史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

函館 宝来町

2013年10月13日 | 北海道
(高田屋嘉兵衛像)
 護国神社坂に立つ高田屋嘉兵衛像は、嘉兵衛の功績を称えるとともに、函館開港百年を記念して昭和三十三年(1958)に建てられたものである。


高田屋嘉兵衛像

 この像は、文化十年(1813)、ロシア軍艦ディアナ号が、捕らわれていたゴローニン船長を引き取るために箱館に入港したのに立ち会った嘉兵衛の姿を描いたものである。右手に持つのは松前奉行からの諭書、左手には鑑内で正装に着替えるために脱いだ衣服を持つ。

(高田屋屋敷跡)


高田屋嘉兵衛屋敷跡

 高田屋嘉兵衛は、江戸後期の商人。今日の函館の発展の基礎を築くとともに、日露外交にその手腕を発揮した。明和六年(1769)に淡路の津名郡都志本村に生まれた。船乗りとして兵庫に渡り、十六歳のとき独立して辰悦丸を建造した。兵庫で酒、塩、木綿などを仕入れ、酒田でそれを売り捌き、復路は酒田の米、函館で魚、昆布などを仕入れて、利益を上げた。寛政十一年(1799)、択捉―国後間の航路開拓に成功し、その功績により幕府から蝦夷地定雇船頭、蝦夷地産物売捌方に任命された。文化九年(1812)八月、ゴローニン事件に巻き込まれ、ディアナ号でカムチャッカに連行されたが、冷静にその解決に尽力し、日露友好にも貢献した。文政元年(1818)には幕府に御用御免を願い出て、弟金兵衛に家督を譲り、郷里の淡路に帰った。文政十年(1827)、郷里で五十九歳の生涯を閉じた。死後、ロシアとの密貿易の疑いをかけられ、高田屋は厳しい取り調べを受けた。疑いは晴れたが、金兵衛は淡路に謹慎させられ、持ち船は没収。家屋や倉庫も親類預けとなり、高田屋は没落することになった。


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函館 函館山

2013年10月13日 | 北海道
(函館山)

今回の函館滞在中、朝・昼・晩の三回、函館山に登った。いつから山登りがそんなに好きになったのかと呆れられそうだが、山登りが苦手なことは何も変わっていない。いずれも自動車やロープウェイで登ったので、登山とは言い難いが。
この時期、函館山へは自動車での乗り入れは規制されている。夜景を見に行くのであれば、夜十時過ぎでなければ入山できない。登山口は護国神社の横であるが、そこに午後十時に行ったのでは、何時に山頂に行きつけるか覚束ない。私と息子は、規制が解除される三十分前に登山口で待機した。午後十時になると、それまで登山口で進入を規制していた係の人が、「これから我々が先導しますから」と宣言し、我々はそのあとをついてひたすら山頂を目指して走るだけである。まるでカーレースのようであった。私は途中で道を間違えてしまったが、何とか駐車スペースを確保できた。山頂駐車場にとめられる台数は限られており、少し時間を間違うと長蛇の列に並ぶことになる。我々が半時間ほど夜景を楽しんで下山するとき、登り方面の道は中腹まで車列が続いていた。この分では、最後尾の方が山頂に行き着くのは明け方になるのではないか。


函館山の夜景
 函館は連日猛暑が続いていたが、夜の函館山山頂は寒さを感じるほど冷たい風が吹いていた。函館山の夜景を撮影するために、わざわざ三脚を担いできた。ところが、函館山山頂には灯りがなく、手さぐりで三脚のセットをしなくてはならない。結果的には思うように撮影できなかった。
函館の夜景は、文句なしに素晴らしい。多少、行列に並んでも一見しておく価値はあるだろう。函館の夜景は世界三大夜景の一つと称されている(ほかの二つは香港とナポリ)。つまり日本一の夜景ということになるが、個人的には(自分が学生時代を過ごした)神戸の夜景に勝るものは無いと思っている。


昼間、改めて函館山山頂を訪れたのは、山頂に点在する史跡を回るためである。


ブラキストンの碑

 ブラキストンはイギリス人。文久三年(1863)に事業を起こすために箱館に来て、商売の傍ら、動物の研究や気象観測などを行った。明治十二年(1879)には、それまで収集した鳥類の標本を開拓使博物場に寄贈した。現在もこの標本は、北海道大学植物園博物館に保存されている。明治十六年(1883)、本州と北海道に動物の分布状況が著しく異なることを発表し注目された。今も津軽海峡は「ブラキストン・ライン」と呼ばれている。ブラキストンは、元砲兵大尉だったいい、箱館戦争のときも行き交う砲弾に怖がる様子もなく、悠然と食事をしていたという。


御殿山第二砲台跡

 函館山に登ったら、是非砲台跡まで足を伸ばして欲しい。明治時代に築かれた砲台の跡が鮮明に残っているのである。

 明治政府は、来るべきロシアとの戦争を想定し、津軽海峡の防衛強化を目的に、明治三十一年(1898)から約四年の歳月を費やして、函館山の要塞化を進めた。函館山には大小四か所の砲台が建設され、昭和二十一年(1946)に要塞地帯法が開放されるのまでの約五十年間にわたり、一般市民の立ち入りが禁止された。結果的に函館山独自の自然、生物が残されることになった。御殿山のほかにも薬師山砲台、千畳敷砲台などが保存されていて、見学も可能なようであるが、そこでまで歩く体力と時間が残っていなかった。興味がある方は、観光案内所で「函館要塞跡散策マップ」という超マニアックなパンフレットを入手して欲しい。


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