(工部大学校址)
工部大学校址碑
虎ノ門交差点の北西角、現在霞ヶ関コモンゲートの一帯は、江戸時代には延岡藩邸があった。維新後、工業分野における人材育成を目的として工学校が開設された。明治十年(1877)には工部大学校と改称された。工部大学校では、土木・機械・造家などの学科が、外国から招聘された教師によって教授された。工部大学校は、その後東京大学工学部に発展している。工部大学校が移転した後、この地は帝室博物館、東京女学館、さらに会計検査院に引き継がれたが、さすがに当時の面影は残っていない。
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工部大学校址碑
虎ノ門交差点の北西角、現在霞ヶ関コモンゲートの一帯は、江戸時代には延岡藩邸があった。維新後、工業分野における人材育成を目的として工学校が開設された。明治十年(1877)には工部大学校と改称された。工部大学校では、土木・機械・造家などの学科が、外国から招聘された教師によって教授された。工部大学校は、その後東京大学工学部に発展している。工部大学校が移転した後、この地は帝室博物館、東京女学館、さらに会計検査院に引き継がれたが、さすがに当時の面影は残っていない。