史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

蔵前 Ⅳ

2018年09月14日 | 東京都
(鯉寺 龍寶寺)


龍寶寺

小見川藩主内田家の墓所を訪ねて、蔵前4‐36‐7の竜宝寺を訪ねた。この寺の近くには「川柳発祥の地」石碑があり、境内には、川柳の名前の由来となった柄井川柳の墓や石碑などが建てられている。墓地はさほど広くなく、十分もあれば一周できる。内田家の墓を見付けることができないまま撤収することになった。ちょうど寺の方と出会ったので、小見川藩主内田家の墓を探している旨を伝えると、
「近くにもう一つ龍寶寺があるので、そちらではないでしょうか。よく間違えられるんです。」
ということで、鯉寺龍寶寺への行き方を丁重に教えていただいた。ここから数百メートルほど北上した場所にある(台東区寿1‐21‐1)。こちらの寺は、本堂の前に鯉を供養するための鯉塚があり、鯉寺とも呼ばれている。
 墓地は、道を挟んで向い側にある。その一番奥に最後の藩主にして子爵家初代内田正学以下内田子爵家累代の墓があった。蔵前の竜宝寺で寺の方と出会わなければ、見つけられなかっただろう。偶然に感謝。


子爵内田家累代之墓
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青山霊園 補遺 Ⅷ

2018年09月14日 | 東京都
(青山霊園つづき)


肝付家累代之墓


肝付兼行閣下墓碑

肝付兼行は嘉永六年(1853)の生まれ。明治初年、北海道開拓使に出仕し、測定分野で頭角を現した。水路局に転じ、測量課副長、量地課長を務めた。この時、港区阿麻布台において海軍観象台の地点を測定し緯度を測定した。これが我が国における電信測定の嚆矢となった。その後、海軍水路局の測量課長、さらに水路部長に就任した。柳楢悦とともに東京数学会社に参加した。明治三十七年(1904)、海軍大学校長を兼任。翌明治三十八年(1905)、海軍中将。大正十一年(1922)没。

墓の傍らに水路会員により顕彰碑が建てられている。1種ロ3号6側


Henry Spencer Palmer

ヘンリー・S・パーマーは、1838年、イギリス領インド帝国のバンガロールに生まれた。明治十六年(1883)、来日。神奈川県より横浜上水道建設計画の依頼を受け、三か月で実地測量から計画まで完成させ、一旦帰国した。翌年、神奈川県から再度招聘され、明治十八年(1885)、大佐として再来日。水源を相模川支流の道志川とし、野毛山排水池に至る全長48キロメートルの横浜水道建設を指揮した。明治二十年(1887)、二年に及ぶ工事を完成させた。その後も日本に残り、内務省土木局名誉顧問技師として、勅任官の待遇を受け、横浜築港計画を指揮。関東水道会社の計画や各地の港湾設計などにも関与した。明治二十三年(1890)には日本人女性斉藤うたと結婚し娘をもうけたが、明治二十六年(1893)、脳卒中により急死した。外人墓地
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野毛山公園 Ⅱ

2018年09月14日 | 神奈川県
(野毛山公園)


ヘンリー・スペンサー・パーマー像

 野毛山公園内の配水池の近くにパーマーの胸像がある。この場所は、野毛山貯水場の跡であり、近代水道発祥の地として記録されている。
 明治二十年(1887)十月、我が国最初の近代水道が横浜に誕生した。当時の横浜は埋立地が多く良い水が得られないため、長い間、飲み水の調達や伝染病に苦しみ、また大火事にも悩まされていた。イギリス人H・S・パーマー(Henry Spencer Palmer)を招き、彼の設計・監督により近代水道が完成した。パーマーは、横浜を始め大阪、神戸、函館、東京などの水道計画に貢献した。さらに横浜築港工事や横浜ドックの設計など港湾整備の面でも業績を残したほか、天文台の建言やロンドンタイムスへの寄稿など、幅広い分野で活躍し、明治二十六年(1893)、五十四歳で歿した。

(尻こすり坂)


水道道と尻こすり坂

 野毛山公園周辺には、パーマー像を起点に近代水道関連史跡が点在している。尻こすり坂と呼ばれる、野毛山動物園沿いの坂道は、地中に水道が埋設された水道道(すいどうみち)である。

(野毛地区センター)


日本近代水道最古の水道管

 明治二十年(1887)開通した水道は、野毛山貯水場から四十四キロメートル離れた津久井町(相模川と道志川の合流地点)を水源とし、この地に運ばれた後、浄水して市内に供給された。この記念碑は当時の水道管を利用して建てられたもので、中央にパーマーの肖像が貼りつけられている。


当時の水道管


ヘンリー・スペンサー・パーマー肖像


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横須賀 Ⅶ

2018年09月14日 | 神奈川県
(三笠公園)


AMIRAALI(東郷ビール)
ウマイ!

 三笠公園のお土産は、何といっても「東郷ビール」であろう。
 日露戦争にいて「東洋の小国」が大国ロシアに大勝利を収めた快挙に勇気づけられたフィンランドが、ロシアの支配と圧政からの独立運動を起こし、1917年に独立を果たした。これを記念してフィンランドのタンペレという街のビューニッキという工場で「東郷ビール」の生産が開始された。その後、日本向けに「東郷ビール」の製造、輸出もされたが、1991年夏、フィンランドの工場は買収され、瓶詰のみオランダで行われるようになった。平成十八年(2006)からは日本で生産が引き継がれているが、ラベルのデザインは往時のまま変わっていない。

(猿島)
 横須賀新港の桟橋から猿島へ渡るフェリーが発着している。往復千三百円のほか、猿島公園入園料として二百円が徴収される。海水浴シーズンということもあり、私が並んだ時には既に長い行列ができていた。ゆっくりと猿島要塞を見学したいのであれば、夏場は避けた方が良いだろう(ただし、冬場は船の運航は土日のみ)。船は定員二百四十名(乗客二百三十名)で、乗客の半分以上が座席にすわれなかった。
 横須賀から猿島までわずか十分足らず。船酔いする暇もないほどである。


横須賀と猿島を結ぶ船
まるで難民船のよう

 猿島砲台は、明治十四年(1881)に起工し、明治十七年(1884)に竣工した近代要塞である。築造当初は三基の砲台を保有していた。千代ケ崎砲台と並び、当時の遺構がよく保存されている遺蹟となっている。猿島という名前であるが、どうやらサルは一匹も棲息していない。
 二十世紀に入ると戦法の主力が海から空へと劇的に変化すると、実戦で活用されることなく軍事拠点としての猿島は半ば忘れられた存在となった。しかし、第二次世界大戦が激化し、戦雲が本土に迫って来ると、再び東京湾の防衛施設として注目されることになった。


隧道

 昭和十六年(1941)頃からコンクリート製の円形砲座が五基作られ、そこに高射砲が配備された。今も五カ所の円形砲座跡を確認することができる。
 隧道(トンネル部)を抜けると、第一砲台塁道に至り、南端に小隧道がある。この道は島の東端部に繋がっている。
 この砲座のある場所は、幕末徳川幕府が異国船の江戸湾侵入を防ぐために建造した台場跡で、猿島の要塞としての歴史はここから始まったといえる。


砲台跡


猿島要塞跡

 汗まみれになって一時間。要塞跡の見学を終えて横須賀へ戻る。さすがに帰りの船は空いていてゆったりと座ることができた。

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浦賀 Ⅶ

2018年09月14日 | 神奈川県
(常福寺)
 常福寺は、浦賀に奉行所が開かれて以来、奉行所の本陣(御用寺院)の役割を果たし、奉行交替の儀式が行われた。墓地には、奉行所与力を務めた合原家や佐々倉家の墓碑などがある。


常福寺

 慶應四年(1868)閏四月三日、浦賀奉行の土方勝敬は、新政府から横浜に呼び出され、土方は与力の松村源八郎を伴って押送船と呼ばれる快速艇で横浜に向かった。土方が浦賀に戻ったのは、閏四月五日であった。土方は与力や同心に対し、近日中に奉行所が新政府に引き渡されることを通達した。奉行所が新政府に引き渡されたのは同月十一日のことで、浦賀の感応院(廃寺)に滞在していた佐賀藩士が奉行所に出向き、事務の引き継ぎがおこなわれた。奉行所、台場、火薬蔵などが新政府に引き渡され、火薬や武器も佐賀藩に接収された。土方は奉行所を出て常福寺に入り、この日をもって百五十年近く続いた奉行所の歴史は幕を閉じたのである。
 十三日、土方をはじめ奉行所の与力・同心らは浦賀を退居して江戸に移った。最後の浦賀奉行となった土方勝敬のその後の人生は杳として知れない。

(よこすか浦賀病院)


船番所跡

 享保五年(1720)、それまで伊豆下田にあった奉行所が浦賀に移転し、以後、江戸に出入する船の積荷を厳しく検査(船改め)を行ったのが船番所である。一日に五十雙にも及ぶ船が往来していたため、奉行所の役人だけでは手が足りず、廻船問屋と呼ばれる人たちに委託されていた。奉行所の移転に伴い、下田問屋と称される廻船問屋は、浦賀に六十三軒、西浦賀に二十二軒、東浦賀に二十軒、合計百五軒を数えた。船改め業務は、奉行所が廃止された以降も継続され、明治五年(1872)にようやく終了した。

(千代ケ崎砲台跡)


国史跡東京湾要塞跡 千代ケ崎砲台跡

 横須賀市教育委員会が千代ケ崎砲台の特別公開を実施している。普段は施錠されており、見ることができない施設である。真っ先に申し込んだ。今回は嫁さんも同行した。


露天塁道と隧道

 千代ケ崎砲台は、明治十三年(1880)以降、東京湾の防御のために、東京湾沿岸に築造された防御営造物の一つである。特に三浦半島の観音崎と対岸の富津岬を結ぶラインは、東京湾の最狭部であり、重点的に防御を固められた。浦賀周辺には千代ケ崎砲台のほか、腰越堡塁、大浦堡塁、観音崎砲台、三軒家砲台、走水砲台が建設された。横須賀の猿島砲台も同時期に建造されたもので、千代ケ崎砲台と同じく、当時の遺構がよく保存されている。


第三砲座

 千代ケ崎砲台は、江戸時代にこの場所にあった平根山台場跡を中心に建設された砲台である。明治二十五年(1892)十二月に起工、明治二十八年(1895)に竣工した。三基の砲座から構成されているが、戦後発掘調査された時には、第三砲座には土が埋められ、第二砲座にはコンクリートで埋められており、地上から目視できたのは第一砲座のみだったという。
 風雨にさらされる部分は、焼過(やきすぎ)煉瓦が使用されている。焼過煉瓦は、高温焼成により撥水性を高めたもので、色合いも普通の煉瓦より濃い茶色をしている。


第一砲座


右翼観測所附属室

 各砲座は隧道で結ばれ、それぞれ弾薬庫を備えている。南北に観測所があって、敵艦の位置を伝声管で伝える仕組みとなっている。雨水を集水、濾過して生活用水を確保する貯水システムや、砲座から発生する排水が分けて流路が設けられる等、随所に工夫が見られ、完成度の高い砲台となっている。
 幸か不幸か、この砲台が実戦で活躍する機会はなかった。二十世紀に入り、航空機の時代に突入すると、艦船侵攻を想定した砲台は役割を終えることになった。

 横須賀市教育委員会の担当者の説明は、詳細にわたり、猛暑の中、二時間近くもご案内いただいた。細かい質問にも丁寧に答えていただいて大変満足であった。幕末の平根山台場跡については正確な位置は特定されていないそうである。そのことだけが残念といえば残念であった。


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