史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

勝沼 Ⅱ

2021年07月03日 | 山梨県

(勝沼小学校)

 

勝沼学校跡

 

 現在勝沼小学校のある場所に、明治十三年(1880)、勝沼学校があった。勝沼学校は、勝沼町と等々力村の学校として建てられ、木造二階建て、一階には車寄せ、二階にはベランダを備えたE字型の校舎であった。明治十三年(1880)六月には、明治天皇御巡幸の際には行在所となった。

 

明治天皇勝沼行在所

 

明治天皇御製

 

 勝沼小学校入り口には、行在所碑とともに明治天皇御製碑が建てられている。明治十三年(1880)山梨御巡幸の折の御製歌である。

 

 えびかつらいろつきそめぬやまなしの

 さとのあきかぜさむくんらるらし

 

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山梨 Ⅱ

2021年06月19日 | 山梨県

(歌田)

 山梨市歌田の日川(ひかわ)駐在所の隣に明治天皇日川御小休所阯碑がある。さらにその裏手には大きな駐輦碑がある。

 

明治天皇日川御小休所阯

 

駐輦碑

 

 駐輦碑は昭和四年(1929)の建立。題額は貴族院議長徳川家達。

 

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韮崎 Ⅱ

2021年06月19日 | 山梨県

(韮崎小学校)

 明治十三年(1880)六月二十二日、明治天皇は巡幸西上の際、韮崎を通過し、この地(当時は韮崎学校)で昼餐をとった。そのことを記念して校庭の片隅に記念碑が建立されている。

 この日は週末ということもあって、学校の正門は施錠されて余所者の進入を拒否していた。すぐ目の前に石碑はあるのだが、どう頑張っても表面を見ることはできない。残念ながら裏面の写真を撮影して撤収することになった。

 

韮崎小学校

 

明治天皇御昼餐所址

 

(円井)

 

内藤家

 

 円井(まるい)は、甲州街道中にあった街で、駿州街道との分岐点にあり賑わったが、宿場は置かれていなかった。

 明治十三年(1880)六月二十二日、韮崎学校で昼食をとった明治天皇は、甲州街道を進み円井の内藤家で休息をとった。

 内藤家は今もなまこ塀と大きな長屋門を持つ家である。

 

明治天皇御座所之跡

 

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北杜 Ⅲ

2021年06月19日 | 山梨県

(台ケ原)

 

甲州街道台ケ原宿

 

 台ケ原宿は、甲州街道の設定以前から交通集落として機能を果たしていたといわれる。元和四年(1618)に甲州街道に宿請が申しわたされ、台ケ原宿も宿場として整備・拡充されていった。甲州街道中四十番目の宿場である。

 

 

「七賢」 山梨銘醸

 

 台ケ原は今も宿場町の風情を伝えているが、その中心にあるのが、山梨銘醸とその向かいの和菓子屋「金精軒」である。山梨銘醸では、南アルプス駒ケ岳の伏流水を醸して「七賢」という銘酒を醸造している。一方、金精軒は信玄餅を製造・販売している老舗である。

 

 山梨銘醸に隣接するふれあい休息所辺りが高札場跡や郷倉跡と推定されている。さらにその向かい側、金精軒のある辺りに問屋場があったとされている。

 

金精軒

 

秋葉大権現常夜石燈籠

 

台ケ原宿本陣屋敷跡

 

 秋葉大権現常夜石燈籠のある屋敷が本陣跡である。台ケ原宿が火災や水害に見舞われたことに起因して、慶応三年(1867)、秋葉講が生まれた。秋葉講では、防火防災を祈願して秋葉大権現の石燈籠を旧本陣跡(小松家)に寄進建立した。

 

明治天皇菅原行在所

 

 山梨銘醸の前に明治天皇菅原行在所の石碑が建てられている。明治十三年(1880)六月の巡幸の際に行在所となったことを記念したものである。

 山梨銘醸は、もともと信州高遠で酒造業を営んでいた北原伊兵衛光義がこの地に分家をして、大中屋という屋号で酒造りを始めたことが起源となっている。以来営業は大いに発展し、幕末には諏訪高島藩、伊那高遠藩の御用商人を務め、台ケ原では脇本陣も兼ねていた。

 北原家住宅は、旧街道に面して建つ大規模な町屋建築である。建築年代は天保年間から嘉永にかけてと推定されている。

 

(下教来石)

 

明治天皇御田植通覧之址

 

 北杜市白州町下教来石(しもきょうらいし)は明治十三年(1880)の明治天皇の巡幸の際に休憩所となった場所である。明治天皇が田植えを天覧したという記念碑と湧水を飲んだという記念碑のほか、小休所の場所にも石碑があるはずだが、見落としてしまった。

 

御膳水跡

 

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上野原

2021年01月16日 | 山梨県

(上野原本陣跡)

 JR上野原駅で下車して、高校生が歩いて行く方向についていくと、上野原の市街地に出る。ちょうどルートインホテルの裏手辺りが上野原本陣跡である。跡地は駐車場となっているが、屋敷門だけが残されている。隣接する民家の奥に「明治天皇御入縣境川奉迎所阯」碑が建てられている。

 

上野原本陣跡

 

明治天皇御入縣境川奉迎所阯

 

 明治十三年(1880)、明治天皇の山梨、三重、京都巡幸の際、上野原本陣が行在所となった。

 

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小淵沢

2018年02月17日 | 山梨県
(身曾岐神社)
 JR小淵沢駅から徒歩三十五分。周辺には別荘が点在する場所に身曾岐神社が所在している。
 この神社は神道中興の祖と呼ばれる井上正鐡を祭神とする。もとは井上神社という名で東京の東上野にあったが、昭和六十一年(1986)、八ヶ岳南麓のこの場所を高天原と命名し、社号を「身曾岐神社」と改めて遷座した。


身曾岐神社 拝殿


能楽殿

 境内には能楽殿が設けられている。男性デュオ「ゆず」の北川某とフリーアナウンサーの高島彩がここで結婚式を挙げたことで知られる。

 祭神井上正鐡は、幼少より学徳優れ、医学、国学、観相学を始め、神儒仏にわたって、その深奥を究め、生涯を救世済民に捧げた。天保五年(1834)、天照太神の神示を得て、太古からの神道の中枢、白川神祇伯王家に伝承された神道の奥義を悉く相承し、天地自然を教典とする生命の信仰(即ち神道)を人間至福の道として再興した。天保十三年(1842)、幕府滅亡を予言するような言動により捕らわれ、三宅島に流され、そこで生涯を閉じた。


井上神社

 境内には東上野に鎮座していた頃の旧社号標「井上神社」が移設されている。


八ヶ岳

 小淵沢駅からは八ヶ岳の美しい姿を楽しむことができる。各駅停車で高尾から小淵沢まで片道二時間二十分を要する。身曾岐神社までの往復に結局まる一日を費やすことになった。

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韮崎

2016年09月16日 | 山梨県
(雲岸寺)


雲岸寺


窟観音本尊聖観世音菩薩


横枕君碑

 「筑後郷土史研究会誌」(昭和六十三年 筑後郷土史研究会発刊)に山口光郎氏が寄稿した「『横枕覚助』と『大楽源太郎』および“久留米藩難事件”の一端」と題する一文が掲載されている。
 この一文で初めて横枕覚助なる人物のことを知った。横枕覚助は、弘化元年(1844)、下妻郡溝口村に横枕菟平の長男に生まれた。覚助は胆力があり、気骨稜々として義気に富んでいたという。覚助の家は、古松簡二(別名・清水真郷)の家に近く、小さい頃から行き来があり、強くその影響を受けた。文久三年(1863)には山梔子(くちなし)の家における十年に及ぶ幽囚を解かれた真木和泉を古松とともに訪れ、益々勤王の志を強固にした。明治二年(1869)、久留米藩では覚助を殉国隊(長州の奇兵隊にならって農民を組織したもの)の隊長に任命した。長州藩で奇兵隊の反乱が鎮圧されると、大楽源太郎らが久留米藩に潜入した。古松簡二や藩参政小河真文は覚助に頼んで、大楽らを匿うことにした。やがてそのことが長州藩の探索部隊に知られるところとなり、西南諸藩に動員命令が下された。追い込まれた久留米藩では大楽らを密かに謀殺し、水野正名や小河真文、古松簡二らも相次いで逮捕投獄された。覚助も日田から東京に護送され、そこで糺問された。覚助は、「忠義の人と聞いて匿ったが、誰とは知らなかった」と言い逃れたが、禁獄三年の判決を受け、新潟に送られた。出獄後は三瀦󠄀県の戸長、区長、郡長などを務めた。西南戦争では嫌疑を受けて一時拘束されたが無罪判決を受けている。明治十七年(1884)、山梨県警部に転じ、その後南津留郡郡長や北巨摩郡郡長などを歴任した。明治二十三年(1890)、コレラに罹患して四十七歳で死去。
 山梨県に奉職した縁で、韮崎の窟観音(あなかんのん)に県知事中島錫胤の撰文を刻した顕彰碑がある。この顕彰碑を見るためだけに、片道二時間近くかけて韮崎まで往復した。雲岸寺・窟観音は、韮崎駅から徒歩五分くらいの場所にあり、あっさりこの顕彰碑も見つけることができた。

(にらさき文化村)


小林一三翁生家跡


小林一三生誕の地 韮崎市

 韮崎といえば、サッカー選手の中田英寿が韮崎高校出身だということと、平成二十七年(2015)にノーベル賞生理学・医学賞を受賞した大村智博士の出身地である。その程度の予備知識しか持ち合わせていなかったが、駅前の観光案内所の前に「小林一三生誕の地 韮崎市」という説明を見て、ここが阪急電鉄生みの親小林一三の生地であることを知った。小林一三は阪急や宝塚歌劇団、東宝映画などの創立に関わった実業家で明治六年(1873)韮崎本町に生まれた。現在、生誕地は「にらさき文化村」という施設となっている。

(千野眼科医院)


韮崎宿本陣の跡

 韮崎は甲州街道の宿場町の一つで、千野眼科の前に本陣跡碑が建てられている。また、そのすぐ近くに馬の手綱を繋いでおくための石がある。


馬つなぎ石

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市川三郷 Ⅱ

2016年02月19日 | 山梨県
(市川陣屋跡)


市川陣屋跡

 JR身延線市川本町駅から北に徒歩数分の場所に市川陣屋跡の石碑が建てられている。その近くには陣屋門も再建されている。
 市川陣屋は、明和二年(1765)、駿府紺屋町(現・静岡市)陣屋の出張陣屋として、代官小田切新五郎による三万石余の支配から始まり、寛政七年(1795)、代官榊原小兵衛の時代に陣屋を建て替えて、正式に本陣屋となった。初代代官から二十五人で明治維新を迎えるが、この間、天保六年(1835)二月の落合大火で元締官舎一棟を除きすべて焼失した。 明治維新後は、郡役所の庁舎となり、一部は役場と学校に使用された。


市川陣屋門

(山梨中央銀行市川支店)


青洲文庫跡

 陣屋跡から北に歩いて数分のところに山梨中央銀行市川支店があって、その前に青洲文庫跡碑がある。
 青洲文庫は、渡辺寿(桃廼舎)、信(青洲)、沢次郎の渡辺家三代による蔵書の文庫である。蔵書数は二万四千九百七十九冊に及んだという。のちに関東大震災で多くの蔵書を焼失した東京帝国大学が渡辺沢次郎から蔵書を購入している。

(禅林寺)
 青洲文庫跡碑に隣接する禅林寺墓地に渡辺青洲、寿父子の墓がある。


禅林寺


青洲渡邉信之墓

 渡辺信(まこと)は、青洲と号し、天保十一年(1840)、甲斐国島上条村(現・甲斐市)の小田切五郎右衛門の三男に生まれた。長じて市川大門村の豪商渡辺寿の養子となって渡辺家を継いだ。明治十年(1877)、甲州葡萄の主要産地である祝村(現・勝沼町)で雨宮広光を社長として大日本山梨葡萄酒会社が発足したとき、渡辺信は藤村紫朗、栗原信近、若尾逸平らと株主となった。その後も農産社や市川紡績所の設立運営に関与し、甲州経済の発展に寄与した。


渡邉寿君之碑

 渡辺寿は、号を桃廼舎(はるのや)、字を権右衛門と称した。家業は豪農にして豪商。国文学を学び、その関係の書籍を多数蒐集してのちの青洲文庫の礎を築いた。

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甲府 Ⅳ

2016年02月19日 | 山梨県
(瑞泉寺)
 この日はJR中央線で甲府まで出て、市川本町を経由して八王子に戻ってくる計画であった。高尾駅から甲府まで約一時間四十五分。財布を家に忘れてきてしまったことに電車内で気が付いた(ボケの兆候だろう)。幸いにしてSUICAに多めに現金がチャージされていたので、それで事なきを得た。甲府駅で下車すると、早速自販機で切符を買い、それを緑の窓口で払い戻しを受けることで現金を手に入れた(電車マニアの息子に教わった現金捻出法である)。
 甲府市では駅近隣のビジネスホテルなどで電動自転車をレンタルしている。手続きをしようとすると身分証明書を要求された。自動車免許証も健康保険証も全て財布の中で、ほかに身分証明書と呼べるものは持ち合わせていなかった。泣く泣く自転車を諦め、バスと徒歩で回ることになった。幸いにして好天に恵まれ、気持ちよく散歩を楽しむことができた。


瑞泉寺

 慶応四年(1868)一月十八日、官軍先鋒を称する高松隊は京都を発ち、甲州を目指した。公卿高松実村を奉じて結成されたこの草莽隊を実質的に組織したのは小沢雅楽之助(一仙)と岡谷繁実であった。道中、一戦も交えることなく恭順を競う諸藩の従軍・献納の饗応に迎えられ、飛龍の勢いそのままに小沢は本体に先んじて二月三日、甲府瑞泉寺に入った。

(遠光寺)
 甲府駅南口にバスターミナルでバスに乗って、遠光寺バス停で降りたら、目の前に遠光寺山門がある。広い境内に墓地や幼稚園を備える。本堂は、どこかの体育館のようなデザインである。


遠光寺

 慶応四年(1868)二月四日、甲府に入った小沢一仙は、遠光寺(おんこうじ)で武藤外記と面談している。そして二月十日、高松隊は念願であった甲府入城を果たした。しかし、この日、東海道先鋒総督兼鎮撫使から使者が到着し、甲府城を引き渡すよう求めた。高松隊は、岩倉具視の反対、三条実美の説得を押し切って挙兵を強行した脱走軍と見なされ、最後まで錦旗は下賜されなかった。すでに偽官軍取締の布告が発せられ、錦旗を持たない赤報隊や高松隊は窮地に立たされた。高松隊は一転して解隊、帰京と決まり、全責任は小沢雅楽之助にありとされ、三月十四日、斬首の上晒首となった。なお、高松隊参謀旧館林藩家老岡谷繁実は何ら罰せられることなく帰京し、その後も新政府に登用されて、立身を遂げた。(「清水次郎長」 高橋敏著岩波新書)

(長禅寺)
 長禅寺は、武田信玄の生母大井夫人の菩提寺である。墓地に若尾逸平の墓がある。


長禅寺


壽徳院俊山逸齋居士
海福院波外是津大姉

 若尾逸平は、文政三年(1820)の生まれ。父は、在家塚村長百姓林右衛門。少年時代、家運が傾き、農業、武家奉公を経て、煙草、絹糸、綿の行商生活による商業上の経験を積んで、安政二年(1855)、甲府八日町に店を構えた。安政六年(1859)、横浜開港に際し、いち早く甲州島田糸と水晶の売り込みを行って産を成した。文久二年(1862)、甲州糸の改良を急務として、甲府愛宕町に八人取製糸機械十二台を据え付けた。明治元年(1868)、生糸蚕種取扱肝煎、同四年、蚕種製造人大総代に任命され、特権化し、同五年には大小切騒動で打ちこわしを受けた。のちに甲州財閥の巨頭として中央財界にも進出した。大正二年(1913)、九十四歳にて死去。
 長禅寺の若尾家墓地は、大名家の墓所かと見紛うばかりの重厚壮大なものである。今の世に若尾財閥を知る人は皆無に等しいが、往時の隆盛をうかがい知ることができる。

(藤村記念館)


藤村記念館

 JR甲府駅北口を出て徒歩一分の場所に藤村記念館がある。山梨県令藤村紫朗を記念したもので、明治八年(1875)に現・甲斐市亀沢にあった陸沢学校の校舎として使われていた擬洋風建築を移築したものである。山梨県の第五代県令を務めた藤村紫朗は、文明開化の諸施策に積極的に取り組み、殖産興業策として養蚕技術の普及や県営勧業製糸場建設、甲州街道や青梅街道など主要な幹線道路に車馬の通行可能な改修工事を実施したほか、甲府市街の整備に着手し、「藤村式建築」と呼ばれる擬洋風建築を奨励した。今でも山梨県内に藤村の残した建造物が点在している。

 藤村紫朗は、弘化二年(1845)、熊本城下寺原町に生まれた。父は熊本藩主黒瀬市右衛門。文久二年(1862)、書を藩主細川慶順に提出して天下の形勢を論じ、藩主の上京を促すこと三度、ついに公子長岡護美の上京となり、紫朗もこれに扈従した。同年十一月、急ぎ下藩の命を受け、近畿の形勢を報告した。文久三年(1863)六月、親兵に選ばれ、八一八の政変では七卿とともに長州に下り、脱藩して元治元年(1864)七月、長州軍の軍監として禁門の変に戦い敗れた。慶応三年(1867)十二月、鷲尾隆聚を奉じて十津川郷士らとともに紀州高野山に兵を挙げ、佐幕派暴動に備えた。維新後、藤村姓に改め、朝廷より一代十人扶持を下賜された。明治元年(1868)閏四月徴士、内国事務局権判事に任じられ、八月には軍監として北越に出征した。明治二年(1869)二月、監察司知事として倉敷県に出張、ついで兵部省に出仕し、同年末には京都府少参事を兼任した。明治四年(1871)、大阪府参事に任じられて以降、山梨県権令、同県令、同県知事、愛媛県知事を歴任した。明治二十三年(1890)、国会開設とともに貴族院議員に勅選された。明治四十二年(1909)、年六十五で没。

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笛吹 Ⅲ

2015年11月01日 | 山梨県
(海潮院)
 海潮院は、武藤外記を生んだ武藤家が創建したという寺である。下黒駒北の交差点の近くに海潮院の墓地がある。ここに武藤外記の墓があるのではないかと思い、墓地を隈なく探したが、見つけることはできなかった。


海潮院

 武藤外記は、上黒駒八反田に一町四方の屋敷を構え、神座山檜峯神社の世襲神官の家に生まれた。平田篤胤の思想の信奉者で、嘉永五年(1852)に私塾を開いて村民らに開放。平田思想の普及につとめた。小沢一仙、竹居の吃安、黒駒の勝蔵らのよき理解者で、吃安らは石和代官の手の入らぬのをよいことに、武藤屋敷の竹藪を賭場にした。勝蔵の赤報隊入りも武藤外記の手引きといわれる。武藤は三田薩摩屋敷頓集浪士の一人、上田修理と気脈を通じ、上田は武藤と呼応して義兵を挙げる手筈であったが、事前に発覚し不発に終わった。武藤外記のその後については不明である。

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