史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

表参道 Ⅱ

2014年01月13日 | 東京都
(大山史前学研究所跡)


大山史前学研究所跡

 表参道駅から徒歩五分。緑地公園に大きな説明板が建てられている。戦前、この地に大山柏が主催する大山史前学研究所があった。大山柏は、大山巌の次男。母は山川捨松である。柏が誕生したとき、巌が柏崎に駐在していたため、「柏」と名付けられた。長男大山高が早世したことにより、大山公爵家を継いだ。大山柏は軍人の道を歩み、大正十二年(1923)には、近代戦史研究のためヨーロッパに留学し、合わせて考古学を修めた。帰国した大山柏は、自宅内に史前研究室を開設した。遺蹟の調査研究、雑誌の刊行、出土品の展示、約一万冊に及ぶ蔵書の閲覧等、現在の国公立研究所にも劣らない機能を有した。昭和二十年(1945)五月の空襲により焼失したため、大山柏は西那須の別荘に移り住んだ。
 大山柏は考古学が専門であったが、一方で戊辰戦争の研究に没頭し、その集大成として「戊辰戦役史」を書き上げた。本書は戊辰戦争研究のバイブル的存在である。私も手に入れたいと古書店を漁っているが、古書でも高価なものでなかなか購入できないでいる。


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目黒 Ⅳ

2014年01月13日 | 東京都
(大鳥神社)


大鳥神社

 大鳥神社は、大同元年(806)に創建されたという歴史ある神社である。隣接する大聖院の境内にある石灯籠は、切支丹燈籠もしくは織部燈籠と呼ばれ、三田千代ケ崎の島原藩松平主殿頭の下屋敷にあったものである。中央の最も背の高い一基の棹石には、中央に変形T字クルスとキリスト像と思しき形状が刻まれている。


切支丹燈籠



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赤坂 Ⅱ

2014年01月13日 | 東京都
(氷川神社)


氷川神社のオオイチョウ


浅野土佐守邸跡

 氷川神社(港区赤坂6-10-19)境内は、元禄時代、備後三次藩浅野土佐守の下屋敷であった。三次藩は、寛永九年(1632)、安芸広島藩から五万石を分知して立藩された支藩である。三次藩は相次いで藩主が早逝したため、享保三年(1718)に断絶した。享保十五年(1730)、赤坂四丁目にあった氷川神社が遷宮され現在に至っている。

(豊川稲荷神社)


豊川稲荷神社

 赤坂の豊川稲荷神社(港区元赤坂1-4)は、西大平藩の赤坂下屋敷内社である。境内には、大岡越前守の墓もある。


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日野 Ⅲ

2014年01月13日 | 東京都
(欣浄寺)


欣浄寺

 井上源三郎資料館の向いにある欣浄寺境内に八王子千人同心日野義貴の顕彰碑がある。


日埜義貴之碑

 日野義貴は、八王子千人同心。地元で私塾を開き門人は三百人に及んだという。文久三年(1863)、六十三歳で病没。この碑は長男日野義順によって、没後一年を迎えた元治元年(1864)八月に建立されたものである。碑文は八王子同心の千人頭河野仲次郎通聿によるもの。上野戦争が起こると、河野は千人隊を率いて彰義隊に合流した。このとき日野義順も河野に従っている。

 なお、河野仲次郎の墓は、色んな書籍に青山霊園と記載されているのだが、青山霊園のどの墓域にあるのかが分からない。八王子市の郷土史料館に問い合わせたり、青山霊園事務所で尋ねたが、現時点では分からないままである。


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あきる野

2014年01月13日 | 東京都
(五日市カトリック霊園)


田中家之(田中不二麿)墓

 尾張藩士田中不二麿の墓である。田中不二麿の墓は当初谷中にあったが、のちに五日市カトリック霊園に改装された。真新しい墓であるが、傍らの墓誌に田中不二麿の名前が記されている。
 田中不二麿は、弘化二年(1845)生まれ。田宮如雲、丹羽賢らとともに尾張藩の金鉄組に加わって勤王を唱え、藩内の佐幕派を抑えて反論を討幕の方向に進めた。慶応三年(1867)には新政府参与、明治元年(1868)徴士、明治四年(1871)文部大丞となった。岩倉使節団にも加わって、欧米の教育事情を調査し「理事功程」十五巻にまとめた。明治七年(1874)には文部大輔に任じられた。明治十年(1877)、アメリカに出張して教育制度を調査し、「米国学校法」を文部省から刊行した。明治十二年(1879)、発布された教育令が自由主義を基調としたものであったため非難を受け、明治十三年(1880)には司法省に転じた。その後、イタリア公使、フランス公使、枢密院顧問官を歴任した後、明治二十四年(1891)には司法大臣として第一次松方内閣に参画した。明治四十二年(1909)、六十五歳で没。
 尾張出身で新政府の高官となったのは、田中不二麿がほとんど唯一といって良い。

(丸山家)


丸山家

 八王子先人同心は、八王子だけでなく、現在の神奈川県、埼玉県域まで広く居住していた。あきる野市の丸山家も、八王子千人同心の家系である。
 丸山家の前にある畑の一角に丸山家墓地があり、そこに幕末の当主丸山惣兵衛定静の墓がある。


丸山惣兵衛定静の墓

 丸山惣兵衛は八王子千人同心組頭。文久二年(1862)と元治元年(1864)の将軍家茂の上洛に供奉し、甲州表の賊徒討伐にも出張した。第二次長州征伐にも八番小隊半隊司令として従軍した。帰郷後、横浜に赴任したが、戊辰戦争で千人隊が新政府に恭順したため、新政府に出仕して護境隊頭取に就いた。明治三十年(1897)八十九歳で死去。

(地蔵院)
 地蔵院には八王子同心田辺利八、小三郎の墓がある。


地蔵院


田邊家先祖累代之墓

 田邊家は天正十九年から千人同心として続く旧家で、代々日光勤番と甲州口警備を担当していた。利八は甲州勤番を三度務め、神奈川警備にも出張した。養子の小三郎も日光勤番を務め、元治元年(1864)の甲州賊徒討伐や慶応二年(1866)神奈川警備にも出張した。利八は慶応四年(1868)七月没。二人は田邊家累代之墓に合葬されている。墓石の側面には八王子千人同心田邊家の事績が刻まれている。

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