(駿府城跡)
駿府城巽櫓・東御門
泊まりがけの合宿や研修が続き、その上前日は夜遅くまで飲んだのでダメージが残っていたが、予定とおり静岡を散策することにした。先ず、静岡駅構内にある観光案内所で、この近くに自転車を貸してくれるところはないか聞いてみたが、やはり「無い」という返事であった。しかたなく、歩いて史跡を訪問することになった。終日、曇ってはいたが、蒸し暑くてかなり汗をかいた。これほど魅力的な史跡に溢れる静岡の街に、貸し自転車がないというのは理解に苦しむ。採算の覚束ない地方空港を造るより、貸し自転車の方が余程利用価値が高いように思うのだが…。
静岡駅から十分程度歩くと、広大な駿府城公園に行き着く。天守閣などの建造物は全く残されておらず、唯一東南隅に巽櫓と東御門が再建されているだけである。
徳川家康像
徳川家康が七歳から十八歳まで、今川家の人質として暮らしたことで知られる駿府城に、その後武田氏を追った家康が天正十三年(1585)浜松城から移った。しかし、ほどなく豊臣秀吉により江戸に移封され、さらに関が原の戦後、その地で幕府を開くことになる。将軍職を次男秀忠に譲ると、家康は慶長十二年(1607)に再び駿府城に入り、以後大御所として実権を握った。家康は元和二年(1616)七十五歳にて駿府城内で亡くなった。非常に家康と所縁の深い城である。
江戸時代、秀忠の二男忠長が改易されて以降、駿府には城主が置かれず、城代が置かれた。
維新後、徳川慶喜に代わって徳川家を継いだ徳川家達(幼名:亀之助)が駿府七十万石を与えられ藩主に就き、廃藩置県により東京に移り住むまで、この地に居住した。
静岡学問所之碑
駿府城周辺には、多数の史跡が残っている。駿府公園の西側、地方法務合同庁舎の前のお堀端に建てられている静岡学問所の石碑を訪ねておきたい。静岡学問所は、駿府藩の人材養成を目的に明治二年(1869)に創設されたものである。教授陣には、向山黄村、津田真一郎(真道)、中村正直(敬宇)、外山捨八(正一)ら当代一流の学者が名を連ねた。このほかに海外からも学者を招いた。間違いなく静岡学問所の教育水準は当時我が国で最高を誇っていた。しかし、明治五年(1872)、学制発布とともに教授、学生とも東京に移住したため、廃校となった。
教導石
静岡県庁の前、三の丸の堀端には、教導石が建っている。これは明治十九年(1886)、地元の有志が住民のために建立されたもので、「教導石」の文字は山岡鉄舟が書いている。
「尋ネル方」に質問を書いた紙を貼っておくと、反対側の「教エル方」に回答が出るという仕組みで、現代でいえばインターネットの相談コーナーみたいなもので、なかなか優れたアイデアである。尋ね事のほか、店の開業広告、発明品や演説会の広告、遺失物や迷子などが掲示されたという。
駿府町奉行所址
札之辻址
御幸通りを渡って、静岡市役所には駿府町奉行所址の碑が建てられている。駿府町奉行がこの地に置かれたのは、寛永九年(1632)のことで、以後明治元年(1868)まで六十三名が町奉行として任命された。町奉行は、裁判、町政、宿場の管理など、広範な業務を所管していた。
駿府町奉行所址の石碑を七間町方面に一筋進むと、賑やかな交差点の一角に札之辻の碑が建っている。江戸時代、ここには駿府町奉行所によって高札場が設けられ、幕府の政策や法令が掲示されていたという。
静岡御用邸跡 明治天皇御製碑
静岡市役所の場所には、明治三十三年(1900)に御用邸が建てられた。御製歌碑には、明治天皇の歌が刻まれている。当時、二階から富士山を臨むことができたそうである。
はるかなるものと 思いし富士の根を のきはにあふぐ 静岡のさと
(西草深公園)
西草深公園
浅間神社の東側、西草深公園がある。この公園を含む西草深町一帯に、明治二年(1869)六月、静岡藩主となった徳川家達が屋敷を構えた。当時、使われていた門が市立静岡高等学校に移設されている。
徳川慶喜公屋敷跡
やはり西草深町の一角に徳川慶喜公屋敷跡の石碑が建てられている。
慶喜は、慶応四年(1868)七月から静岡の宝台院で謹慎生活を続けたが、明治二年(1869)に勤慎を解かれて、紺屋町の駿府代官屋敷(現・浮月楼)に移り住んだ。慶喜はここで約二十年を過ごしたが、明治二十一年(1888)にかつて家達が住んでいた西草深町に引っ越し、東京に戻る明治三十年(1897)までをここで過ごした。慶喜が去った後の徳川邸は、「葵ホテル」として利用され、明治三十七年(1907)には日露戦争の捕虜収容所の一つとしても使われたが、翌年火事により焼失し、その後再建されることはなかった。
(富春院)
富春院
浅間神社からひたすら北に向かって歩く。やがて左手に朱色の門が見える。これが富春院の山門である。門の前に「尚志」と刻まれた小さな石碑が置かれている。福沢諭吉が三田聖人と呼ばれたのに対し、中村正直(敬宇)は江戸川聖人と称された。石碑には江戸川聖人中村敬宇先生が西国立志編を訳述したこと、この付近に居宅があったことが記されている。
尚志碑
(臨済寺)
臨済寺
関口隆吉之墓
臨済寺は、今川義元の兄氏輝の菩提寺で、義元の軍師として知られる太原雪斉(たいげんせっさい)による開山である。境内墓地には、氏輝と太原雪斉の墓もある。
墓地中腹には、幕臣出身の関口隆吉(たかよし)の墓がある。関口隆吉は、米艦隊が浦賀に来航すると強硬な攘夷論を唱え、開国派の勝海舟を襲って失敗した。このことが機縁となって、海舟と交友を結んだ。明治元年(1868)の江戸開城にあたっては、精鋭隊頭取と町奉行支配組頭を兼帯し、更に閏四月には市中取締役頭となった。維新後は、地方官として活躍し、明治八年(1875)には山口県令に昇進。翌年、前原一誠が萩の乱を起こすと、直ちにこれを平定した。西南戦争時には前原残党の蠢動を許さなかった。元老院議官などを経て、明治十七年(1884)には静岡県令、同十九年に同県知事となった。特に牧の原台地の開拓に力を注いだという。明治二十二年(1889)四月、愛知県招魂祭に出席する途上、列車事故に遭い負傷し、このときの怪我が原因となり死去した。行年五十四。なお、広辞苑の編者として有名な新村出は、関口の長男である。
(蓮永寺)
蓮永寺
蓮永寺まで、観光案内所に行き方を教えてもらいバスで行くことにした。最寄のバス停は三松である。
勝海舟翁 母信子 妹じゅん の墓
墓前の朽ちかけた墓標には、「母信子 妹じゅんの墓」とあるが、海舟の父小吉も一緒に葬られているようである。妹じゅんは、佐久間象山に嫁いでいたが、象山が元治元年(1864)に京都で暗殺されたので、要するに出戻って静岡で一緒に生活していたのであろう。
母信子は、明治三年(1870)三月二十五日に静岡で亡くなっている(享年六十七)。この頃、海舟は静岡に居を構えながら、たびたび新政府からの呼び出しに応じて上京し、一方で静岡に移住した徳川宗家や旧幕臣の就職や生活の支援をするといった状態で、多忙を極めていた。結局、明治五年(1872)六月に東京に戻ることになったが、静岡は海舟にとって忘れられない土地になったであろう。
(静岡市立高等学校)
静岡市立高等学校 田安門
ちょうどこの日は、静岡知事選挙の投票日に当たっていた。あとから報道で聞いたところによると、今回の知事選は飛躍的に投票率が上昇したという。なるほど、投票所に指定されている静岡市立高校には、ひっきりなしに近所の住民が訪れていた。
駿府藩主に任じられた徳川家達は直ちに駿府城に入ったが、翌明治二年(1869)藩籍奉還により藩知事に任命された。公私の別をつけるために家達は城を出て、西草深町の屋敷に移り住んだ。高校の南門として移築されている田安門は、徳川家屋敷の貴重な遺構である。家達が田安家の出身であったことから、田安門と称されている。

駿府城巽櫓・東御門
泊まりがけの合宿や研修が続き、その上前日は夜遅くまで飲んだのでダメージが残っていたが、予定とおり静岡を散策することにした。先ず、静岡駅構内にある観光案内所で、この近くに自転車を貸してくれるところはないか聞いてみたが、やはり「無い」という返事であった。しかたなく、歩いて史跡を訪問することになった。終日、曇ってはいたが、蒸し暑くてかなり汗をかいた。これほど魅力的な史跡に溢れる静岡の街に、貸し自転車がないというのは理解に苦しむ。採算の覚束ない地方空港を造るより、貸し自転車の方が余程利用価値が高いように思うのだが…。
静岡駅から十分程度歩くと、広大な駿府城公園に行き着く。天守閣などの建造物は全く残されておらず、唯一東南隅に巽櫓と東御門が再建されているだけである。

徳川家康像
徳川家康が七歳から十八歳まで、今川家の人質として暮らしたことで知られる駿府城に、その後武田氏を追った家康が天正十三年(1585)浜松城から移った。しかし、ほどなく豊臣秀吉により江戸に移封され、さらに関が原の戦後、その地で幕府を開くことになる。将軍職を次男秀忠に譲ると、家康は慶長十二年(1607)に再び駿府城に入り、以後大御所として実権を握った。家康は元和二年(1616)七十五歳にて駿府城内で亡くなった。非常に家康と所縁の深い城である。
江戸時代、秀忠の二男忠長が改易されて以降、駿府には城主が置かれず、城代が置かれた。
維新後、徳川慶喜に代わって徳川家を継いだ徳川家達(幼名:亀之助)が駿府七十万石を与えられ藩主に就き、廃藩置県により東京に移り住むまで、この地に居住した。

静岡学問所之碑
駿府城周辺には、多数の史跡が残っている。駿府公園の西側、地方法務合同庁舎の前のお堀端に建てられている静岡学問所の石碑を訪ねておきたい。静岡学問所は、駿府藩の人材養成を目的に明治二年(1869)に創設されたものである。教授陣には、向山黄村、津田真一郎(真道)、中村正直(敬宇)、外山捨八(正一)ら当代一流の学者が名を連ねた。このほかに海外からも学者を招いた。間違いなく静岡学問所の教育水準は当時我が国で最高を誇っていた。しかし、明治五年(1872)、学制発布とともに教授、学生とも東京に移住したため、廃校となった。

教導石
静岡県庁の前、三の丸の堀端には、教導石が建っている。これは明治十九年(1886)、地元の有志が住民のために建立されたもので、「教導石」の文字は山岡鉄舟が書いている。
「尋ネル方」に質問を書いた紙を貼っておくと、反対側の「教エル方」に回答が出るという仕組みで、現代でいえばインターネットの相談コーナーみたいなもので、なかなか優れたアイデアである。尋ね事のほか、店の開業広告、発明品や演説会の広告、遺失物や迷子などが掲示されたという。

駿府町奉行所址

札之辻址
御幸通りを渡って、静岡市役所には駿府町奉行所址の碑が建てられている。駿府町奉行がこの地に置かれたのは、寛永九年(1632)のことで、以後明治元年(1868)まで六十三名が町奉行として任命された。町奉行は、裁判、町政、宿場の管理など、広範な業務を所管していた。
駿府町奉行所址の石碑を七間町方面に一筋進むと、賑やかな交差点の一角に札之辻の碑が建っている。江戸時代、ここには駿府町奉行所によって高札場が設けられ、幕府の政策や法令が掲示されていたという。

静岡御用邸跡 明治天皇御製碑
静岡市役所の場所には、明治三十三年(1900)に御用邸が建てられた。御製歌碑には、明治天皇の歌が刻まれている。当時、二階から富士山を臨むことができたそうである。
はるかなるものと 思いし富士の根を のきはにあふぐ 静岡のさと
(西草深公園)

西草深公園
浅間神社の東側、西草深公園がある。この公園を含む西草深町一帯に、明治二年(1869)六月、静岡藩主となった徳川家達が屋敷を構えた。当時、使われていた門が市立静岡高等学校に移設されている。

徳川慶喜公屋敷跡
やはり西草深町の一角に徳川慶喜公屋敷跡の石碑が建てられている。
慶喜は、慶応四年(1868)七月から静岡の宝台院で謹慎生活を続けたが、明治二年(1869)に勤慎を解かれて、紺屋町の駿府代官屋敷(現・浮月楼)に移り住んだ。慶喜はここで約二十年を過ごしたが、明治二十一年(1888)にかつて家達が住んでいた西草深町に引っ越し、東京に戻る明治三十年(1897)までをここで過ごした。慶喜が去った後の徳川邸は、「葵ホテル」として利用され、明治三十七年(1907)には日露戦争の捕虜収容所の一つとしても使われたが、翌年火事により焼失し、その後再建されることはなかった。
(富春院)

富春院
浅間神社からひたすら北に向かって歩く。やがて左手に朱色の門が見える。これが富春院の山門である。門の前に「尚志」と刻まれた小さな石碑が置かれている。福沢諭吉が三田聖人と呼ばれたのに対し、中村正直(敬宇)は江戸川聖人と称された。石碑には江戸川聖人中村敬宇先生が西国立志編を訳述したこと、この付近に居宅があったことが記されている。

尚志碑
(臨済寺)

臨済寺

関口隆吉之墓
臨済寺は、今川義元の兄氏輝の菩提寺で、義元の軍師として知られる太原雪斉(たいげんせっさい)による開山である。境内墓地には、氏輝と太原雪斉の墓もある。
墓地中腹には、幕臣出身の関口隆吉(たかよし)の墓がある。関口隆吉は、米艦隊が浦賀に来航すると強硬な攘夷論を唱え、開国派の勝海舟を襲って失敗した。このことが機縁となって、海舟と交友を結んだ。明治元年(1868)の江戸開城にあたっては、精鋭隊頭取と町奉行支配組頭を兼帯し、更に閏四月には市中取締役頭となった。維新後は、地方官として活躍し、明治八年(1875)には山口県令に昇進。翌年、前原一誠が萩の乱を起こすと、直ちにこれを平定した。西南戦争時には前原残党の蠢動を許さなかった。元老院議官などを経て、明治十七年(1884)には静岡県令、同十九年に同県知事となった。特に牧の原台地の開拓に力を注いだという。明治二十二年(1889)四月、愛知県招魂祭に出席する途上、列車事故に遭い負傷し、このときの怪我が原因となり死去した。行年五十四。なお、広辞苑の編者として有名な新村出は、関口の長男である。
(蓮永寺)

蓮永寺
蓮永寺まで、観光案内所に行き方を教えてもらいバスで行くことにした。最寄のバス停は三松である。

勝海舟翁 母信子 妹じゅん の墓
墓前の朽ちかけた墓標には、「母信子 妹じゅんの墓」とあるが、海舟の父小吉も一緒に葬られているようである。妹じゅんは、佐久間象山に嫁いでいたが、象山が元治元年(1864)に京都で暗殺されたので、要するに出戻って静岡で一緒に生活していたのであろう。
母信子は、明治三年(1870)三月二十五日に静岡で亡くなっている(享年六十七)。この頃、海舟は静岡に居を構えながら、たびたび新政府からの呼び出しに応じて上京し、一方で静岡に移住した徳川宗家や旧幕臣の就職や生活の支援をするといった状態で、多忙を極めていた。結局、明治五年(1872)六月に東京に戻ることになったが、静岡は海舟にとって忘れられない土地になったであろう。
(静岡市立高等学校)

静岡市立高等学校 田安門
ちょうどこの日は、静岡知事選挙の投票日に当たっていた。あとから報道で聞いたところによると、今回の知事選は飛躍的に投票率が上昇したという。なるほど、投票所に指定されている静岡市立高校には、ひっきりなしに近所の住民が訪れていた。
駿府藩主に任じられた徳川家達は直ちに駿府城に入ったが、翌明治二年(1869)藩籍奉還により藩知事に任命された。公私の別をつけるために家達は城を出て、西草深町の屋敷に移り住んだ。高校の南門として移築されている田安門は、徳川家屋敷の貴重な遺構である。家達が田安家の出身であったことから、田安門と称されている。