史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

水戸 常磐共有墓地 Ⅶ

2010年06月02日 | 茨城県
(常磐共有墓地 Ⅶ)


故小姓頭弘道館総裁拙斎青山(量介)先生墓(中)
故大学中博士青山(量太郎)君墓(左)

 青山拙斎(量介)は、水戸藩の歴史学者。「大日本史」を編纂した彰考館の総裁にあった。のちに弘道館頭取代理。藤田幽谷らと斉昭を助けて藩政改革を遂行したが、天保十四年(1843)在職中に没した。

 拙斎の長子、青山延光(のぶみつ)は、通称量太郎。彰考館総裁代役、弘道館教授、さらには弘道館教授頭取に就き、彰考館では「大日本史」の編纂に尽くした。明治四年(1871)死没。


贈従四位 関鐡之介墓

 関鉄之助は文政七年(1824)の生まれ。同年生まれの同志に鮎澤伊太夫、茅根伊予之介がいる。安政二年(1855)家督を継いで以降、金子孫二郎の配下の与力となり、国事に奔走することになる。水戸藩への密勅降下では、同盟を求めて長州・因州を遊説。安政六年(1859)大獄が起きると、薩摩藩の高崎五六らと会合して挙兵除奸を討議した。同年十一月、閉居を命じられたが、翌年二月、ひそかに藩を脱して桜田門外に大老井伊直弼要撃を指示した。事変後、薩摩藩同志との約に従い、野村彜之介らとともに大阪に向かったが、そこで薩摩藩に出兵の動きがないことを知る。ここから薩摩、江戸、水戸と潜行を続け、越後の湯沢温泉に潜伏しているところを捕吏に探知され捕縛された。文久二年(1862)五月、江戸伝馬町の獄において死罪に処された。年三十九。


贈従五位豊田小太郎(香窓)之墓

 豊田小太郎は豊田彦次郎の長男として天保五年(1834)に生まれた。安政元年(1854)反射炉築造のために、藩命により盛岡藩より招いた大島高任に従って蘭学を修業した。安政四年(1857)、上京中に青蓮院宮と三条実万に建議書を呈したことが発覚し、謹慎を命じられた。変通論を唱え、開国進取の計を立てて奔走しているところを、慶応二年(1866)九月、水戸藩内の異論者に刺殺された。年三十三。


故執政大場(一真斎)彌衛門墓

 大場一真斎は享和三年(1803)、水戸藩家老の家に生まれ、天保二年(1831)家督を継いだ。安政五年(1858)執政に就き、当時激派の間に隠然たる勢力があった。安政五年(1858)の密勅降下では返納不可の立場を貫いた。文久元年(1861)六月、東禅寺襲撃事件が発生すると、その責を問われて参政を免じられ、謹慎処分を受けた。同年、執政に復職すると、藩主慶篤に従って上京し、京都守衛に任じられた。慶応三年(1867)十二日、徳川慶喜が京都を去るに際して二条城の留守を命じられた。その後も引き続き京都に留まり、余生を送った。明治四年(1871)六十九歳で没。


伊豫之介茅根君墓

 茅根伊予之介は、藤田東湖、会沢正志斎に学び、天保十四年(1843)、弘道館舎長となった。弘化元年(1844)藩内党争が表面化すると辞職。その後十年、家塾を開いて後進の教育に当たった。安政元年(1854)弘道館訓導に挙げられ、継いで郡奉行、奥右筆頭取、小姓頭取に累進した。安政五年(1858)には一橋慶喜の将軍継嗣運動に奔走した。安政六年(1859)、安島帯刀とともに評定所に呼び出され、拘束されて審問の末、同年八月、死罪に処された。年三十六。

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水戸 常磐共有墓地 Ⅵ

2010年06月02日 | 茨城県
(常磐共有墓地 Ⅵ)


杉山秀太郎當直墓(左)
彌一郎當仁 曁配婦人川崎氏 墓(右)

 杉山弥一郎秀太郎父子の墓である。
 弥一郎は桜田烈士の一人。桜田門外の変で負傷し、江戸熊本藩邸に自訴。文久元年(1861)七月、金子孫二郎らとともに伝馬町の獄に斬られた。年三十八。
 長男、秀太郎は元治元年(1864)の藩内騒乱において、榊原新左衛門に属して那珂湊に拠り、各所で城兵および幕兵と戦う。十月以降は武田勢に属して西上。敦賀で斬に処された。年十九。


贈従五位 川邉佐次衛門元義墓

 川邉佐次衛門の墓である。文久元年(1861)児島強介(下野)が来藩して老中安藤信睦要撃の同志を募ったとき、佐次衛門は平山兵介らと参画することに決した。しかしながら、文久二年(1862)正月十五日の襲撃実行に遅れ、そのため長州藩邸に桂小五郎を訪ねて事情を告げると、遺書を託してその場で自刃して果てた。年三十一。


勝村徳勝君墓

勝村徳勝は名を勝村彦六、水戸藩士の子として文化六年(1809)に水戸で生まれた。後に藩工に推挙され安政四年(1857)に江戸小石川水戸藩邸(現在の後楽園)に居を構えた。水戸家九代藩主、徳川斉昭の鍛刀の相手を務めたことでもよく知られる。彼の作刀は尊王攘夷の機運が高揚する水戸藩士の指料として愛用され、井伊大老を桜田門外で襲撃した刀としても名高い。明治五年(1872)没。六十四歳


曁配婦人津田氏 又一郎高橋(広備)君墓

 高橋広備は、藤田幽谷とともに彰考館の総裁に就き、「大日本史」の編纂に尽くした人物。号は坦室。一時、政務にも参画したが、人望なく文政六年(1823)失意のうち亡くなった。


贈従五位 小河吉三郎墓

 小河吉三郎、変名は大川藤蔵。安政の末から攘夷実行を主張して奔走した。文久三年(1863)藩主慶篤に従って上京して各藩の尊攘派同志と交わった。のちに長州に走り、澤宜嘉に属して東上して生野義挙に加わった。同年十月、幕府軍と戦い。朝来郡山口村で戦死した。年二十七。


小沢寅吉墓碑

 小沢寅吉は、江戸玄武館で北辰一刀流を修行し、帰藩後弘道館剣術師範。明治後は私邸内に道場、東武館を開いて維新後も剣道の普及に尽くした。明治二十四年(1891)死去。


恵介丹羽君墓

 丹羽恵介は、天保元年(1830)に生まれた。安政元年(1854)、床几廻に選ばれたことを皮切りに、徒士目付、奥右筆に進んだ。元治元年(1864)の藩内騒乱に際して、当初榊原新左衛門らと藩論統一を計ったが、市川三左衛門が執政となって実権を握ると、松平頼徳に属して那珂湊に走った。水戸に召喚されて獄に繋がれ、同年十月、死罪に処された。三十五歳。


故藤七郎谷田部君 曁配谷田部氏婦人 墓

 平成二十二年(2010)は、桜田門外の変からちょうど百五十年目に当たる。これを記念して、この秋、吉村昭の長編「桜田門外の変」が映画化される。この小説の冒頭、安政四年(1857)正月、谷田部藤七郎と大嶺荘蔵兄弟が捕らわれて赤沼牢に投じられる様子から書き起こされる。谷田部兄弟は、所謂門閥派に属し、藤七郎は奥右筆頭取など重職にあった。兄弟は失踪し、高松藩と結んで高松藩から水戸藩主を迎える画策をしているという噂もあったところを東海道で改革派の手により捕らわれた。

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水戸 常磐共有墓地 Ⅴ

2010年06月02日 | 茨城県
(常磐共有墓地 Ⅴ)


慎亭吉成君墓

 吉成(よしなり)又右衛門の墓である。雅号は慎亭。藤田幽谷の門に学び、天保元年(1830)、郡奉行となり、以降十五年にわたり民政に携わった。弘化元年(1844)藩主斉昭の無実を老中牧野忠雅に嘆願して処罰されたが、閑居中に関わらず脱して閣老に上訴して、再び罪を得た。嘉永二年(1849)許されたが、翌年、年五十四で病死。二男恒次郎も国事に奔走している。


左一郎宮本先生墓

 宮本左一郎は農家に生まれたが、農家を嫌って江戸の岡田十松に入門。武者修行のため諸国を遊歴したのち、水戸に戻って道場を構えた。藤田幽谷らの支援を得て、神道無念流を水戸に根付かせた。天保九年(1838)六十一歳で死去。


留次郎斎藤君墓

 斎藤留次郎は、安政五年(1858)に斉昭が処罰されると、雪冤運動に加わった。同年、勅書問題が起き、万延元年(1860)藩論が勅書返納に決すると、勅書の通過を阻止するため、一通の書を認めて城中大広間廊下にて割腹した。年三十二。


新左衛門山中君墓

 山中新左衛門は文政元年(1818)に生まれ、天保九年(1839)床几廻に選ばれた。以降、矢倉奉行を経て小姓頭取に進んだ。安政六年(1859)宍戸藩主松平頼徳附属となる。元治元年(1864)、天狗党の騒乱を鎮定するため頼徳とともに水戸に下向したが、入城を阻止されて那珂湊に拠り、新左衛門は事情陳述のため頼徳の書を奉じて城中に達した。しかし、そのまま拘束されて獄に投じられ、死罪に処された。年四十七。


中陵佐藤先生之墓

 佐藤中陵は宝暦十二年(1862)江戸に生まれた。本草学者として水戸藩に招かれ、弘道館教授となった。その間、斉昭の命により「山海庶品」を編纂した。嘉永元年(1848)、死去。佐藤松渓は、中陵の養子である。


松渓佐藤先生墓


従六位野邨鼎實(彜之介)墓

 野村彜之介(つねのすけ)は、文政七年(1824)水戸に生まれた。郡奉行、奥右筆頭取、大目付、側用人等の要職に任じられ、天保の藩政改革を補佐して功があった。安政六年(1859)、高橋多一郎とともに薩摩の高崎五六を水戸に迎え、水薩提携の挙兵を合議した。安政の大獄が起きると、金子孫二郎とともに閉居に処された。しかし、桜田門外の変の直前に脱藩して江戸に潜伏。変ののち関鉄之助とともに大阪に入ったが、同志は四散してしまい、彜之介はやむなく水戸に戻った。元治甲子の乱では、上京して鎮撫に尽くした。戊辰戦争では、市川三左衛門らを追討し、継いで奥羽征討にも参加した。のち、水戸藩参事、廃藩後は茨城県典事となった。晩年は常盤神社宮司を務めた。明治二十一年(1888)年六十五で病死。


森五六郎直長 森半蔵長昌 墓

 森半蔵、五六郎兄弟の墓である。
 兄、半蔵は文政九年(1826)に生まれた。嘉永六年(1853)浪人となって、文久元年(1861)有賀半弥とともに東禅寺のイギリス公使館襲撃を企て、斬り込みをかけたが果たせず。前木新八郎とともに領内に潜伏したが、同年八月、捕吏に探知され自刃した。年三十六。

 弟、森五六郎は天保九年(1838)の生まれ。桜田十八士の一人。安政六年(1859)、勅書返納問題のときには長岡駅に屯集して阻止を図った。桜田門外の変では傷を負って、大関和七郎とともに熊本藩邸に自訴。文久元年(1861)七月、死罪に処された。年二十四。


松岡豊田彦次郎墓

 豊田彦次郎は雅号を松岡または晩翠。文化二年(1805)に久慈郡賀美村に生まれた。豊田小太郎(香窓)は長男。藤田幽谷の門に学び、東湖とともに博覧強記で知られた。国史志表編集頭取の職にあったが、弘化元年(1844)藩主斉昭の無実を閣老に上呈したことが忌避に触れ、五年の禁固に処された。嘉永六年(1853)赦され復職すると、ロシア、蝦夷の取調を命じられた。安政五年(1858)の勅書問題では勅書奉戴の意見を支持したが、薩摩藩と提携して大老を襲撃する計画には自重論を説いた。元治元年(1865)正月、死去。年六十。

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水戸 常磐共有墓地 Ⅳ

2010年06月02日 | 茨城県
(常磐共有墓地 Ⅳ)


大節精忠驚鬼神
(高橋多一郎の墓)

 高橋多一郎は文化十一年(1814)の生まれで、桜田門外の変のとき四十七歳。天保十年(1839)選ばれて床几廻となったのを皮切りに、歩行士、目付を経て、奥右筆に進んだ。弘化元年(1844)藩主斉昭が謹慎を命じられると、幕閣要路に哀訴して禁固に処された。嘉永五年(1852)藩政回復とともに復職し、奥右筆頭取、小姓頭取に取り上げられた。ついで勅書問題が起きると金子孫二郎と謀り、西国諸藩に壮士を派遣した。安政の大獄が起きると、薩摩藩士と大老襲撃を企てた。桜田事変に先立ち、長男庄左衛門を従えて大阪に赴き、在坂の川崎孫四郎、山崎猟蔵らと薩摩藩兵の東上を待った。幕吏の探索厳しく、三月二十三日、四天王寺にて庄左衛門とともに自刃した。


贈従四位 高橋庄左衛門君墓表

 高橋多一郎の長男、庄左衛門は、天保十三年(1842)に生まれ、年少時には茅根伊予之介について学を受けた。藩難に際して父多一郎とともに奔走し、桜田門外の変では父子ともに島男也の家に潜んでいるところを探知され、自刃した。十九歳。


鵜飼知信(吉左衛門)墓(左)
鵜飼知明(幸吉)墓(中)

 鵜飼吉左衛門と幸吉父子の墓である。
 鵜飼吉左衛門は、天保四年(1833)京都留守居役手添となり、天保十四年(1843)からは京都留守居役。弘化元年(1844)藩主斉昭が謹慎処分を受けると、公卿の間に無実を訴え、職を奪われ水戸に返送されたが、嘉永六年(1853)に復職上京。安政五年(1858)老中堀田正睦が条約勅許を求めて入京すると、子幸吉とともにこの阻止に努め、同時に将軍継嗣問題では慶喜擁立に奔走した。その頃、武家伝奏を通じて水戸藩に密勅が下り、吉左衛門は幸吉にこれを持たせて江戸に赴かせた。このことで父子は禁固、ついで江戸に護送され、翌安政六年(1859)死罪に処された。六十二歳。

 鵜飼幸吉は年少にして砲術を学び、安政ニ・三年(1855・56)、二度に渡って武芸出精により賞せられた。安政三年、京都留守居役に任じられて上京。父とともに京都にあって奔走した。安政五年(1858)所謂戊午の密勅が水戸に降下されると、姓名を小瀬伝左衛門と変え、父に代わってこれを江戸小石川に届けた。父とともに捕えられ、江戸に護送された上で安政六年(1859)死罪梟首に処された。三十二歳。


前木新八郎墓

 前木新八郎は文政七年(1824)の生まれ。安政五年(1858)の密勅降下以来、国事に奔走した。文久元年(1861)、有賀半弥らと外国人襲撃を計画し、江戸高輪東禅寺にイギリス人を襲った。前木新八郎は現場を脱して水戸藩領北部に潜居したが、探知されて捕吏に囲まれ、自刃して果てた。三十八歳。


贈従四位 田丸稲之衛門碑

 田丸稲之衛門は、山国家のニ男として文化二年(1805)に生まれたが、田丸直諒の養子となって家督を継いだ。元治元年(1864)藤田小四郎は田丸稲之衛門を総帥に迎え筑波山に挙兵した。四月、筑波を発すると、五月太平山に籠り、七月高道祖原で敗れたが、下妻で大勝。九月には榊原新左衛門らが那珂湊に陣をひいて諸生党と交戦していることを聞いて急遽これを応援して戦った。十月、武田耕雲斎と合流して西上を開始。十二月、敦賀で加賀藩に降伏し、翌年二月、斬罪に処された。六十一歳であった。


贈従五位瀧久知(六三郎)牟都左畀古命之碑

 滝口六三郎は弘化元年(1844)水戸に生まれた。元治元年(1864)、天狗党の筑波挙兵に参加し転戦。武田勢と合流して西上の途上、敦賀で禁固され斬罪に処された。二十二歳であった。


贈従五位梶八次郎墓

 梶八次郎は文政六年(1823)の生まれ。武田耕雲斎の子、魁介と交わり、意気投合した。弘化元年(1844)藩主斉昭が幕譴を蒙ると、斉昭の雪冤に尽力した。安政五年(1858)再び斉昭が処罰を受けると、激昂した士民は大挙して江戸に向かった。梶八次郎もその中にあったが、志の遂げられないことを嘆じて、小金にて自刃した。年三十六。

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水戸 常磐共有墓地 Ⅲ

2010年06月02日 | 茨城県
(常磐共有墓地 Ⅲ)


贈正五位 有賀半彌墓

 有賀(ありが)半弥は、天保十年(1839)に生まれた。平生から外国人の横暴を憎み、文久元年(1861)五月二十八日、高輪東禅寺にイギリス人を襲い、そこで闘死した。二十三歳。


原市之進 婦人松本氏 墓

 徳川慶喜の謀臣、原市之進は天保元年(1830)に水戸藩士の家に生まれ、幼時から才学抜群、従兄の藤田東湖から大きな期待をかけられ、江戸の昌平黌に進んで名声を高めた。水戸に帰ると、史館や弘道館に務め、同時に私塾を開き後進を育てたが、一橋慶喜から請われて近侍して、深い信頼を得た。慶喜の将軍就任後、兵庫開港問題で反幕派から憎まれ、慶応三年(1867)八月、三十八歳で暗殺された。


蓮田一五郎君墓表

 蓮田一五郎は、やはり桜田烈士の一人。天保四年(1833)に水戸藩属吏の家に生まれ、幼少より篤学、文筆に巧みであったという。斎藤監物と行動を共にし、国事に奔走した。桜田門外の変では負傷して老中脇坂邸に自首。熊本藩邸に拘禁された後、翌文久元年(1861)七月二十六日斬首された。年二十九。


松宇西宮宣明君 曁夫人甲藤氏之 墓

 西宮宣明(のぶあき)は、水戸藩の学者。弘道館訓導。松宇は雅号。天保十年(1839)には異本八種を校訂し、「常陸風土記」を公刊した。天保十二年(1841)から明治十五年(1882)まで「松宇日記」を残した。明治元年(1868)、新政府に出仕し、山陵調査に当たった。藩内の藤田東湖、会沢正志斎らのほか、藩外では橘守部、伴信友とも交友があった。年八十二で没。


贈正五位林五郎三郎 婦人鮎澤壽美子 墓

 林五郎三郎は、天保三年(1832)の生まれ。前藩主徳川斉昭に仕え、万延元年(1860)には弘道館舎長に選ばれた。文久二年(1862)には一橋慶喜に随従して上京。翠紅館に会合して攘夷の機運を促進した。元治元年(1864)の乱では、潮来の陣営にあって筑波勢と気脈を通じ、潮来勢を率いて那珂湊の榊原新左衛門を支援し、城兵との交戦で戦死した。年三十三。


伊大夫鮎澤君墓

 鮎澤伊大夫は、文政七年(1824)に生まれた。実兄は高橋多一郎。天保末年に鮎澤家の養子となって家督を継いだ。弘化元年、藩主徳川斉昭が幕府より処罰を受けると、雪冤運動に奔走した。このため役禄を召し上げられたが、安政元年復職した。安政五年(1858)八月、江戸の日下部伊三治宅にて薩摩の有馬新七と会見し、国事に関し意見を交わした。安政の大獄では終身禁固に処されたが、文久二年(1862)許されて帰藩。元治甲子の乱では、松平頼徳を護衛して水戸に向かったが、水戸城に籠る市川三左衛門らに入城を拒否され。城兵と交戦するに至った。その後、武田耕雲斎に属して西進したが、木曽路で別れて入京し、大徳寺に隠れた。明治元年(1868)正月、藩政回復の勅書を奉じて東下し、城下を脱走した市川三左衛門らを北越に追討した。同年十月一日、水戸城に進入しようという市川勢と弘道館に戦って戦死した。年四十五。


贈正四位孫弐郎金子君墓表

 桜田門外の変の首謀者の一人、金子孫二郎の墓である。藩の歩行目付、吟味役、奥祐筆、郡奉行などを歴任したが、弘化元年(1844)、藩主斉昭が幕府によって処分を受けると、藩政回復を計って職を免じられ、閉居処分を受けた。嘉永二年(1849)、許されて復職し、斉昭の藩政改革をよく補佐した。反射炉建造や海防強化にも尽力した。安政五年(1858)、再び斉昭が罪を得、続いて勅書問題が発生すると、高橋多一郎と謀って西国に壮士を派遣し、諸藩協力して佐幕攘夷の実行を期した。斉昭父子謹慎・閉居となり、家老安島帯刀らが処刑されるに至って、大老襲撃を決心して、暗殺を指揮した。自身は襲撃に加わらず、薩摩の有村雄助とともに品川にて待機した。一報を受け取ると、直ちに西上したが、四日市に到着したところで薩摩藩の捕吏に捕えられて伏見奉行に引き渡された。江戸に護送された後、文久元年(1860)七月、斬刑に処された。五十八歳。


従六位海後宗親(磋磯之介)墓

 海後磋磯之介(かいごさきのすけ)は、脱藩して大老井伊直弼襲撃に参加した烈士の一人。高橋多一郎、斎藤監物らに接して感化され、佐野竹之介らとも親交があった。大老襲撃後、現場を脱して大阪に向かったが、探索が厳しかったため、郷里に戻って身を隠し、更に奥州より越後に入り追捕を逃れた。文久三年(1863)尊攘派が藩政を回復すると水戸に戻った(この頃、菊池剛蔵と改名している)。明治後は警視庁に奉職し、晩年は郷里で余生を送り、七十六歳で没した。桜田門外の変に加わった中で、明治まで生き延びたのは増子金八と海後磋磯之介の二人のみである。

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水戸 常磐共有墓地 Ⅱ

2010年06月02日 | 茨城県
(常磐共有墓地 Ⅱ)


藤田小四郎墓

 父は藤田東湖。母は土岐氏。天保十三年(1842)に生まれ、性機敏にして才知に富み、書画をよくした。文久三年(1863)の藩主慶篤上京に随従して、諸藩の有志と交友を持った。攘夷の朝命が実行されないことを嘆き、自ら上京して事を謀ろうとしたが、山国兵部(喜八郎)に抑えられた。更に鳥取藩有志と東西呼応して挙兵を約したが、これも首領に仰ごうとした家老武田耕雲斎に戒められた。小四郎は町奉行田丸稲之衛門(山国兵部の実弟)を説き、遂に元治元年(1864)三月、筑波山に兵を挙げた。藩内で転戦した末に同年十二月に敦賀で加賀藩に降伏。翌二月斬罪に処された。二十四歳。


杉浦(羔二郎)家之墓

 杉浦羔二郎(こうじろう)は、文政六年(1823)の生まれ。安政五年(1858)藩の執政となった。翌年の勅書返納の際には東奔西走したが、文久元年(1860)の高輪東禅寺英国公使館襲撃事件に水戸藩士が関与していた責任を負って免職謹慎を命じられた。元治元年(1864)の天狗党の騒乱では、筑波挙兵に関わったとされて再び隠居謹慎に処された。天狗党の動乱が藩内戦となるに及び、保守派の市川三左衛門に排斥投獄され、獄中に亡くなった。四十四歳であった。


故辰之介山口君墓

 常盤共有墓地には桜田門外の変に参加した二十名のうち、十一名が眠っている。今年(平成二十二年)は桜田門外の変から百五十年目に当たる記念の年である。茨城県では今年の秋の封切を目指して「桜田門外の変」(吉村昭原作)を映画化を進めている。地元では千波湖畔に巨大なオープンセットが築かれ、大いに盛り上がっている。全国的には龍馬ブームであるが、水戸周辺に限れば局地的に「桜田門外の変ブーム」が起きているのである。私もこれに便乗して茨城県内に散在する桜田烈士の墓を訪ねることにした。

 山口辰之助も桜田烈士の一人。天保三年(1832)に生まれ、万延元年(1860)の時点で二十八歳であった。郡奉行目付等の職を務め、武術や歌道に通じた。安政六年(1859)には藩主の雪冤運動に加わって大挙して江戸に向かい、長岡駅に屯集した。桜田門外の変で重傷を負って、引き上げ途上、自刃した。


贈正五位 故醫正本間(玄調)先生墓

 本間玄調は、水戸藩の侍医。弘道館教授。天保十四年(1843)に弘道館に医学館が開設されると、その教授となった。とくに種痘の研究と普及に功績があった。この頃、多くの人命を救うという意味から「救」という通称を藩主斉昭から下賜された。はじめ医学の大家原南陽に学び、さらに長崎に出てシーボルトから蘭医学を、紀伊では華岡青洲より外科術を学んだ。内外科に関する著書を多数残した。明治五年(1872)六十九歳で死去した。


黒澤忠三郎勝算墓

 黒澤忠三郎は、やはり桜田門外の変に加わった水戸藩士の一人である。大関和七郎は実弟。安政五年(1858)の勅書回達、翌年の雪冤活動に奔走して、閉居処分を受けた。桜田門外の変では重傷を負って、老中脇坂安宅邸に自訴し、同年七月十一日、熊本藩邸で亡くなった。三十一歳。


贈正五位 大関和七郎之墓

 大関和七郎は、実兄黒澤忠三郎と行動を共にし、大老井伊直弼襲撃に参加した。事件後、江戸熊本藩邸に自訴。のちに富山藩邸に拘留され、文久元年(1861)七月、死罪に処された。年二十六。


子之次郎廣岡君之墓

 広岡子之次郎(ねのじろう)は、天保十一年(1840)に生まれた。母は黒澤勝正の娘であり、桜田烈士の黒澤忠三郎、大関和七郎とは従兄弟ということになる。嘉永三年(1850)藩士広岡則孝の養子となって家督を継いだ。原市之進に学び、剣を渡辺清左衛門、大胡律蔵に就いて修業した。桜田門外の変では重傷のため、和田倉門辰ノ口番所に至ったところで自刃した。二十一歳であった。


尼子久恒(長三郎)君墓

 尼子長三郎は、天保十二年(1841)床几廻りに選ばれ、安政二年(1855)馬廻組となる。文久元年(1861)には長州藩邸において側用人美濃部又五郎らと列席して会合を開き、ニ藩提携の途を開いた。文久三年(1863)藩主慶篤の上京に従い、諸士の間で攘夷の実行を力説奔走中、急死した。年四十六。ニ男尼子久次郎は天狗党の挙兵に参加して囚中に十九歳で落命している。

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