史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

彦根 Ⅵ

2023年02月04日 | 滋賀県

(清涼寺つづき)

 

貫名徹 同道 之墓(貫名筑後の墓)

 

 長野主膳の墓の近くに貫名筑後の墓がある。

 貫名(ぬきな)筑後は、天保二年(1831)の生まれ。墓石には、「徹」という筑後の通称が刻まれている。父は井伊直中の六男で、その子筑後は貫名家を再興した。井伊直弼の死後、幼君直憲を助けて、筑後、新屋左馬助、河手主水らの井伊一族は藩政の前面に立つことになった。筑後は文久以来の各作戦の将となり、とくに慶應四年(1868)の鳥羽伏見の戦いでは、諸藩に先駆けて幕軍に大砲を打ち込み、日和見諸藩の官軍化を決定的にした。明治以降は、彦根藩軍務局一等知軍事、権大参事として直憲を助けた。明治三十五年(1902)、年七十二で没。

 

(龍潭寺つづき)

 

招魂碑

 

 龍潭寺再訪を機に招魂碑の裏側を確認したところ、戊辰戦役に出征して戦死した彦根藩士の氏名や戦没地がぎっしりと刻まれていた。つまりこの招魂碑は、戊辰戦争における彦根藩士のためのものである。

 

従五位木俣幹墓

 

 木俣幹は天保十三年(1842)の生まれ。諱は守盟。長兄に木俣清左衛門(守彜)がいる。文久二年(1862)守彜が失脚したため、家督を継いだ。元治元年(1864)の禁門の変や水戸天狗党の討伐に出陣。慶応二年(1866)六月、第二次長州征討では幕府軍の芸州口先鋒となった彦根藩兵を率いて敗れた。明治二年(1869)彦根藩権大参事。明治三十六年(1903)彦根の自宅にて死去。享年六十二。

 

大久保章男君墓碑(大久保小膳の墓)

 

 大久保小膳(こぜん)は文政四年(1821)の生まれ。十六歳で小姓に召され、長じて井伊直弼の側役、兼ねて愛麿(のちの直憲)の師傳となった。万延元年(1860)、桜田門外の変の即夜、彦根急使となり、八日彦根に着き、さらに重臣会議の結果を持って江戸に復命した。文久二年(1862)、藩から直弼時代の極秘文書の処分を命じられたが、偽ってこれを秘匿、明治十九年(1886)に至り、井伊家に返却した。井伊家文書が今日に伝わる所以である。井伊家は、直弼勉学所埋木舎を彼に贈り、その誠忠に報いた。明治三十六年(1903)、年八十三で没。

 

(磨針峠)

 

舊中山道 磨針峠望湖堂 弘法大師縁の地

 

 明治十一年(1878)十月二十二日、高宮を発った明治天皇は、鳥居本から中山道を進み、磨針(すりはり)峠へ向かう山道に入った。その昔、諸国を修業中の青年僧が挫折しそうになってこの峠を通りかかると、斧を石で摺って針にしようと励む老婆の姿に接して発心し、のちに弘法大師となったという伝説の残る峠である。国道8号線から旧中山道へ入る交差点に「磨針峠望湖堂」と記された石碑があり、そこから凡そ一キロメートルほど進むと、望湖堂跡に達する。題字は、井伊直弼の曽孫井伊直愛(なおよし)彦根市長。

 

望湖堂跡

 

 江戸時代、磨針峠に望湖堂という大きな茶屋が設けられていた。峠を行き交う旅人は、ここで絶景を楽しみながら名物「するはり餅」に舌鼓を打った。参勤交代の大名や朝鮮通信使の使節、また文久元年(1861)には江戸に向かう和宮も当初に立ち寄っている。茶屋とは言いながら、建物は本陣構えで「御小休御本陣」と自称するほどであった。その繁栄ぶりに、近接する鳥居本宿と番場宿の本陣が、寛政七年(1795)、奉行宛てに連署で、望湖堂に本陣まがいの営業を慎むように訴えている。

 望湖堂は、往時の姿をよく留め、参勤交代や朝鮮通信使関係の史料などを多数保管していたが、火災で焼失した。

 

明治天皇磨針峠御小休所

 

 明治天皇は、峠を上り切った望湖堂で休息し、琵琶湖の風景を楽しんだ。

 

(円照寺)

 高宮町の円照寺の門前に明治天皇行在聖蹟碑が建つ。題字は、一戸兵衛。明治十一年(1878)十月十一日と二十一日に滞在している。

 

円照寺

 

明治天皇行在聖跡

 

止鑾松

 

 円照寺境内には止鑾松(しらんのまつ)がある。「鑾」とは天皇の乗り物のことを指す。明治天皇の滞在に際し、乗り物を止めて松をご覧になったことから命名された。当時の松の巨木は、近年失われ、現在の松は二代目である。

 

(高宮本陣)

 円照寺のちょうど向かいが高宮本陣跡である。高宮宿には本陣が一軒あり、門構え、玄関付きで、間口約十五間、建坪約百二十三坪を誇った。現在は表門のみが残されている。

 

高宮本陣表門

 

 文久元年(1861)十月二十三日、皇女和宮もここで小休をとっている。

 

 

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米原 Ⅱ

2023年01月20日 | 滋賀県

(加茂神社)

 

加茂神社

 

 醒ヶ井宿の加茂神社前に日本武尊の伝説で有名な「居醒(いさめ)の清水」が湧き出ている。日本武尊は、伊吹山の大蛇の退治に苦しみ、やっとのことで醒ヶ井の井戸にたどり着いた。この清水で心身を冷やすと、不思議なことに高熱が下がり、体調が回復したため「居醒の清水」と呼ばれるようになった。この清水は、伊吹山に振り注いだ雨が地下水となって、加茂神社鳥居付近から湧出しているもので、一年を通して水温十五度前後を保っている。

 

醒ヶ井の清水

 

鮫島中将の歌碑

 

 明治二十八年(1895)、台湾征討時に熱病に冒された北白川能久親王が病床で冷たい水を所望された際、看病していた鮫島重雄参謀長は、かつて訪れた醒ヶ井の清水を思い出し次の歌を詠んだ。

 

 あらばいま捧げまほしく醒井の

 うまし真清水ひとしずくだに

 

(番場宿つづき)

 

明治天皇番場御小休所

 

中山道番場宿 問屋場跡

 

 番場宿の問屋場跡となる民家の前に明治天皇番場御小休所碑が建てられている。明治十一年(1878)、十月二十二日、滞在。

 

中山道番場宿 本陣跡

 

 明治天皇番場御小休所周辺には本陣跡、脇本陣跡などを示す石碑が建てられている。

 

中山道番場宿 脇本陣跡

 

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長浜 Ⅲ

2023年01月20日 | 滋賀県

(木之本地蔵尊・浄信寺)

 木之本宿は、地蔵院の門前町として栄え、北国街道と北国脇往還が交わる宿場町で、旅人と眼病平癒で信仰を集めた木之本のお地蔵さんの参拝客で賑わった。今も商家の家並みに昔の情景を残している。

 

木之本宿

 

木之本 札ノ辻跡

 

 札の辻とは、禁止事項や公示事項を周知するための制札という立札を立てた場所で、通常はその町でもっとも往来の多い目抜き通りにある。その向かいが木之本地蔵尊(正式名称は浄信寺)である。

 

浄信寺

 

明治天皇木之本行在所

 

行在所

 

木之本地蔵尊

 

明治天皇行在所舊蹟

 

 明治天皇の御座所となった書院前に明治天皇木之本行在所碑が建てられている。玉座に畳や木靴などが保存されているという。欄間の装飾には菊の紋が用いられている。明治十一年(1878)十月十日から十一日までの滞在。境内には行在所碑もある。

 また門前(札ノ辻の向かい側)には明治天皇行在所舊蹟碑がある。題字は一戸兵衛。

 

(湖北幼稚園)

 

聖上駐蹕之所

 

 湖北幼稚園に隣接する場所に聖上駐蹕之所碑が建つ。この場所は、平成十八年(2006)に閉校した速水小学校の跡地である。明治十一年(1878)十月十一日の滞在。

 

(曽根町)

 曽根町の北国街道に面した民家の前に小休所碑がある。道路から少し奥まった場所で、しかも石碑の前に棕櫚の木が立っていて、極めて見づらい。邸内に玉趾の石碑があるらしいが、もちろん勝手に立ち入ることもできないので、未確認である。

 

 

御小休所

 

(南浜共同墓地)

 

西川耕蔵の先祖の墓?

 

 当方のブログに西川太治郎の曾孫という方からコメントを頂戴した。西川太治郎は西川耕蔵の血縁者で、近江新報社社長、のちには大津市長も務めた人物である。耕蔵の慰霊と顕彰に尽くし、京都西念寺の耕蔵の墓も太治郎によって発見されている。

「当家の墓は明治四十年、太治郎が大津市内に建立し耕蔵も入魂されていますが、それ以前のものも長浜市南浜町に残っています。耕蔵もこの付近の出であることは間違いないと思います。」

この情報を頼りに南浜町の共同墓地を歩いた。

 西川という姓は滋賀県では極めて普通で、この墓地でも複数確認ができるが、どれが西川耕蔵の先祖のものか、確定はできなかった。参考として古そうな西川家の墓を載せておく。

 

 この辺りは琵琶湖に注ぐ姉川の河口に近い。魚が豊富なためか、シラサギやアオサギなどの野鳥がもの凄い数で群れている。他ではちょっと見られない光景である。

 

シラサギ

 

(長浜幼稚園)

 長浜幼稚園の場所は、江戸時代十三代にわたって長浜の町つくりに尽くした吉川三左衛門家の本陣跡である。

 長浜は、北国街道を経由して、湖上交通に連絡する水陸交通の要衝であった。天正年間に豊臣秀吉が当地に城を築き、港を整備して街を作り上げたが、この事業を陣頭指揮したのが吉川家であった。以来、長浜の町政を委託され、この街の発展に尽くしてきた。

 

長浜幼稚園

 

明治天皇行在所阯

 

 道沿いに明治天皇行在所阯碑が建てられている。明治十一年(1878)十月十一日、滞在。

 

(清瀧寺)

 清瀧寺(せいりゅうじ)は、戦国時代北近江を支配した佐々木京極家の菩提寺である。初代氏信の法号から清瀧寺と称した。江戸時代の初期、京極家第二十二代(丸亀藩二代)高豊公が歴代の菩提寺から墓石を集めて上段に祀り直した。祖先を供養するために三重塔を建立し、伽藍の配置を見直し、寺院名も父の法号をとって徳源院と改めた。歴代京極家の墓地を訪ねて、はるばるとここまで来た(岐阜県の関ヶ原まで数キロメートルという地点である)が、新型コロナのため拝観謝絶と張り紙がされていて、寺の境内に入ることすら叶わなかった。

 

清瀧寺 徳源院

 

京極家墓所

 

 京極家墓所には、上段に始祖氏信をはじめ十八世高吉に至る歴代十八基、下段には大津城主高次(十九世)の墓が石廟に収められている。今回は叶わなかったが、いつかまた訪ねてみたい。

 

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長浜 Ⅱ

2023年01月19日 | 滋賀県

(柳ヶ瀬)

 

柳ヶ瀬村

 

柳ヶ瀬関所跡

 

 柳ヶ瀬は、北国街道と越前若狭街道の分岐点にあって、彦根藩では関所を置いて出入りを監視した。往時は旅籠が軒を並べ賑やかな街だったようだが、今はひっそりとした田舎町である。人とすれ違うことも少ない。

 

柳ヶ瀬

 

 長屋門を持つ立派な民家の前に明治天皇関係の石碑が二つ。明治天皇駐蹕之蹟碑は、陸軍大将一戸兵衛の題字。明治十一年(1878)十月十日の滞在。

 

明治天皇駐蹕之蹟

 

明治天皇柳ヶ瀬行在所碑

 

(明三寺)

 

明三寺

 

明治天皇中之郷御小休所

 

明治天皇駐輦之蹟碑

 

 余呉町中之郷の明三寺門前と北国街道沿いに明治天皇関係石碑がある。やはり題字は一戸兵衛による。明治十一年(1878)十月十日の滞在。近年まで明治天皇が滞在した書院が残されていたが、火災で焼失したそうである。

 

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高島 Ⅱ

2023年01月19日 | 滋賀県

(勝野)

 滋賀県の史跡で、どうしても外せなかったのが、高島市勝野の近藤重蔵関連史跡である。近藤重蔵が大溝藩預けとなったきっかけとなる鎗ヶ崎事件の主犯者である近藤富蔵を追って八丈島まで行った私としては、ここは絶対に訪れておきたい場所であった。

 

 朝八時に京都駅前でレンタカーを調達して、所々渋滞に巻き込まれたものの、九時半には第一目的地である大溝藩陣屋惣門前に到着した。

 

大溝藩陣屋惣門

 

 元和五年(1619)八月、高島郡を中心とした江州大溝藩主として分部光信が封じられた。この地には、織田信澄(信長の甥で、明智光秀の娘婿)が築いた大溝城(水城)があり、光信はその西側に陣屋、武家屋敷を構築し、石垣、土塁を巡らせて惣門を設けた。

 現在、大溝城や陣屋などの遺構はほとんど残されていないが、両袖に部屋のある惣門だけが現存している。

 

近藤重蔵謫居跡

 

 惣門の背後の駐車場の片隅に近藤重蔵謫居(たっきょ)跡碑が建てられている。近藤重蔵は、息子富蔵が起こした殺傷事件により、監督不十分の罪を問われ、大溝藩に預けられた。幽閉生活は二年余りに及び、文政十二年(1829)、六月九日、この地で没した。

 

笠井家武家屋敷

 

 分部(わけべ)光信が江州大溝藩に入部すると、この辺り一帯は譜代家臣の集住する武家屋敷町となった。維新後、家臣の多くが大溝を離れたため、今となってはその遺構を見ることは難しいが、笠井家は現在残る数少ない一軒である。

 かつて通りに面して両袖に部屋のある長屋門があったが、大正年間に玄関脇に移築改造されている。藩政時代の貴重な家屋であるが、まったく保存の手が入っていないらしく、屋根は所々崩落し、天井は湾曲している。何とかしないと全壊するのは時間の問題であろう。市の教育委員会には善処をお願いしたい。

 

藩校 修身堂跡

 

 修身堂は八代藩主分部光賓が創設した藩校である。儒臣中村鸞渓が文芸奉行として教育にあたり、子弟は八歳で入学が義務付けられた。儒学の他に算術、筆道、習礼を教え、十三歳未満の者には心学者手島堵庵の著述を、始業前に誦読させた。大溝藩は小藩ながら学問を好む気風があり、近藤重蔵を賓客のように扱ったとされる。

 

(瑞雪院)

 

瑞雪院

 

 瑞雪院には当地で没した近藤重蔵の墓がある。

 本堂前には近藤重蔵の詩碑が建てられている。「鴻溝城裡謫遷客」という文字は、重蔵が賦した漢詩の一節である。ある日、一人の藩士が石楠花を持って獄舎を訪れた。好意を謝するために重蔵が送った詩である。書は、近江出身の歴史作家徳永真一郎。

 

鴻溝城裡謫遷客

 

近藤守重之墓(近藤重蔵の墓)

 

 近藤重蔵は、明和八年(1771)に江戸に生まれ、寛政二年(1790)、家督を相続し、のち長崎奉行出役の後、支配勘定、関東郡代附出役を経て、寛政十年(1798)、松前蝦夷御用となり、たびたび千島列島を短径してその間に択捉島に「大日本恵土呂府」の標柱を建てたり、「辺要分界図考」を著わすなど、この方面の防衛、開拓をはかった。また博覧強記で多くの書物を著わした。しかし、長男富蔵が殺傷事件を起こしたため、文政十年(1827)、江州大溝藩に御預りとなり、その三年後に病没した。この間、「江州本草」三十巻を著わし、藩の指定に学問を勧めるなど、藩の文教振興にも貢献した。文政十二年(1829)、年五十九で没。墓石には名である「守重」が刻まれている。

 

(圓光寺)

 瑞雪院に隣接する圓光寺は、大溝藩主分部家の菩提寺である。もとは延文三年(1358)、伊勢中山に創建された禅寺であった。元亀年中、上野城下に移したが、後に分部光嘉が中山から上野に移るに及んで、圓光寺に寺領を寄進して菩提寺とした。元和五年(1619)に分部光信が江州大溝藩に御国替えとなると、これに伴い圓光寺およびその塔頭も当地に移管された。

 

圓光寺

 

 圓光寺の霊廟には、初代光信、第七代の光庸以外の歴代藩主と第十一代光貞夫人の墓碑や五輪塔が整然と並んでいる。

 

分部藩知事橒嶺分部君墓(分部光貞の墓)

 

分部家墓所

 

 分部光謙は文久二年(1862)の生まれ。分部光貞の次男。明治三年(1870)、父光貞の逝去により九歳で家督を継いだ。相続した直後、大溝藩知事に就任。長じて子爵に叙されたが、競馬にのめり込み、馬主となり自らも騎手として活躍した。明治三十五年(1902)には子爵を返上するに至った。晩年は旧領で暮らして長命を保ち、藩主・知藩事経験者としては最も長く生きた。昭和十九年(1944)、八十三歳で没。

 

普宏院殿心源宗徹大居士

(分部光謙の墓)

 

 分部光貞は、文化十三年(1816)の生まれ。父は安中藩主板倉伊予守勝尚。橒嶺は雅号。天保二年(1831)三月、養父光寧隠退につき襲封。従五位下若狭守に叙任された。文久二年(1862)、勅使東下につき接伴を勤めた。文久三年(1863)、勅命を奉じて参内し、孝明天皇に拝謁した。同年八月十八日の政変では、兵を率いて禁闕を守り、のち参内拝謁して若干金を賜った。元治元年(1864)、従五位上に陞叙。明治二年(1869)六月、版籍を奉還し、大溝藩知事に任じられた。明治三年(1870)、年五十五で没。

 

(朽木資料館)

 朽木氏は、安曇川本流と支流である北川が合流する野尻地区に陣屋を置いていた。この場所は、若狭や越前と京都を結ぶ朽木街道に面し、軍事、政治、経済的に重要な交通の要衝でもあった。朽木氏は佐々木氏の庶流で、承久の乱(1221)後、朽木庄の地頭職に補任されたことに始まり、関ヶ原の戦いや大阪の陣で戦功のあった朽木元綱以来、準大名格で当地を領有し、そのまま明治維新を迎えた。

 

朽木陣屋跡

 

 現在、陣屋跡を示す遺構としては土塁跡、井戸跡と石垣、堀跡などがある。当時はこの敷地内に御殿、侍所、剣術道場、馬場、倉庫などが存在していた。中世には朽木氏の館が設けられ、江戸時代に陣屋へと変遷を遂げたと推定されている。

 

 朽木陣屋に隣接して朽木資料館が設けられているが、休館中となっている。貴重な朽木の歴史を伝える施設を是非とも復活させてほしいものである。

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膳所 Ⅳ

2023年01月14日 | 滋賀県

(岡山墓地つづき)

 

森源祐信墓(森喜右衛門の墓)

 

 森喜右衛門は、文政十二年(1829)の生まれ。諱は佑信。膳所藩儒。家を継いで物頭役となり、初め藩命により大阪の篠崎小竹、藤沢東畡に漢学を学び、また長沼流の兵学を習い、のち江戸昌平黌で越後流の兵式、天山流の砲術を五ヵ年学修した。帰藩後、藩校遵義堂の教授となった。元治年間藩主本多康穣の密命を受け、長防豊筑の諸藩を歴訪し、その動静を視察した。また尊攘を説き、長州人の一橋慶喜宛の願書の伝達を斡旋した。慶應元年(1865)五月、膳所城事件に連座して獄に繋がれ、同年十月二十一日、死刑に処された。年三十七。

 

深栖俊助藤原当道墓(深栖幾太郎の墓)

 

 深栖幾太郎(ふかすきたろう)は、天保十二年(1841)の生まれ。母の胎中にあるとき父に生別し、母一人に育てられた。しかし、その賢母にも早く。

親戚で保育された。長じて禄八石五斗二人扶持を賜り、中小姓に列した。森喜右衛門らに漢学を学び、書を能くした。同藩の志士と尊攘論を主張し、膳所城事件で獄に繋がれ、慶応元年(1865)、同志とともに斬られた。年二十五。

 

増田仁右衛門藤原正房墓

 

 増田仁右衛門は、天保十一年(1840)の生まれ。膳所藩士。十六歳で家を継ぎ、中小姓に列し、禄八石五斗二人扶持を賜った。森喜右衛門に軍学を、高橋作也に経学を学び、安政六年(1859)九月、藩校の句読師となった。幕末に至り、藩の同志とともに尊攘の大義を唱え、元治元年(1864)、同志の川瀬太宰と謀り、幕府に上申して速やかに朝旨を奉じて尊攘の師を挙げ、当藩その先鋒となるよう請うべきであると、藩主本多康穣に建言した。慶應元年(1865)五月、膳所城事件に連座して同志とともに獄に繋がれ、同年十月二十一日、死刑に処された。年二十六。

 

関元吉平俊樹墓

 

 関元吉(もときち)は、天保七年(1836)の生まれ。幼少より槍術を父に習い、また蘭学を学んだ。膳所に帰ってからは同藩の高橋作也、森喜右衛門について漢学を修めた。元治・慶應の頃、膳所藩の園山開拓に際し、物事には軽重・緩急がある、天下大事の時に当り、もし藩庫に余裕があれば、他日の変に備えるべきだと反対した。同藩の榊原豊、沢島信三郎、村田精一、渡邊宗助らの諸士とともに尊攘の大義を唱え、慶応元年(1865)五月、膳所城事件に連座して獄に繋がれ、同年十月二十一日、死刑に処された。年三十。

 

高橋幸佑之墓(高橋雄太郎の墓)

 

 高橋雄太郎は天保四年(1833)、文久年間同藩の田河藤馬之丞、高橋作也らとともに尊攘の大義を唱え、藩のために大いに尽くした。この頃、膳所藩で瀬田川開鑿の計画があがったが、雄太郎は今日国家多事の際に濫りに資材を消耗すべきではいと反対して、取り止めさせた。また安芸の志士中村左馬之助が密かに後背を尋ねに来た時、勤王は藩論のみでなく、藩主の職任だと答えた。膳所城事件に連座して慶應元年(1865)五月、獄に繋がれ、同年十月二十一日、死に処された。年三十三。

 

高橋作也源正功墓

 

 高橋作也は、文政八年(1825)の生まれ。諱は正功。嘉永年間、大阪に出て篠崎小竹に学び、藩校遵義堂の教授となった。勤王の大義を唱え、川瀬太宰らの志士と交わり、藩論方向を定め、王事に鞅掌するを任となし、門下より多くの志士を出した。杉浦重剛もわずか半年の間、彼の門下で学んだが、その感化力の大であったことを追懐している。幕府の長州再征に際し、長州に走って尊攘の大義を貫徹しようと謀り、保田信六郎らと脱藩を策していたが、藩老上阪三郎右衛門の讒に遭い、慶応元年(1865)閏五月、膳所城事件に連座して獄に繋がれ、その年の十月二十一日、斬に処され、家族は追放された。年四十一。

 

渡邊宗助源緝墓

 

 渡邊宗助(そうすけ)は、天保八年(1837)の生まれ。父は家業を継がそうと京都の秋吉雲渓に医を学ばせたが、宗助は医を好まず、三年で帰郷し、高橋作也に漢学を学んだ。榊原豊、沢島信三郎、村田精一らとともに尊攘の大義を唱え、慶応元年(1865)、膳所城事件に連座して、同年十月二十一日、死刑に処された。年二十九。

 

(清徳院)

 

清徳院

 

 京阪石山坂本線膳所本町駅を下車すると、目の前に清徳院がある。この墓地で、膳所にて製茶業を営んだ念仏重兵衛こと太田重兵衛の墓を探したが、見つけられず。太田家の墓石は複数あったが、いずれも見るからに新しいものであった。

 

 念仏重兵衛は、文政元年(1818)の生まれ。膳所藩士の家に生まれ、代々念仏重兵衛と称したが、五代目に至り、宇治茶を膳所に移植し、村民が厄介山と称した荒れ地に良茶の栽培を試み成功した。嘉永六年(1853)のペリー来航に際し、林大学頭に従って応接の任に当たった膳所藩儒関藍梁は、西洋のコーヒーに代わる飲み物を求められて重兵衛の製茶を供し、大いに賞された。さらに城南に茶園一三歩を開いた。岩倉具視はこれに念仏園の名を与えた。明治二年(1869)、年五十二で没。

 

 実は榊原豊の墓を探して、膳所を数回歩いているが、未だに出会うことできないでいる。手元の「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)によれば、榊原豊の墓は、膳所中庄一丁目となっている。別の書籍では膳所雀ヶ丘とされている。当該地域の共同墓地を歩いているが発見できていない。今後の課題である。

 榊原豊は、天保八年(1837)の生まれ。膳所藩を代表する勤王家である。文久年間、中小姓に班し、山目付を兼ねた。文久三年(1863)五月、同志と攘夷決行を藩主に献策して容れられなかったので、俗論派の家老村松猪右衛門を狙撃して果たせず、永禁獄継いで自宅に幽閉された。元治元年(1864)九月、同志沢島信三郎、村田精一らとともに脱藩して、因備の諸藩を遊説し、長州に入って藩主に建言するところがあったが、ここで同志と別れ、三条実美らに従って太宰府に赴いた。慶應三年(1867)十二月、三条実美に従って上京し、翌慶應四年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いに参加し、三月帰藩。十人扶持を与えられ、鎗奉行に班せられた。ついで戊辰戦争に参加し、仙台追討使使番、軍監を兼ね、明治二年(1869)正月、帰藩。公議人を仰せ付けられ、同年十月、膳所藩権大参事となり、藩政改革に当り、明治四年(1871)十一月、大津県参事、明治六年(1873)辞官して駅逓局に出仕したが、いくばくもなく野に下った。明治二十五年(1892)、県会議員となった。明治三十三年(1900)、年六十四で没。

 

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三井寺 Ⅵ

2023年01月14日 | 滋賀県

(琵琶湖疎水つづき)

 

疎水亭

 

 北国橋交差点に面した料亭疎水亭がある。明治二十三年(1880)四月九日に明治天皇が滞在したことを記念して、疎水亭の向かいの疎水沿いに明治天皇聖蹟碑が建てられている。

 

明治天皇聖蹟

 

第一トンネル

 

 疎水亭の前の疎水を上流に遡ると、第一トンネルがあり、その上部に伊藤博文の書により「気象萬千」と刻まれている。「様々に変化する風光は素晴らしい」という意味である。

 

「気象萬千」

 

 疎水に設けられたトンネルには、ほかに山県有朋、井上馨、松方正義の書が掲げられている。時間があれば、ゆっくり回ってみたい。

 

(三井寺 観音堂)

 

三井寺観音堂

 

 琵琶湖疎水に沿って進んで、行き当たりを右折すると巨刹三井寺(別名園城寺)の仁王門、金堂に行き着く。が、私の目的地は三井寺観音堂方面にあったので、ここを左折しなくてはならない。

 

 息を切らして階段を上り詰めると、観音堂の境内である。更に観音堂の左脇の道を昇ると高台になっており、三井寺から大津市内、琵琶湖までを見下ろすことができる。明治天皇玉座の石碑が残っているが、明治二十四年(1891)ロシアのニコライ皇太子もここで眺望を楽しんだことであろう。

 

観月舞台

 

明治天皇玉座之所

 

 明治十一年(1878)十月二十日、明治天皇が当地に滞在したことを記念したもの。同日、明治天皇は、背後の西南戦争記念碑も視察している。

 

松浦武四郎なべ塚

 

 鍋を携帯して旅を続けた松浦武四郎が、鍋に感謝をこめて建てたのが、この鍋塚碑である。

 

三井寺金堂

 

籠手田君頌徳之碑

 

 三井寺金堂(国宝)の前に明治の滋賀県の発展に尽くした籠手田安定の顕彰碑が建てられている。

 籠手田安定は、天保十一年(1840)の生まれ。平戸藩士。文武二道ことに剣道に優れ、文久元年(1861)、藩主松浦詮に抜擢されて近習として仕え、慶応三年(1867)末の変革に際して、主命を受けて上洛し、京阪の間を往来して動向を偵察した。慶應四年(1868)七月、大津県判事試補に任じて以降、十月徴士、大津県判事、明治二年(1869)八月、大津県参事に任じられ、明治八年(1875)、滋賀県参事に任じ、同年四月には同権令となり、明治十一年(1878)、同県令に進み、この間地租改正、小学校創立等を管掌した。その後は元老院議官、済寧館御用掛、島根県知事、新潟県知事、滋賀県知事を歴任し、明治三十年(1897)、退官して貴族院議員となった。旧平戸藩士中華族に列された唯一の人物であった。明治三十二年(1899)、年六十で没。

 

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大津 Ⅴ

2023年01月14日 | 滋賀県

(滋賀県庁)

 

滋賀県庁舎本館

 

松田道之顕彰碑

 

 松田道之は、天保十年(1839)生まれの鳥取藩士。安政二年(1855)、十七歳のとき豊後日田に行き、広瀬淡窓に学んだ。安政五年(1858)、帰国後、藩の家老鵜殿大隅の家宰松田市太夫の養嗣子となった。文久二年(1862)、父とともに藩主・家老に従い上京。文久三年(1863)、藩の周旋方として活動した。ことに因幡藩二十士による本圀寺重臣暗殺事件、大和五条や但馬生野の挙兵などに関与して、密かに支援あるいは庇護をした。元治元年(1864)、長州萩に行きその軽挙を戒め、同年六月、鳥取帰国の時は京都への藩兵派遣を要請したが、禁門の変では長州側への加担が実現しなかった。慶應元年(1865)五月、周旋方を辞任したが、慶応二年(1866)のいわゆる二十士の脱走の際には金策に助力した。慶應四年(1868)正月、山陰道鎮撫使西園寺公望の迎接を命じられ、藩主池田慶徳の隠退問題で種々奔走し、同年四月、慶徳の再勤実現を見た。同月貢士に取り立てられ、閏四月徴士内国事務局権判事となり、以後新政府において京都府判事、大津県令、内務大丞、東京府知事等を歴任。明治三年(1870)には足立正声らとともに一時鳥取藩預り、謹慎を命じられたこともあった。明治十五年(1882)、病を得て四十四歳にて没。滋賀県庁前の顕彰碑は、彼の死の直後、当時の滋賀県令籠手田安定の撰文により建てられたものである。大津県令として在任五年に及んだことなどが記されている。

 

明治天皇聖蹟

 

 滋賀県庁舎本館の正面東側に明治天皇聖蹟碑が建てられている。明治二十三年(1890)、四月九日、滞在。

 昭和十四年(1939)、庁舎改築に際し、御座所は、本館五階に原型のまま移築され、記念室となった。今も会議室として利用されているという。

 

(大津別院)

 

大津別院

 

明治天皇大津別院行在所

 

明治天皇聖蹟

 

 大津別院の門前に「明治天皇大津別院行在所碑」が立ち、本堂の前には明治天皇聖蹟碑(有馬良橘筆)がある。明治十三年(1880)七月十三日滞在。

 

(大津市立中央小学校)

 大津市立中央小学校の敷地内に明治天皇聖蹟碑が建つ。題字は総理大臣清浦圭吾。明治十一年(1878)十月十三日から十五日まで二泊している。

 

大津市立中央小学校

 

明治天皇聖蹟

 

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大谷

2023年01月06日 | 滋賀県

(月信寺)

 京阪京津線の太谷駅から京都側に四百メートルほど戻ると国道沿いに月心寺がある。当地は有名な走井茶屋の跡で、豊かな湧水で知られる「走井の井戸」がある。門は固く閉ざされており境内に入ることはできなかった。明治天皇駐蹕之處碑を塀越しに腕を伸ばして撮影した。

 

月心寺

 

明治天皇駐蹕之處

 

(逢坂山トンネル)

 全国四十七都道府県で唯一県庁所在地が隣接しているのが、京都市と大津市である。両市が市境を接しているのが、逢坂の関である。

 逢坂の関は、奈良時代から物資の集散する京都への玄関口として繁栄した。特に逢坂峠は、交通の要衝として重視された。逢坂峠から大津宿周辺は街道一の繁栄を極めた。

 

逢坂山關址

 

逢坂常夜燈

逢坂山とんねる跡

 

旧逢坂山隧道東口

 

 逢坂山隧道は、日本人技術者の手で設計、施工され、山を貫く我が国初の本格的トンネルであった。全長六六四・八メートル。東海道線の路線変更によりトンネルは四〇年余りで使われなくなった。西口は名神高速道路の建設工事により埋没し、「旧東海道線 逢坂山とんねる跡」碑が建てられているのみである。

 

「樂成頼功」

 

 東口側は往時の姿を留めている。花崗岩を組み合わせた坑門の上部には「樂成頼功」の四文字が刻まれている。書は太政大臣三条実美。「落成」は落盤に通じるとして「樂」の字を用いた。

 

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甲賀 Ⅱ

2020年02月22日 | 滋賀県

(水口宿)

 

水口宿本陣跡

 

明治天皇聖蹟

 

 水口は、城下町として発展したが、交通体系の整備に取り掛かった幕府は、東海道を整備してその要所の町や集落を宿駅に指定した。直轄地であった水口もこの時宿駅に指定され、東海道五十番目の宿場町として、明治初年まで賑わった。

 水口宿は、甲賀郡内の三宿中、最大規模を誇り、天保十四年(1843)の記録によれば、戸数六九二(うち旅籠四一)を数えた。旧街道を歩くと、今も往時の雰囲気を味わうことができる。

 

(常明寺)

 常明寺墓地に、森鴎外の祖父森白仙の供養塔が建てられている。

 森白仙は、津和野藩主の参勤交代に従って江戸にでたが、帰国の際に発病し、遅れて国もとへ戻る途中、土山にて病死した。万延元年(1860)十一月七日のことであった。亡骸は常明寺の墓地に葬られた。

 

常明寺

 

 森鴎外は、小倉在勤中の明治三十三年(1900)、軍医部長会議に出席するために上京の途中、土山に立ち寄り、常明寺で荒れ果てた祖父の墓を探し出し、時の住職に願って墓を境内に修した。その後、祖母きよが明治三十九年(1906)に、母ミネが大正五年(1916)に亡くなると、遺言により常明寺に葬られた。昭和二十八年(1948)、三人の墓は津和野の永明寺に移されたが、昭和六十三年(1988)に鴎外の子孫の手により常明寺に供養塔が建立された。

 

森白仙供養塔

 

(土山宿)

 土山は宿場町であると同時に幕府直轄地であり、勘定奉行配下の代官が陣屋を置いて統治していた。陣屋は、天和三年(1683)、当時の代官鵜飼次郎兵衛の時に建造された。その後、代官は多羅尾氏、岩出氏、そして天明二年(1782)には再び多羅尾氏に引き継がれた。寛政十二年(1800)の土山宿の大火災で屋敷は全焼し、以後再建されることはなかった。以来、陣屋は信楽に移って多羅尾氏の子孫が世襲して維新を迎えた。

 

土山陣屋跡

 

大黒屋本陣跡 土山宿問屋場跡

 

 土山宿の本陣は土山氏と豪商大黒屋(立岡氏)の両家が務めていた。土山本陣だけでは宿泊者を収容しきれなくなり、豪商大黒屋立岡氏に控本陣が指定された。大黒屋本陣の設立年代についてははっきりと分からないらしいが、もともと旅籠屋として繁盛していたようである。古地図によれば、大黒屋本陣は、土山本陣と同じように門玄関、大広間、上段間などをはじめ多数の部屋を備えた壮大な屋敷であった。

 

明治天皇聖蹟

 

土山宿本陣跡

 

 土山家本陣は、三代将軍家光が上洛する際、寛永十一年(1634)に設けられた。

 明治元年(1686)九月の明治天皇の行幸の際には、この本陣で満十六歳の誕生日を迎えられたため、ここで天長節が祝われた。土山宿の住民に神酒と鯣(するめ)が下賜された。

 幕末期に参勤交代が中止され、明治三年(1870)に本陣制度が廃止されたため、土山家本陣は十代目喜左衛門の時にその役割を終えた。

 

旅籠平野屋

 

 平野屋は、明治三十三年(1900)、森鴎外が祖父白仙の墓参のために宿泊した旅籠である。

 

森白仙終焉の地 井筒屋

 

 文久元年(1861)十一月、鴎外の祖父森白仙は井筒屋にて病死した。白仙は江戸、長崎で漢学、蘭医学を修めた医師であった。

 なお、森鴎外が明治三十三年(1900)に土山を訪れた時、既に井筒屋は廃業していた。

 

東海道伝馬館

 

 東海道伝馬館は、江戸時代の街道や宿場、宿駅伝馬制を論考する展示のほか、東海道土山宿の観光案内も手掛ける施設として、平成十三年(2001)にオープンした。私が訪れた年末は休館。門前に文豪森鴎外の土山来訪を記念した石碑がある。

 

文豪森鴎外来訪の地

 

(多羅尾代官屋敷跡)

 土山からたぬきの置物で有名な信楽の「陶芸の里」を抜けて、三重県、京都府との境に近い辺境にあるのが多羅尾である。かつてここは京都から伊賀へ抜ける「京街道」など主要道が通る要衝の地であった。

 多羅尾氏は、甲賀の武士で、本能寺の変の直後の「神君伊賀越え」の際、家康を警護した功績から、徳川幕府成立後に信楽四千石を与えられた。それから明治維新に至るまで信楽代官を十代にわたって務めた。

 

多羅尾代官屋敷跡

 

 陣屋跡は、私有地となっており、春と秋の年に二回に限り公開されているそうだが、無論私が訪れたときは立入禁止で、外から様子を伺うしかなかった。

 私事であるが、中学生の同級生に多羅尾君という姓の男がいて、「どうも彼は忍者の子孫らしい」という噂もあったが、彼自身が否定も肯定もしなかったものだから、今もって真実は不明である。

 この日は、湖南や草津の史跡も見て回ろうという欲張りな計画を立てていたが、雨は降りやまないし、カメラは忘れてしまったし、ここまで南下したら草津まで北上するのは億劫だし、ラジオの交通情報によれば草津インターは渋滞しているというし、すっかりくじけてしまった私は、国道307号線経由で宇治に抜けて、久御山に立ち寄ってそのまま京都に戻ってしまった。いつになく早く実家に戻ることになった。

 母が夕食の仕度をしていると、電話が入った。入院中の叔父(母の長兄)が逝去したという。九十四歳の大往生であった。直ぐに、母の実家に弔問に行くことになった。結果的には、史跡訪問を早く切り上げて正解であった。

 

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