史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

境港 Ⅱ

2018年01月20日 | 鳥取県
(正福寺)


正福寺


水木しげる像

 境港といえば水木しげるの出身地である。ゲゲゲの鬼太郎や妖怪たちのブロンズ像が並ぶ「水木しげるロード」が観光客に大人気であるが、私の目的は中野の正福寺である。正福寺には、幼き日の水木しげるを魅了したという、地獄絵が保存されており、そのことを記念して水木しげるの像が設置されている。もちろん私の目当ては、水木しげるではなく、正福寺の北側の墓地にある景山家墓地である。


大霊院覺應智正居士(景山立硯の墓)

 景山家は、寛政年間以降、代々医家であったが、初代景山立硯は、京都の恩師木島氏の命により木島姓を名乗った。二代・景山粛(しゅく)は、文化年間に京の服部大方に学び、帰郷後医業の傍ら家塾を開き、富田織部、門脇重綾、今小路範成、佐善元立、松本古堂らの志士をはじめ、多くの子弟を育てた。「伯耆志」の編者としても知られる。


僊岳院大圓高徳居士(景山粛の墓)

 三代景山龍造は、文化十四年(1817)、立硯の子に生まれる。はじめ芝田温に学び、天保七年(1836)、江戸に出て昌平黌に入学し、また梁川星巌、佐藤一斎らに学んだ。天保十三年(1842)、京都に遊学して一時三条公睦、実美の侍読として仕えた。富田織部にこの職を任せ、大阪堂島に移って私塾を開いた。安政元年(1854)、鳥取藩主池田慶徳に召されて尚徳館教授に任じられ、尚徳館の制度改革を行った。文久二年(1862)以降、京都の情勢を探索し、藩論の指導、京都周旋などに尽くした。因州勤王派を代表する人物として藩内外に知られ、景山塾出身の志士たちとともに維新史に大きな足跡を残した。慶応四年(1868)のいわゆる隠岐騒動に際しては、鎮撫の責を果たした。維新後は教部省に出仕したが、ほどなく辞職。明治五年(1872)、東京猿楽町の寓居にて没。五十六歳。


贈従五位 明治徴士景山龍造守正夫婦墓

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北栄 Ⅱ

2018年01月20日 | 鳥取県
 北栄町は、「名探偵コナン」の作者青山剛昌の出身地で、道の駅には青山剛昌ふるさと館が併設され、JR由良駅は「コナン駅」と称している。コナンの熱狂的フアンである末娘はコナン駅を目の前にしておおはしゃぎであった。


JR由良駅(コナン駅)


コナン像

(隆光寺)
 明治六年(1873)、正墻薫(適處)は五十六歳のとき岩本廉蔵らの懇願により、一切の官職を辞して松神村(現・北栄町松神)に移住、隆光寺に研志塾を開いて、地域の子弟の教育に尽力した。適處は明治八年(1875)五十八歳で亡くなった。短期間であったが、研志塾からは優れた人材が巣立ち、地方の発展に寄与したという。隆光寺には、適處自筆の塾規が残されている。


隆光寺

 境内に「適處先生避塵之地」の碑があるはずだが、いくら探しても見つからない。一旦は諦めたが、家族をJR由良駅に送って、その足で境港の正福寺まで往復した(片道一時間)後、もう一度隆光寺に戻って境内を隈なく歩いてみた。どうやらこの石碑は、倉吉・湯梨浜・北栄で震度六弱を記録した一年前の鳥取地震で倒壊してしまったようである。残念というほかない。


適處先生避塵之地碑(の跡)

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倉吉

2018年01月20日 | 鳥取県
 今年(平成三十年(2018))の年明けは鳥取県三朝町の三朝温泉で迎えることになった。連日、旅館の豪勢な料理を残すことなく平らげた結果、気が付いたら標準体重を三キロもオーバーしていた。年始早々からダイエットに努めなくてはならない。

(赤瓦白土土蔵群)


第五十三代横綱琴桜傑将像

 倉吉は、第五十三代横綱琴桜のふるさとである。市役所のななめ向かい、観光駐車場の角に琴桜の堂々たる銅像が立っている。ここから徒歩数分の場所に琴桜記念館もある。琴桜は昭和四十七年(1972)九州場所、翌初場所をともに十四勝一敗で連続優勝して横綱昇進を決めた。当時、三十二歳。「遅咲きの桜」と揶揄された。引退後は年寄佐渡ヶ嶽として、大関琴風や琴欧州などを育てた。横綱としては短命に終わったが、指導者育成者として輝かしい実績を残した。
 この辺りは、町屋づくりの商家と白壁の土蔵が立ち並ぶ、伝統的建造物保存地区に指定されている。年末はさすがにお休みの店が多かった。


白土土蔵群

 元帥酒造は、嘉永年間創業の老舗の造り酒屋である。明治四十年(1907)、皇太子(のちの大正天皇)の山陰行啓に随行した東郷平八郎海軍大将に因んで地酒を「元帥」と名付けた。


赤瓦七号館「元帥酒造」


倉吉淀屋(旧牧田家住宅)

 大阪の豪商「淀屋」はその豪勢ぶりが仇となり、幕府により闕所となった。一方、倉吉で商いを始めた牧田仁右衛門(もと淀屋の番頭とも)が商いを始め、数代後に大阪に店を構え、代々「淀屋清兵衛」を名乗った。

(吉祥院)
 井伊直弼の禅の師、仙英禅師が住職を務めたというゆかりの寺である。仙英禅師は鳥取で生まれ、幼少の頃、仏門に入り、金城和尚の指導を受けた。倉吉で修行を積んだ後、天保十二年(1841)、彦根藩主井伊直亮にその人物を認められ、鳥取の景福寺から彦根の清凉寺に移り、第二十三代の住職となった。部屋住時代の井伊直弼の禅学の師であった。嘉永六年(1853)、ペリーの来航に際し、彦根でその報せを受けた直弼は、すぐさま仙英を訪ねて祈祷した。合わせて開国・剣難のことについても相談に与ったと伝えられる。元治元年(1864)没。年八十三。


吉祥院

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湯梨浜 Ⅱ

2018年01月20日 | 鳥取県
(西蓮寺)


西蓮寺

 湯梨浜町橋津の西蓮寺には、二十二士の脱出を手助けしたといわれる、中原吉兵衛、忠次郎父子の墓がある。境内入って右手の石段を登った墓地に、中原家の墓地がある。中原家は地元で代々続く商家であった。比較的広い墓所に中原家の盛んだった時代を偲ぶことができる。


贈正五位 中原吉兵衛之墓


忠譽義道即心信士(中原忠次郎の墓)

 中原吉兵衛は、文政八年(1825)の生まれ。伯耆国河村郡橋津村の大庄屋天野屋の分家お手船問屋天野屋の四代目当主。文久の頃、水口藩豊田謙次などいわゆる勤王の志士が多く来居し、よくこれを保護した。慶応二年(18666)七月、本圀寺事件の二○士河田左久馬、吉田直人、詫間樊六らの脱走に船を準備してこれを援け、さらに長男を伴わせた。途中、出雲国手結浦で松江藩に阻止され、長男忠次郎は抗戦したが、及ばず殺害された。吉兵衛は長州へ奔り、維新後帰藩したが、家業ふるわないまま、明治五年(1872)病没した。年四十八。

 長男忠次郎は、嘉永元年(1848)の生まれ。詫間樊六に剣術を学んだ。二十士が幽閉先の荒尾邸を脱出した際、これを助けて船を準備した。手結浦で怪しまれた四名は抑留され、残る十五名は長州潜入に成功した。残留した忠次郎は、慶応二年(1866)八月三日、黒部、早川、加藤四家の追討に遭い、師詫間らとともに討ち死にした。年十九。


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鳥取 Ⅳ

2018年01月20日 | 鳥取県
 平成三十年(2018)の正月は鳥取で過ごすことになった。末娘が「名探偵コナン」の大フアンで、コナンの作者青山剛昌の記念館のある北栄町を訪ねるというのが、この家族旅行の目的である。
 羽田から鳥取まで飛行時間は一時間二十分。降り立った空港は、愛称を鳥取砂丘コナン空港といって、至るところにコナンの絵がちりばめられているという、フアンにはたまらない場所である。
 空港からレンタカーで市内へ移動。京都から特急で移動してきた息子を鳥取駅で出迎え、駅の近所で海鮮丼を食し、その後は定番の鳥取砂丘である。
 鳥取砂丘は、小学生の時以来、およそ四十年振りである。見渡す限り広がる砂場に圧倒される。


村上水産 海鮮丼


鳥取砂丘


(浜坂台場跡)
 浜坂台場跡は鳥取砂丘の西の端に位置する。与謝野晶子沱涙碑から登る。幕末、鳥取藩が築造した十一の台場の一つ。ほかの台場跡は、比較的遺構を確認できるが、浜坂台場は、ほとんど何も残っていない。


浜坂台場跡

 砂丘の後は、これまた定番の「砂の美術館」へ。この美術館では、毎年一つの国をテーマに作品展示を入れ替えているが、平成二十九年(2017)はアメリカである。アメリカの歴史や文化などを題材にした砂の造形が展示されていた。


砂の美術館
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