史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

藤井寺 Ⅱ

2020年11月14日 | 大阪府

(道明寺天満宮)

 

大阪夏の陣 道明寺合戦記念碑

 

 道明寺といえば、慶長二十年(1615)の大阪夏の陣で、豊臣方と徳川方が激突した道明寺の合戦が有名である。この戦闘で、豊臣方は後藤又兵衛や薄田隼人(兼相)を失った。駅前に道明寺合戦記念碑が建てられている。

 

道明寺天満宮

 

明治天皇行在所

 

 道明寺天満宮の境内にある天寿殿(結婚式場と思われる)の前に明治天皇行在所碑が建てられている。行在所の建物も保存されている。明治天皇は、明治十年(1877)二月十二日から翌日まで滞在した。

 

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羽曳野 Ⅱ

2020年11月14日 | 大阪府

(吉村家住宅)

 最寄駅は高鷲駅である。駅から七百メートルの住宅街の中に吉村家住宅がある。吉村家は、天正十九年(1591)には島泉の筆頭、政所と呼ばれており、享保十四年(1729)以降は近在十八ヶ村の大庄屋を務めた名家である。一般公開されていないので、中を覗くことはできないが、重厚な表門(長屋門)がその歴史を物語っている。

 

 吉村家住宅の向かいに明治天皇御小憩所旧跡碑が建てられている。明治十年(1877)二月十二日に滞在したことを記念したものである。

 

吉村家住宅

 

明治天皇御小憩所旧跡

 

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羽曳野 古市

2020年11月14日 | 大阪府

(古市六町墓地)

 大和川の支流石川の土手に小河(おごう)一敏の顕彰碑があるということは、以前から分かっていたが、なかなかその正確な場所が分からず、探しあぐねていた。Google Mapでようやくその場所を特定することができたので、早速訪ねることにした。場所は近鉄古市駅から東に約十分歩いた共同墓地である。

 

小河一敏紀念碑

 

 小河一敏は文化十年(1813)の生まれ。岡藩士。通称は弥右衛門。角田九華に朱子学を学び、のち陽明学、仏典を渉り、国学を究め、さらに易経、国乗、兵法の三科を専らにし、弓馬、槍剣、詩歌、点茶、挿花にも免許を得た。幼時、父を失い十一歳で家督を継ぎ、二十四歳で会計元締役、家老とともに新政を布いた。天保十一年(1840)、俗論党に嫌われ蟄居を命じられた。皇室の式微を嘆き、毎月六回読書会を開いて、尊王の志気を興し、京都中山家と通じた。嘉永六年(1853)、米艦の来航を知り、ひそかに藩を出て両肥、両筑を遊説した。このとき真木和泉、平野國臣らと結んで尊王攘夷を鼓吹し、安政元年(1854)閉門。許されると、長崎より渡航しようとして失敗、謹慎処分に処された。この時点で小河は岡藩尊攘派を代表する存在になっていた。文久二年(1862)、広瀬重武と出奔、真木和泉の幽居に赴き大勢を知って帰藩した。文久三年(1863)、田近陽一郎ら十六人と上京の途上、下関にて西郷隆盛らと国事を談じ、上阪して薩邸に入り、志士とともに島津久光を盟主とし、孝明天皇の大詔渙発を請わんとしたが、有馬新七らが寺田屋に討たれ、真木和泉を捕らわれて計画は失敗した。小河一敏は免れて京摂にあり、岩倉具視、大原重徳の諸卿が天皇の内旨を奉じて一敏に問われたので、一書を献じ叡覧を賜った。久光を通じて天皇より感状を賜ったが、帰藩後、禁固に処された。許されて、同志とともに上京、帰阪してまた禁固された。明治元年(1868)、内国事務権判事などから堺県知事に任じられた。大和川の叛乱により住民が苦しむのを見かね、民部省にかけあって堤防事業を興そうとしたが容れられなかった。一敏は専断をもって断行し、その結果、明治三年(1870)、免官、謹慎に処された。一説に資金を得るために勝手に藩札を発行したためとされる。古市の顕彰碑はそのことを感謝記念したものである。その後、宮内大丞に任じられたが、嫌疑を受けて明治四年(1871)、鳥取に幽閉され、明治六年(1873)、赦されて教部省、太政官、宮内省に出仕し、明治十四年(1881)には宮内省御用掛に任じられた。明治十九年(1886)、年七十四にて没。

 

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交野

2020年02月01日 | 大阪府

(磐船神社)

 京阪私市駅から三~四キロ。歩いてたっぷり四十分はかかる。駅の近くから、天野川に沿って府民の森ほしだ園地まで遊歩道が出ているのだが、私がそれに気が付いたのは帰りのことだったので、往きは国道168号線をひたすら歩いた。途中、歩道がない場所もあり、意外と交通量も多く、歩くには不向きな道であった。からだに近い場所を猛スピードでトラックが通り過ぎるたびに身の危険を感じる。

 

磐船明神社

 

磐船神社

 

 磐船神社は、意外なほどこじんまりとした神社であった。太古の時代、淀川は枚方付近まで入江となっており、大和に入るには天野川を遡るのが至便であったとされる。古来、当社も朝廷とともに栄えたが、物部氏が蘇我氏に滅ぼされ、仏教の隆盛をまねくと、社勢の衰退を余儀なくされた。

 天誅組に参戦した勤王歌人伴林光平は大和から逃れようとして磐船山付近で捕らえられた。このとき詠んだ歌が巨大な自然石に刻まれている。

 

伴林光平歌碑

 

岩船山間近きより

 梶を無(な)み乗りて遁れん世ならねば

 岩船山も甲斐なかりけり

       水無月十一日 伴林光平

 

寄國祝

 神國は いはおとなりてうごかねば

 よせてはかへす沖の白波    光平

 

 何が書かれているのか判読するのは難しいが、社務所で質問したら活字にしたコピーをいただけた。

 磐船神社は、巨石から成る岩窟があり、「岩窟めぐり」が有名である。残念ながら、この日は前日の雨で滑りやすくなっているため「岩窟めぐり」は中止されていた。

 

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堺筋本町 Ⅱ

2019年12月21日 | 大阪府

(大阪活版所跡)

 

                       

大阪活版所跡

 

 大阪活版所は、明治三年(1870)三月、五代友厚の懇望を受け入れた本木昌造の設計によりこの地に活版所が創設された。大阪の近代印刷はここから始まり、文化の向上に大きな役割を果たした。

 

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松屋町 Ⅱ

2019年12月21日 | 大阪府

(住友銅吹所跡)

 

                       

住友銅吹所跡

 

 松屋町と長堀橋の間にかつて住友が銅製錬所を開いていた。江戸時代、我が国は世界有数の銅生産国であったが、中でも大阪は銅精錬業の中心地であり、全国から粗銅が集まり、それを精錬していた。この地にあった住友の長堀銅吹所は、寛永十三年(1636)に住友家(泉屋)が開設した当時日本最大の銅精錬所で、日本の生産量の約三分の一を精錬していた。銅吹所には住友家の店舗や住宅が隣接しており、それを含めた面積は約四千平米もあった。銅吹所は明治九年(1876)に閉鎖されたが、住宅は大正四年(1915)まで住友家本邸として、昭和二十年(1945)までは別邸として存続した。平成二年(1990)から平成四年(1992)に発掘調査が行われ、百基を越える精錬炉など銅吹所。住宅関連の諸遺構が出土している。

 

 

銅製の橋

 

 住友の慎重さについては「住友は石橋をたたいても渡らない」と揶揄されるが、石橋の代わりにたたいても割れない銅の橋を作ってしまった。

 

 

本住友家本邸内ビリヤード場

 

 明治十二年(1879)にこの場所に洋館や庭園が造られ、ビリヤード場はその東側に建てられた。文明開化期に多く見られる擬洋風洋式で、和洋が混在した建物である。独立のビリヤード場としては我が国最古のものと言われる。

 

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西大橋

2019年12月21日 | 大阪府

(間長涯天文観測の地)

 地下鉄長堀緑地線西大橋駅を降りると、中央分離帯が駐輪場となっていて、それに隣接する公園内に間長涯天文観測の地碑が建っている。

 間長涯(1756~1816)は、富田屋橋北詰めで、十一屋という質屋を営む家に生まれた。本名を間重富といい、幼い頃から富田橋の上で星を眺めていた。寛政七年(1795)、幕府の改暦にあたり高橋至時(しげとき)とともに出府し、江戸浅草天文台で中国の「暦象考成」をもとに三年で寛政暦を完成させた。その功により、幕府直参に取り立てられる話があったが、辞退して帰阪。その後、富田屋橋に英国製の観測機器を据え、好きな天文観測に没頭した。この時、橋は通行止めになったが、堀江の住民は誰も文句を言わなかったという。この石碑は昭和三十五年(1960)大阪市によって長堀川のほとりに建てられたが、長堀川の埋め立てにより現在地に移された。

 

                       

間長涯天文観測の地

 

 

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心斎橋

2019年12月21日 | 大阪府

(橋本宗吉絲漢堂跡)

 橋本宗吉は、宝暦十三年(1763)北堀江に生まれた。極貧の中でエレキテルの実験などで才能を発揮、間長涯らの目にとまり、その援助で江戸へ出て大槻玄沢に師事、蘭語を学んだ。帰坂後、医業のかたわら長涯らに天文学・医学の蘭書を翻訳、また蘭学塾絲漢堂を開いた。その弟子に中天游がおり、緒方洪庵~福沢諭吉へとその系統は続いている。天保七年(1836)没。

 

                       

橋本宗吉絲漢堂跡

 

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谷町九丁目 Ⅲ

2019年12月21日 | 大阪府

(齢延寺)

 

                     

島村洲平(寿太郎)之墓

 

 島村寿太郎、川村貞衛、安岡恒之進の墓を訪ねて、齢延寺を再訪した。

 島村寿太郎の墓は無縁墓石の中にある。

 島村寿太郎は天保三年(1832)、土佐の郷士の家に生まれた。槍術に優れ、姉富子は武市半平太の妻となった。仁侠の人で、土佐勤王党に加盟し、文久二年(1862)五十人組同士のために上田二十石を売って旅費を整えるなど、運動資金を負担した。文久三年(1863)の勤王党の獄では、慎重な態度を持して難を逃れた。慶應三年(1867)、板垣退助が水戸浪士中村勇吉をかくまい、佐幕派の讒訴で苦境に立った時、これを庇護した。慶應四年(1868)、戊辰戦争が起こると東北地方に従軍したが、のち家居して仕えず、明治六年(1873)、上京の途中、大阪で死去した。年四十二。

 

 

川村貞衛道忠

 

 川村貞衛は、藩侯の命によって住吉陣屋に詰めていた土佐藩士だが、麻疹にかかって文久二年(1862)八月九日に死亡。安岡恒之進の上司。享年四十五。

 

 

安岡恒之進正代

 

 安岡恒之進も文久二年(1862)住吉陣屋内で麻疹に罹患して大阪にて死亡。兄弟に安岡権馬、覚馬がいる。その血統から作家安岡章太郎を生んでいる。

 

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堺 Ⅲ

2019年07月13日 | 大阪府

(本願寺堺別院)

 妙国寺近くの本願寺堺別院の門前に明治天皇聖趾碑が建てられているが、その側面には「堺縣廰址」と記されている。明治四年(1871)の廃藩置県後、明治十四年(1881)までの十年間、本願寺堺別院は堺県庁の庁舎となっていた。堺県というのは、旧国名でいうと、和泉、河内、大和を併せた、かなり広範な地域であった。

 

本願寺堺別院       

 

 

明治天皇聖趾

 

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