(常磐共有墓地 Ⅶ)
故小姓頭弘道館総裁拙斎青山(量介)先生墓(中)
故大学中博士青山(量太郎)君墓(左)
青山拙斎(量介)は、水戸藩の歴史学者。「大日本史」を編纂した彰考館の総裁にあった。のちに弘道館頭取代理。藤田幽谷らと斉昭を助けて藩政改革を遂行したが、天保十四年(1843)在職中に没した。
拙斎の長子、青山延光(のぶみつ)は、通称量太郎。彰考館総裁代役、弘道館教授、さらには弘道館教授頭取に就き、彰考館では「大日本史」の編纂に尽くした。明治四年(1871)死没。
贈従四位 関鐡之介墓
関鉄之助は文政七年(1824)の生まれ。同年生まれの同志に鮎澤伊太夫、茅根伊予之介がいる。安政二年(1855)家督を継いで以降、金子孫二郎の配下の与力となり、国事に奔走することになる。水戸藩への密勅降下では、同盟を求めて長州・因州を遊説。安政六年(1859)大獄が起きると、薩摩藩の高崎五六らと会合して挙兵除奸を討議した。同年十一月、閉居を命じられたが、翌年二月、ひそかに藩を脱して桜田門外に大老井伊直弼要撃を指示した。事変後、薩摩藩同志との約に従い、野村彜之介らとともに大阪に向かったが、そこで薩摩藩に出兵の動きがないことを知る。ここから薩摩、江戸、水戸と潜行を続け、越後の湯沢温泉に潜伏しているところを捕吏に探知され捕縛された。文久二年(1862)五月、江戸伝馬町の獄において死罪に処された。年三十九。
贈従五位豊田小太郎(香窓)之墓
豊田小太郎は豊田彦次郎の長男として天保五年(1834)に生まれた。安政元年(1854)反射炉築造のために、藩命により盛岡藩より招いた大島高任に従って蘭学を修業した。安政四年(1857)、上京中に青蓮院宮と三条実万に建議書を呈したことが発覚し、謹慎を命じられた。変通論を唱え、開国進取の計を立てて奔走しているところを、慶応二年(1866)九月、水戸藩内の異論者に刺殺された。年三十三。
故執政大場(一真斎)彌衛門墓
大場一真斎は享和三年(1803)、水戸藩家老の家に生まれ、天保二年(1831)家督を継いだ。安政五年(1858)執政に就き、当時激派の間に隠然たる勢力があった。安政五年(1858)の密勅降下では返納不可の立場を貫いた。文久元年(1861)六月、東禅寺襲撃事件が発生すると、その責を問われて参政を免じられ、謹慎処分を受けた。同年、執政に復職すると、藩主慶篤に従って上京し、京都守衛に任じられた。慶応三年(1867)十二日、徳川慶喜が京都を去るに際して二条城の留守を命じられた。その後も引き続き京都に留まり、余生を送った。明治四年(1871)六十九歳で没。
伊豫之介茅根君墓
茅根伊予之介は、藤田東湖、会沢正志斎に学び、天保十四年(1843)、弘道館舎長となった。弘化元年(1844)藩内党争が表面化すると辞職。その後十年、家塾を開いて後進の教育に当たった。安政元年(1854)弘道館訓導に挙げられ、継いで郡奉行、奥右筆頭取、小姓頭取に累進した。安政五年(1858)には一橋慶喜の将軍継嗣運動に奔走した。安政六年(1859)、安島帯刀とともに評定所に呼び出され、拘束されて審問の末、同年八月、死罪に処された。年三十六。
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故小姓頭弘道館総裁拙斎青山(量介)先生墓(中)
故大学中博士青山(量太郎)君墓(左)
青山拙斎(量介)は、水戸藩の歴史学者。「大日本史」を編纂した彰考館の総裁にあった。のちに弘道館頭取代理。藤田幽谷らと斉昭を助けて藩政改革を遂行したが、天保十四年(1843)在職中に没した。
拙斎の長子、青山延光(のぶみつ)は、通称量太郎。彰考館総裁代役、弘道館教授、さらには弘道館教授頭取に就き、彰考館では「大日本史」の編纂に尽くした。明治四年(1871)死没。
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贈従四位 関鐡之介墓
関鉄之助は文政七年(1824)の生まれ。同年生まれの同志に鮎澤伊太夫、茅根伊予之介がいる。安政二年(1855)家督を継いで以降、金子孫二郎の配下の与力となり、国事に奔走することになる。水戸藩への密勅降下では、同盟を求めて長州・因州を遊説。安政六年(1859)大獄が起きると、薩摩藩の高崎五六らと会合して挙兵除奸を討議した。同年十一月、閉居を命じられたが、翌年二月、ひそかに藩を脱して桜田門外に大老井伊直弼要撃を指示した。事変後、薩摩藩同志との約に従い、野村彜之介らとともに大阪に向かったが、そこで薩摩藩に出兵の動きがないことを知る。ここから薩摩、江戸、水戸と潜行を続け、越後の湯沢温泉に潜伏しているところを捕吏に探知され捕縛された。文久二年(1862)五月、江戸伝馬町の獄において死罪に処された。年三十九。
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贈従五位豊田小太郎(香窓)之墓
豊田小太郎は豊田彦次郎の長男として天保五年(1834)に生まれた。安政元年(1854)反射炉築造のために、藩命により盛岡藩より招いた大島高任に従って蘭学を修業した。安政四年(1857)、上京中に青蓮院宮と三条実万に建議書を呈したことが発覚し、謹慎を命じられた。変通論を唱え、開国進取の計を立てて奔走しているところを、慶応二年(1866)九月、水戸藩内の異論者に刺殺された。年三十三。
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故執政大場(一真斎)彌衛門墓
大場一真斎は享和三年(1803)、水戸藩家老の家に生まれ、天保二年(1831)家督を継いだ。安政五年(1858)執政に就き、当時激派の間に隠然たる勢力があった。安政五年(1858)の密勅降下では返納不可の立場を貫いた。文久元年(1861)六月、東禅寺襲撃事件が発生すると、その責を問われて参政を免じられ、謹慎処分を受けた。同年、執政に復職すると、藩主慶篤に従って上京し、京都守衛に任じられた。慶応三年(1867)十二日、徳川慶喜が京都を去るに際して二条城の留守を命じられた。その後も引き続き京都に留まり、余生を送った。明治四年(1871)六十九歳で没。
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伊豫之介茅根君墓
茅根伊予之介は、藤田東湖、会沢正志斎に学び、天保十四年(1843)、弘道館舎長となった。弘化元年(1844)藩内党争が表面化すると辞職。その後十年、家塾を開いて後進の教育に当たった。安政元年(1854)弘道館訓導に挙げられ、継いで郡奉行、奥右筆頭取、小姓頭取に累進した。安政五年(1858)には一橋慶喜の将軍継嗣運動に奔走した。安政六年(1859)、安島帯刀とともに評定所に呼び出され、拘束されて審問の末、同年八月、死罪に処された。年三十六。