史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「西郷隆盛と明治維新」 坂野潤治著 講談社現代新書

2013年06月01日 | 書評
上海出張のために空港に向かう途中、この本を書店で手に入れて、往復の機内で読み通した。
「はじめに」で著者が西郷隆盛のことを定義しているが、いきなりそこに違和感を覚えた。
――― 西郷隆盛といえば今日の読者がまず思い出すのは「征韓論」のことであろう。
さらに、「軍部独裁と侵略戦争の元祖」などとレッテルを貼ろうとするが、多少でも西郷隆盛の生涯を勉強した者であれば、今やそのような先入観を持った人は少ないのではないか。歴史の論文の特徴として、通説があり、それを覆すような論説があるのが通常であるが、そもそもその提示される通説が違和感のあるものであると、その先を読もうという意欲が削がれてしまう。
もう一つ違和感があったのが、この部分。
――― 西郷隆盛に傾倒する本書の筆者にとっては、西郷流刑の張本人である島津久光の幕政改革に興奮している勝海舟という人物も、あまり好きになれない。(第三章「西郷の復権」P.77)
小説家の随想ならともかく学者先生の書く文章で、「好き嫌い」で論じることが許されるのだろうか。「好き」な人物がとった行動は常に正しく、「嫌い」な人物の行為は批判的に見ると言う態度は、公正とは言えないように思う。
本書によれば、西郷隆盛は慶應三年(1867)の段階で国民会議の必要性を熱心に説いていた。また、元治元年(1864)の時点で二院制の議会の導入を悟ったとしているが、同じ議会制といっても現代の議会をイメージしては間違ってしまう。ここは注意して読む必要があろう。
西南戦争勃発の場面について、著者は
――― 一月二十九日夜半、桐野ら急進派が陸軍砲兵属廠を襲い、残っていた小銃や弾薬を押収したのである。
とするが、火薬庫襲撃事件の背後に桐野利秋がいたという指摘は初めて聞いた。根拠を知りたいと思った。

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「明治留守政府」 笠松英彦著 慶應義塾大学出版会

2013年06月01日 | 書評
「明治留守政府」とは、聞きなれない言葉かもしれない。明治四年(1871)十一月、横浜を発った岩倉使節団の海外派出中に留守を任された政府のことである。留守政府が政務を担ったのは、明治六年(1873)までの約二年足らずであった。
岩倉具視、大久保利通、木戸孝允ら岩倉使節団は、日本を離れるにあたって留守政府に対して「十二箇条の約定」と言われる「約束事」を突き付けた。留守政府が勝手なことをしないように釘をさしたものとする見方が一般的であった(私もそう思っていました)。例えばその第六条では「内地の事務は、大使帰国の家、大いに改正する目的なれば、その間なるたけ新規の改正を要すべからず。万一、やむを得ずして改正することあらば、派出の大使に照会をなすべし」と、留守政府を規制している。
しかし、本書によれば「留守政府の安定化を図り、板垣ら武断派の動きを牽制し三条を頂く、大隈、井上ら留守政府派が企画して大久保ら遣外使節派の了解を取り付けたもの」とする。新鮮であるが、説得力のある主張である。
それにしても、使節団の派遣が決まってからの大久保の奔走には驚く。根回しや説得工作のために、有力者の間を走り回る姿は、まさに現代の政治家を彷彿とさせる。逆にこの時期、西郷隆盛はほとんどこのような暗躍を見せない。恐らく明治維新を境に志士から政治家に転換を遂げた大久保と、変貌を遂げられなかった西郷との路線の違いがここに見られる。

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