史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

北杜 Ⅱ

2015年11月01日 | 山梨県
(熱那神社)
 大学三年生になる長女が野辺山(長野県南牧村)の天文観測所の特別公開に行きたいと言い出したため、あきる野市の病院に行って痛風の薬を処方してもらった後、その足で野辺山に向かった。夏休みの週末はいつものことであるが、この日も小仏トンネルまで渋滞が激しく、結局野辺山観測所まで三時間近くかかってしまった。長女をそこで降ろして、北杜市に引き返す。
前回北杜市を訪ねたときに探しきれなかった大芝宗十郎の顕彰碑と墓の場所を、たかね図書館で調査するのが今回の目的である。
だが、残念なことに地元の図書館であるにも関わらず、大芝宗十郎の名前すら発見することができない。「高根町史」に大芝宗十郎のことが解説されているのを見付けるのがやっとであった。そこに大芝宗十郎の顕彰碑が、村山西割1714の熱那神社(あつなじんじゃ)にあると記載されていた。早速、熱那神社を訪ねた。


熱那神社


勤皇殉難大芝宗十郎先生碑

 このあと、熱那神社に近い共同墓地で大芝宗十郎の墓を探した。田舎にはよくあることだが、墓地には大芝家の墓がいくつも存在している。その一つひとつの墓標や俗名、没年などを確認していったが、遂に宗十郎の墓を特定することはできなかった。この墓地のどこかに宗十郎が眠っているものと信じたい。

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塩山

2015年05月24日 | 山梨県
(慈雲寺)
 かつて塩山市といったが、平成十七年(2005)に勝沼町や大和村と合併して、甲州市となった。JR中央線の塩山駅で降りると、目の前に甘草屋敷がある。そこで自転車を借りて慈雲寺を目指す。
 貸自転車の係のオジサンによれば、慈雲寺まではずっと登坂らしい。電動自転車の方が良いよ(因みに普通の自転車は二百円、電動自転車は五百円)とアドバイスをいただいたが、所詮三キロメートルくらいの道のりである。わずか三百円であるが、これを惜しんで普通自転車を選んだ。さらに
「だったら少し遠回りだけど、国道411号線を経由した方が良い」
とも助言していただいたが、私はこれも無視して最短の道を行った。
 全行程の四分の一も行かないうちに、そもそも体力の無い私は、オジサンの助言に従わなかったことを後悔した。とても自転車で登れるような坂道ではなかった。ぜいぜい言いながら、自転車を押して、ようやく慈雲寺に行き着いた。
 慈雲寺は樹齢三百年というイトザクラで有名である。イトザクラの盛りは過ぎていたが、それでも多くの観光客が訪れていた。


慈雲寺

 今回、塩山の慈雲寺を訪ねたのは、真下晩菘(ましもばんすう)の顕彰碑を見るためである。
 真下晩菘は、寛政十一年(1799)、甲斐山梨郡中萩原村(現・甲州市塩山中萩原)の益田家に生まれた。維新前は専之丞と称した。江戸に出て旗本小原家に奉公。のち谷村、石和代官所の手代となり、天保七年(1836)、幕臣真下家の株を買って真下専之丞と改名した。蕃書調所調役から、文久二年(1862)には同所調役組頭となった。この時期、晩菘を頼って中萩村を駆け落ちしてきたのが、樋口則義(樋口一葉の父)である。品川台場の建設工事にも関係した。慶応二年(1866)陸軍奉行並支配、同三年(1867)老齢を理由に致仕し、横浜住吉町で私塾「融貫塾」を開いた。この頃、祐天仙之助、菱山の佐太郎らの浪士隊入りを手引きしたともいわれる。明治八年(1875)十月、七十七歳で没。門下に沼間守一、矢野次郎、上野忠三、志村源太郎、荒川義太郎、村野常右衛門、蒲生重章、石坂昌孝らがいる。
 慈雲寺の顕彰碑は、大正三年(1914)、晩菘の先祖の墓のある慈雲寺を選んで建立されたものである。撰文は松平康國、篆額は徳川家達。


真下晩菘 (甘草屋敷所蔵)


真下晩菘先生碑


慈雲寺にて

 慈雲寺は、樋口一葉ゆかりの寺でもある。一葉の父、則義は中萩原村の出身であるが、青年期には慈雲寺の寺子屋で白巌和尚に学んだという。


一葉女史之碑

 この碑は大正十一年(1922)、樋口一葉女史の文才を偲んで建立されたもので、題額は杉浦重剛による。

 慈雲寺から塩山駅まで戻る道は、自転車をこぐ必要もなく、快適そのもの。あっという間でに駅に着いた。

(甘草屋敷)


甘草屋敷(旧高野家)

 幕府の命を受けて、漢方薬の原料である甘草を栽培したことから、甘草(かんぞう)屋敷と呼ばれる。高野家はこの地で長百姓(おさびゃくしょう)を務めた家柄で、主屋のほか、巽蔵や文庫蔵を備えた大邸宅である。


武田信玄像

 塩山駅前に鎮座する武田信玄像である。

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甲府 Ⅲ

2015年05月24日 | 山梨県
(遊亀公園)
 せっかく晴れた日曜日だというのに嫁さんに自動車を取られてしまった。そこで電車で山梨方面に出かけることにした。最初の下車駅は甲府である。駅を降りて直ぐにバスに乗って遊亀公園に向かう。


初代駅逓正 杉浦譲顕彰碑

 遊亀公園は、大正八年(1919)に開設された動物園を併設した公園である。園内に杉浦譲の顕彰碑が建立されている。

 杉浦譲は、天保六年(1835)、甲斐国甲府西青沼二十人町(現・甲府市相生一丁目)に生まれた。父は甲府勤番同心杉浦七郎右衛門。幼名は昌太郎、のちに愛蔵と改めた。父譲りの勤勉、明晰な性格で勉学に励み、文久元年(1861)、幕府に登用され外国奉行支配書物御用出役を皮切りに外国奉行などの職に就いた。文久三年(1863)、および慶応三年(1867)の二度に渡り幕府の使節団の一員として渡欧し、フランスの郵便制度を実地に見聞した。明治初年、我が国の郵便制度の整備は、同じく幕臣出身の前島密が中心となって推し進めていたが、前島がイギリスに出張すると、杉浦が跡を引き継ぎ、郵便創業に向けての布石を敷いた。書状集箱(郵便ポスト)の形状を始め、郵便用具の規格や大蔵省と協議して切手に龍の図案を採用したことなど、いずれも杉浦の下で具体化したものである。杉浦の尽力により、明治四年(1871)三月一日、日本で最初の切手(龍文切手と呼ばれる)も発行された。この切手を貼れば、どこにでも出せるという画期的な制度であった。当時設置された郵便集箱は東京十二、京都五、大阪八であった。東京、京都、大阪の三府には郵便役所(今でいう中央郵便局)が置かれ、東海道の各宿駅には郵便取扱所が開かれた。我が国の郵便は東京―大阪間で始まったのである。杉浦譲は、郵便事業が始まった直後の明治四年(1871)三月十日、初代駅逓正に昇進したが、同年七月、民部省の廃止に伴い大蔵省に転じ、太政官権少内史となった。明治十年(1877)八月、四十一歳にて没。遊亀公園の顕彰碑は、昭和四十年(1965)郷土の偉人を顕彰するために有志によって建立されたものである。

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北杜

2015年05月16日 | 山梨県
(昌照寺)
 北杜市高根町村山西割は、大芝宗十郎の出身地である。
 長谷川伸の『相楽総三とその同志』によれば、昌照寺に小宮山土佐守昌照ら小宮山一族の事績を記した古碑があるというので、中央道を長坂ICで降りて、一路昌照寺を目指した。この寺に行けば、村山西割に在るという大芝宗十郎の墓や顕彰碑の所在も分かるかもしれない。
 昌照寺の裏山の墓地内に古碑はあった。
 小宮山土佐守昌照は、武田氏滅亡の折にも竹田勝頼につき従っていたと言われる戦国武将である。その子である小宮山又七という人物が村山西割の大芝家の娘を娶って、以来大芝を名乗って土着したのが大芝宗十郎の先祖らしい。


昌照寺

 結論を言えば、大芝宗十郎の墓も顕彰碑も見つけることはできなかった。次に時間の十分にあるときに当地を再度訪問することにしたい。


小宮山家事績碑

 大芝宗十郎は、文化十一年(1814)、甲斐巨摩郡村山西割村(現・山梨県北杜市高根町村山西割)の名主長右衛門の長男に生まれた。若い頃、平田篤胤の思想に共鳴し、家を弟に譲って江戸から京都に向い、諸国を遊歴。幕末には尊攘運動に挺身した。薩摩藩に仕えて武術を修めたとも伝えられるが、慶應三年(1867)十月、西郷隆盛の指示を受け、伊牟田尚平、益満休之助らと、江戸三田の薩摩屋敷に入り糾合隊を編成。下野出流山に義兵を挙げるため、竹内啓、相沢元輔ら同志十一名と三田を出たのが十一月二十六日。薩摩藩名で攘夷倒幕の兵を三百余名集めたが、幕軍の包囲を受けて敗走した。大芝は捕えられて、同年十二月十八日、佐野河原で斬首された。五十四歳。佐野河原で斬首されたのは五十一名と言われるが、大芝の年齢は最高齢に属する。

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都留

2014年06月12日 | 山梨県
(広徳院)
 都留市の広徳院に天野開三(海蔵)の墓を訪ねた。都留市といっても、西桂町との境界に近い。
 広徳院墓地に入ると、天野家の墓がたくさんあって、簡単に天野開三の墓を探し当てることはできない。没年月日から推定したが、表面は流麗な草書体で書かれており、解読不能。今一つ、自信が持てない。


広徳院


天野開三の墓?

 天野開三は、文化十一年(1814)、甲斐都留郡境村に天野茂甫の長男に生まれた。若くして江戸に出て、江川太郎左衛門の知遇を得、品川台場建設工事を請け負った。彰義隊の天野八郎は、一時開三の世話になっており、養子となったといわれる。嘉永六年(1853)、下田地方が大津波に襲われたと知ると、江戸から大勢の人夫を引き連れて駆け付け、下田の人々を叱咤激励した。終始、幕府を支援したが、維新後は郷士に戻った。明治三十三年(1900)、十一月、八十七歳で没。


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南アルプス

2014年06月12日 | 山梨県
(泉能寺)


泉能寺

 五味長元の墓を訪ねて泉能寺まで足を伸ばした。ところが、墓地には五味家の墓がいくつもあって、残念ながら、長元の墓を特定することはできなかった。恐らく縁戚になるのだと思うが、墓地内には、五味国鼎(1754没。学者、医者)、五味可都里(1817没。俳人)などの墓もある。
 五味長元(もしくは張元、安郎右衛門)は、甲斐巨摩郡藤田村(現・山梨県南アルプス市藤田=とうだ)の生まれ。安政七年、遣米使節団の一員に選ばれ、咸臨丸で太平洋を横断した。時に六十一歳であった(使節団中の最年長である)。帰国後、『安政寅申米使日記』という見聞録を残した。アメリカから入れ歯と避雷針を持ち帰ったという。明治二十三年(1890)、九十一歳で没。


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身延

2014年06月12日 | 山梨県
(不二ホテル)


不二ホテル


三田村鳶魚翁終焉之地碑

 昭和二十七年(1952)五月十四日、江戸文化研究家の三田村鳶魚が、下部温泉不二ホテルで亡くなった。現在、不二ホテル前の庭には、海音寺潮五郎書「三田村鳶魚翁終焉之地」碑が建立されている。

(常福寺)


常福寺

 身延町下山の常福寺に小沢一仙の墓があるというので、墓地を歩いた(朝から激しく犬に吠えられた)。結局、小沢一仙のものと特定できる墓石は見つけられなかった。

 小沢一仙(別名、雅楽助)は、天保元年(1830)、伊豆松崎に生まれた。父は彫刻師石田半兵衛で、一仙自身も宮大工であり、彫刻を得意とした。その後、甲斐に出て甲府勤番小沢家の養子となった。鳥羽伏見の戦争が起こると、いち早く高松實村を担ぎ出し、岩倉具視や西郷隆盛の承認を得て、東征軍先鋒として信濃、甲斐を進軍した。ところが甲斐に入ったところで京都の方針が変わり、高松隊は偽官軍となった。憤慨した小沢一仙は抗議したが容れられず、慶応四年(1868)三月十四日、斬首された。
 常福寺の説明によれば、一仙の法名は「朝仙院常信日秀」というらしいが、どうしてもその文字を刻んだ墓を見付けられなかった。いずれ再挑戦したい。


小沢一仙の墓?



コメント (2)
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市川三郷

2014年06月12日 | 山梨県
(津向屋)
 市川三郷町鴨狩津向(つむぎ)は、静かで小さな集落である。ここから津向の文吉と呼ばれる一人の侠客が出た。現在、津向の文吉の生家には、生誕地碑が建てられている。


津向文吉生誕の地

(津向共同墓地)


津向文吉墓

 津向の文吉は、文化七年(1810)、名主宮沢勘右衛門の次男に生まれた。天保八年(1837)、車田村の市兵衛と喧嘩となった。てっきり殴殺したものを思った文吉は駿府に逃走したが、天保十年(1839)、密告により奉行所に捕えられた。ところが、甲州に照会したところ誤認と分かり釈放されて津向に返された。嘉永の博徒狩りにより八丈島に流された。文吉は寺子屋や医者の真似事をして生計を立て、島の娘との間に男女二人の子を成した。維新の大赦により二十一年振りに故郷に帰ることができた。文吉は清水次郎長の喧嘩の仲裁人として知られる。明治十六年(1883)十月、七十三歳にて死去。


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石和

2014年06月12日 | 山梨県
(石和南小学校)


史跡 石和陣屋跡

 現在、石和南小学校周辺が、石和陣屋があった場所である。
 寛文元年(1661)、甲府宰相綱重の時代に石和に陣屋が建てられた。綱重は江戸に常駐したため、陣屋には代官が置かれた。享保九年(1724)、甲州を拝領していた柳沢吉里が大和郡山に移封されると、明治維新まで幕府の直轄地となった。

(八田家御朱印屋敷)


八田家書院

 八田家は、もと武田氏の家臣であったが、のちに徳川家に隷属し、家康から万力御林の材木を賜り、それを用いて母屋を建造した。慶長六年(1601)、都留郡富士根の材木を賜って書院を建築した。母屋は安政六年(1859)に笛吹川の氾濫により大破したが、書院は今日まで伝えられた。この書院は、桃山期末期の武家書院様式で、当時の様式を今日に伝える貴重な文化遺産となっている。


表門

 表門は、寛文元年(1661)に石和陣屋が創設されたときに、時の代官平岡勘三郎良辰が建立したもので、明治七年(1874)、払下げを受けて八田家の表門として移築されたものである。

(常在寺)
 笛吹市石和町唐柏の常在寺にも、竹居の吃安の墓がある。


常在寺


心誠院諦悟日道居士(竹居吃安の墓)

 墓石の側面には、「嘉永七巳年十二月五日 安五郎墓」と刻まれている。

(仏陀寺)


仏陀寺

 竹居の吃安は、文久二年(1862)十月、石和代官所に捕らわれた。仏陀寺の説明によれば、牢屋に近い接慶院に葬られたそうだが、同院が廃寺となったため、昭和四十一年(1966)、当寺に改葬された。


心岳宗安禅定門(竹居吃安の墓)


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笛吹 Ⅱ

2014年06月12日 | 山梨県
(浄源寺)


浄源寺

 ここ数年、ゴールデンウィークは東北を旅するのが恒例となっていが、今年は前半が飛び石となってしまい、後半は大混雑することが予想されたので、遠出は控えることにした。連休の二日目、抜けるような青空に誘われて、山梨県下を回った。


鐘嶽玄徽居士(竹居吃安の墓)

 竹居の吃安は、文化八年(1811)、甲斐八代郡竹居村(現・山梨県笛吹市八代町竹居)名主の中村甚兵衛の四男に生まれた。十五、六才のころ、造り酒屋の下男にからかわれたことに腹を立て、脇差で斬り付けたことから勘当された。郡内下吉田の人斬り長兵衛に預けられて、博徒となった。のちに竹居に戻って一家を張るが、嘉永の博徒狩りで新島に流刑となった。安政五年(1858)七月、新島の名主前田吉兵衛を殺害して島抜けし甲州に戻り、黒駒の勝蔵を弟分として一家を再建した。侠客として人心収攬の才を発揮し、甲州一円はもとより伊豆地方まで勢力を伸ばし、子分数千人を誇った。巷間、清水次郎長との敵役として扱われることが多いが、実際に次郎長と抗争に至ったのは数回しかないという。「どどど」と吃れば人を斬る―――と伝説が残るが、実際に人を斬ったという記録は少ない。また、江川太郎左衛門の韮山の反射炉の建設に従事したといわれる。文久元年(1861)秋、捕えられ、翌年の十月、牢死した。毒殺ともいわれる。五十二歳。
 吃安の墓は、出身地である竹居の浄源寺、石和町唐柏の常在寺、石和町市部の仏陀寺の三カ所にあるが、それぞれ建立者や没年月日、戒名等が違っているのが興味深い。
 浄源寺は、まさに吃安の出身地である。この墓の側面には、「中村甚兵衛建之」とあり、父が建立したことが分かる。

(地蔵院)
 笛吹市春日居町桑戸の地蔵院の歴史は古く、天文十四年(1545)、箇覺光真禅師が茂林庵と寶聚庵を合併して地蔵院と称したのが起源である。以来、現在に至るまで二十五世の禅師によって引き継がれてきた。本堂の前に、二十五名の禅師の名が刻まれた石碑があるが、その二十三世「獨龍巨海大和尚」という人物が、実は新選組に在籍した立川主税である。


地蔵院


當山二十三世獨龍巨海大和尚
(立川主税の墓)

 立川主税は、筑前国鐘崎浦(現・福岡県玄海町)の出身。新選組入隊は、甲陽鎮撫隊結成の直前と推定される。勝沼・柏尾の戦争では援軍や食糧を調達した。その後、土方歳三に附属して箱館まで転戦した。落城寸前の五稜郭から脱出したが、官軍に捕えられ、戦後は秋田藩にて謹慎生活を送った。明治五年(1872)、同志の菩提を弔うため、仏門に入った。同じく新選組隊士であった斎藤一諾斎(秀全)の紹介で全福寺住職を紹介してもらい、そこで修業して住職となったという。春日居村の地蔵院に来たのは、明治十八年(1885)のことで、以後明治三十六年(1903)に没するまで同地に起居した。享年六十九。


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