(清涼寺つづき)
貫名徹 同道 之墓(貫名筑後の墓)
長野主膳の墓の近くに貫名筑後の墓がある。
貫名(ぬきな)筑後は、天保二年(1831)の生まれ。墓石には、「徹」という筑後の通称が刻まれている。父は井伊直中の六男で、その子筑後は貫名家を再興した。井伊直弼の死後、幼君直憲を助けて、筑後、新屋左馬助、河手主水らの井伊一族は藩政の前面に立つことになった。筑後は文久以来の各作戦の将となり、とくに慶應四年(1868)の鳥羽伏見の戦いでは、諸藩に先駆けて幕軍に大砲を打ち込み、日和見諸藩の官軍化を決定的にした。明治以降は、彦根藩軍務局一等知軍事、権大参事として直憲を助けた。明治三十五年(1902)、年七十二で没。
(龍潭寺つづき)
招魂碑
龍潭寺再訪を機に招魂碑の裏側を確認したところ、戊辰戦役に出征して戦死した彦根藩士の氏名や戦没地がぎっしりと刻まれていた。つまりこの招魂碑は、戊辰戦争における彦根藩士のためのものである。
従五位木俣幹墓
木俣幹は天保十三年(1842)の生まれ。諱は守盟。長兄に木俣清左衛門(守彜)がいる。文久二年(1862)守彜が失脚したため、家督を継いだ。元治元年(1864)の禁門の変や水戸天狗党の討伐に出陣。慶応二年(1866)六月、第二次長州征討では幕府軍の芸州口先鋒となった彦根藩兵を率いて敗れた。明治二年(1869)彦根藩権大参事。明治三十六年(1903)彦根の自宅にて死去。享年六十二。
大久保章男君墓碑(大久保小膳の墓)
大久保小膳(こぜん)は文政四年(1821)の生まれ。十六歳で小姓に召され、長じて井伊直弼の側役、兼ねて愛麿(のちの直憲)の師傳となった。万延元年(1860)、桜田門外の変の即夜、彦根急使となり、八日彦根に着き、さらに重臣会議の結果を持って江戸に復命した。文久二年(1862)、藩から直弼時代の極秘文書の処分を命じられたが、偽ってこれを秘匿、明治十九年(1886)に至り、井伊家に返却した。井伊家文書が今日に伝わる所以である。井伊家は、直弼勉学所埋木舎を彼に贈り、その誠忠に報いた。明治三十六年(1903)、年八十三で没。
(磨針峠)
舊中山道 磨針峠望湖堂 弘法大師縁の地
明治十一年(1878)十月二十二日、高宮を発った明治天皇は、鳥居本から中山道を進み、磨針(すりはり)峠へ向かう山道に入った。その昔、諸国を修業中の青年僧が挫折しそうになってこの峠を通りかかると、斧を石で摺って針にしようと励む老婆の姿に接して発心し、のちに弘法大師となったという伝説の残る峠である。国道8号線から旧中山道へ入る交差点に「磨針峠望湖堂」と記された石碑があり、そこから凡そ一キロメートルほど進むと、望湖堂跡に達する。題字は、井伊直弼の曽孫井伊直愛(なおよし)彦根市長。
望湖堂跡
江戸時代、磨針峠に望湖堂という大きな茶屋が設けられていた。峠を行き交う旅人は、ここで絶景を楽しみながら名物「するはり餅」に舌鼓を打った。参勤交代の大名や朝鮮通信使の使節、また文久元年(1861)には江戸に向かう和宮も当初に立ち寄っている。茶屋とは言いながら、建物は本陣構えで「御小休御本陣」と自称するほどであった。その繁栄ぶりに、近接する鳥居本宿と番場宿の本陣が、寛政七年(1795)、奉行宛てに連署で、望湖堂に本陣まがいの営業を慎むように訴えている。
望湖堂は、往時の姿をよく留め、参勤交代や朝鮮通信使関係の史料などを多数保管していたが、火災で焼失した。
明治天皇磨針峠御小休所
明治天皇は、峠を上り切った望湖堂で休息し、琵琶湖の風景を楽しんだ。
(円照寺)
高宮町の円照寺の門前に明治天皇行在聖蹟碑が建つ。題字は、一戸兵衛。明治十一年(1878)十月十一日と二十一日に滞在している。
円照寺
明治天皇行在聖跡
止鑾松
円照寺境内には止鑾松(しらんのまつ)がある。「鑾」とは天皇の乗り物のことを指す。明治天皇の滞在に際し、乗り物を止めて松をご覧になったことから命名された。当時の松の巨木は、近年失われ、現在の松は二代目である。
(高宮本陣)
円照寺のちょうど向かいが高宮本陣跡である。高宮宿には本陣が一軒あり、門構え、玄関付きで、間口約十五間、建坪約百二十三坪を誇った。現在は表門のみが残されている。
高宮本陣表門
文久元年(1861)十月二十三日、皇女和宮もここで小休をとっている。