(瑞泉寺)
この日はJR中央線で甲府まで出て、市川本町を経由して八王子に戻ってくる計画であった。高尾駅から甲府まで約一時間四十五分。財布を家に忘れてきてしまったことに電車内で気が付いた(ボケの兆候だろう)。幸いにしてSUICAに多めに現金がチャージされていたので、それで事なきを得た。甲府駅で下車すると、早速自販機で切符を買い、それを緑の窓口で払い戻しを受けることで現金を手に入れた(電車マニアの息子に教わった現金捻出法である)。
甲府市では駅近隣のビジネスホテルなどで電動自転車をレンタルしている。手続きをしようとすると身分証明書を要求された。自動車免許証も健康保険証も全て財布の中で、ほかに身分証明書と呼べるものは持ち合わせていなかった。泣く泣く自転車を諦め、バスと徒歩で回ることになった。幸いにして好天に恵まれ、気持ちよく散歩を楽しむことができた。
瑞泉寺
慶応四年(1868)一月十八日、官軍先鋒を称する高松隊は京都を発ち、甲州を目指した。公卿高松実村を奉じて結成されたこの草莽隊を実質的に組織したのは小沢雅楽之助(一仙)と岡谷繁実であった。道中、一戦も交えることなく恭順を競う諸藩の従軍・献納の饗応に迎えられ、飛龍の勢いそのままに小沢は本体に先んじて二月三日、甲府瑞泉寺に入った。
(遠光寺)
甲府駅南口にバスターミナルでバスに乗って、遠光寺バス停で降りたら、目の前に遠光寺山門がある。広い境内に墓地や幼稚園を備える。本堂は、どこかの体育館のようなデザインである。
遠光寺
慶応四年(1868)二月四日、甲府に入った小沢一仙は、遠光寺(おんこうじ)で武藤外記と面談している。そして二月十日、高松隊は念願であった甲府入城を果たした。しかし、この日、東海道先鋒総督兼鎮撫使から使者が到着し、甲府城を引き渡すよう求めた。高松隊は、岩倉具視の反対、三条実美の説得を押し切って挙兵を強行した脱走軍と見なされ、最後まで錦旗は下賜されなかった。すでに偽官軍取締の布告が発せられ、錦旗を持たない赤報隊や高松隊は窮地に立たされた。高松隊は一転して解隊、帰京と決まり、全責任は小沢雅楽之助にありとされ、三月十四日、斬首の上晒首となった。なお、高松隊参謀旧館林藩家老岡谷繁実は何ら罰せられることなく帰京し、その後も新政府に登用されて、立身を遂げた。(「清水次郎長」 高橋敏著岩波新書)
(長禅寺)
長禅寺は、武田信玄の生母大井夫人の菩提寺である。墓地に若尾逸平の墓がある。
長禅寺
壽徳院俊山逸齋居士
海福院波外是津大姉
若尾逸平は、文政三年(1820)の生まれ。父は、在家塚村長百姓林右衛門。少年時代、家運が傾き、農業、武家奉公を経て、煙草、絹糸、綿の行商生活による商業上の経験を積んで、安政二年(1855)、甲府八日町に店を構えた。安政六年(1859)、横浜開港に際し、いち早く甲州島田糸と水晶の売り込みを行って産を成した。文久二年(1862)、甲州糸の改良を急務として、甲府愛宕町に八人取製糸機械十二台を据え付けた。明治元年(1868)、生糸蚕種取扱肝煎、同四年、蚕種製造人大総代に任命され、特権化し、同五年には大小切騒動で打ちこわしを受けた。のちに甲州財閥の巨頭として中央財界にも進出した。大正二年(1913)、九十四歳にて死去。
長禅寺の若尾家墓地は、大名家の墓所かと見紛うばかりの重厚壮大なものである。今の世に若尾財閥を知る人は皆無に等しいが、往時の隆盛をうかがい知ることができる。
(藤村記念館)
藤村記念館
JR甲府駅北口を出て徒歩一分の場所に藤村記念館がある。山梨県令藤村紫朗を記念したもので、明治八年(1875)に現・甲斐市亀沢にあった陸沢学校の校舎として使われていた擬洋風建築を移築したものである。山梨県の第五代県令を務めた藤村紫朗は、文明開化の諸施策に積極的に取り組み、殖産興業策として養蚕技術の普及や県営勧業製糸場建設、甲州街道や青梅街道など主要な幹線道路に車馬の通行可能な改修工事を実施したほか、甲府市街の整備に着手し、「藤村式建築」と呼ばれる擬洋風建築を奨励した。今でも山梨県内に藤村の残した建造物が点在している。
藤村紫朗は、弘化二年(1845)、熊本城下寺原町に生まれた。父は熊本藩主黒瀬市右衛門。文久二年(1862)、書を藩主細川慶順に提出して天下の形勢を論じ、藩主の上京を促すこと三度、ついに公子長岡護美の上京となり、紫朗もこれに扈従した。同年十一月、急ぎ下藩の命を受け、近畿の形勢を報告した。文久三年(1863)六月、親兵に選ばれ、八一八の政変では七卿とともに長州に下り、脱藩して元治元年(1864)七月、長州軍の軍監として禁門の変に戦い敗れた。慶応三年(1867)十二月、鷲尾隆聚を奉じて十津川郷士らとともに紀州高野山に兵を挙げ、佐幕派暴動に備えた。維新後、藤村姓に改め、朝廷より一代十人扶持を下賜された。明治元年(1868)閏四月徴士、内国事務局権判事に任じられ、八月には軍監として北越に出征した。明治二年(1869)二月、監察司知事として倉敷県に出張、ついで兵部省に出仕し、同年末には京都府少参事を兼任した。明治四年(1871)、大阪府参事に任じられて以降、山梨県権令、同県令、同県知事、愛媛県知事を歴任した。明治二十三年(1890)、国会開設とともに貴族院議員に勅選された。明治四十二年(1909)、年六十五で没。