(野田山墓地)
北陸旅行の三日目は、許しを得て自由行動となった。電車マニアの息子は一人で氷見線に乗るといい、嫁さんと娘たちは世界遺産である五箇山の合掌造りの集落に行くという。私は迷いなく金沢の史跡巡りに向かうことにした。
金沢の街の散策には、レンタサイクルが適している。自動車では渋滞に巻き込まれるし、観光地の駐車場はどこも満車である。ストレスなく、効率的に史跡を回るには自転車に勝るものはない。駅で自転車を借りると、私が最後の一台といわれた。今日は付いている。
自転車の難点は、坂道に弱いことである。入手した市街地図では高低差が分からない。意外と金沢の街は坂道が多く、自転車には厳しかった。特に野田山は、金沢駅から遠く離れている。標高175mの山頂近くにある前田家の墓地に、自転車を押して到着したときにはかなりぐったりした。史跡巡りに必ずしも自転車が万能ではないということを思い知った。
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前田利家墓所
野田山の山頂に近い場所に加賀藩主前田家の墓所がある。一族の墓はいずれも神式で鳥居の裏に土塚を築き、石柱の墓標が建つ構造となっている。もっとも立派な墓は、藩祖前田利家のもの。その隣には大河ドラマの主人公にもなった利家夫人芳春院(名は松または昌)の墓もある。
前田斉泰墓所
石段を少し下った位置に、十三代斉泰、十四代慶寧ら、幕末の藩主とその夫人の墓が並ぶ。
前田斉泰の夫人、景徳院(偕、溶姫)は十一代将軍家斉の二十一女であった。加賀藩は、最大の雄藩でありながら、江戸期を通じて幕府には従順であった。幕府に阿諛することが、外様が生き抜くための処世術と心得ていたらしい。徳川家と婚姻を重ね、そういう意味では譜代大名よりもずっと親幕的であった。特に将軍の娘を正室にもった斉泰は、最後まで佐幕派であった。
斉泰は、文政五年(1822)から慶応二年(1866)の長期に渡り藩主の座にあり、家督を慶寧に譲ったあとも、隠然たる影響力を有していた。斉泰は明治十七年(1884)、七十四歳で没している。
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前田慶寧墓所
十四代藩主慶寧は、父斉泰とは異なり心情的には勤王派寄りであったが、結局父の方針には逆うことはできなかった。大藩である加賀藩が幕末を通じて存在感を発揮することができなかった最大の要因がここにあったと言える。慶寧は明治七年(1874)に熱海で没している。享年四十五であった。
前田家墓所から下がったところに、石川県戦没者墓地がある。広くて静謐な敷地内に西南戦争以降太平洋戦争に至るまで、戦死者の墓が並んでいる。
石川県戦没者墓地 陸軍戦没者墓地
西南戦争戦死者の墓
西南戦争の犠牲者の墓碑を見ると、意外と戦闘での犠牲者より、戦争のあった翌年以降の犠牲者が多いことが目につく。当時の銃弾は鉛製であった。被弾した兵卒には、鉛中毒によって亡くなるケースが多かったと伝えられるが、ここに眠る兵士の何人かも或いはそういう犠牲者かもしれない。
ロシア人墓地
日露戦争に際して捕虜とされたロシア人のうち、金沢には約六千人が連行された。うち病気等で亡くなった十名を慰霊する墓が陸軍によって建立されたものである。
大久保利通暗殺者の墓
明治志士敬賛会
今回、金沢を訪れた最大の目的地が、野田山墓地の麓にある大久保利通暗殺者の墓であった。彼ら六人の墓は、谷中霊園にもあるが、こちらは言わば事務的に埋葬したという印象であるが、金沢の墓は彼らの所業を顕彰しているかの如き雰囲気が漂っている。一国の宰相を暗殺した犯人を持ち上げるというのは、どういう神経だろうか。確かに、彼らが時の独裁者的存在となった大久保利通を葬ったことは事実であるが、大久保の退場は結果的に薩長閥の世代交代を促進しただけのことである。この暗殺によって決して歴史が変わったとは思えない。
司馬先生は「翔ぶが如く」の中で次のように解説している。
--- 大久保を殺そう
というふうに島田が決意したのは、飛躍でもなでもない。殺すという表現以外に自分の政治的信念をあらわす方法が、太政官によってすみずみまで封じられているのである。(中略)
島田も、明治六年に左院に建白書を出したが相手にされず、これがために「腕力あるのみ」と覚悟し、さらには条令のために自分の政府批判を新聞などに発表することもできなかった。この意味からいえば、大久保が磁石になり、島田という鉄片をひきよせたといえなくはない。
(大乗寺)
大乗寺は、前田家の重臣本多家の菩提寺で、新旧二か所の本多家墓所に本多家累代の墓がある。鬱蒼とした森の中に仏殿、法堂、山門、総門が配置されている。明治二年(1869)に城内の二の丸で刺殺された本多政均の墓は、本多家の新墓所の入口に近い場所に建てられている。
本多政均は、天保九年(1838)に、本多正和の次男に生まれ、安政三年(1856)、兄政通の死により本多家を継いだ。万延元年(1860)、城代となる。文久三年(1863)、主命により上洛後、逼塞していたが、元治元年(1864)、世子前田慶寧退京処分を受けたのち、復権して尊攘派の処断に関与した。その後は、藩主のそばに従ってしばしば上洛した。一方で藩政改革にも手腕を発揮し、執政として権力を誇った。このことが守旧派の恨みを買い、城内で暗殺されることになった。年三十二。政均暗殺の裏には、元治の獄で重刑に処された尊攘派の手も動いていたといわれる。
大乗寺
十二義士の墓
政均の仇をうった十二人の家臣の墓は、政均の墓に寄り添うように建てられている。彼らが“仇打ち”を果たしたのが明治四年(1871)。その後、明治六年(1873)に仇討禁止令が出されたため、“最後の仇討”とも言われる。
本多政均の墓
北陸旅行の三日目は、許しを得て自由行動となった。電車マニアの息子は一人で氷見線に乗るといい、嫁さんと娘たちは世界遺産である五箇山の合掌造りの集落に行くという。私は迷いなく金沢の史跡巡りに向かうことにした。
金沢の街の散策には、レンタサイクルが適している。自動車では渋滞に巻き込まれるし、観光地の駐車場はどこも満車である。ストレスなく、効率的に史跡を回るには自転車に勝るものはない。駅で自転車を借りると、私が最後の一台といわれた。今日は付いている。
自転車の難点は、坂道に弱いことである。入手した市街地図では高低差が分からない。意外と金沢の街は坂道が多く、自転車には厳しかった。特に野田山は、金沢駅から遠く離れている。標高175mの山頂近くにある前田家の墓地に、自転車を押して到着したときにはかなりぐったりした。史跡巡りに必ずしも自転車が万能ではないということを思い知った。
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前田利家墓所
野田山の山頂に近い場所に加賀藩主前田家の墓所がある。一族の墓はいずれも神式で鳥居の裏に土塚を築き、石柱の墓標が建つ構造となっている。もっとも立派な墓は、藩祖前田利家のもの。その隣には大河ドラマの主人公にもなった利家夫人芳春院(名は松または昌)の墓もある。
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前田斉泰墓所
石段を少し下った位置に、十三代斉泰、十四代慶寧ら、幕末の藩主とその夫人の墓が並ぶ。
前田斉泰の夫人、景徳院(偕、溶姫)は十一代将軍家斉の二十一女であった。加賀藩は、最大の雄藩でありながら、江戸期を通じて幕府には従順であった。幕府に阿諛することが、外様が生き抜くための処世術と心得ていたらしい。徳川家と婚姻を重ね、そういう意味では譜代大名よりもずっと親幕的であった。特に将軍の娘を正室にもった斉泰は、最後まで佐幕派であった。
斉泰は、文政五年(1822)から慶応二年(1866)の長期に渡り藩主の座にあり、家督を慶寧に譲ったあとも、隠然たる影響力を有していた。斉泰は明治十七年(1884)、七十四歳で没している。
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前田慶寧墓所
十四代藩主慶寧は、父斉泰とは異なり心情的には勤王派寄りであったが、結局父の方針には逆うことはできなかった。大藩である加賀藩が幕末を通じて存在感を発揮することができなかった最大の要因がここにあったと言える。慶寧は明治七年(1874)に熱海で没している。享年四十五であった。
前田家墓所から下がったところに、石川県戦没者墓地がある。広くて静謐な敷地内に西南戦争以降太平洋戦争に至るまで、戦死者の墓が並んでいる。
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石川県戦没者墓地 陸軍戦没者墓地
西南戦争戦死者の墓
西南戦争の犠牲者の墓碑を見ると、意外と戦闘での犠牲者より、戦争のあった翌年以降の犠牲者が多いことが目につく。当時の銃弾は鉛製であった。被弾した兵卒には、鉛中毒によって亡くなるケースが多かったと伝えられるが、ここに眠る兵士の何人かも或いはそういう犠牲者かもしれない。
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ロシア人墓地
日露戦争に際して捕虜とされたロシア人のうち、金沢には約六千人が連行された。うち病気等で亡くなった十名を慰霊する墓が陸軍によって建立されたものである。
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大久保利通暗殺者の墓
明治志士敬賛会
今回、金沢を訪れた最大の目的地が、野田山墓地の麓にある大久保利通暗殺者の墓であった。彼ら六人の墓は、谷中霊園にもあるが、こちらは言わば事務的に埋葬したという印象であるが、金沢の墓は彼らの所業を顕彰しているかの如き雰囲気が漂っている。一国の宰相を暗殺した犯人を持ち上げるというのは、どういう神経だろうか。確かに、彼らが時の独裁者的存在となった大久保利通を葬ったことは事実であるが、大久保の退場は結果的に薩長閥の世代交代を促進しただけのことである。この暗殺によって決して歴史が変わったとは思えない。
司馬先生は「翔ぶが如く」の中で次のように解説している。
--- 大久保を殺そう
というふうに島田が決意したのは、飛躍でもなでもない。殺すという表現以外に自分の政治的信念をあらわす方法が、太政官によってすみずみまで封じられているのである。(中略)
島田も、明治六年に左院に建白書を出したが相手にされず、これがために「腕力あるのみ」と覚悟し、さらには条令のために自分の政府批判を新聞などに発表することもできなかった。この意味からいえば、大久保が磁石になり、島田という鉄片をひきよせたといえなくはない。
(大乗寺)
大乗寺は、前田家の重臣本多家の菩提寺で、新旧二か所の本多家墓所に本多家累代の墓がある。鬱蒼とした森の中に仏殿、法堂、山門、総門が配置されている。明治二年(1869)に城内の二の丸で刺殺された本多政均の墓は、本多家の新墓所の入口に近い場所に建てられている。
本多政均は、天保九年(1838)に、本多正和の次男に生まれ、安政三年(1856)、兄政通の死により本多家を継いだ。万延元年(1860)、城代となる。文久三年(1863)、主命により上洛後、逼塞していたが、元治元年(1864)、世子前田慶寧退京処分を受けたのち、復権して尊攘派の処断に関与した。その後は、藩主のそばに従ってしばしば上洛した。一方で藩政改革にも手腕を発揮し、執政として権力を誇った。このことが守旧派の恨みを買い、城内で暗殺されることになった。年三十二。政均暗殺の裏には、元治の獄で重刑に処された尊攘派の手も動いていたといわれる。
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大乗寺
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十二義士の墓
政均の仇をうった十二人の家臣の墓は、政均の墓に寄り添うように建てられている。彼らが“仇打ち”を果たしたのが明治四年(1871)。その後、明治六年(1873)に仇討禁止令が出されたため、“最後の仇討”とも言われる。
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本多政均の墓