史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

名古屋 熱田

2016年12月09日 | 愛知県
(熱田神宮)


熱田神宮

 有名な熱田神宮は、今からおよそ千九百年前の景行天皇の時代(西暦113年)に、草薙神剣を熱田に祀ったのがその始まりといわれる、とてつもなく古い歴史を持つ神社である。戦国時代には織田信長が桶狭間の合戦の前にここで戦勝を祈願してから出陣した。その御礼として奉納した瓦葺きの塀(通称・信長塀)は、今でも見ることができる。私が訪れたこの日は、七五三で着飾った子供にたくさん出会った。
 明治十三(1880)以降、勤王家の角田忠行が長くこの神社の宮司を務めた。

(宮の渡し公園)


熱田湊常夜灯

 熱田の宿・神戸(こうど)の浜から、桑名宿まで東海道では唯一の海上七里の海路で、東西の人々の往来が盛んであった。文政九年(1826)二月、名古屋の本草学者水谷豊文、その門下生伊藤圭介、大河内存真らは、ドイツ人医師シーボルトがオランダ使節に随行して江戸へ参府する際、それから同年四月、長崎への帰路、当地で会見し、教えを受けた。のちに彼らは名古屋の医学、植物学の研究に多大な貢献をした。


七里の渡し

 現在、七里の渡しは、「宮の渡し公園」として整備され、船着場も往時の雰囲気さながらに再現されている。昭和三十年(1955)に復元された常夜灯は、寛永二年(1625)、藩の家老であった成瀬正房(正虎)が、父正成の遺命を受けて、須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に建立したのが最初で、その後風害で破損したために、承応三年(1654)、現在地に移り、神戸町の宝勝院に管理が委ねられた。寛政三年(1791)、附近の民家からの失火により焼失、同年、成瀬正典によって再建されたが、その後荒廃した。


七里渡船着(尾張名所図会)

 この絵は七里の渡しを描いたもので、道沿いに並ぶ旅籠などの家々や、岸に繋がれた船、道を行き交う人の多さから、当時の賑わいが伝わる。

(熱田荘)


熱田荘

 宮の渡し公園の向かい側に熱田荘という古い建物が残されている。この建物は、明治二十九年(1896)に建てられた「魚半」という料亭で、木造、二階建て、切妻造、桟瓦葺平入り、正面庇付の建物で、のちに三菱重工業の社員寮として使われ、現在は高齢者福祉施設として利用されている。

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名古屋 Ⅴ

2016年12月09日 | 愛知県
(愛知県図書館)


愛知県図書館

 この日も京都からの帰り、名古屋で途中下車して、地下鉄の一日乗車券を購入して、市内を探索した。最初の訪問地が、地下鉄丸の内駅近くの愛知図書館である。
 愛知県図書館は、名古屋城三の丸跡に建てられた施設で、現在地に移ったのは平成三年(1991)のことである。
 この場所は、大原幽学の生誕地であり、時代を少し遡ると、尾張藩の用人、寺社奉行などを歴任し、俳人としても名を残した横井也有(孫右衛門時般)もこの地に屋敷を有していた。ただし、横井孫右衛門家は也有隠居後に屋敷を他所に移している。なお、横井孫右衛門家からは幕末、青松葉事件で斬首された横井時足が出ている。

大原幽学は、寛政九年(1797)尾張藩重臣大道寺直方の二男として、名古屋城内三の丸大道寺邸内で生まれた。神・儒・仏の三道を究め、一つの学問を開き、性学または性理と名付けた。天保九年(1838)、下総国香取郡長部村八石に先祖株組合を組織し、農村生活の改善に力を尽くした。


大原幽学出生地

(長久寺)
 長久寺は、清須城主松平忠吉が旧領の武蔵国忍城下で祈願所とした寺を清須に移したもので、慶長十五年(1610)、清須越の際、現在地に移され、豪壮な表門(薬医門形式)もその時に移建されたものである。
 この寺の北裏には、儒学者細野要斎が明治十一年(1878)六十八歳で没するまで住んでいたという。


長久寺


細野要斎宅跡

(名古屋市立中央高校)


名古屋市立中央高校


宇都宮三郎出生地

 市立中央高校の敷地は、宇都宮三郎の出生地である。宇都宮三郎は、天保五年(1834)、尾張藩主神谷義重の三男としてこの地で生まれた。藩校明倫堂に学び、後に上田帯刀の門に入り、西洋砲術と火薬の研究に没頭し、嘉永年間(1848~1854)、着発弾をつくることに成功した。安政四年(1857)、西洋砲術研究のため脱藩した後、幕府の洋書調所製煉方を経て、幕府陸軍所で軍制改革に参画した。維新後は、開成学校教官などを経て、明治十五年(1882)、工部大技長となった、セメントや耐火レンガの製造、製造法の改良など、我が国の化学工業界の先駆者として偉大な足跡を残した。

(橘公園)


橘公園


おためし場腑分けの跡

 地下鉄東別院駅から徒歩五分、橘公園の場所は、旧称新屋敷といい、藩士の新刀試しに供した場所であった。嘉永七年(1854)には、名古屋で初めての人体解剖(腑分け)が行われた。当日の参観者は、吉雄俊蔵ほか、六十余名。石黒済庵の執刀により、東西の医書を対照して行い、洋書の正確なことが分かった。ちなみに明和八年(1771)、杉田玄白らが江戸小塚原で最初の腑分けを行ってから八十三年後のことであった。
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