(クラリッジ・ホテル)
今年は日本とイギリスが安政年間に国交を結んで百五十年という節目の年である。このことを記念して、先ごろイギリスのチャールズ皇太子夫妻が日本を訪問した。幕末の政局において、日本との外交に関していえば、先行したのはアメリカであった。アメリカの艦隊を率いたペリー提督が鎖国の扉を開いたことは夙に知られるが、その後もハリスが下田に常駐し、将軍との謁見を実現し、江戸に領事館を置いた。いずれもアメリカが先陣を切り、イギリス、フランス、オランダ、ロシアといった国はその後塵を拝した。
アメリカに強烈な対抗心を燃やしたのが、イギリスであった。オールコックが着任すると、いつしか彼は外国の領事団の中心的な存在となっていく。その背景の一つにはアメリカが南北戦争の混乱で極東の島国など構っていられなくなったこともあるだろう。
日本からの使節団を最初に受け入れたのは、アメリカであった。万延元年(1860)、勝海舟、福沢諭吉らが咸臨丸で決死の太平洋横断を果たしたことは良く知られている。遣米使節団はアメリカで熱狂的に受け入れられ、幕府初の外交使節は成功を収めた。
オールコックはライバル心をむき出しにして、幕府および本国政府に対し遣欧使節を画策した。幕府がフランス、イギリス、オランダ、ロシアを巡る初の遣欧使節団を送ったのは、文久二年(1862)のことである。
総勢38人からなる遣欧使節団のロンドンにおける宿舎が、今も当時の風情を伝えるクラリッジ・ホテル(Claridge Hotel)である。ちょん髷姿の使節たちは、寸暇を惜しんでロンドンの文明を象徴する施設(病院、造幣局、造船所など)を視察した。
ロンドン出発までの残された時間、遣欧使節団の足跡を追うことにした。
Claridge Hotel
使節団一行が宿舎を構えたClaridge Hotelは200年近い歴史を有する。現在も営業を続ける老舗である。
(自然史博物館・ヴィクトリア&アルバート博物館)
自然史博物館
ヴィクトリア&アルバート博物館
自然史博物館とヴィクトリア&アルバート博物館は、私が宿泊したホテルに近かった。現在、自然史博物館それに隣接して科学博物館、ヴィクトリア&アルバート博物館が建てられている敷地にて、当時ロンドン万博が開催されていた。自然史博物館とヴィクトリア&アルバート博物館の間の道路は、Exhibition Roadと名付けられているが、恐らく140年前の万博の名残であろう。使節団はロンドン万博の開幕に合わせてロンドン入りしたのである。
万博の展示品はオールコックが一品一品横浜の商人に指示を出して選定したらしいが、幕府漢方表医師で使節団の一人として同行した高島祐啓は
「惜しむらくは彼の地に渡る所、皆下等の品多くして、各国の下に出たるは残念なりと云うべし」
と書き記している。展示品は、女性の古着や粗製の日本刀、草履や行灯など、日本人の目からするとガラクタの類ばかりで、使節一行は非常に恥ずかしい思いをしたようである。
(ロンドン・ブリッジ駅)
ロンドン・ブリッジ駅
カメラを構えると駅の警備員に「写真はダメだ」と制止された。何の不都合があるのか分からないが、ここで揉め事になってもいけないので一旦退却し、警備員に隠れて撮影したのが上の写真である。
産業革命を経験したイギリスでは、当時既に鉄道網が整備されていた。使節団はロンドン・ブリッジ駅を訪れ、更にこの周辺にあるロンドン塔やタワー・ブリッジ、造幣局、ドックなども視察している。
(セント・ポール大聖堂)
セント・ポール大聖堂
使節団には通詞として福沢諭吉も随行していた。福沢諭吉は当時二十七歳、身分は中津藩士である。彼は大英博物館とセント・ポール寺院を見学し、次のように書き残している。
「英国最大の寺院なり。院の高さ四百四フート、東西五百フート、南北二百五十フート。堂の頂に登れば、龍動(ロンドンのこと)府中一目下臨すべし。堂の下は、地を掘り窟を設け、窟中に古来国王及名称の墓あり。カピタンネルソンの墓も此中に建てり」
(大英博物館)
大英博物館
一行は有名な大英博物館も見学している。同行した市川渡(副使松平石見守康直の家臣)が、克明に記録を残している。やはりミイラは彼らの目にも焼きついたようである。更に彼らは図らずも「中国・日本図書室」にて伊勢物語や新井白石、青木昆陽らの著作や江戸、大阪の地図、それに日本の小判などを目にしている。
(国会議事堂)
Big Benの愛称で知られる国会議事堂
ロンドンに到着早々、使節一行は国会議事堂を訪れている。この国会議事堂(Big Ben)が改修され現在の姿になったのは、1840年から1850年頃にかけてといわれている。イギリスとしては最も日本の使節一行に見せたかったものの一つだろう。しかし当時の日本人には議会の持つ意味が理解できなかったのか、特に感想らしきものは残されていない。
ウェストミンスター寺院
(バッキンガム宮殿)
バッキンガム宮殿
5月に入って市川渡はセント・ジェームス公園内のバッキンガム宮殿を訪れている。池に浮かぶ鳥や小船を眺めてのんびりと過ごしたようである。私がバッキンガム宮殿を訪れたとき、ちょうど衛兵の交替儀式の真っ最中であった。
遣欧使節団は約1ヵ月半の滞在期間中、現存するものだけでも、このほかに動物園、グリニッジ天文台、ハンプトン・コートなどを精力的に訪問している。残念ながら今回、ロンドンで自由行動が赦されたのは、夜の数時間と、その翌日ホテルを出るまでの数時間しかなかった。これだけの時間で使節団が訪れた地を全て踏破するのはいくらなんでも不可能でった。
【参考図書】講談社学術文庫 宮永孝著「幕末遣欧使節団」
今年は日本とイギリスが安政年間に国交を結んで百五十年という節目の年である。このことを記念して、先ごろイギリスのチャールズ皇太子夫妻が日本を訪問した。幕末の政局において、日本との外交に関していえば、先行したのはアメリカであった。アメリカの艦隊を率いたペリー提督が鎖国の扉を開いたことは夙に知られるが、その後もハリスが下田に常駐し、将軍との謁見を実現し、江戸に領事館を置いた。いずれもアメリカが先陣を切り、イギリス、フランス、オランダ、ロシアといった国はその後塵を拝した。
アメリカに強烈な対抗心を燃やしたのが、イギリスであった。オールコックが着任すると、いつしか彼は外国の領事団の中心的な存在となっていく。その背景の一つにはアメリカが南北戦争の混乱で極東の島国など構っていられなくなったこともあるだろう。
日本からの使節団を最初に受け入れたのは、アメリカであった。万延元年(1860)、勝海舟、福沢諭吉らが咸臨丸で決死の太平洋横断を果たしたことは良く知られている。遣米使節団はアメリカで熱狂的に受け入れられ、幕府初の外交使節は成功を収めた。
オールコックはライバル心をむき出しにして、幕府および本国政府に対し遣欧使節を画策した。幕府がフランス、イギリス、オランダ、ロシアを巡る初の遣欧使節団を送ったのは、文久二年(1862)のことである。
総勢38人からなる遣欧使節団のロンドンにおける宿舎が、今も当時の風情を伝えるクラリッジ・ホテル(Claridge Hotel)である。ちょん髷姿の使節たちは、寸暇を惜しんでロンドンの文明を象徴する施設(病院、造幣局、造船所など)を視察した。
ロンドン出発までの残された時間、遣欧使節団の足跡を追うことにした。
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Claridge Hotel
使節団一行が宿舎を構えたClaridge Hotelは200年近い歴史を有する。現在も営業を続ける老舗である。
(自然史博物館・ヴィクトリア&アルバート博物館)
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自然史博物館
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ヴィクトリア&アルバート博物館
自然史博物館とヴィクトリア&アルバート博物館は、私が宿泊したホテルに近かった。現在、自然史博物館それに隣接して科学博物館、ヴィクトリア&アルバート博物館が建てられている敷地にて、当時ロンドン万博が開催されていた。自然史博物館とヴィクトリア&アルバート博物館の間の道路は、Exhibition Roadと名付けられているが、恐らく140年前の万博の名残であろう。使節団はロンドン万博の開幕に合わせてロンドン入りしたのである。
万博の展示品はオールコックが一品一品横浜の商人に指示を出して選定したらしいが、幕府漢方表医師で使節団の一人として同行した高島祐啓は
「惜しむらくは彼の地に渡る所、皆下等の品多くして、各国の下に出たるは残念なりと云うべし」
と書き記している。展示品は、女性の古着や粗製の日本刀、草履や行灯など、日本人の目からするとガラクタの類ばかりで、使節一行は非常に恥ずかしい思いをしたようである。
(ロンドン・ブリッジ駅)
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ロンドン・ブリッジ駅
カメラを構えると駅の警備員に「写真はダメだ」と制止された。何の不都合があるのか分からないが、ここで揉め事になってもいけないので一旦退却し、警備員に隠れて撮影したのが上の写真である。
産業革命を経験したイギリスでは、当時既に鉄道網が整備されていた。使節団はロンドン・ブリッジ駅を訪れ、更にこの周辺にあるロンドン塔やタワー・ブリッジ、造幣局、ドックなども視察している。
(セント・ポール大聖堂)
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セント・ポール大聖堂
使節団には通詞として福沢諭吉も随行していた。福沢諭吉は当時二十七歳、身分は中津藩士である。彼は大英博物館とセント・ポール寺院を見学し、次のように書き残している。
「英国最大の寺院なり。院の高さ四百四フート、東西五百フート、南北二百五十フート。堂の頂に登れば、龍動(ロンドンのこと)府中一目下臨すべし。堂の下は、地を掘り窟を設け、窟中に古来国王及名称の墓あり。カピタンネルソンの墓も此中に建てり」
(大英博物館)
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大英博物館
一行は有名な大英博物館も見学している。同行した市川渡(副使松平石見守康直の家臣)が、克明に記録を残している。やはりミイラは彼らの目にも焼きついたようである。更に彼らは図らずも「中国・日本図書室」にて伊勢物語や新井白石、青木昆陽らの著作や江戸、大阪の地図、それに日本の小判などを目にしている。
(国会議事堂)
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Big Benの愛称で知られる国会議事堂
ロンドンに到着早々、使節一行は国会議事堂を訪れている。この国会議事堂(Big Ben)が改修され現在の姿になったのは、1840年から1850年頃にかけてといわれている。イギリスとしては最も日本の使節一行に見せたかったものの一つだろう。しかし当時の日本人には議会の持つ意味が理解できなかったのか、特に感想らしきものは残されていない。
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ウェストミンスター寺院
(バッキンガム宮殿)
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バッキンガム宮殿
5月に入って市川渡はセント・ジェームス公園内のバッキンガム宮殿を訪れている。池に浮かぶ鳥や小船を眺めてのんびりと過ごしたようである。私がバッキンガム宮殿を訪れたとき、ちょうど衛兵の交替儀式の真っ最中であった。
遣欧使節団は約1ヵ月半の滞在期間中、現存するものだけでも、このほかに動物園、グリニッジ天文台、ハンプトン・コートなどを精力的に訪問している。残念ながら今回、ロンドンで自由行動が赦されたのは、夜の数時間と、その翌日ホテルを出るまでの数時間しかなかった。これだけの時間で使節団が訪れた地を全て踏破するのはいくらなんでも不可能でった。
【参考図書】講談社学術文庫 宮永孝著「幕末遣欧使節団」