(松之浜)
松之浜町の閑静な住宅街の中に、旧膳所城勢田口門が移設されている…というので足を運んでみた。現場は工事中で、既に旧膳所城勢田口門は撤去された後であった。やはり古い建築物を保存し続けることは大変な労力がかかるのである。
旧膳所城勢田口門
跡地には辛うじて移設された旧膳所城勢田口門の説明板が残されているが、残念ながら文字がほとんど読み取れない。
(松之浜)
松之浜町の閑静な住宅街の中に、旧膳所城勢田口門が移設されている…というので足を運んでみた。現場は工事中で、既に旧膳所城勢田口門は撤去された後であった。やはり古い建築物を保存し続けることは大変な労力がかかるのである。
旧膳所城勢田口門
跡地には辛うじて移設された旧膳所城勢田口門の説明板が残されているが、残念ながら文字がほとんど読み取れない。
(貝塚養護老人ホーム)
橋本正高戦歿之地
貝塚養護老人ホームの敷地の北西に橋本正高戦歿之地碑が建てられている。同じ敷地に明治天皇の駐輦記念碑と御製碑もある。ただし、老人ホームの建物は、窓ガラスが割れたまま放置されており、現在空家になっているように見える。
橋本正高は、橋本出身の豪族で、南北朝時代楠正成に従って勢力を拡大した。しかし、足利義満軍の反撃を受け、天授六年(1380)、高名里(現在の海塚付近)にて戦死したといわれる。この石碑は大正十五年(1926)に建てられ、昭和三十年(1955)に現在地に移された。
駐輦記念碑
駐輦記念碑は、小松宮彰仁親王の書。この場所は、明治三十一年(1898)十一月十五日、明治天皇による大演習御統監の地である。
明治天皇御製碑
明治四十一年(1908)の御製。
むちうたば紅葉の枝にふれぬべし
駒をひかへむ岡ごゑの道
(土生中学校)
ハノイに赴任して一年が過ぎ、初めて一時帰国させていただくことになった。ハノイから夜行便で関西国際空港に飛び、京都の実家に向かったが、その前に東岸和田でレンタカーを借りて泉南の史跡を回ることにした。久しぶりに自動車を運転したが、カラダが覚えているものである。右ハンドルにも直ぐに適応できた。最初の訪問地は、岸和田市土生中学校近くの駐輦記念碑である。
駐輦記念碑
土生中学校の東南の敷地に駐輦記念碑が建てられている。書は、元帥陸軍大将小松宮彰仁親王。明治三十一年(1898)十一月十五日、明治天皇による大演習統監の地である。
(楠の木公園)
史蹟櫻井驛阯(楠正成傳説地)
JR京都線島本駅の目の前に楠の木公園がある。楠正成が延元元年(1336)、足利尊氏の大軍を迎え撃つため京都を発ち、桜井の地で子正行と別れた。「桜井の別れ」は「太平記」の名場面の一つである。
忠義貫乾坤碑
(ちゅうぎけんこんをつらぬくのひ)
忠義貫乾坤碑は、明治二十七年(1894)五月、島本村内と一部近郊の有志約一五〇名によって建てられた。当時は「楠公訣児之處」碑と並んで、玉垣の中にあったが、昭和十四年(1939)、桜井駅跡の拡張工事に伴い、現在地に移された。
楠公父子訣別之所
楠公父子訣別之所(なんこうふしけつじのところ)碑は、楠正成を顕彰した碑で、明治九年(1876)十一月に建立された。題字は、当時の大阪権知事渡辺昇。この碑の特徴は、裏面に英国公使ハリー・パークスの名前が英文で刻まれている点にある。パークスが楠正成に思い入れがあったとは思えないのだが、彼がこの石碑に名前を寄せた経緯や背景を知りたいものである。
A TRIBUTE BY A FOREIGNER
TO THE LOYALTY OF
“The Faithful Retainer”
KUSUNOKI MASASHIGE
Who parted from his Son
MASATSURA
At this Spot. Before the Battle of the MINATOGAWA,A.D.1336
HARRY S.PARKES
British Minister to Japan
November,1876
そのまま訳すと以下のとおり。
「西暦1336年 湊川の戦いに赴くに際し、この地で子正行と別れた「忠臣」楠正成の忠義を一外国人としてたたえるものである 駐日英国公使 ハリー・S・パークス 1876年11月」
明治天皇御製
公園の中心部に聳え立つ明治天皇御製碑は、昭和六年(1931)に建てられた大碑で、書は伯爵東郷平八郎。
子わかれの 松のしずくに 袖ぬれて
昔をしのぶ さくらゐのさと
明治天皇が明治三十一年(1898)十一月、三島地区での陸軍大演習に行幸した折に詠まれたもの。石碑裏面には子爵小笠原長生の書で「七正報告」、下部には頼山陽の漢詩「頼山陽翁過桜井驛詩」が刻まれる(第四師団長林弥三吉の書)。頼山陽が文政八年(1825)に来遊したときの作である。
楠公訣児之處
楠公訣児之處碑は大正二年(1912)七月に建碑。題字は陸軍大将乃木希典。裏面には、枢密院顧問官細川潤次郎の撰文による碑文が刻まれている。当時は三方を濠で囲み、入口には橋を架け、盛土の上に建てられてた。
楠公父子別れの石像「滅私奉公」
台座の「滅私奉公」の文字は、公爵近衛文麿の書。昭和十五年(1940)、新京阪電鉄(現・阪急電車)桜井の驛前に青葉公園が建設され、駅前に子別れの銅像が設置された。この銅像は戦時中の金属供出により失われ、代わってコンクリート像が作られた。現在の像は、平成十六年(2004)に有志により寄贈されたものである。
この日は、御昼に京都市内で父の卒寿のお祝いがあったので、時間がなかった。次の電車が来るまでの十五分で楠の木公園を一周して、飛ぶようにして島本駅のホームに戻った。
(西面共同墓地)
「日本の戦死塚」(室井康成著 角川ソフィア文庫)の巻末の「戦死塚一覧」に、鳥羽伏見の戦いで戦死した旧幕府将兵を葬った「二人塚」があるという。かつて学生時代の四年間、高槻(最寄駅は摂津富田駅)に住んでいたが、近くにこのような史跡があったとは気が付かなかった。
二人塚?
摂津富田駅の近くでレンタサイクルを調達し、自転車で約二十分で高槻市西面共同墓地に行き着く。正直にいって、この写真の石碑が二人塚かどうか、確信は持てない。墓地内を二~三周歩き回ったが、それらしいものを発見できなかった。せめて説明札でも建てておいてもらえると助かるのだが…。
(滝川小学校)
元和二年(1616)、徳川家康が没すると、第二代将軍秀忠は、家康を東照大権現という神様として祀り、各地に東照宮という神社を建てることを命じた。大阪では、翌年、現在滝川小学校のあるこの土地に、当時の大阪城主であった松平忠明らによって東照宮が建立された。一説には、豊臣氏を慕う大阪の人々の想いを薄れさせるために建てられたともいわれている。
一般の町人は、日頃は東照宮の境内に入ることは許されなかったが、毎年家康の命日である四月十七日を中心に五日間にわたって行われた権現祭のときは特別に御参りすることができた。大塩の乱で焼失復興したが、戊辰戦争のときは長州藩の本営になった。明治六年(1873)に川崎東照宮は廃された。
川崎東照宮
(造幣局宿舎)
与力役宅門
造幣局宿舎内には、大塩平八郎が開いた家塾洗心洞跡や与力役宅門がある。ただし、関係者以外立入禁止となっている。鍵は開いていたが、以前、造幣局内に立ち入った際に閉じ込められた苦い思い出があるので、今回は慎重を期した。与力役宅門は、扉越しに撮影は可能である。
与力役宅門は、江戸時代の大坂東町奉行配下の天満与力の中嶋家の役宅門である。往時この付近一帯は天満与力の役宅が軒を並べていたが、現在はこの建物が唯一現存している。
(大浜公園)
大浜公園
大浜公園は明治十二年(1879)の開園。明治三十六年(1903)には大阪で開かれた内国勧業博覧会の会場となり、東洋一と称された水族館が開設された。
大浜公園の隣接地には、明治二十九年(1896)、大阪窯業株式会社の堺分工場が建設され、大量の煉瓦が製造された。
大阪窯業煉瓦発祥之跡
明治天皇御駐蹕之跡
明治天皇御駐蹕之跡は、明治三十六年(1903)五月五日、第五回内国勧業博覧会に際し、当地に設けられた水族館を天皇が視察し、その翌日には皇后が視察したことを記念したものである。傍らには「明治天皇 昭憲皇太后 幸啓之所碑」がある。
(府営堺戎島住宅)
明治天皇御駐蹕之跡
府営堺戎島住宅の東南の一画に明治天皇御注駐蹕之跡碑が建てられている。薩摩藩では慶應三年(1867)に洋式紡績工場を開業していたが、二番目の工場を交通の要衝である堺に土地を買い求め、工場を開いた。明治十年(1877)二月十三日、明治天皇がその工場を視察したことを記念したものである。
(熊野小学校)
玉座
堺市立熊野(ゆや)小学校は堺市内でも最も古い小学校の一つである。正門を入って右手に明治天皇の玉座を保存した建物が置かれており、その前に御製碑と駐蹕碑が建てられている。大正十一年(1922)、玉座を保存する聖蹟顕彰事業が始められ、学校の創立五十周年を記念して玉座が修繕保存されるとともに、御製碑が設けられた。
明治十年(1877)、二月十三日に視察し、授業を天覧されたことを記念したものである。
明治天皇駐蹕之址
明治天皇御製碑
御製
時はかるうつはは前にありながら
たゆみがちなり人のこころは
(寺地町)
明治天皇行在所舊蹟
阪堺電車の寺地町駅近くの中央分離帯に明治天皇行在所旧跡碑が建てられている。この石碑は戦災により破壊されたが、戦後繋ぎ合わせて再建されたものである。明治天皇の当地への滞在は、明治十年(1877)二月十三日のことである。
(帝塚山古墳)
帝塚山といえば、大阪というより関西を代表する高級住宅街として知られている。その名前の由来となったのが、帝塚山古墳である。四世紀末から五世紀初めの造営と推定され、前方後円墳の原型をとどめている。
厳重に施錠されているため中に入ることができない。精一杯300ミリ望遠レンズを駆使して墳丘上に立つ天皇駐輦碑を撮影した。
帝塚山古墳
天皇駐輦碑
明治十一年(1878)十一月、明治天皇が帝塚山の墳丘上(高さ19メートル)に上って、陸軍の大演習を統監したことを記念したものである。
(帝塚山西二丁目)
明治天皇聖躅
帝塚山古墳からさほど離れていない住宅街の中に明治天皇聖躅碑が建てられている。
(大阪市立大学)
大阪市立大学
私は共通一次試験一期生である。共通一次試験は、共通テストとかセンター試験など名称を変えながら今日まで存続しているが、制度の本質は変わっていないだろう。テストのデキをみて受験する大学を選べるという意味では受験生にもメリットのある制度である。
私は大阪市立大学を第二希望としていたが、結果的には受験することはなかった。実は今回初めて現地に足を運ぶことになった。
五代友厚像
平成二十八年(2016)、大阪市立大学の構内に五代友厚像がお目見えした。
五代友厚は天保七年(1836)、鹿児島の生まれ。長崎海軍伝習所にて航海術・砲術などを学び、文久二年(1862)には上海に渡って蒸気船の買い入れ調査を行った。二十九歳のとき、森有礼ら十五名の留学生を率いて欧州へ渡り、現地で産業、学校、病院などの視察を行い、時代を拓く若い人材の育成に努めた。明治元年(1868)、明治政府の外国事務局判事として初めて大阪に赴任し、初代大阪税関長に就任した。大阪港の修築により外国貿易の基盤を整備した。また、造幣局の設置にも尽力し、我が国通貨制度の発展にも貢献した。翌年、民間に転じた五代は、鉱山開発や紡績業など数々の新しい産業を興した。大阪商工会議所を設立して初代会頭となり、大阪取引所を開くなど、大阪実業界の父と称えられる。明治十三年(1880)には大阪市立大学の前身、大阪商業講習所の筆頭創立員に名を連ね、その開設に尽力した。大阪商業講習所は、明治十七年(1885)に大阪府立商業学校となり、明治二十一年(1889)の大阪市発足に伴い市立大阪商業学校へと発展した。その後、明治三十四年(1901)に大阪高等商業学校、昭和三年(1928)には大阪商科大学に昇格した。昭和二十四年(1949)には大阪商科大学、大阪市立都島工業専門学校、大阪市立女子専門学校の統合により大阪市立大学が発足した。
大阪経済発展の礎を築いた五代は、明治十七年(1885)、病により他界した。四十九歳であった。生誕百八十年を記念して構内にこの像が建てられた。書を片手に遠く海外に視線を向ける五代の姿は、大阪市立大学に相応しいものといえるだろう。
(住吉大社)
住吉大社
住吉大社は全国二千三百社あるといわれる住吉神社の総本社である。神功皇后が西暦211年に新羅遠征に際して住吉大神の加護をもって無事平定を果たしたことをもって、凱旋の際に当地に住吉大神を鎮斎したが起源と伝えられ、非常に古い歴史を持つ神社である。境内でひときわ目を引くのが所狭しと並ぶ石灯篭(常夜灯)である。住吉大神は海から現れたとされることから、海の神様として古来信仰が厚く、海運業者や廻船業者からの寄進が多い。
住吉大社 神館
住吉大社の四つある本宮に隣接しているのが神館である。大正天皇の御座所だった建物で、今は結婚式場などとして活用されている。大きな木製の扉が堅く閉じられ、近づくことはできない。扉の下のわずかな隙間にカメラをこじ入れて撮影。
明治天皇が住吉大社を参拝したのは、慶応四年(1868)三月二十日と明治十年(1877)二月十四日の二回。慶應四年(1868)の行幸は明治天皇が初めて洛外に行幸したもので、大久保利通の発案だったといわれる。この時の大阪滞在は五十日に及んだ。
明治天皇聖躅
(住吉行宮址)
住吉行宮跡は、住吉神社の旧祀官津守氏の居館跡で、そのうち正印殿の一部があった場所である。南北朝時代の後村上天皇は、津守國夏の館を御座所と定め、ここに滞在し、崩御された。
慶應四年(1868)四月二十日、明治天皇が当地を訪れ小休をとっている。
住吉行宮正印殿阯
明治天皇聖躅