史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

高野山

2012年10月21日 | 和歌山県
 高野山という独立した山があるわけではなく、この辺りの標高千メートル級の山々の総称なのだそうだ。金剛峯寺や奥の院、それに多くの宿坊が並ぶ盆地は、標高にして約八百メートル。

(最後の仇討の現場)
 「和歌山県の歴史散歩」(山川出版社)には、地図付で「最後の仇討ち」の場所を示しているが、これだけを頼りに現地に行き着くのは、かなり無謀であった。私はそれらしい場所を半時間ほど歩き回ったが、尋ねようにも人の姿がない。神谷町西郷という集落は、ほとんど人の気配がなく、ゴーストタウンのようであった。仕方なく一旦紀伊神谷駅まで戻って駅員さんに尋ねることにした。駅員さんは、大変申し訳なさそうに「最近、着任したばかりで、この辺りのことは全然分からないんです」という。再び駅を離れて山の中を歩き回って一時間、ようやく現場を発見した。九度山方面から神谷町西郷という集落の入り口を逆進、つまり九度山方面に四~五百メートル戻ると、村上兄弟に討ち取られた七人の墓がある。


日本最後の仇討墓所


殉難七士の墓

 殉難七士の墓からさらに九度山方面に五百メートル進むと、『日本最後の「高野の仇討ち」』の説明板が立てられている。仇討ちがあったのは、明治四年(1871)二月三十日のことであった。


日本最後の「高野の仇討ち」

 仇討ちの発端は、文久二年(1862)師走まで遡る。赤穂藩家老森主税、用人村上真輔が、勤王派の足軽十三人によって暗殺された(文久事件と称される)。当時といえども私闘はご法度であり、まして藩の重役を暗殺するという行為は本来大罪であるが、時の勢いというべきか、襲撃した連中は赦された一方で、村上一族は閉門、追放という厳しい処分を受けた。この背後には藩内の勢力争いがあったものと思われる。
 明治元年(1868)、村上家の再興が認められると、村上真輔の遺子は、仇討ちの意思を固めた。これを察知した藩では、藩の墓所である高野山釈迦文院の墓守に彼らを任じた。この動きを知った村上方は、先回りして待ち伏せし、この地で激しい斬り合いとなった。敵方を討ち果たした村上方は、すぐさま五條県庁に自首した。この事件が直接の契機となって、明治新政府が明治六年(1873)二月、仇討ち禁止令を発したため、「最後の仇討ち」と呼ばれることになった。

 実は、私は高野山の仇討ちも含めると、「最後の仇討ち」の現場を三つ回ってきた。一つは、大阪府と和歌山県の県境、土佐藩士広井磐之助によるもの。これは、文久三年(1863)のことなので、「最後」と称するのはちょっと無理があるように思う。もう一つは、暗殺された金沢藩執政本多政均の仇を討った事件で、こちらは明治四年(1871)十二月のことで、時期としては高野山事件より後である。

 それにしても日本人は仇討ちが好きな民族である。古くは「日本書紀」にも仇討ちの記述があるらしい。言うなれば千五百年以上の歴史があるわけである。仇討ちは、江戸時代に入って幕府によって「法制化」され、届出、許可が必要とされた。討つ方は、家族も生活も擲って相手を探し、討ち果たしても生きながらえることは望めなかった。徹底した自己犠牲、無償の行為が日本人の琴線に触れるのだろう。他国のことはよく存じ上げないが、ここまで仇討ち行為がもてはやされるのは我が国だけではないか。しかし、明治六年(1873)の禁止令以降、同じ行為であっても、殺人とされることになってしまったのである。

 「最後の仇討ち」の現場を離れ、次はいよいよ世界遺産にも登録されている高野山である。南海高野山線は、本数も少ないので、ここから終点の極楽橋まで歩くことにした。「一駅だけだから」と甘く見たのが間違いのもとであった。本来、目指していたのはケーブルカーの発着する極楽橋駅であったが、分岐点に気付かず、結果的に高野山に直接向かうことになってしまった。途中で、距離表示もなく、いったいどれくらいの距離だか分からないが、たっぷり二時間、炎天下の上り坂を歩くことになってしまった。そばを通り過ぎる自動車からは、単にハイキング好きの中年にしか見えなかったかもしれないが、もともと私はハイキングや登山といった趣味は持たないし、よく見てもらえばスラックスにビジネス・シューズという、およそ山登りには相応しくない格好であった。途中で飲み物はなくなってしまうし、両脚が激しく攣ってしまうし、全く想定外の難行を強いられた。高野山で史跡巡りを計画される方には、くれぐれも自力で歩こうなどと考えないように、忠告しておきたい。

 突然、山の中に高野山の街が出現する。ここまで来れば、かなりの頻度でバスが走っているので、街の中はバスでの移動がお勧めである。

(釈迦文院)


釈迦文院

 高野山の仇討ちで殺された七名が目指していた高野山の釈迦文院である。現在も、この寺では、七名の菩提を弔っている。

(奥ノ院)


奥ノ院

 奥ノ院に至る参道の両側には、苔むした無数の墓碑が立ち並んでいる。その数、二十万とも三十万とも言われる。都内最大の霊園である青山霊園でも十一万基というから、その数は圧倒的である。まず目に付くには大名家の墓である。筑前黒田家、伊予久松家、姫路酒井家、紀州徳川家など、全国各地の大名家の墓がここに集まっている。また、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、明智光秀、石田三成、武田勝頼、上杉謙信といった戦国武将の墓も、敵味方関係なく建てられている。なお、高野山の墓は、基本的には供養墓であって、ここに遺体や骨を収めた墓は少ない。


大名家の墓(筑前黒田家)


仙陵

 奥の院の一番奥、弘法大師の墓所である御廟の手前にある仙陵は、霊元天皇から孝明天皇までの九代の天皇(ただし、東山天皇を除く)と皇族の供養塔である。

 事前に調べたところ、幕末関係者では、陸奥宗光、新門辰五郎らの墓があるらしいが、何のあても無く、この広い墓地を探し回るのは無茶である。何よりもここに至るまでの「登山」で疲弊していた私には、気力、体力とも残っていなかった。探し当てられたのは、黒田長溥と井伊直弼の供養墓のみであった。


従二位勲三等黒田長溥公墓


井伊直弼供養塔

 山深い高野山に、慶応四年(1868)幕末の騒擾が及んだことが一度だけあった。高野山挙兵と呼ばれる事件である。この痕跡が何か残されていないか探してみたが、残念ながらそれらしいものは発見できなかった。高野山における挙兵に参加した田中光顕の回顧録「維新風雲回顧録」には、金光院に本陣が置かれたと記載されているが、その金光院という寺も見つけられなかった。高野山は、明治に入ってから大火に遭い、それを機に寺院の統廃合が進んで、明治二十四年(1891)には百三十ヵ寺に減少した。現在、名跡を持つ寺の数は百十八という。長い歴史の中で、金光院も消え去ってしまったのかもしれない。

 帰路はバスでケーブルカーの高野山駅へ移動し、そこから南海特急「こうや」に乗り継ぐという極めて標準的なルートを採用した。往路の苦労が何だったかというほど呆気なく大阪市内に戻ってきた。


南海電車特急「こうや」

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九度山

2012年10月21日 | 和歌山県
(中屋旅館)
 一年振りに高槻の実家に帰省することになった。せっかくなので、この機に高野山を攻めることにした。
 父に「明日は、高野山に行く」と告げたところ、「昔、九度山までは連れて行ったことがある」という。聞けば、まだ私が小学生の頃、九度山に柿狩りに行ったらしい。微かに記憶が蘇った。
 今も富有柿は九度山の名産である。南海九度山駅の周辺には、柿畑が広がっている。

 今日のテーマは、「日本最後の仇討ち」である。明治四年(1871)二月、この地で赤穂藩士による仇討ちが実行された。元禄時代の赤穂浪士の討ち入りは有名であるが、赤穂藩は余程仇討ちと縁があるらしく、明治に入って“二回目”を経験することになった。ただし、討ち入りのときの藩主は浅野氏だったのに対し、明治初年の赤穂藩主は森氏に代わっている。


南海高野山線高野下駅

 朝七時に実家を出て、新今宮で南海高野山線に乗り換える。橋本駅から先は単線で、急な上り坂となる。まず、高野下駅で下車する。ここから河根(かね)集落まで歩いて三十五分ほど。事前に調べたところでは二十分ほどと推定していたが、とてもとても私の脚では二十分では無理であった。往復で軽く一時間以上は見ておいた方が良い。


元本陣 中屋旅館

 河根は古い宿場町である。旧街道に面して元本陣中屋旅館の表門が建っている。
 邸内には上段の間が往時のまま、保存されている。明治四年(1871)二月二十九日、赤穂藩士村上兄弟らは、仇討ちを翌日に控え、夜遅くまで中屋旅館の上段の間の書院で密談を交わしたと伝えられる。

 今も河根には旧街道(東高野街道)が通じており、その気になれば高野山まで自力で登ることも可能である。もちろん、その気のない私は迷うことになく、高野下駅まで引き返した。


千石橋からの眺め

 千石橋は、寛永十一年(1634)に幕府によってかけられた橋で、修理費として千石が支給されたことに因んで、この名が付いた。現在の橋はかけかえられたものである。

 河根まで往復して高野下駅まで帰り着いた時には、汗が吹き出して止まらない。電車の冷房が心地よかった。次の下車駅は、仇討ちが実行された紀伊神谷である。

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徳島 Ⅱ

2012年10月21日 | 徳島県
(笠松神社)


笠松神社

 新居浜に出張した帰路、ついでというには随分遠回りになるが、徳島に立ち寄ることにした。徳島市内を散策するのは、七~八年振りであるが、都会と違って町の風景はそれほど変わっていないように思った。
 徳島城の少し西、すっかりビル街となっている一角に小さな祠がある。笠松神社といって、徳島藩の第一家老稲田家の屋敷跡である。稲田家屋敷には、枝ぶりの美しい松があって、傘を開いたように見えたことから、人々は笠松と呼んだという。明治初年に徳島城を撮影された古写真に笠松が写っている。
 稲田家は、明治三年(1870)の稲田騒動(庚午事変)の主役となり、最後は北海道に移住させられている。

(徳島城東高校)


徳島県立城東高校

 今回の徳島探訪では、関寛斎関係の史跡を訪ねる。関寛斎と徳島の関係は深い。文久二年(1862)、藩主蜂須賀斉裕の侍医となって、徳島に来たのが最初である。戊辰戦争では、新政府の要請により奥羽に出張して病院頭取として活躍したが、維新後、再び徳島に戻り徳島医学校の開設に尽力した。その後、山梨病院初代院長を務めた後、また徳島に戻って俸禄士籍を返還し、明治七年(1874)、城東の地に医院を開業した。現在の城東高校の一角に当たる。寛斎は、貧者からは治療費を取らず、自らは質素な生活を送り、庶民から「関大明神」を崇められた。この前の道は「関の小路」と呼ばれた。平成三年(1991)、「この地にゆかりの関寛斎の遺徳を偲び慈愛と進取のこころに学ぶべく」この慈愛進取の碑が建立された。


慈愛進取の碑

(中徳島河畔緑地公園)


中徳島河畔緑地公園

 城東高校から歩いて直ぐ、助任川沿いに作られた中徳島河畔緑地公園に関寛斎の石像が置かれている。一見するとモアイ像のようだが、片手に医書を持ち、フランス式の軍服に身を包んだ寛斎の姿である。
 寛斎が徳島城東の地で開業していたのは約三十年に及んだ。七十二歳にして廃業し、夫人を伴って北海道に移住した。開拓に老身を捧げたが、大正元年(1912)服毒して自らの命を絶った。


関寛斎像

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