史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

上野 Ⅹ

2018年09月01日 | 東京都
(東京藝術大学)


高村光雲先生像

 東京藝術大学美術館側の門を入ると、直ぐの場所に高村光雲の胸像が置かれている(台東区上野公園12‐8)。この日は、東京藝術大学美術館で開かれている「NHK大河ドラマ特別展『西郷どん』」を見るために上野まで往復した。


東京藝術大学美術館

 「西郷どん」は幕末維新を題材とした大河ドラマなので、欠かさず視るようにしている。当初はあまりに史実からかけ離れた設定に怒りすら覚えていたが、あまりにそれが続くので最近はそれに慣れてしまった。大河ドラマは、飽くまでフィクションであり、史実をそのまま伝えたのではドラマにならない。ドラマだと割り切ってみれば、十分楽しむことができるというものである。
 東京藝術大学美術館における「西郷どん」展は、若干NHKの宣伝の臭いがしないではないが、期待以上の展示であった。会場で無料配布されている出品目録によれば、鹿児島県歴史資料センター黎明館や京都の霊山歴史館、公益財団法人徳川記念財団、国立歴史民俗博物館(佐倉市)、田原坂西南戦争資料館(熊本市)などから集められた出展数は二百八十四点に上る。全部見て回るのにたっぷり二時間を要した。これだけの数の展示を見ても、どうして倒幕にこれだけ貢献のあった西郷が盟友大久保利通と訣別したのか、無謀にも西南戦争を起こしたのか、謎は深まるばかりである。
 売店で「西郷隆盛未完成像」の絵ハガキを購入した。有名な上野の銅像の製作途中の原像で、顔部分はのっぺらぼうである。最後の最後まで銅像の顔をどうするか悩んだ高村光雲の苦悩が伝わってくる。

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佐倉 Ⅴ

2018年09月01日 | 千葉県
(麻賀多神社)
 市川での野球の練習の後、久しぶりに佐倉の街を歩いてきた。蒸し暑い日で、野球道具を背負っての散策だったため、一時間ほどでギブアップしてしまった。


麻賀多神社

 麻賀多(まかた)神社という社名は、今から千五十年以上も前の「延喜式」の下総の項に記載が確認されているという古い歴史がある。徳川時代に入って、佐倉城の大手門近くに位置する神社であることから、歴代の城主、家臣も城地鎮護の神として崇めた。現在の社殿は、天保十四年(1843)、藩主堀田正睦が再建したもので、境内前面の石垣は明治初年に堀田正倫が奉納したものである。
麻賀多神社の境内には、「忠勇之碑」「義烈之碑」「両士記念之碑」という三つの石碑が並んで建てられている。


両士記念之碑

 両士記念之碑は、戊辰戦争に幕府方として参戦して佐倉藩士の記念碑である。石碑の背面を読むと、木村隆吉と小柴小次郎という二名の佐倉藩士を顕彰するものである。大正二年(1913)建立。


忠勇之碑

 忠勇之碑は、明治三十九年(1906)の建碑。日露戦争に出征した旧佐倉藩士民の慰霊顕彰のための碑。撰文および篆額は堀田正倫による。


義烈之碑

 義烈之碑は、戊辰戦争以降の佐倉藩士民の出征者の慰霊顕彰の碑。大正二年(1913)建立。堀田正恒の撰文および篆額。

(佐倉市立美術館)
 佐倉市立美術館には、佐倉が生んだ明治元壇を代表する洋画家浅井忠(ちゅう)の像がある。
 浅井忠は、安政三年(1856)、佐倉藩士の子に生まれ、八歳のときから約十年間、現在の佐倉市将門町で過ごした。工部美術学校に学び、「春畝」「収穫」などの代表作を残した。明治四十年(1907)没。


佐倉市立美術館


浅井忠像

(今井家住宅)


呉服商「駿河屋」

 現存する建物は、今井氏が「駿河屋」の屋号で呉服商を営んだ古民家である。主屋は、明治二十二年(1889)~明治二十五年(1892)前後に建てられたと推定されている。奥にある蔵は明治二十五年(1892)に建てられたことが棟札によって確認されている。
 この場所は、江戸時代の郷宿(旅籠)「油屋」の跡地である。「油屋」には、桂小五郎、山本覚馬、清河八郎などが宿泊したことが宿帳により分かっている。

(宗円寺)


盡衜之碑

 盡衜(じんどう)之碑は、千葉県巡査部長戸村芳蔵の殉職顕彰碑である。
 戸村芳蔵は、武射郡大富村(現・山武市)に生まれ、明治十年(1877)には西南戦争に従軍して連戦すること数か月、戦傷を受けた。帰郷後、明治十四年(1881)には千葉県巡査となり、明治二十四年(1891)、昇任して巡査部長となり佐倉警察署に勤務した。翌明治二十五年(1892)一月に桜地方で疱瘡が流行した。戸村巡査部長は、病勢激烈の中を検疫、消毒等の処理に当り、県民、町民を守るという警察官としての職を全うし、遂に自らも罹患して、同年三月十一日、行年四十二にして殉ずるところとなった。遺骨は大富村に送られてそこで埋葬されたが、佐倉町民の有志が醵金して、戸村芳蔵の衟(みち)を盡した功績を末代まで称えるために碑を建てた。


贈従五位笠翁佐藤先生招魂之碑

 笠翁こと佐藤尚中(舜海)の顕彰碑である。尚中は、江戸に出て佐藤泰然の和田塾に入門し、その逸材を見込まれて、泰然の養嗣子となった。安政六年(1859)、泰然の隠居に伴い、家督を継いで順天堂も受け継いだ。万延元年(1860)には長崎に遊学し、ポンぺから体系的な西洋医学を学んだ。維新後、新政府に招かれ大学東校の教授、さらに明治天皇の侍医(大典医)にもなった。後に湯島に順天堂病院を開いた。佐倉の順天堂は、弟子の岡本道庵(舜海)に引き継がれ、東京の順天堂は高和東之助(のち佐藤進)が受け継いで発展させた。


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立川 Ⅱ

2018年09月01日 | 東京都
(国文学研究資料館)


国文学研究資料館

 立川駅からモノレールで北に一駅。高松から徒歩五分程度の場所に国文学研究資料館がある(立川市緑町10‐3)。
 国文学研究資料館は、日本各地の日本文学とその関連資料を集積し、日本文学をはじめとする様々な分野の研究者の利用に供するとともに、先進的な共同研究を推進する研究機関である。創設は昭和四十七年(1972)で、平成二十年(2008)に現在地に移転した。
国文学資料館でも明治百五十年を記念して特設コーナー「知の開国―明治百五十年によせて」が設置されている(会期平成三十年(2018)五月十日~七月十日)。入場無料。
 といっても常設展示の入口付近に4つの展示ケースが増設されている程度で、猛暑の中を立川駅から大汗をかいて歩いてきた自分としては、少々拍子抜けした。
 展示されているのは、まず中江兆民や徳富蘇峰といった時代をリードした思想家の著作。中江兆民は「三酔人経綸問答」において、三人の「先生」を登場させ、「非武装中立か。他国を侵略して国を富ませるべきか」といった現代にも通じる議論を展開している。次の展示ケースにはいわゆる戯作と呼ばれる分野である。戯作の特徴は口絵や挿画といった絵が大きな比重を占めることにある。現在、我が国の輸出文化の一角をしめるアニメのルーツということができよう。どうして我が国で戯作とか漫画が発展したのか、考察してみても面白いだろう。当時の日本語では十分な情景や心理を描写することができなかったのかもしれないが、むしろ絵の力を最大限活用したと考えた方が適切かもしれない。長い文章で説明するより、おどろおどろしいお岩さんの姿がいきなり出現する方が、よほどインパクトがある。ここでは代表的な戯作者である仮名垣魯文の「西洋道中膝栗毛」(有名な「東海道中膝栗毛」のパロディで、弥次さん喜多さんの孫がロンドンで開かれる万国博覧会を見物するという設定)や「通俗那波烈翁伝」(ナポレオンの評伝)など、いずれも興味深いものが並べられている。

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