968)、千葉市に寄贈され、現在加曽利貝塚公園に保存されているという。公園内に明治天皇駐蹕之所碑が建てられている(千葉市幕張3‐1096-15)。
明治天皇駐蹕之所
明治十五年(1882)、明治天皇が市内中野町方面における陸軍対抗演習統監の際、この場所を休息所に当てたことを記念したものである。
(大和田)
明治天皇行在之處
明治六年(1873)、大和田原で行われた近衛兵の演習を閲兵するために明治天皇が立ち寄ったことを記念した碑で、この場所には習志野原陸軍操練場、大和田宿本陣があったとされる。建立されたのは大正十一年(1922)。
(中宿)
最寄駅は京成臼井駅となる。長源寺前を通って中宿の交差点に面したところに明治天皇臼井行在所碑が建てられている(佐倉市臼井158)。
明治天皇臼井行在所
(築山)
京成酒々井(しすい)駅から徒歩八分、「宗吾入口」という交差点の脇に築山と呼ばれる小丘がある(酒々井町酒々井656)。
築山の上は展望台を兼ねた広場になっていて、その片隅に明治天皇御駐輦記念碑が建てられている。
明治天皇御駐蹕記念碑
石碑の裏面の記述によれば、明治天皇が中川村の木内常右衛門邸内にあった築庭にて休憩したのは、明治十四年(1881)六月二十九日、同年七月一日、明治十五年(1882)六月六日、八日の四回に及んだという。
(成田山新勝寺)
成田駅から表参道を経て徒歩二十分で成田山新勝寺に至る。表参道の両側には、土産店や飲食店、旅館が並ぶ。鰻が有名らしく、ちょうど昼食時間帯と重なったこともあり、鰻屋の前には行列ができるほどの賑わいであった(成田市成田1)。
成田山新勝寺は、天慶三年(940)、寛朝によって開山された。前年に平将門の乱がおこり、この事態に驚いた朝廷では、仏教の力による調伏を京都遍照寺の寛朝に命じた。寛朝は弘法大師作と伝えられる不動明王を奉じて関東に下り、護摩を修めた。その満願の日に将門の乱が平定されたため、朱雀天皇は「新戦剋勝」に因んで新勝寺という寺号を与えたという。
成田山新勝寺
境内に入ると正面に仁王門がある。文政十三年(1830)に建立された入母屋造の八脚門である。仁王門横の光輪閣の前に明治天皇成田行在所碑がある。
仁王門
明治天皇成田行在所
明治十四年(1881)および明治十五年(1882)の二度、明治天皇は下総種畜場に行幸し、成田山を行在所とした。昭和八年(1933)、史跡に指定され、昭和十年(1935)に記念碑が建立された。
二宮尊徳翁開眼之地
二宮尊徳が野州桜町(現・栃木県真岡市)の復興に一身を捧げた。内外の妨害に進退きわまり、行方不明数十日の後、「禍を転じて福となし」に始まる七大誓願を胸に成田山に参籠、断食水行二十一日、霊験感応あり心願開けて大悟したといわれる。
身をすてて ここをせんどと つとむれば
月日の数も 知らぬなりけり
心あらば 成田の山に こもりなん
石の上にも 岩の上にも
という二首を満願の日に詠んだ。「予が今日に至るは、不動心の堅固一つにある」と繰り返し口にした。
(柏駅東口駐輪場)
明治天皇柏御小休所
柏駅を東側に出てサンサン通りを東に進み、旧水戸街道(現・県道51号)と交わった辺りの植え込みの中に明治天皇柏御小休所碑がある(柏市柏4‐5)。明治十三年(1880)、寺嶋家に行幸したことを記念したものである。
(梅澤邸)
東漸寺の前の道をさらに南に行くと、右手に梅澤邸がある。住宅の前に明治天皇小金御小休所碑が建てられている。明治十七年(1884)、茨城県女化原(現・牛久市)で行われた近衛兵演習天覧のため、小金宿を通過した際に休憩をとった記念碑である。
明治天皇小金御小休所
塀越しに写真を撮影していると、中から老婦人が現れ、ご主人を呼びに行かれた。すっかり警察にでも通報されるのかと観念していたところ、ご主人から「どうぞ中に入って撮影してください」と思わぬ言葉をいただいた。実は塀越しだと庭木が邪魔をしてうまく撮れなかったのである。
ご主人によれば、明治天皇が梅澤家で休息をとったのは、百三十年以上も前のことで、建物も建て替えられている。「明治天皇が使われた建物ではないんです」と申し訳なさそうにご説明いただいた。その上、帰り際に「ちょうど今日獲ったばかりだから」と庭でとれたミカンを四つもいただいた。史跡の旅を続けていると、厄介払いされるのが常だが、この日はとても良心温まる一日となった。(松戸市小金316)
(相模第一マンション)
JR松戸駅の西側数百メートルを流山街道(現・県道5号線)が走っている。その道を南進して春雨橋を渡ったところにあるマンションの奥に明治天皇松戸行在所碑がある。(松戸市松戸1779)
明治天皇松戸行在所
明治十七年(1884)、牛久での近衛兵演習天覧の途中、明治天皇が脇本陣羽生家で昼食をとったことを記念したものである。