史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

大玉

2012年10月06日 | 福島県
(玉泉寺)


玉泉寺


久保鉄次郎・豊三郎墓

 久保豊三郎は当時まだ十二歳であったが、砲手として本宮で戦った兄鉄次郎(十五歳)がうらやましく、出陣を母にせがんだ。母親は「砲声を聞けばおびえて帰ってくるだろう」と下僕をつけて送り出した。久保兄弟はともに大壇で負傷し、病院で死亡した。


吉村熊之助墓

 吉村熊之助は、長州藩装条銃足軽。第一大隊附属。慶應四年(1868)八月二十日、岩代玉井村宿陣で敵襲を受けて戦死。二十一歳。

(山入古戦場)


戦死三十一人墓

 大玉村玉井の久保山墓地の近くに山入古戦場跡地がある。
 当地における戦闘は、慶應四年(1868)八月二十日、本宮宿から会津に向けて進攻する新政府軍と、母成峠から出陣した会津藩軍とが山入にて遭遇した。新政府軍三千のうち、陽動部隊三百が中山峠に向けられ、主力二千七百は玉井村に滞陣した。会津軍が山入に進攻しているとの報を受けて、五百を派遣した。同日午後三時頃、両軍が激突し戦闘は薄暮過ぎまで続いたが、兵力に劣る会津藩軍は敗退を余儀なくされた。伝習大隊のみが抵抗したが、三方から敵を受けて多大な損害を出して母成峠方面に敗走した。あとに残った会津藩兵三十一人は枕を並べて割腹した。正面にはその三十一名を合葬した墓がある。


西軍四人墓(左) 二本松少年隊墓(右)

 今回の四泊五日(うち一泊は車中泊)の旅は、これで終了。後半の二日は雨にたたられたが、基本的には猛暑が続いた。連日の暑さにバテただけでなく、墓地を歩き回ったために筋肉痛のうえに両足にマメができた。体力的にはなかなか厳しい史跡訪問の旅であった。帰路はニュースでも予報していたように、高速道路が渋滞した。それでも日が暮れる前に家に帰着することができた。まずはゆっくり休みたい。

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郡山 Ⅱ

2012年10月06日 | 福島県
(感應寺)


感應寺


大慶養道清信士
(渡部四郎墓)

 渡部四郎は、福良村の人。会津藩青竜足軽一番鈴木隊に所属した。慶應四年(1868)九月、若松城にて戦死。二十七歳。墓碑には「八月二十四日 於若松戦死」と記されている。

(長泉寺)


長泉寺


会津藩士 鈴木作右衛門墓

 鈴木作右衛門は、会津藩青龍士中一番隊隊頭。藩境守備隊。生き残り福良に在住した。


先祖古川民伊之墓

 墓石には「若松藩士族」とある。「幕末維新全殉難者名鑑」には一致する名前はないが、古川民衛とすれば、会津藩朱雀寄合一番一柳隊付。慶應四年(1868)五月一日、磐城白河にて戦死。

(日和田)


川村今助墓(左) 石澤勝之助戦死墓

 川村今助は、侠客。配下を率いて仙台藩細谷十太夫に属して活躍した。慶應四年(1868)七月二十八日、高倉にて戦死。
 隣に在る墓の石澤勝之助については詳細不明。


明治天皇駐蹕御遺跡碑

 明治九年(1876)明治天皇の奥羽巡幸の際および明治十四年(1881)の二回にわたって、この地を御野立休憩所に充て、斬時休憩を取った。

(長泉寺)


長泉寺


佐藤雄助友章墓

 佐藤雄助は、仙台藩伊達筑前家来。慶應四年(1868)閏四月一日、岩代只野村で会津兵に狙撃されて死亡。

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郡山 Ⅰ

2012年10月06日 | 福島県
(石筵古戦場跡)


石筵古戦場跡

 初めて郡山市を旅した。地方の小都市だと思っていたが、予想外に大きな街であった。あとで調べたところ、人口は三十二万人を越え、人口だけで比べれば県庁所在地である福島市や会津若松市より大きいのである。


石筵古戦場周辺の風景

 史跡は市街地よりも、北方の湖南町およびその周辺に集中している。
 母成峠への登り口にあたるのが石筵という集落である。会津軍は、この周囲に三段の陣地を構えた。また、新政府軍に拠点を与えないため、慶應四年(1868)八月二十日、石筵の集落を焼き払った。その翌日、新政府軍三千は二手に分かれて猪苗代方面を目指した。迎える会津藩軍は八百。戦闘は朝九時に始まり、約七時間に及んだ。火力に勝る新政府軍は戦いを優利に進め、次第に母成峠に迫った。

(観音寺)


観音寺

 石筵集落にある観音寺には、大森久之助の墓がある。


大森久之助墓

 大森久之助は、地元の農民で新政府軍に軍夫として徴用されたらしい。八月二十一日、猪苗代にて戦死。


橋本次郎七之遺跡

 橋本次郎七は、石筵の猟師。迂回部隊の道案内を務めた功績により戦後恩賞を受けた。集落を焼き払われた石筵の住民は、会津藩を恨み、新政府軍に協力した。新政府軍の右翼隊は、山中を迂回して会津藩兵の守る勝岩の陣地を攻撃し、敗走させることに成功した。

(正福寺)


正福寺

 正福寺には新選組松本喜次郎の墓がある。松本喜次郎は、文久三年(1863)頃の入隊といわれる。池田屋事件にも参加した古参隊士である。鳥羽伏見の戦い、甲陽鎮撫隊にも加わったが、戦後、永倉新八、原田左之助らの靖共隊に参加した。その後、新選組に復帰して北関東から会津まで転戦した。慶應四年(1868)八月十四日に戦死。


松本喜次郎(新選組隊士)墓

(千手院伏龍寺)


千手院伏龍寺

 千住院伏龍寺は、戊辰戦争で新選組が野戦病院として使用したという。


大竹一郎・善吾墓

 会津藩大竹一郎および同姓善吾の墓である。両名とも会津藩大竹熊四郎の子。
 大竹一郎は六石二人扶持。青竜一番隊付三代口小人。慶應四年(1868)五月一日、磐城白河にて戦死。十八歳。善吾は同じく三代口小人。一郎と同じ日に磐城白河で戦死した。十五歳。

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三春

2012年10月06日 | 福島県
(三春城)


舞鶴城址

 今回の史跡旅行では、前半は天気に恵まれたものの、福島県に入ってからは雨に悩まされた。天気予報では「局地的に雷を伴う豪雨となる」と繰り返し報じていたが、当たらなくて良い予報ほど的中するものである。私が三春城に足を踏み入れたとき、まるで堰を切ったように大雨となり、とてものんきに史跡散策という状況ではなくなった。何とか本丸跡までたどりついたが、すぐさま引き返すことになった。


明治戊辰役三春藩烈士碑

 三春藩は、外様(秋田氏)五万石である。
 慶應四年(1868)七月二十六日、三春藩が突然、新政府軍に寝返った。列藩同盟に参加したものの、三春藩上層部は最初から勤王寄りであった。五月三十日には、京都に使者を送り、朝廷に救援を要請していた。七月に河野広中が土佐藩の板垣退助に接触し、新政府軍を三春城内に迎え入れることに成功した。その一方で近隣の二本松藩や福島藩には使者を派遣して同盟を装っていた。これに気付いた二本松藩では使者を惨殺した。三春城址には、この時殺害された四名を慰霊する明治戊辰役三春藩烈士碑が建立されている。

(紫雲寺)


紫雲寺

 三春城で豪雨に襲われ、逃げるように下山してそのまま紫雲寺に駆け込んだ。ここでも激しい雨は降りやまず、しばらく駐車場で待機するしかなかった。半時間もすると、雨が小降りになったので、ようやく車外に出ることができた。


磐州河野(広中)先生塋髪家

 維新後、自由民権運動の指導者となった河野広中の塋髪墓である。
 河野広中は、嘉永二年(1849)に三春に生まれた。生家は商家で郷士であったという。若い頃、漢学を学び、尊攘思想を抱いて水戸藩士らと交わった。戊辰戦争の時、二十歳の広中は、同志と図って三春藩を新政府に帰順させ、進んで会津征討に一隊を組んで参戦した。明治二年(1869)、若松県出仕。三春藩の捕亡取締、祀官を歴任し、磐前県第四大区小十四区副戸長、同戸長となった、この頃、中村正直の「自由之理」を読んで、それ以降自由民権家として活動した。大隈内閣で農商務大臣。大正十二年(1923)、年七十五で死亡。


井上弥太右衛門墓 近藤楠馬墓 江口精馬墓 日下専六墓 新兵衛墓

 紫雲寺には、本宮、二本松、若松などで戦死した土佐藩士らの墓がある。
 井上弥太右衛門は、土佐藩足軽。本宮にて戦死。二十一歳。
 近藤楠馬は、土佐藩歩行格。磐城山入にて負傷、のちに死亡。二十二歳。
 江口精馬は、小姓組。戊辰戦争では迅衝十番隊。二本末にて負傷、死亡。二十一歳。
 日下専六は、夫卒。若松にて陣没。
 新兵衛は、大村藩の中間。若松にて負傷、帰営後死亡した。

(龍穏院)


龍穏院

 龍穏院は、三春藩主秋田氏の菩提寺で、秋田氏の三春移封にともなって現在地に移転した。戊辰戦争では野戦病院として使われた。


戊辰之役忠魂碑


本木弥三郎墓

 本木弥三郎は、舘林藩士。慶應四年(1868)、九月五日、若松城下にて戦死。十八歳。


官軍 伊集院貞之助墓

 伊集院貞之助は、佐土原藩一番砲隊。慶應四年(1868)八月二十三日、若松にて戦死。二十八歳。

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本宮 Ⅱ

2012年10月06日 | 福島県
(安達太良神社)


安達太良神社


弾痕

 本宮小学校北側にある安達太良神社拝殿には、戊辰戦争時の弾痕が残っている。

(金礼寺)


金礼寺


賢教院明譽義秀居士
(笠間一之進墓)

 笠間一之進は、二本松藩士。七十石、糠沢組代官。慶應四年(1868)、七月二十七日糠沢村上ノ内にて戦死。

(城之内古戦場跡)


戊辰の役 城之内古戦場跡

 慶應四年(1868)七月二十六日、本宮白沢村糠沢地区(城之内)では激しい戦闘が交わされ、戦死者六十名を数えた。
 本宮市教育委員会の立てた古戦場の案内の脇道を歩いて行くと、竹林に囲まれた薄暗い空間に軍卒合葬墓と戊辰役戦歿者英靈塔と刻まれた二つの小さな碑が建てられている。


軍卒合葬墓


戊辰役戦歿者英靈塔

 樽井弥五郎左衛門の率いる銃士隊は、糠沢の庄屋宅に陣を張った。この樽井隊にも、岩本清次郎、中村久次郎、田中三治、武藤定助ら、少年が加わっていたという。七月二十七日早朝、樽井隊は突然の敵襲を受けた。このときの戦闘で周囲の家屋三十二戸は焼きつくされ、岩村、中村、田中の三名の少年も命を落とした。


軍卒合葬墓


戊辰役戦歿者合葬塔


近藤彌右衛門之墓

 先ほどの竹林から少し離れるが、道路脇の墓地に近藤彌右衛門の墓と戊辰役戦歿者合葬塔が建てられている。
 近藤彌右衛門は、六十五石、山奉行。樽井弥五左衛門隊に属した。やはり城ノ内での戦死者の一人である。

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