史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

金沢 野田山

2009年05月09日 | 石川県
(野田山墓地)

 北陸旅行の三日目は、許しを得て自由行動となった。電車マニアの息子は一人で氷見線に乗るといい、嫁さんと娘たちは世界遺産である五箇山の合掌造りの集落に行くという。私は迷いなく金沢の史跡巡りに向かうことにした。
 金沢の街の散策には、レンタサイクルが適している。自動車では渋滞に巻き込まれるし、観光地の駐車場はどこも満車である。ストレスなく、効率的に史跡を回るには自転車に勝るものはない。駅で自転車を借りると、私が最後の一台といわれた。今日は付いている。
 自転車の難点は、坂道に弱いことである。入手した市街地図では高低差が分からない。意外と金沢の街は坂道が多く、自転車には厳しかった。特に野田山は、金沢駅から遠く離れている。標高175mの山頂近くにある前田家の墓地に、自転車を押して到着したときにはかなりぐったりした。史跡巡りに必ずしも自転車が万能ではないということを思い知った。


前田利家墓所

 野田山の山頂に近い場所に加賀藩主前田家の墓所がある。一族の墓はいずれも神式で鳥居の裏に土塚を築き、石柱の墓標が建つ構造となっている。もっとも立派な墓は、藩祖前田利家のもの。その隣には大河ドラマの主人公にもなった利家夫人芳春院(名は松または昌)の墓もある。


前田斉泰墓所

 石段を少し下った位置に、十三代斉泰、十四代慶寧ら、幕末の藩主とその夫人の墓が並ぶ。
 前田斉泰の夫人、景徳院(偕、溶姫)は十一代将軍家斉の二十一女であった。加賀藩は、最大の雄藩でありながら、江戸期を通じて幕府には従順であった。幕府に阿諛することが、外様が生き抜くための処世術と心得ていたらしい。徳川家と婚姻を重ね、そういう意味では譜代大名よりもずっと親幕的であった。特に将軍の娘を正室にもった斉泰は、最後まで佐幕派であった。
 斉泰は、文政五年(1822)から慶応二年(1866)の長期に渡り藩主の座にあり、家督を慶寧に譲ったあとも、隠然たる影響力を有していた。斉泰は明治十七年(1884)、七十四歳で没している。


前田慶寧墓所

 十四代藩主慶寧は、父斉泰とは異なり心情的には勤王派寄りであったが、結局父の方針には逆うことはできなかった。大藩である加賀藩が幕末を通じて存在感を発揮することができなかった最大の要因がここにあったと言える。慶寧は明治七年(1874)に熱海で没している。享年四十五であった。

 前田家墓所から下がったところに、石川県戦没者墓地がある。広くて静謐な敷地内に西南戦争以降太平洋戦争に至るまで、戦死者の墓が並んでいる。


石川県戦没者墓地 陸軍戦没者墓地
西南戦争戦死者の墓

 西南戦争の犠牲者の墓碑を見ると、意外と戦闘での犠牲者より、戦争のあった翌年以降の犠牲者が多いことが目につく。当時の銃弾は鉛製であった。被弾した兵卒には、鉛中毒によって亡くなるケースが多かったと伝えられるが、ここに眠る兵士の何人かも或いはそういう犠牲者かもしれない。


ロシア人墓地

 日露戦争に際して捕虜とされたロシア人のうち、金沢には約六千人が連行された。うち病気等で亡くなった十名を慰霊する墓が陸軍によって建立されたものである。


大久保利通暗殺者の墓
明治志士敬賛会

 今回、金沢を訪れた最大の目的地が、野田山墓地の麓にある大久保利通暗殺者の墓であった。彼ら六人の墓は、谷中霊園にもあるが、こちらは言わば事務的に埋葬したという印象であるが、金沢の墓は彼らの所業を顕彰しているかの如き雰囲気が漂っている。一国の宰相を暗殺した犯人を持ち上げるというのは、どういう神経だろうか。確かに、彼らが時の独裁者的存在となった大久保利通を葬ったことは事実であるが、大久保の退場は結果的に薩長閥の世代交代を促進しただけのことである。この暗殺によって決して歴史が変わったとは思えない。
 司馬先生は「翔ぶが如く」の中で次のように解説している。
--- 大久保を殺そう
というふうに島田が決意したのは、飛躍でもなでもない。殺すという表現以外に自分の政治的信念をあらわす方法が、太政官によってすみずみまで封じられているのである。(中略)
 島田も、明治六年に左院に建白書を出したが相手にされず、これがために「腕力あるのみ」と覚悟し、さらには条令のために自分の政府批判を新聞などに発表することもできなかった。この意味からいえば、大久保が磁石になり、島田という鉄片をひきよせたといえなくはない。

(大乗寺)
 大乗寺は、前田家の重臣本多家の菩提寺で、新旧二か所の本多家墓所に本多家累代の墓がある。鬱蒼とした森の中に仏殿、法堂、山門、総門が配置されている。明治二年(1869)に城内の二の丸で刺殺された本多政均の墓は、本多家の新墓所の入口に近い場所に建てられている。
 本多政均は、天保九年(1838)に、本多正和の次男に生まれ、安政三年(1856)、兄政通の死により本多家を継いだ。万延元年(1860)、城代となる。文久三年(1863)、主命により上洛後、逼塞していたが、元治元年(1864)、世子前田慶寧退京処分を受けたのち、復権して尊攘派の処断に関与した。その後は、藩主のそばに従ってしばしば上洛した。一方で藩政改革にも手腕を発揮し、執政として権力を誇った。このことが守旧派の恨みを買い、城内で暗殺されることになった。年三十二。政均暗殺の裏には、元治の獄で重刑に処された尊攘派の手も動いていたといわれる。


大乗寺


十二義士の墓

 政均の仇をうった十二人の家臣の墓は、政均の墓に寄り添うように建てられている。彼らが“仇打ち”を果たしたのが明治四年(1871)。その後、明治六年(1873)に仇討禁止令が出されたため、“最後の仇討”とも言われる。


本多政均の墓

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金沢 寺町

2009年05月09日 | 石川県
(妙立寺)
 “忍者寺”として知られる妙立寺は、実際には忍者と何の関係もないが、建物内に色々なからくりがあるため、このように呼ばれている。妙立寺は、幕末史とはあまり関わりはない。子供たちが妙立寺を拝観している間に、近くの寺町を散策してみた。因みに妙立寺の見学に要する時間は四十分ほど。これだけの時間があれば、この周辺に在る三光寺、承証寺、玉泉寺、大円寺、法光寺を見て回るには十分である。


妙立寺

(三光寺)


三光寺

 妙立寺の隣が三光寺である。紀尾井坂にて大久保利通を暗殺した石川県士族、島田一良、長連豪らがここで会合を重ねたため、彼らは三光寺派と呼ばれた。維新に乗り遅れたという意識にとらわれた三光寺派は、新政府の要人暗殺に走った。彼らは大久保利通暗殺に成功すると斬奸状を胸にその足で自首し、事件の二ヶ月後には六人全員が処刑された。

(承証寺)
 妙立寺の向かい側には、承証寺が建つ。本堂の前に、福岡惣助の墓がある。福岡惣助は加賀藩与力で藩の探索方として活躍していた。元治元年(1864)の禁門の変の後、藩内の尊王討幕派が肅清され、福岡惣助も生胴の刑(生きたまま日本刀で胴体を真っ二つにする刑)に処せられた。傍らの一字一石の供養塔は、惣助の死を嘆いた祖母が、法華経を小石に写経して納めたといわれるものである。


承証寺


福岡惣助の墓(左)と一字一石の供養塔

(玉泉寺)


玉泉寺
正七位清水誠墓

 妙立寺から歩いて五分程度で玉泉寺に行き着く。玉泉寺は、二代藩主利長夫人の菩提寺という名刹であり、かつては広大な寺域を誇ったが、現在はどこに寺があるのかも分からないくらいである。辛うじて墓地だけは残されており、その中に旧加賀藩士族清水誠の墓がある。清水誠はフランス留学から帰国すると、そこで学習した知識を活かしてマッチの工場生産に成功したことで知られる。

(大円寺)


大円寺

大円寺には、三光寺派とともに加賀藩を二分していた忠告社が事務所を置いていた。忠告社は、杉村寛正や長谷川準也ら一時は千人を抱える政治結社であった。やがて彼らは、民権運動に接近していくことになり、武力による抵抗を唱えて脱盟した島田一良ら三光寺派とは明確に一線を画することになった。

(法光寺)


法光寺

 忠告社の本拠地大円寺の隣には、島田一良らの大久保暗殺に際して斬奸状を書いた陸義猶(くがよしなお)の碑が建っている。陸義猶は、終身刑の判決を受けている。


陸義猶之碑

(棟岳寺)
 寺町からは少し離れるが、棟岳寺には水戸藩士永原甚七郎の墓と水戸藩義勇塚がある。永原甚七郎は、元治元年(1864)の天狗党の乱に際して、加賀藩勢千人を率いて監軍(総指揮者)として敦賀に出兵した。加賀藩勢は天狗党と対峙していたが、説得と交渉を重ねた結果、天狗党は武装解除し降伏と決した。永原は天狗党に同情的で彼らを武士として扱おうとしたが、結局彼らの身柄は敵意を抱く田沼意尊に引き渡されたため、全員死罪という非情な最期を迎えることになった。助命嘆願のために京都に向かった永原は、結果的に自分が彼らを欺いたことになったことに自責の念にとらわれたであろう。墓の横に置かれた水戸義勇塚を前にすると、永原甚七郎の無念が伝わってくる。


曹洞宗 棟岳寺


永原甚七郎之墓(左)水府義勇塚

 同寺には、我が国蘭方医の先駆者といわれる吉田長淑の墓がある。加賀藩主前田治脩が病気で倒れたときに、師の宇田川玄真の推薦により藩医となった。以来、加賀藩の庇護を受けることになる。門弟に高野長英、渡辺崋山、小関三英ら、そうそうたる顔触れが名を連ねる。


江戸 吉田長淑之墓

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金沢

2009年05月09日 | 石川県
(金沢城公園)
 今年のGWは、家族で北陸地方に旅行に行くことになった。発端は、電車マニアの息子が北陸フリー切符を使って寝台特急に乗りたいと言い出したことである。息子によると、北陸フリー切符には、新幹線を含む北陸までの特急料金、寝台料金も含まれ、しかも指定区間の列車は乗り放題。一人当たり何万円もトクだという。しかし考えてみれば、ETCの休日割引を利用して自動車で往復すれば、家族五人でその何分の一かのコストで済んだはずである。息子は「自動車だったら運転手であるお父さんが寝られない」というが、もともと寝台列車で安眠できたためしがない。しかも相部屋になった若い男のいびきが凄まじく、まるでライオンの檻にでも入れられたようであった。金沢には朝の六時半に着いたが、そのときには寝不足でフラフラであった。二酸化炭素の排出量削減に貢献したと自分に言い聞かせるしかない。
 金沢の街を訪れたのは、当時福井に住んでいた中学生のとき以来、三十五年以上も昔のことである。母方の祖父に連れられて兼六園を歩いた記憶がある。そう思って古いアルバムをひも解いてみると、全く覚えがないが、高校の遠足で金沢を訪れていたようで、そこから起算すると三十年振りということになる。
 金沢というと京都を彷彿とさせる古い町並みが連想されるが、金沢駅はドーム状の屋根を持つ現代的なデザインに生まれ変わっていた。町並みも随分と垢抜けた印象であるが、しばらく歩きまわってみると、市内の至るところに寺町や武家屋敷があって、昔ながらの風情も残されている。
 旅の始まりは、定番であるが、金沢城と兼六園からである。


金沢城
手前が菱櫓

 私の記憶によると、金沢城跡には金沢大学が建っていたように思うが、いつの間にか大学は移転していた。平成十三年(2001)、菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓が史実に忠実に復元再建されている。金沢城は、度重なる火災により、ほぼ全ての建物が焼失した。石川門(天明八年(1788)再建)と本丸の三十間長屋(安政五年(1858)建築)だけが明治以前の遺物である。


石川門

 俗に“加賀百万石”と称されるように加賀藩は全国でも最大の雄藩であった(石高は、厳密には百二万三千石)。にも関わらず、幕末には目立った活動がなく、維新を迎えている。江戸や京都から離れているという地理的な問題に加えて、藩の親幕志向によるもの、更に藩内の派閥抗争の結果であろう。
 幕末の藩主は、前田慶寧(よしやす)である。当時三十五歳の世子の側近には、松平大弐や、千秋順之助、不破富太郎、大野木仲三郎といった勤王派の人材が付き添い、元治元年(1864)の禁門の変の際には、京都にあって長州藩のために斡旋しようと働いたが失敗し、退京を命じられた。幕府の圧力を恐れた斉泰は、慶寧を加賀に呼び戻して勤慎を命じ、藩内の尊王討幕派四十名に切腹、死罪、禁獄、流罪を申しつけた。これにて加賀藩内の勤王派の動きは封じられた。

(兼六園)
 岡山の後楽園、水戸の偕楽園と並んで天下の三名園と称される兼六園は、五代藩主前田綱紀が、延宝四年(1676)に金沢城の外郭の地に、蓮池御亭を建ててその周辺に作庭したことに始まる。その後、十一代藩主治脩(はるなが)、十二代藩主斉広(なりなが)十三代藩主斉泰(なりやす)らの手によって、今日の姿へと仕上げられた。


兼六園 霞が池

 手前右は徽軫(ことじ)灯籠。左手奥は唐崎松(からさきのまつ)といって、十三代藩主斉泰が、琵琶湖畔の唐崎から種子を取りよせて育てたといわれる黒松である。

 兼六園の南一帯に広がる梅林は、かつて長谷川邸跡広場と呼ばれた広場であった。ここにはかつて第二代の金沢市長を務めた長谷川準也の邸宅があった。長谷川は旧士族出身で、士族救済を目的に金沢に銅器会社や撚糸工場を興したことでも有名である。


兼六園 梅林周辺

(尾山神社)
 香林坊の繁華街のすぐ近くに、ひときわ異様な神門が目を引く尾山神社がある。祭神は藩祖前田利家。
 この神門は、長谷川準也らが主導して明治八年(1875)に完成を見た。三層構造の一階部分は日本の伝統技術である木彫りの装飾を配し、上層部には西洋風のステンドグラスが使われている。更に頂上には避雷針が載せられている。私の個人的な感覚では、いかにも鳥居や本殿とはマッチしていない趣味の悪い構造物としか思えない。
 この奇妙な神門によって荒廃した尾山神社を再興するとともに、文明開化を庶民に実感させようという意図があったという。長谷川準也は「ことさら珍奇を衒うものではなく、強いて伝統を踏襲せず、堅固を目指した」と語っている。


尾山神社 神門


尾山神社本殿

(藩老本多蔵品館)
 兼六園の南西に、藩老本多蔵品館がある。この地には、加賀八家といわれる加賀藩の家老職を務める門閥の一つである本多家の屋敷があった。本多家は、徳川家康の重臣本多正信の次男で、やはり徳川家に重用された本多正純を兄に持つ本多政重を祖とする。幕府を恐れた加賀前田家では、本多家と強い繋がりを持つことで安泰を図ろうとしたのであろう。本多家は五万石という大名並みの高禄で処遇され、歴代当主は重職を担った。幕末には本多家十一代当主政均(まさちか)が、加賀藩の執政に任じられ、藩政を取り仕切ったが、保守派の反発を受けて暗殺されている。時に明治二年(1869)八月のことである。既に世は明治となり、版籍奉還が断行されて中央集権化が着々と進行しているこの時期に、加賀藩では藩内抗争に明け暮れていたのである。後世から見ると、“コップの中の嵐”以外の何物でもない。
 更にこの抗争は続き、明治四年(1871)十一月、政均の家臣十二人が処罰を逃れた暗殺者を仇討にした。今から見れば、驚くほどの時代錯誤である。


藩老本多蔵品館

 藩老本多蔵品館では、歴代本多家の所有していた武具や調度品、古文書などを保管、陳列展示している。政均の遺品や肖像画なども見ることができる。

(東本願寺金沢別院)
 金沢駅前にある東本願寺金沢別院(東別院)は、十七世紀初頭にまでその歴史を遡ることができるが、明治に入って火災により壮大な伽藍を焼失し、その後再建されて太平洋戦争の戦火も逃れたが、昭和三十七年(1962)に再び火災により全焼した。現在、建てられている本堂は巨大にして頑丈なコンクリート造りのものである。
慶応四年(1868)三月、新政府の北陸道先鋒総督が東別院を宿舎とすると、加賀藩は越後出兵に協力を申し出ることになった。


東本願寺金沢別院

(長町武家屋敷群)


長町武家屋敷群 大野庄用水


野村家
床の間の掛け軸は、十三代藩主斉泰の書(右)と十四代慶寧のもの

 金沢随一の繁華街である香林坊から少し露地を入ると、長町の武家屋敷の落ち着いた町なみに出会う。武家屋敷のうち、旧野村家は藩祖前田利家が金沢城に入城した際に従ってきたという直臣である。十代にわたって馬廻組組頭各奉行職を歴任し、廃藩まで続いた名家であった。庭園は縁側まで池が迫る贅沢な作りである。居間の掛け軸は藩主から下賜されたものであろう。この屋敷にいるだけで、贅沢な時間を過ごすことができる。

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岩瀬浜

2009年05月09日 | 富山県
(北前回船問屋 森家)


北前回船問屋 森家

 富山駅からライトレールという2両編成のかわいい鉄道に乗り換え、二十分ほどで終点の岩瀬浜駅である。岩瀬の街は、旧北国街道に面しており、北前航路が最盛期に建てられた回船問屋が建ち並んでいる。北前航路は、江戸初期から日本海を行き来する重要航路である。明治六年(1873)に大火があり、そのとき約千戸のうち六百五十戸が焼失したが、回船問屋の財力を背景に町は再建された。今も馬場家、森家など往時を偲ぶ家屋が残されている。

 森家は四十物屋(あいものや)と号し、北前船の船主、肥料商などと取引のあった回船問屋であった。この屋敷は、明治十一年(1878)に再建されたもので、建物に入ると、母屋の吹き抜けの天井の格子状の梁が出迎えてくれる。その造形美に圧倒される。

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富山

2009年05月09日 | 富山県
(富山城)


富山城

 富山城の歴史は、十六世紀まで遡る。その後、織田信長の家臣、佐々成政も入城したが、その後、加賀藩の二代藩主前田利長が隠居所として入城した。しかし慶長十四年(1609)に焼失したため、本格的に城が再建され、城下町が整備されたのは、富山藩主として前田利次が任じられた万治三年(1660)以降である。以降、明治六年(1873)の廃城となるまで十三代にわたって前田家が城主となった。
 加賀藩の支藩である富山藩は、宗藩の動きと無縁ではあり得なかった。鳥羽伏見の戦いが始まると、藩内は革新、守旧両派の抗争を経て、結局、慶応四年(1868)四月、会津征討に派兵することになった。

(神通川船橋跡)


神通川船橋跡

 富山藩祖前田利次の時代、富山の街造りに着手した利次は、この地に左右二条の鉄鎖を渡し、それに六十四艙の船を繋ぎ、三枚の板を敷いて船橋とした。明治十六年(1883)に板橋に架け替えられるまで、富山名物として全国に知られた。


頼三樹三郎詩碑

 左右両岸に、寛政十一年(1799)町年寄内山権右衛門が寄進した常夜灯が建てられているが、左岸の常夜灯のかたわらには頼三樹三郎の詩碑が建っている。頼三樹三郎は、諸国遊歴の途中に愛宕町に逗留して神通川の船橋を詠んだ。

 神通川即吟
 鉄鎖横江万丈長 急流如矢響琅々
 五更鴉唱人蹝白 六十四梁舟板霜

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栃木

2009年05月09日 | 栃木県
(出流山 満願寺)


出流山 満願寺

 出流山満願寺は、慶応三年(1867)十一月末に江戸薩摩藩邸を出た浪人が倒幕のために挙兵した出流山事件の舞台となった場所である。
 栃木市内から出流山まで約十五キロメートル。単調な道のりであったが、田舎なのに大きなダンプトラックが行き交うので油断はならない。ダンプトラックが多いのは、出流山の入口に石灰鉱山があるためである。三十分ほど自動車を走らせて、ようやく満願寺に行き着く。


満願寺山門

 出流山事件は、今や忘れられた史実と化しているといっても良いだろう。背後には幕府の後方を霍乱しようという薩摩藩の存在があったという。相良総三、竹内啓、権田直助、会沢元助、西山謙之助らが率いる浪士約三百は、満願寺に立て籠もること十日余りで、幕府の命を受けた足利藩、壬生藩、真岡代官に鎮圧された。生け捕りにされた四十八名が処刑されている。幕末の“あだ花”のような事件である。

(大平山神社)
 吉村昭の長編小説「天狗争乱」は、水戸天狗党が栃木の大平山に立てこもるところから始まる。天狗党は元治元年(1864)四月十四日から翌月五月末まで、約1ヵ月半にわたり、大平山神社の塔頭の一つである連祥院に滞陣した。当時の天狗党総帥は田丸稲之右衛門。神衛隊を率いる藤田小四郎も、田丸に従っていた。


太平山神社


水戸天狗党大平山本陣跡

 現在の大平山神社には、天狗党に関わる史跡は、ほとんど残されていない。随神門前の石段をしばらく下ると、栃木市観光ボランティアが建てた木柱があり、そこに水戸天狗党大平山本陣跡の由来を記してある。
 更に随神門前の舗装道路を進むと、謙信平に出る。ここから栃木方面を見下ろすことができる。


天狗党鎮魂碑

 ほとんど読み取れないが、「懐昔勤王士 義旗此地揚 方今頼無事 題石米元章 紀元二五四一年」と刻まれているらしい。明治十四年(1881)、この地を訪れた高鍋藩主秋月種樹が発起人となって建碑されたものである。


謙信平からの眺望

(定願寺)


定願寺

 栃木市内の定願寺は、元治元年(1864)の天狗党の乱の際、天狗党が本陣を置いた寺である。栃木の街は、天狗党田中愿蔵隊により全焼した。

(正仙寺旧侍墓地)
 正仙寺には墓地が残されているのみで、建物らしきものは見当たらない。よくお寺が幼稚園を経営しているケースを見かけるが、どうやらここでは幼稚園だけが存続しているように見える。


正仙寺旧侍墓地

 吹上町は、今や栃木市の一部でしかないが、かつて独立した一藩であった。
 吹上藩は、有馬氏一万石の小藩である。有馬氏は、久留米有馬氏の分家でありながら、紀州徳川家に従っていたため譜代扱いとなっていた。天保十三年(1842)にこの地に転封されて吹上藩を立藩した。幕末の藩主は、有馬氏弘。戊辰戦争に際して官軍に恭順を決し、奥州まで派兵した。維新後、吹上藩は廃藩置県と同時に栃木県および宇都宮県に統合された。従って吹上藩の存在は、三十年という短期間であった。
 戊辰戦争で吹上藩兵は四名の戦死者を出した。これに対して朝廷より下された賞典禄の一部を、藩老らが藩主を欺いて横領したため、正義派と称する武士九名が江戸藩邸を襲い、藩老らの首を挙げて自訴した。正仙寺旧侍墓地には、彼ら忠義の士の墓がある。

(一乗院)


一乗院


会津藩士の墓

 一乗院には、戊辰戦争で戦死した会津藩士江花七之助と柴謙介の墓がある。官軍の墓は多いが、この地域で旧幕府側の兵士の墓が残されているのは、珍しい。

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壬生 安塚

2009年05月09日 | 栃木県
(安塚)


戊辰戦役の碑

 戊辰戦役の碑は、安塚の戦いで戦死した旧幕軍兵士三十四名の霊を弔うために明治十三年(1880)に建てられたものである。


安塚 戊辰戦争戦死者の墓

 安塚の交差点に当地で戦死した土佐藩士の墓が残されている。

 慶応四年(1868)四月二十二日、宇都宮を制圧した旧幕軍に対し、宇都宮奪還を企てる新政府軍が激突したのが、現・壬生町の北郊の安塚である。旧幕軍は、安塚の新政府軍を正面から攻める主力部隊、迂回して東から安塚を攻める別働隊、更に新政府軍が宇都宮攻城戦の本拠地と定めた壬生城を襲う部隊の三方に分かれて新政府軍に向かった。増援により体制を立て直した新政府軍に対し、別働隊が道に迷って現地に到着せず、三方攻撃がうまく機能しなかった旧幕軍は、多数の戦死者を出して潰走した。

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宇都宮

2009年05月09日 | 栃木県
(宇都宮城址公園)
 このたび十余年振りに自家用車を買い替えることになった。車輌がうちに届いて、最初の外出先に宇都宮を選んだ。
 これまで乗っていたのは八人乗りのワンボックスカーである。それなりに良く走るし、何よりも十年分の想い出もあるので、なかなか手放す決心がつかなかったが、さすがに十年を超え老朽化も目立つので、今が替え時と判断した。
 新車は、ETCやカーナビなど最新鋭の機器を載せたコンパクトカーである。排気量は大きくないが、高速道路での加速も満足のいくものであるし、高速走行時も静かだし、それでいて燃費はこれまで乗っていた車より数倍良い。十年間の技術の進歩を実感することになった。何よりも感心したのはカーナビの便利さである。今まで史跡訪問といえば、地図とにらめっこしながら悪戦苦闘していたが、カーナビがあればどっちを向いて走っているか分からなくても迷うことなく目的地に行き着くことができるのである。「何を今さらカーナビごときに…」と呆れられるかもしれないが、文明の進化に感激した一日となった。

 宇都宮は幕末、戸田氏七万石の城下であった。上野戦争のあと、官軍と旧幕軍がこの地で最初に大規模な戦闘に突入した。当時、宇都宮城は「関東七名城」の一つと言われる大きな城であったが、この戦火で建物も大半を焼失し、次第に堀も埋められて、往時を偲ぶものはほとんど残っていない。平成十九年(2008)三月、清明台と富士見櫓、築地塀などが復元され、宇都宮城址公園として整備された。


宇都宮城 再建された清明台


贈従三位戸田忠恕之碑

 宇都宮城の歴史は平安時代まで遡る。鎌倉時代から戦国期にかけて、約四百年にわたって宇都宮氏がここを本拠地としていた。宇都宮氏が秀吉に滅ぼされ所領を没収されると、以降頻繁に城主が変わったが、十八世紀初頭に越後高田から戸田氏が転封され、明治維新を迎えるまで七代に渡って宇都宮藩主となった。

(英厳寺跡)
 英厳寺は戸田氏の菩提寺で、越後高田から転封に伴い、宇都宮に移されたものである。江戸時代には広大な寺地と多くの堂宇を有していたが、やはり戊辰戦争の戦火によりそのほとんどを失った。
 現在は、せまい敷地内に戸田氏歴代の墓地が残されているのみである。
 最初に出会うのが、戸田忠恕(ただゆき)の墓である。忠恕は(1856)十歳のときに家督を継ぎ、慶応元年(1865)二十二歳という若さで世を去っている。尊王の志が厚く、山陵の修補に熱心であった。宇都宮城址公園内の巨大な石碑は、そのことを顕彰したものである。


宇都宮矦忠烈戸田公之墓
(戸田忠恕の墓)

 忠恕の墓の隣には、最後の藩主となった戸田忠友の墓、更にその左には戸田忠明(忠恕の先代)までの十一代の合葬墓がある。


従二位勲三等子爵戸田忠友

(栃木護国神社)


栃木護国神社

 栃木県護国神社は、戊辰戦争での戦死者を祀るために、明治五年(1872)、当時の宇都宮藩知事戸田忠友が創建した招魂社が前身となっている。

(宇都宮藩軍夫の墓)
 宇都宮市街には、戊辰戦争の戦跡、特に戦死した兵士の墓が、各地に散在しており、宇都宮を巡る攻防の激しさを物語っている。結局、一日では回りきれなかったので、残りは次の機会に持ち越しすることにした。


官軍 舊宇都宮藩軍夫
菊池長吉
山口龜吉  之墓
關口竹三郎

 戊辰戦争を迎える頃、宇都宮藩領では農民による一揆が多発していた。宇都宮藩では一揆の鎮定に疲弊しており、そのため旧幕軍の猛攻に耐え切れずあっさり城を明け渡してしまったといわれる。

(光徳寺)


光徳寺

 宇都宮藩軍夫三名の墓がある梁瀬町付近も激しい戦闘が展開された場所である。同町に所在する光徳寺にも戊辰戦争の戦死者の墓がある。


戊辰戦争戦没者
諏訪順八源美信
渥美豊吉政信 之墓

(宇都宮二荒山神社)


宇都宮二荒山神社

 宇都宮市街の繁華街の中にある二荒山神社は、戊辰戦争で土方歳三率いる新選組が陣を敷いた。やはり戊辰戦争の戦火にあって全山を焼失し、現在の社殿は明治十年(1877)に再建されたものである。

 本殿に至る坂道に蒲生君平を顕彰する巨大な石碑が建てられている。蒲生君平は、高山彦九郎、林子平とともに「寛政の三奇人」と称される。歴代天皇陵が荒廃していることを嘆き、「山陵誌」を著して修復の必要性を説いた。明治十四年(1881)、特旨により正四位を贈られた。これを受けて有志の間で記念碑を建てようという動きが起こり、明治二十二年(1889)、この石碑の除幕完成を見た。篆額は有栖川熾仁親王、撰文は重野安繹、書は巖谷修。発起人には久我建通、東久世通禧、戸田忠友らが名を連ねる、堂々たる石碑である。


贈正四位蒲生君平之碑

(桂林寺)


桂林寺

 桂林寺には、蒲生君平の墓がある。
 蒲生君平は明和五年(1768)、宇都宮に生まれ、四十六歳で江戸で亡くなっている。江戸谷中の臨江寺に埋葬されているが、その後宇都宮の有志により改葬の議論が起こり、桂林寺の祖先(福田氏)の墓域に、遺髪を分葬して墓が建てられた。


贈正四位修龍院殿丈山義章大居士
蒲生君平の墓


官修墓地
中川武昌之墓

 桂林寺にも戊辰戦争戦没者の官修墓があると聞いたので、広い墓地を歩き回った末にようやく一つの官修墓地を発見した。

(大運寺)


官修墓地
岩村田藩卒 小林庄之助(右)神津九市墓

 材木町から西原町にかけての一帯も戊辰戦争で激戦が展開されたらしく、戦死者の墓が多数残っている。大運寺は、道路の拡幅工事に伴い移転再建され、寺の建物はまるで寺らしくない造りになっているが、戊辰戦争戦死者の墓をそのまま移設して保存しているのは嬉しい。

(安養寺)
 安養寺の道を隔てた向かい側の墓地、入口付近に官修墓地がある。墓の側面に、「官軍土佐藩士」とある。


安養寺


官修墓地
高橋喜佐治好幸墓

(観専寺)


観専寺

 安養寺からすぐの場所に観専寺がある。やはりここにも官修墓地がある。


官修墓地

(光琳寺)


光琳寺


戊辰の役官軍 山国隊士 因幡藩士 之墓

 光琳寺の本堂の前に、鳥居をともなった官軍の墓地がある。山国隊は、因州藩士が結成したもので、戦死者の墓には、因州出身の「隊長 河田佐久馬」の名前も見ることができる。

(六道の辻)
 六道の辻周辺も激戦となったらしく、あちらこちらに兵士の墓が建てられている。
 六道の辻にも鳥居を持つ墓が建てられ、墓前には花が飾られている。今に至るまで手厚く葬られていることが伝わってくる。


戊辰役戦士墓

 傍らに建碑の主旨を刻んだ碑が建てられている。慶応四年(1868)九月、官軍に属して会津征討に従軍した宇都宮藩兵は、会津城下の飯寺村にて越後長岡藩兵と激突した。宇都宮藩戸田三男隊は、敵将山本帯刀以下の会津藩兵を捕え、斬首することになった。彼らは従容として死に臨んだが、金二百両を差し出し処置を戸田三男に委ねた。この墓は、このとき落命した長岡藩兵および、六道口の戦闘で戦死した会津藩兵ら旧幕府側の犠牲者を合葬したものである。

(報恩寺)


報恩寺

 報恩寺の門をくぐると、右手に薩摩藩戦死者之墓、左手に戦死烈士之墓、長州藩出身者ら官軍兵士の墓が並んでいる。


戊辰 薩藩戦死者之墓


戦死烈士之墓


官軍兵士の墓

(一向寺)


一向寺


官修墓地
倉田彌重之墓

 一向寺の墓地の一角にも官修墓地がある。近くには倉田家の墓地もあるので、恐らく墓の主は地元宇都宮藩の者だろう。

(幕田 戦士死十七名霊)


戦士死十七名霊

 宇都宮市幕田地区は、壬生町安塚に近接しており、ここに宇都宮の戦いの前哨戦である安塚近辺の戦闘で戦死した兵士を弔った墓が建てられている。墓碑の文字は風雪を経て磨耗してほとんど読み取れない。指でなぞって辛うじて「戦士死十七名霊」と読み取ることができた。

コメント (2)
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