史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「志士の峠」 植松三十里著 中公文庫

2018年01月27日 | 書評
天誅組を正面から扱った小説としては大岡昇平の「天誅組」以来であろう。天誅組の変やそれに続く生野の変などは、幕末史を語る上で欠かせない事変であるが、登場人物が多数かつ多彩で、事変の経緯も単純ではない、しかも悲惨な結末は動かせない事実であり、なかなか小説に料理するのは難しい題材である。本作は天誅組の壊滅、さらには忠光暗殺に至る経緯を丹念に追いながら、分かりやすくしかも巧みな人間描写によって一気に読ませてくれる。作家植松三十里の手腕の確かさを再確認させてくれる作品である。
本作が成功した理由は、①多様多彩な登場人物を、ある者は切り捨てることにより少数の人物群に限定したこと。②登場人物一人ひとりに大胆なキャラ付をしたこと に集約される。天誅組といえば、本作の主人公となった中山忠光のほか、吉村寅太郎、松本奎堂、藤本鉄石の三総裁、水郡善之祐ら河内勢と呼ばれる一団、土佐藩、久留米藩脱藩浪士、さらには十津川から参加した郷士から構成される。たとえば、五條の医師乾十郎とか、歌人であり記録方として天誅組に駆け付けた伴林光平とか、伴林に従って参加した平岡鳩平らは本小説に一切姿を見せない。小説家としてはいずれも食指を動かされる人物だと思うが、思い切りよく取捨選択して、一貫して主将中山忠光を主役においてこの事変を描いた。その結果、非常にすっきりとした作品になったと思う。
これまで中山忠光という公家に対しては、ファナティックな若者というイメージしかなかったが、植松三十里は、若者らしい純粋さと、他者をいたわる優しさとを合わせ持ち、主将として悩み苦しむ様を人間臭く描き出した。対立する吉村寅太郎や池蔵内太との葛藤も自然である(といっても、それまで人を斬ったり、集落を焼くことに批判的だった忠光が伯母嶺峠越えの前にして、お世話になった林泉寺に火を点ける場面は、若干違和感が残った。とはいえ、天誅組が林泉寺を燃やしたのは史実そのままなのだが…)。
天誅組が五條代官所を襲撃した直後、京都における政変の一報が伝わると、倒幕の先陣は一転して賊と化した。しかし、都における政変がなかったとしても、彼らが目論んだように(一貫して親幕的な)孝明天皇が倒幕の兵を率いて東上することになったかは甚だ疑問である。代官所を襲った後、倒幕に至る道筋が描けていたとは思えない。あまりに場当たり的で無計画である。結局のところ、彼らの一挙はどこかで頓挫していたのではなかろうか、という気がしてならない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「西郷隆盛 ―― 手紙で読むその実像」川道麟太郎著 ちくま新書 

2018年01月27日 | 書評
「西郷「征韓論」の真相」「「征韓論政変」の真相」(いずれも勉誠出版)で征韓論論争に一石を投じた川道麟太郎先生の最新刊。新書としては異例の五百ページを越えるボリュームとなっている。うち、川道先生の「真骨頂」というべき維新以降の論説は二百四十ページを過ぎてからとなっており、バランスの取れた配分となっている。
このところずっと「久光はどの時点で討幕を決意したのか」という問いが頭から離れないが、この問いに対する一つの答えが本書で提示されている。慶応三年(1867)五月、四候(久光・春嶽・容堂・宗城)が出そろい、将軍慶喜との交渉も持たれたが、結局、元治元年(1864)の参預会議が崩壊したのと同様、慶喜との折り合いがつかず、失敗に終わる。
その直後の六月十六日、長州藩の山県狂介と品川弥二郎が久光と謁見したときの記録が残っている。山県と品川は連名で国元にこのときのことを報じている。
――― 西郷・大久保・伊地知列座にて小松曰く、今日主人(久光)よりもお話しした通り、幕府の橘詐奸謀は尋常の尽力にてはとても挽回の機これあるまじく、ついては長薩連合同心戮力して大義を天下に鳴らしたく……。ついては不日(まもなく)、吉之助を差し出し、御国一定不抜の御廟議もうかがいたいとのこと、……。(現代語訳筆者)
さらに、山県はこのとき久光から六連発の拳銃を授けられたことに感激して、「向かう仇 あらば撃てよと 賜りし 筒の響きや 世にやなさらん」と詠んでいる。川道先生は、「山県らが聞いていることは、兵力をもって徳川幕府と戦うことにあったと見て間違いはない」「慶応三年五、六月に、薩摩側が言い、長州側が聞いた「挙事」は、純粋に兵力にもとづく「討幕」と理解して問題ない」と言い切る。非常に自然で説得力のある主張である。
明治六年政変に関する論調は、川道先生の従来からのものであるが、それでもいくつか新しい指摘がある。
その一つは、「大久保や木戸が帰国したころに「留守政府はいわゆる『征韓』論でわき返っていた」とするもの。川道先生は、「当時の留守政府の閣僚、三条・西郷・板垣・大隈などが遺した史料を調べてみても、そのように言えるものはどこにも見付からない」と一蹴する。さらに西郷が遣韓使節のことを考えるようになったのは、「副島使節団が帰国した七月二十六日の直後」と推定している。これまた説得力のあるものである。
もう一つは、十月十五日および十七日に西郷が提出したとされる「始末書」の存在について。十七日付の「出使始末書」は現在に伝えられているが、川道先生は十五日付の始末書については、存在していないと指摘する。
さらに司馬遼太郎先生の「翔ぶが如く」にまで批判の筆は及ぶ。「翔ぶが如く」に拠れば、十月二十三日、西郷は大久保を訪ねて暇乞いをしたとされている。それは西郷が「大久保と岩倉のみを信頼し、この両人が政府にあるかぎり、妙な国家になることはあるまいとおもっていた」からだという。しかし、川道先生によれば「むしろ、西郷はふたりを「君側の奸」として憎んだはずで、特に、大久保への憎しみは、若いころから(年下の)朋友であっただけに、特別のものであったはずだ」とする。そして大久保の同日付けの日記に西郷およびその場に同席していたとされる伊藤博文が来訪した記録がないことを根拠に、「暇乞い」を否定している。「翔ぶが如く」は歴史小説であるとはいえ、「事実を歪め、人々から史や現実を直視する目を奪う」ことになると辛辣である。
一次資料を見るかぎり、ご指摘のとおり、西郷が大久保に暇乞いにきたという事実は確認できない。ただ「翔ぶが如く」において、両雄決別のシーンはとても印象深い。かつての幼馴染に戻って、大久保が西郷を詰った後、そのやりとりを聞いていた伊藤が「さきほどのお言葉、あれではちょっとひどすぎるように思いましたが」とたしなめると、大久保が「私もそう思います」と漏らす場面は、「翔ぶが如く」における名場面の一つである。個人的には少し寂しい気もするが、それは川道先生に言わせれば「西郷と大久保の盟友関係を理想化」した結果なのかもしれない。
こうして次々とこれまで史実と思われていたことを否定する手腕は、かつて薩摩藩出身の実証的歴史家重野安繹が児島高徳の実在や楠木正成の数々の逸話を否定し、「抹殺博士」の異名をとったことを連想させる。川道先生は、現代の「抹殺博士」なのかもしれない。
「あとがき」にいう。
――― 勝海舟・中江兆民・内村鑑三といった著名人たちが西郷を持ち上げ、歴史家は西郷を忠君愛国の士や国家のために命を捧げる将士の鑑のように書き、また、征韓論の英雄や大陸計略論の先駆者、あるいは逆に、朝鮮に赴く平和的遣使として語り、明治十年の反乱はいつの間にか「西南戦争」と呼ばれるようになって、人は西郷を悲劇の英雄のように見て、そこに死に方の美学や滅びの美学を夢想するようにもなる。
――― 本書は…もっぱら西郷自身が書いた手紙を史料の中心に置いて、国史上の西郷隆盛ではなく、現実に生きた人間、西郷吉之助の真の姿に光を当てようとしたものである。
西郷のみならず、坂本龍馬もしかり、勝海舟もしかり、我々は歴史上の人物を論じるとき、彼らを頭から神格化、理想化して語っていないだろうか。そのことの危うさを本書は思い起させてくれる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「寺田屋騒動」 海音寺潮五郎著 文春文庫

2018年01月27日 | 書評
昭和五十一年(1976)刊行というから海音寺潮五郎最晩年の著作である。鹿児島県出身で、薩摩藩の歴史に精通する海音寺潮五郎の幕末史観が凝縮された一冊である。発刊以来、四十年余りの年月が経過しているが、文久二年(1862)の寺田屋騒動を真正面から取り扱った書籍は、この本以外に知らない。もう何度も繰り返し読んでいるので、表紙はバラバラになってしまっている。
久しぶりにこの本を読んでみようと思ったのは、先日読破した原口泉先生の「西郷隆盛53の謎」に誠忠組激派の有馬新七らは「関白九条尚忠の襲撃を企てていた」との記載があり、では彼らの究極の目的は何だったのか気になったからである。
海音寺潮五郎は、論文でもない、小説でもない、「史伝」といわれるスタイルを再興・確立したことで知られる。極力フィクションを排除しながらも、史料にない部分を想像力で補うスタイルは小説家ならではの特権であろう。
海音寺潮五郎によれば「幕末維新史を困難複雑にした」のは「孝明天皇の病的なまでの欧米ぎらい」と「薩・長の反目」にあるという(個人的には、敢えてもう一つ付け加えれば「慶喜の個性」だと思う)。だから、「孝明天皇が崩御され、薩・長の連合ができると、トントン拍子に維新革命が成就した」というのである。薩・長反目の重大要素である久光の長州嫌いがこの時(寺田屋騒動)からはじまっていることから、寺田屋事件は「なかなか重要な事件」と位置付けている。
本書によれば、誠忠組激派の有馬新七らは「久光を盟主にかつぎ上げ、九条(尚忠)関白を襲い、酒井(忠義)所司代を討ち取る。」「江戸でも水戸人や在府諸藩の有志者を糾合して義兵を挙げ、東西呼応して倒幕の挙を成す」その上で青蓮院宮を擁して入朝し、島津氏を召して倒幕の勅を下すというクーデター計画である。幕府代官を襲った文久三年(1863)の天誅組の変、生野の変にも通じる倒幕計画である。八一八クーデター前の文久三年(1863)といえば、もっとも攘夷の機運の盛り上がった時期であるが、その一年前に既に倒幕の挙が練られていたということになる。未遂に終わったものの、寺田屋騒動は、明確に倒幕を意識した挙兵の先駆けと呼ぶことができよう。
しかし、その後に続く天誅組の変、生野の変も同じであるが、計画としてはいかにも粗漏である。所司代や代官を闇討ちして占拠するところまでは成功したとしても、そこから倒幕に至る道筋があやふやである。寺田屋に集結した一人、田中河内介は「今日は口舌だけではどうにもならない。先ず取りかかることが必要」と言っているが、寺田屋に集った多くの志士たちの気持ちを代弁しているといえる。
「今楠公」と称され、禁門の変当時の長州藩で「頭脳」として重用された真木和泉は、この計画を聞かされ「これは今日における最上の妙策」と承諾している。尊攘運動の指導者として仰がれた真木も所詮この程度の思考力と想像力の持ち主だったということなのか。
本書において興味深かったのは、海音寺潮五郎が久光の卒兵上京に先だって、大久保利通が藩士や他藩の志士たちの動きから判断して、久光の考えている公武合体では収まらない、きっと討幕ということになるに違いないと判断し、諸藩や志士たちを妄動させず統制することを西郷に要請していたというのである。このことに関して一切の史料は沈黙しており、海音寺潮五郎のまったくの「推論」であるが、文久二年(1862)の段階で、大久保・西郷ラインが倒幕を意識していたというのはなかなか斬新な指摘である。海音寺潮五郎は以下のように言及している。「寺田屋の壮士等の目的には、まだ幕府否定王政復古の考えはなかった、単に攘夷によって公武合体の体制をつくろうとするにあったという説をなす歴史学者もありますが、それは清河八郎の思想に重心をおいた解釈で、平野国臣の『尊攘英断録』や橋口壮助のこの歌を無視しない限り、明らかに王政復古を目的としていると見ないわけに行きません。」
橋口壮助の歌というのは、大阪から伏見に移る船の上で詠じたものである。
大君の御代を昔にかへさんと つくす心は神も助けよ

幕末史研究を代表する佐々木克氏(故人)も「幕末史を『薩長討幕史』の運動として語る諸書を目にするが、私は薩摩と長州の主要人物が討幕を目標にしていると言明した史料を目にしたことがない。」(『幕末史』(ちくま新書))としている。恐らく史料に立脚すればその通りであろう。それだけ海音寺潮五郎の推論は、大胆にして問題を投げかけるものでもある。
奄美大島から召還された西郷隆盛は、久光から「下関で待て」と命じられていたにもかかわらず、その命を無視して上方に直行した。通説によれば、この時西郷が急いだのは過激に走る浪士を鎮静するためといわれるが、仮に寺田屋騒動前夜、大久保・西郷も討幕を意識していたとすれば、西郷は本当に上方で浪士の鎮撫に努めようとしていたのだろうか。
このとき大阪で西郷と面談した岡藩の小河一敏の手記によれば「きわめて大事をなし得る人物と思いました。かかる勇士もあればあるものと感心しました。しかも、猪武者ではありません」
「まことに勇威たくましく、胆略世にすぐれたる風貌で、今の世にこんな人があろうとは思われないほどであった」
西郷はことばとしては、久光を擁して討幕の挙をなすとはっきりといわなかったようであるが、語気と態度には今般の久光の中央乗り出しを救国の挙とすることに、死を決してあたろうとの覚悟がうかがわれたという。これを見る限り西郷は鎮撫どころか浪士を煽動していたかのようである。西郷に「これを機にあわよくば討幕」という魂胆があったとすれば説明がつく。
本書は発刊から四十年を経て、今もなお問題を投げかけ続けている力作である。時に史料から離れて想像力をたくましくする「楽しさ」を再確認させてくれる一冊である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする