(熱田神宮)
熱田神宮
有名な熱田神宮は、今からおよそ千九百年前の景行天皇の時代(西暦113年)に、草薙神剣を熱田に祀ったのがその始まりといわれる、とてつもなく古い歴史を持つ神社である。戦国時代には織田信長が桶狭間の合戦の前にここで戦勝を祈願してから出陣した。その御礼として奉納した瓦葺きの塀(通称・信長塀)は、今でも見ることができる。私が訪れたこの日は、七五三で着飾った子供にたくさん出会った。
明治十三(1880)以降、勤王家の角田忠行が長くこの神社の宮司を務めた。
(宮の渡し公園)
熱田湊常夜灯
熱田の宿・神戸(こうど)の浜から、桑名宿まで東海道では唯一の海上七里の海路で、東西の人々の往来が盛んであった。文政九年(1826)二月、名古屋の本草学者水谷豊文、その門下生伊藤圭介、大河内存真らは、ドイツ人医師シーボルトがオランダ使節に随行して江戸へ参府する際、それから同年四月、長崎への帰路、当地で会見し、教えを受けた。のちに彼らは名古屋の医学、植物学の研究に多大な貢献をした。
七里の渡し
現在、七里の渡しは、「宮の渡し公園」として整備され、船着場も往時の雰囲気さながらに再現されている。昭和三十年(1955)に復元された常夜灯は、寛永二年(1625)、藩の家老であった成瀬正房(正虎)が、父正成の遺命を受けて、須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に建立したのが最初で、その後風害で破損したために、承応三年(1654)、現在地に移り、神戸町の宝勝院に管理が委ねられた。寛政三年(1791)、附近の民家からの失火により焼失、同年、成瀬正典によって再建されたが、その後荒廃した。
七里渡船着(尾張名所図会)
この絵は七里の渡しを描いたもので、道沿いに並ぶ旅籠などの家々や、岸に繋がれた船、道を行き交う人の多さから、当時の賑わいが伝わる。
(熱田荘)
熱田荘
宮の渡し公園の向かい側に熱田荘という古い建物が残されている。この建物は、明治二十九年(1896)に建てられた「魚半」という料亭で、木造、二階建て、切妻造、桟瓦葺平入り、正面庇付の建物で、のちに三菱重工業の社員寮として使われ、現在は高齢者福祉施設として利用されている。
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熱田神宮
有名な熱田神宮は、今からおよそ千九百年前の景行天皇の時代(西暦113年)に、草薙神剣を熱田に祀ったのがその始まりといわれる、とてつもなく古い歴史を持つ神社である。戦国時代には織田信長が桶狭間の合戦の前にここで戦勝を祈願してから出陣した。その御礼として奉納した瓦葺きの塀(通称・信長塀)は、今でも見ることができる。私が訪れたこの日は、七五三で着飾った子供にたくさん出会った。
明治十三(1880)以降、勤王家の角田忠行が長くこの神社の宮司を務めた。
(宮の渡し公園)
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熱田湊常夜灯
熱田の宿・神戸(こうど)の浜から、桑名宿まで東海道では唯一の海上七里の海路で、東西の人々の往来が盛んであった。文政九年(1826)二月、名古屋の本草学者水谷豊文、その門下生伊藤圭介、大河内存真らは、ドイツ人医師シーボルトがオランダ使節に随行して江戸へ参府する際、それから同年四月、長崎への帰路、当地で会見し、教えを受けた。のちに彼らは名古屋の医学、植物学の研究に多大な貢献をした。
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七里の渡し
現在、七里の渡しは、「宮の渡し公園」として整備され、船着場も往時の雰囲気さながらに再現されている。昭和三十年(1955)に復元された常夜灯は、寛永二年(1625)、藩の家老であった成瀬正房(正虎)が、父正成の遺命を受けて、須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に建立したのが最初で、その後風害で破損したために、承応三年(1654)、現在地に移り、神戸町の宝勝院に管理が委ねられた。寛政三年(1791)、附近の民家からの失火により焼失、同年、成瀬正典によって再建されたが、その後荒廃した。
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七里渡船着(尾張名所図会)
この絵は七里の渡しを描いたもので、道沿いに並ぶ旅籠などの家々や、岸に繋がれた船、道を行き交う人の多さから、当時の賑わいが伝わる。
(熱田荘)
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熱田荘
宮の渡し公園の向かい側に熱田荘という古い建物が残されている。この建物は、明治二十九年(1896)に建てられた「魚半」という料亭で、木造、二階建て、切妻造、桟瓦葺平入り、正面庇付の建物で、のちに三菱重工業の社員寮として使われ、現在は高齢者福祉施設として利用されている。