(玉泉寺)
玉泉寺
久保鉄次郎・豊三郎墓
久保豊三郎は当時まだ十二歳であったが、砲手として本宮で戦った兄鉄次郎(十五歳)がうらやましく、出陣を母にせがんだ。母親は「砲声を聞けばおびえて帰ってくるだろう」と下僕をつけて送り出した。久保兄弟はともに大壇で負傷し、病院で死亡した。
吉村熊之助墓
吉村熊之助は、長州藩装条銃足軽。第一大隊附属。慶應四年(1868)八月二十日、岩代玉井村宿陣で敵襲を受けて戦死。二十一歳。
(山入古戦場)
戦死三十一人墓
大玉村玉井の久保山墓地の近くに山入古戦場跡地がある。
当地における戦闘は、慶應四年(1868)八月二十日、本宮宿から会津に向けて進攻する新政府軍と、母成峠から出陣した会津藩軍とが山入にて遭遇した。新政府軍三千のうち、陽動部隊三百が中山峠に向けられ、主力二千七百は玉井村に滞陣した。会津軍が山入に進攻しているとの報を受けて、五百を派遣した。同日午後三時頃、両軍が激突し戦闘は薄暮過ぎまで続いたが、兵力に劣る会津藩軍は敗退を余儀なくされた。伝習大隊のみが抵抗したが、三方から敵を受けて多大な損害を出して母成峠方面に敗走した。あとに残った会津藩兵三十一人は枕を並べて割腹した。正面にはその三十一名を合葬した墓がある。
西軍四人墓(左) 二本松少年隊墓(右)
今回の四泊五日(うち一泊は車中泊)の旅は、これで終了。後半の二日は雨にたたられたが、基本的には猛暑が続いた。連日の暑さにバテただけでなく、墓地を歩き回ったために筋肉痛のうえに両足にマメができた。体力的にはなかなか厳しい史跡訪問の旅であった。帰路はニュースでも予報していたように、高速道路が渋滞した。それでも日が暮れる前に家に帰着することができた。まずはゆっくり休みたい。
玉泉寺
久保鉄次郎・豊三郎墓
久保豊三郎は当時まだ十二歳であったが、砲手として本宮で戦った兄鉄次郎(十五歳)がうらやましく、出陣を母にせがんだ。母親は「砲声を聞けばおびえて帰ってくるだろう」と下僕をつけて送り出した。久保兄弟はともに大壇で負傷し、病院で死亡した。
吉村熊之助墓
吉村熊之助は、長州藩装条銃足軽。第一大隊附属。慶應四年(1868)八月二十日、岩代玉井村宿陣で敵襲を受けて戦死。二十一歳。
(山入古戦場)
戦死三十一人墓
大玉村玉井の久保山墓地の近くに山入古戦場跡地がある。
当地における戦闘は、慶應四年(1868)八月二十日、本宮宿から会津に向けて進攻する新政府軍と、母成峠から出陣した会津藩軍とが山入にて遭遇した。新政府軍三千のうち、陽動部隊三百が中山峠に向けられ、主力二千七百は玉井村に滞陣した。会津軍が山入に進攻しているとの報を受けて、五百を派遣した。同日午後三時頃、両軍が激突し戦闘は薄暮過ぎまで続いたが、兵力に劣る会津藩軍は敗退を余儀なくされた。伝習大隊のみが抵抗したが、三方から敵を受けて多大な損害を出して母成峠方面に敗走した。あとに残った会津藩兵三十一人は枕を並べて割腹した。正面にはその三十一名を合葬した墓がある。
西軍四人墓(左) 二本松少年隊墓(右)
今回の四泊五日(うち一泊は車中泊)の旅は、これで終了。後半の二日は雨にたたられたが、基本的には猛暑が続いた。連日の暑さにバテただけでなく、墓地を歩き回ったために筋肉痛のうえに両足にマメができた。体力的にはなかなか厳しい史跡訪問の旅であった。帰路はニュースでも予報していたように、高速道路が渋滞した。それでも日が暮れる前に家に帰着することができた。まずはゆっくり休みたい。