高野山という独立した山があるわけではなく、この辺りの標高千メートル級の山々の総称なのだそうだ。金剛峯寺や奥の院、それに多くの宿坊が並ぶ盆地は、標高にして約八百メートル。
(最後の仇討の現場)
「和歌山県の歴史散歩」(山川出版社)には、地図付で「最後の仇討ち」の場所を示しているが、これだけを頼りに現地に行き着くのは、かなり無謀であった。私はそれらしい場所を半時間ほど歩き回ったが、尋ねようにも人の姿がない。神谷町西郷という集落は、ほとんど人の気配がなく、ゴーストタウンのようであった。仕方なく一旦紀伊神谷駅まで戻って駅員さんに尋ねることにした。駅員さんは、大変申し訳なさそうに「最近、着任したばかりで、この辺りのことは全然分からないんです」という。再び駅を離れて山の中を歩き回って一時間、ようやく現場を発見した。九度山方面から神谷町西郷という集落の入り口を逆進、つまり九度山方面に四~五百メートル戻ると、村上兄弟に討ち取られた七人の墓がある。
日本最後の仇討墓所
殉難七士の墓
殉難七士の墓からさらに九度山方面に五百メートル進むと、『日本最後の「高野の仇討ち」』の説明板が立てられている。仇討ちがあったのは、明治四年(1871)二月三十日のことであった。
日本最後の「高野の仇討ち」
仇討ちの発端は、文久二年(1862)師走まで遡る。赤穂藩家老森主税、用人村上真輔が、勤王派の足軽十三人によって暗殺された(文久事件と称される)。当時といえども私闘はご法度であり、まして藩の重役を暗殺するという行為は本来大罪であるが、時の勢いというべきか、襲撃した連中は赦された一方で、村上一族は閉門、追放という厳しい処分を受けた。この背後には藩内の勢力争いがあったものと思われる。
明治元年(1868)、村上家の再興が認められると、村上真輔の遺子は、仇討ちの意思を固めた。これを察知した藩では、藩の墓所である高野山釈迦文院の墓守に彼らを任じた。この動きを知った村上方は、先回りして待ち伏せし、この地で激しい斬り合いとなった。敵方を討ち果たした村上方は、すぐさま五條県庁に自首した。この事件が直接の契機となって、明治新政府が明治六年(1873)二月、仇討ち禁止令を発したため、「最後の仇討ち」と呼ばれることになった。
実は、私は高野山の仇討ちも含めると、「最後の仇討ち」の現場を三つ回ってきた。一つは、大阪府と和歌山県の県境、土佐藩士広井磐之助によるもの。これは、文久三年(1863)のことなので、「最後」と称するのはちょっと無理があるように思う。もう一つは、暗殺された金沢藩執政本多政均の仇を討った事件で、こちらは明治四年(1871)十二月のことで、時期としては高野山事件より後である。
それにしても日本人は仇討ちが好きな民族である。古くは「日本書紀」にも仇討ちの記述があるらしい。言うなれば千五百年以上の歴史があるわけである。仇討ちは、江戸時代に入って幕府によって「法制化」され、届出、許可が必要とされた。討つ方は、家族も生活も擲って相手を探し、討ち果たしても生きながらえることは望めなかった。徹底した自己犠牲、無償の行為が日本人の琴線に触れるのだろう。他国のことはよく存じ上げないが、ここまで仇討ち行為がもてはやされるのは我が国だけではないか。しかし、明治六年(1873)の禁止令以降、同じ行為であっても、殺人とされることになってしまったのである。
「最後の仇討ち」の現場を離れ、次はいよいよ世界遺産にも登録されている高野山である。南海高野山線は、本数も少ないので、ここから終点の極楽橋まで歩くことにした。「一駅だけだから」と甘く見たのが間違いのもとであった。本来、目指していたのはケーブルカーの発着する極楽橋駅であったが、分岐点に気付かず、結果的に高野山に直接向かうことになってしまった。途中で、距離表示もなく、いったいどれくらいの距離だか分からないが、たっぷり二時間、炎天下の上り坂を歩くことになってしまった。そばを通り過ぎる自動車からは、単にハイキング好きの中年にしか見えなかったかもしれないが、もともと私はハイキングや登山といった趣味は持たないし、よく見てもらえばスラックスにビジネス・シューズという、およそ山登りには相応しくない格好であった。途中で飲み物はなくなってしまうし、両脚が激しく攣ってしまうし、全く想定外の難行を強いられた。高野山で史跡巡りを計画される方には、くれぐれも自力で歩こうなどと考えないように、忠告しておきたい。
突然、山の中に高野山の街が出現する。ここまで来れば、かなりの頻度でバスが走っているので、街の中はバスでの移動がお勧めである。
(釈迦文院)
釈迦文院
高野山の仇討ちで殺された七名が目指していた高野山の釈迦文院である。現在も、この寺では、七名の菩提を弔っている。
(奥ノ院)
奥ノ院
奥ノ院に至る参道の両側には、苔むした無数の墓碑が立ち並んでいる。その数、二十万とも三十万とも言われる。都内最大の霊園である青山霊園でも十一万基というから、その数は圧倒的である。まず目に付くには大名家の墓である。筑前黒田家、伊予久松家、姫路酒井家、紀州徳川家など、全国各地の大名家の墓がここに集まっている。また、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、明智光秀、石田三成、武田勝頼、上杉謙信といった戦国武将の墓も、敵味方関係なく建てられている。なお、高野山の墓は、基本的には供養墓であって、ここに遺体や骨を収めた墓は少ない。
大名家の墓(筑前黒田家)
仙陵
奥の院の一番奥、弘法大師の墓所である御廟の手前にある仙陵は、霊元天皇から孝明天皇までの九代の天皇(ただし、東山天皇を除く)と皇族の供養塔である。
事前に調べたところ、幕末関係者では、陸奥宗光、新門辰五郎らの墓があるらしいが、何のあても無く、この広い墓地を探し回るのは無茶である。何よりもここに至るまでの「登山」で疲弊していた私には、気力、体力とも残っていなかった。探し当てられたのは、黒田長溥と井伊直弼の供養墓のみであった。
従二位勲三等黒田長溥公墓
井伊直弼供養塔
山深い高野山に、慶応四年(1868)幕末の騒擾が及んだことが一度だけあった。高野山挙兵と呼ばれる事件である。この痕跡が何か残されていないか探してみたが、残念ながらそれらしいものは発見できなかった。高野山における挙兵に参加した田中光顕の回顧録「維新風雲回顧録」には、金光院に本陣が置かれたと記載されているが、その金光院という寺も見つけられなかった。高野山は、明治に入ってから大火に遭い、それを機に寺院の統廃合が進んで、明治二十四年(1891)には百三十ヵ寺に減少した。現在、名跡を持つ寺の数は百十八という。長い歴史の中で、金光院も消え去ってしまったのかもしれない。
帰路はバスでケーブルカーの高野山駅へ移動し、そこから南海特急「こうや」に乗り継ぐという極めて標準的なルートを採用した。往路の苦労が何だったかというほど呆気なく大阪市内に戻ってきた。
南海電車特急「こうや」
(最後の仇討の現場)
「和歌山県の歴史散歩」(山川出版社)には、地図付で「最後の仇討ち」の場所を示しているが、これだけを頼りに現地に行き着くのは、かなり無謀であった。私はそれらしい場所を半時間ほど歩き回ったが、尋ねようにも人の姿がない。神谷町西郷という集落は、ほとんど人の気配がなく、ゴーストタウンのようであった。仕方なく一旦紀伊神谷駅まで戻って駅員さんに尋ねることにした。駅員さんは、大変申し訳なさそうに「最近、着任したばかりで、この辺りのことは全然分からないんです」という。再び駅を離れて山の中を歩き回って一時間、ようやく現場を発見した。九度山方面から神谷町西郷という集落の入り口を逆進、つまり九度山方面に四~五百メートル戻ると、村上兄弟に討ち取られた七人の墓がある。
日本最後の仇討墓所
殉難七士の墓
殉難七士の墓からさらに九度山方面に五百メートル進むと、『日本最後の「高野の仇討ち」』の説明板が立てられている。仇討ちがあったのは、明治四年(1871)二月三十日のことであった。
日本最後の「高野の仇討ち」
仇討ちの発端は、文久二年(1862)師走まで遡る。赤穂藩家老森主税、用人村上真輔が、勤王派の足軽十三人によって暗殺された(文久事件と称される)。当時といえども私闘はご法度であり、まして藩の重役を暗殺するという行為は本来大罪であるが、時の勢いというべきか、襲撃した連中は赦された一方で、村上一族は閉門、追放という厳しい処分を受けた。この背後には藩内の勢力争いがあったものと思われる。
明治元年(1868)、村上家の再興が認められると、村上真輔の遺子は、仇討ちの意思を固めた。これを察知した藩では、藩の墓所である高野山釈迦文院の墓守に彼らを任じた。この動きを知った村上方は、先回りして待ち伏せし、この地で激しい斬り合いとなった。敵方を討ち果たした村上方は、すぐさま五條県庁に自首した。この事件が直接の契機となって、明治新政府が明治六年(1873)二月、仇討ち禁止令を発したため、「最後の仇討ち」と呼ばれることになった。
実は、私は高野山の仇討ちも含めると、「最後の仇討ち」の現場を三つ回ってきた。一つは、大阪府と和歌山県の県境、土佐藩士広井磐之助によるもの。これは、文久三年(1863)のことなので、「最後」と称するのはちょっと無理があるように思う。もう一つは、暗殺された金沢藩執政本多政均の仇を討った事件で、こちらは明治四年(1871)十二月のことで、時期としては高野山事件より後である。
それにしても日本人は仇討ちが好きな民族である。古くは「日本書紀」にも仇討ちの記述があるらしい。言うなれば千五百年以上の歴史があるわけである。仇討ちは、江戸時代に入って幕府によって「法制化」され、届出、許可が必要とされた。討つ方は、家族も生活も擲って相手を探し、討ち果たしても生きながらえることは望めなかった。徹底した自己犠牲、無償の行為が日本人の琴線に触れるのだろう。他国のことはよく存じ上げないが、ここまで仇討ち行為がもてはやされるのは我が国だけではないか。しかし、明治六年(1873)の禁止令以降、同じ行為であっても、殺人とされることになってしまったのである。
「最後の仇討ち」の現場を離れ、次はいよいよ世界遺産にも登録されている高野山である。南海高野山線は、本数も少ないので、ここから終点の極楽橋まで歩くことにした。「一駅だけだから」と甘く見たのが間違いのもとであった。本来、目指していたのはケーブルカーの発着する極楽橋駅であったが、分岐点に気付かず、結果的に高野山に直接向かうことになってしまった。途中で、距離表示もなく、いったいどれくらいの距離だか分からないが、たっぷり二時間、炎天下の上り坂を歩くことになってしまった。そばを通り過ぎる自動車からは、単にハイキング好きの中年にしか見えなかったかもしれないが、もともと私はハイキングや登山といった趣味は持たないし、よく見てもらえばスラックスにビジネス・シューズという、およそ山登りには相応しくない格好であった。途中で飲み物はなくなってしまうし、両脚が激しく攣ってしまうし、全く想定外の難行を強いられた。高野山で史跡巡りを計画される方には、くれぐれも自力で歩こうなどと考えないように、忠告しておきたい。
突然、山の中に高野山の街が出現する。ここまで来れば、かなりの頻度でバスが走っているので、街の中はバスでの移動がお勧めである。
(釈迦文院)
釈迦文院
高野山の仇討ちで殺された七名が目指していた高野山の釈迦文院である。現在も、この寺では、七名の菩提を弔っている。
(奥ノ院)
奥ノ院
奥ノ院に至る参道の両側には、苔むした無数の墓碑が立ち並んでいる。その数、二十万とも三十万とも言われる。都内最大の霊園である青山霊園でも十一万基というから、その数は圧倒的である。まず目に付くには大名家の墓である。筑前黒田家、伊予久松家、姫路酒井家、紀州徳川家など、全国各地の大名家の墓がここに集まっている。また、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、明智光秀、石田三成、武田勝頼、上杉謙信といった戦国武将の墓も、敵味方関係なく建てられている。なお、高野山の墓は、基本的には供養墓であって、ここに遺体や骨を収めた墓は少ない。
大名家の墓(筑前黒田家)
仙陵
奥の院の一番奥、弘法大師の墓所である御廟の手前にある仙陵は、霊元天皇から孝明天皇までの九代の天皇(ただし、東山天皇を除く)と皇族の供養塔である。
事前に調べたところ、幕末関係者では、陸奥宗光、新門辰五郎らの墓があるらしいが、何のあても無く、この広い墓地を探し回るのは無茶である。何よりもここに至るまでの「登山」で疲弊していた私には、気力、体力とも残っていなかった。探し当てられたのは、黒田長溥と井伊直弼の供養墓のみであった。
従二位勲三等黒田長溥公墓
井伊直弼供養塔
山深い高野山に、慶応四年(1868)幕末の騒擾が及んだことが一度だけあった。高野山挙兵と呼ばれる事件である。この痕跡が何か残されていないか探してみたが、残念ながらそれらしいものは発見できなかった。高野山における挙兵に参加した田中光顕の回顧録「維新風雲回顧録」には、金光院に本陣が置かれたと記載されているが、その金光院という寺も見つけられなかった。高野山は、明治に入ってから大火に遭い、それを機に寺院の統廃合が進んで、明治二十四年(1891)には百三十ヵ寺に減少した。現在、名跡を持つ寺の数は百十八という。長い歴史の中で、金光院も消え去ってしまったのかもしれない。
帰路はバスでケーブルカーの高野山駅へ移動し、そこから南海特急「こうや」に乗り継ぐという極めて標準的なルートを採用した。往路の苦労が何だったかというほど呆気なく大阪市内に戻ってきた。
南海電車特急「こうや」