史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

赤坂 Ⅲ

2017年02月12日 | 東京都
(サン・サン赤坂)
 Kさんからの年賀状で、赤坂の勝海舟屋敷跡に勝海舟と坂本龍馬の像「師弟像」が建立されたことを知った。
 まだ腰の状態は十分とはいえないが、間もなく仕事始めであり、いつまでも家の中でぐずぐずしているわけにいかない。身体を馴らすことも兼て、赤坂まで往復することにした。
 それにしても、海舟がこの場所に住んだのは明治五年(1872)以降のことであり、当然ながら坂本龍馬がここを訪れた事実はない。またしても、当人とは所縁の無い場所に龍馬像が建てられることになった。


勝海舟・坂本龍馬の師弟像

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東池袋 Ⅳ

2017年02月12日 | 東京都
(雑司ヶ谷霊園)


早矢仕有的之墓

 書店「丸善」創始者早矢仕有的の墓である。有的は、天保八年(1837)、山田柳長の子に生まれた。父が二十五歳で没したので、早矢仕家にて養われ、十二、三歳で実父の業を継ぐため美濃国大垣で医・蘭学を江馬俊卿に学んだ。安政元年(1854)、十八歳のとき養家で開業したが、まもなく近くの庄屋高折善六が彼の才を見込み、江戸で大成することを勧めて十両を贈った。屋号の中の「善」は、この恩を忘れぬためという。江戸で伊東玄朴の門に入ったが、師とは性格的に相容れなかった。慶応元年(1865)、慶応義塾に入門し、ここから医術から商業に転向し、明治元年(1868)十一月、横浜新浜町に書店を開いた。慶應義塾出版物の委託販売、柳川春三経営の中外堂の新聞雑誌の取り次ぎ、さらに医具・薬品にまで手を拡げた。明治二年(1869)、書物専門店を相生町に分離し「丸屋」とし、元の店は医具等の店として「玉屋」とした、ついで明治三年(1870)三月、東京日本橋品川町裏河岸に支店を設けた。洋服・洋傘・万年筆等の新外国品の輸入、販売の先鞭をつけた。明治三十三年(1900)十月には海外の新聞・雑誌の直接購読の取り扱いを開始した。明治三十四年(1901)、年六十五で没。【1種10号3側】


女医荻野吟子之墓

 我が国の医師免許を得た近代女性医師第一号荻野吟子の墓である。吟子の墓は、右から二つ目の墓石。中央の「荻野家之墓」を挟んで左手には吟子の石像、さらにその左手には平成従三年に建てられた「命燃えて」と題された荻野吟子の顕彰碑が置かれている。
 荻野吟子は、嘉永四年(1851)、埼玉県大里郡妻沼町に生まれた。私立医学校好寿院(東京)で医学を修めたが、当時は女子の医術開業試験の受験が認められていなかった。吟子は自らの努力でその門戸を開き、明治十八年(1885)、医籍に登録され、最初の女性医師となった。東京湯島で産婦人科を開業した後、北海道瀬棚に移り、開業の傍ら開拓事業に従事した。牧師であった夫の死亡により、再び東京に戻り、江東新小梅町で診療を続けた。かたわら、基督教婦人矯風会風俗部長、大日本婦人衛生会幹事、明治女学校教師兼学校医など社会的な活動も行い、女医第一号としての開拓者的な生涯を送った。【1種5号23側】


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湯島 Ⅱ

2017年02月12日 | 東京都
(三菱史料館)


三菱史料館

 旧岩崎邸庭園のちょうど裏側に三菱史料館がある(台東区湯島4‐10‐14)。入場無料、土日・祝日は休館。
 三菱史料館は、平成七年(1995)、三菱創業百二十五年を記念して建設されたもので、三菱創業以来の貴重な資料を保管し、同時に専門家によって産業史・経営史の研究が進められている。展示スペースは決して広くないが、三菱の歴史が分かり易く解説・展示されている。受付で「三菱のあゆみ」「岩崎彌太郎小伝」などの小冊子を安価で販売しているのもうれしい。
 ここで手に入れた「岩崎彌太郎小伝」を読んでいて面白かったのは、ことさらコラムと称して「政商とは」何かについてページを割いている点である。もちろん、我々が「政商」と聞いて真っ先に連想するのが岩崎弥太郎なわけである。政商といえば「政治と特別な関係を利用して企業の発展拡大を実現した経営者」のことで、どうしてもダ―ティでマイナスのイメージが付いて離れない。「小伝」の筆者は、政商は岩崎弥太郎に限らない、三野村利左衛門(三井)、安田善次郎、大倉喜八郎にしても時代を代表する政商であるし、広い意味でいえば、三井、住友、鴻池、藤田、浅野、古河、川崎など、明治期に巨富を築いた商人は皆「政商」である。だから岩崎彌太郎だけを悪者扱いしないでねといいたいのかもしれないが、やはり岩崎彌太郎は政商の典型であり、「小伝」がいくら弁護に努めようとも、簡単にそのイメージは覆らないものである。


岩崎彌太郎像

 展示室前に置かれている岩崎彌太郎像は、大熊氏廣の手によるもの。大熊氏廣は、東京三大銅像の一つ大村益次郎像や有栖川熾仁親王像などを手掛けている。大熊が明治二十一年(1888)ヨーロッパに留学したのも、岩崎彌之助(彌太郎の実弟)の援助があったからといわれている。


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目黒 Ⅶ

2017年02月12日 | 東京都
(長泉院)


慊堂先生之墓

 松崎慊堂(こうどう)の墓を訪ねて、目黒の長泉院を再訪した。まだ腰椎ヘルニアの手術の傷が癒えず、少し歩くと腰が痛んだ。しかし、退院から一週間が経ち、毎日テレビでワイドショーを見ている生活に耐えられなくなってきた。久しぶりの史跡訪問である。
 松崎慊堂は、江戸中期の儒学者。明和八年(1771)九月、肥後益城郡木倉村に生まれ、十五歳のとき儒学を学ぶため江戸に出て、昌平黌(昌平坂学問所)に入った。やがて林述斎に見出され、佐藤一斎とともに学び、享和二年(1802)、遠江掛川藩前当主太田資愛(すけよし 大隆院)招聘により藩校北門書院の教授となった。肥後熊本藩主細川斉茲(なりしげ)から掛川藩主太田資始(すけもと 道醇)に対して慊堂を熊本藩に復したい旨申し出があったため、慊堂は板挟みとなったため辞任して「石経山房」(現在の渋谷区広尾3‐4の東端)に隠居し、学問一途に専心した。弘化元年(1844)四月、七十四歳で死去。著書に「慊堂日暦」「慊堂先生遺文」「残叢小話」「論性書注」「夜雨瑣記」など。長泉院の墓標は篆額掛川藩主太田資功(すけかつ)、撰文海野予助(掛川藩儒)、書は小島成斎(備後福山藩主阿部正弘の命により対露国書を清書したことで知られれる能書家)によるものである。

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