史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「澁澤榮一」 澁澤秀雄著 時事通信社

2020年02月29日 | 書評

職場の同僚が外部のセミナーに参加して、本書を土産としてもらって戻ってきた。

「私は読みませんけど、良かったらどうぞ」

と、無料(ただ)で手に入れることができた。

2024年発行予定の新一万円札に渋澤栄一の肖像が採用されることが発表されて以来、渋澤栄一がちょっとしたブームになっており、渋澤栄一関連本が矢継ぎ早に発刊されている。本書がブームに乗っかったそこいらの本と異なるのは、栄一の実子の手によるもので、昭和四十年(1965)に刊行された本の新装版なのである。身近で生活していたからこそ描けるエピソードがふんだんに盛り込まれており、人間渋澤栄一の実像が伝わってくる。

栄一は一橋慶喜に仕え、幕臣として維新を迎えたため、佐幕派とみられがちであるが、一橋家に仕えるまでは過激な攘夷派であった。文久三年(1863)には、従兄の尾高新五郎や渋沢喜作らと高崎城を乗っ取る計画を立て、そのために武器などを密かに収集した。

その折、従兄の尾高長七郎が人を斬って投獄されたという凶報が京都にいる栄一と喜作のもとに届いた。長七郎は、栄一や喜作からの書状を所持していたといい、いずれ二人の身にも捕吏の手が及ぶ恐れが高くなった。

その時、平岡円四郎から一橋家の家来にならないかと誘いを受けた。喜作は「幕府を倒そうという我々が、命惜しさに一橋家に仕えるというのは変節としか見えない。だから仕官を断ろう」と考えた。これに対して栄一は、節を屈しないというのはただの自己満足に過ぎない。牢に入れられたのでは倒幕も何もあったものではない。思い切って仕官しようと主張した。結局、栄一の説得が上回り二人は一橋家に仕えることになるのだが、この辺りの現実的で柔軟な思考が、いかにも栄一らしい。

これは想像に過ぎないが、一時の損得よりも、政権に近い場所で己の手腕を試せるという舞台に栄一は魅力を感じたのではないか。もっと平たくいえば、一橋家にお世話になる方が「面白い」と考えたのかもしれない。確かに、ここで一橋家に飛び込んだことが、その後の大きな飛躍につながったのである。

維新後の渋澤栄一は、実業家として成功した。実業家としての栄一の姿勢を端的に物語っているのが、三菱に対抗して設立した共同運輸会社設立である。

事業は才腕ある人物が独占的に経営しないとうまくいかないという「独占主義」を主張する岩崎弥太郎と事業は国利民福を目標とすべきであり、大衆の資金を集めて賢明に運営し、利益を大衆に戻さなくてはならないとする「共栄論」を掲げる栄一とは、真っ向から衝突した。

当時、三菱汽船会社が独占していた近海航路に、共同運輸はなぐりこみをかけた。二大汽船会社の競争は、三菱と親密な関係をもつ大隈重信率いる改進党と自由党との政争に発展して激しさを増した。

その争いの中、一時岩崎弥太郎は体調を崩したが、そこから回復するや、共同運輸の株式を買い占め、三菱と共同の合併を画策し、両社の争いはここに決着がついた。明治十八年(1885)、両社は合併し日本郵船会社となった。

このような手痛い失敗もあったが、栄一の「道徳経済合一」論は生涯を通じて変わらなかった。今でこそCSRだのESG投資だのと、企業活動における社会貢献が当たり前のように語られるようになったが、渋澤栄一は百年も前からそれを実践していたのである。このタイミングで新しいお札の顔に栄一が選ばれたのも必然性があったということかもしれない。

著者秀雄は栄一の四男。栄一五十二歳のときの子供である。東京帝国大学法科在学中、嫌いな法律の勉強をやめて、文科に移り、フランス文学を専攻したいと訴えたそうである。ところが、栄一に「拝み倒され」母に泣きつかれて思いとどまった。著者は「ふだん尊敬している父の文学的無理解、無知識に唖然とした」と告白している。全編を通じて父への敬愛が感じられる中で、唯一批判的なことが書かれている部分である。

ちょうど今、我が息子娘も就職活動中である。親として「こちらの道に」と口を出したくなるのはやまやまであるが、決して介入しないように自ら戒めている。親に言われたコースを進んで、後悔するのは本人である。自分で選んだ道であれば、自己責任と納得することもできよう。

著者は、日本興行銀行を皮切りに田園都市株式会社の役員として高級住宅街の宅地開発などにも活躍した。戦後は実業の世界とは距離をおき、随筆に注力した。さすがに若い頃に文学を志しただけあって、氏の文章は、分かりやすくて面白い。文学の世界に進んでも一流だったであろう。昭和五十九年(1984)、父栄一と同じ九十一歳で死去した。

 

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「水戸藩・戊辰の戦跡をゆく」 鈴木茂之夫著 暁印書館

2020年02月29日 | 書評

またまた古本。昨秋から買い込んだ古本を読んできたが、これで一段落。

本書の奥付によれば、筆者は水戸在住、元学校の先生で郷土史家。本書は昭和六十一年(1986)の発刊なので、今からざっと三十五年も前の本ということになる。何か未踏の史跡情報を入手したいと思ってこの本を購入した。しかし、本書で紹介されている史跡も時間の経過とともに残念ながら消失してしまっているものも多い。

たとえば出雲崎の吉田松陰滞留宿所。これは発刊当時、建物も残されていたようだが、今や跡かたもない。

幕艦順動丸のシャフトもかつて寺泊(現・新潟県長岡市)に展示されていたようだが、今となってはどこに保管されているのか、どうすれば見ることができるのか不明である。順動丸というのは、幕府がイギリスから購入した蒸気軍艦である。文久二年(1862)には将軍家茂の摂海沿岸視察にも使用された。このとき海舟の案内で急進的攘夷派といわれた姉小路公知も乗船した。これを契機に姉小路は攘夷論を捨て、これが直後の姉小路の暗殺(朔平門外の変)に繋がったとされている。

順動丸は、その後軍艦というより輸送船として活躍し、慶応四年(1868)五月、新政府海軍の攻撃を受けて寺泊沖で座礁・自爆した。

もちろん、本書を通じて新たに知った戊辰戦跡も少なからずあった。

なお、どうでもよいことながら、本書二十六ページに「(岩倉)具視は、かつて過激な尊攘派が受難した文久三年(1863)の「八月十八日の政変」で蟄居となり、しばらく洛外に退去していた」と記載されているが、これは明らかな誤り。岩倉は和宮降嫁を積極的に推進したが、このことが尊攘派から佐幕的とみなされた。蟄居処分を受けたのは八一八政変の一年前、文久二年(1862)のことで、追い打ちをかけるように辞官、出家を命じられた。

読み進めているうちに、筆者が諸生党贔屓だということは何となく伝わってくる。「結び」に至って「落ち目になっている者を、居丈高になって突き飛ばすような姿勢には、どうしても判官びいきにならざるを得ない」「権威をバックにしてかかる強者の、弱者に対するみにくい態度が、戊辰戦争の中には、数多く見受けられる」「もし、薩・長側が、おごることなくこの場に対処したなら、この戦争はかくも悲惨な状況を各地に拡散させることはなかったであろう」と、薩長の態度を批判している。確かに錦の御旗のもとに、時に西軍は成り上がり者特有の傲慢さを隠せなかった。

人間は、勝ち馬に乗ったとき、あたかも自分が偉くなったような錯覚を覚えてしまうものである。そのとき、自分の姿を客観的に見ることは、相当難しいが、端からみて醜悪な人間にはなりたくないものである。

 

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「幕末長州藩の攘夷戦争」 古川薫著 中公新書

2020年02月29日 | 書評

も一つ古本。

本書の著者は下関出身の作家で、一昨年九十二歳でなくなった古川薫氏。下関攘夷戦争や四か国連合艦隊によるその報復戦の経緯をリアルに描く手腕は、作家ならではのものであろう。

元治元年(1864)、関門海峡を通過する外国の船舶をいきなり砲撃した長州藩の行為は、後世から見ればとんでもない暴挙といえるかもしれない。当然ながら、いわれなき攻撃を受けた仏・米・蘭の怒りは心頭に達した。

翌年、長州は四か国連合艦隊の砲撃を受け、下関沿岸に設けられた砲台は完膚なきまでに破壊された。これを機に長州藩は攘夷の無謀を知り、開国討幕に転じた。筆者によれば、長州藩の攘夷戦争は藩論を転換させる重要な転機となった。ペリー来航と並んで、我が国近代外交史の原点をなす歴史的事件と位置付けている。

この事件が外国側にもたらしたものの一つが賠償金三百万ドルという「切札」だったという指摘は慧眼といえよう。当時の三百万ドルとは、「五百トン程度の蒸気船なら百隻近く、もっと上等なものでも五十隻は買い得る」という莫大な金額であった。外国側は到底支払い不能と思われる賠償金要求を梃にして、幕府に開国政策(条約勅許と兵庫開港)を認めさせよう魂胆であった。ところが意外なことに、幕府はしぶしぶながら三百万ドルの賠償金支払いを約束したのであった。下関戦争の結果は、長州藩が予期しなかった方向に向かって、幕末の政局を大きく揺さぶることになったのである。

なお、三百万ドルの賠償金のうち、百万ドルは幕府が支払ったが、残りは明治政府が引き継ぎ、明治七年(8174)になってようやく全額を償了した。

本書では「余聞」という形で、筆者が四か国連合艦隊に鹵獲されてそれぞれ本国に持ち去られた長州藩の青銅砲の行方をレポートしている。この執念というのは、筆者が下関出身だという以外どこからきているのだろう。

四か国連合艦隊の講和といえば、高杉晋作がいきなり宍戸刑部という変名を用いて乗り出し、外国代表と丁々発止やりあったという逸話が有名である。特に彦島の割譲を求められた際には、日本書紀の講釈を滔々と語りだし、まるめこんだというエピソードはいかにも高杉晋作がやりそうなことで、歴史の名場面の一つとなっている。筆者はそもそもイギリスが彦島割譲を要求したのか否かということを検証している。「イギリスが独自に彦島租借を要求することはあり得ない」としながらも「彦島かどこかを租借したいというイギリス側の意向らしいものが漂っていたことは…疑いのないところ」としている。高杉晋作の大芝居が史実かどうかは確認できないが、仮にイギリスが租借のことを持ち出していたとしても、断固として拒絶したことは間違いなかろう。

「余聞」でもっとも面白かったのは、「奇兵隊日記」の元治元年(1864)八月五日から九日までの五日間が欠落になっている「謎」についてであった。おそらくこの部分には、赤根武人の活躍が詳しく記録されていたはずであるが、赤根の贈位に強硬に反対した山県有朋が破り捨てたのではないか、と筆者は「邪推」している。今となっては「暗部にしまいこまれた謎」としか言いようがないが、赤根のことになると一方的に非難し、憎悪を燃やす山県の異常な執念がことの背後にあるという「邪推」には説得力がある。

 

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「天皇親政」 笠原英彦著 中公新書

2020年02月29日 | 書評

またまた古本。

有名な五箇条の御誓文が発せられたのは、慶応四年(1868)三月十四日。とりわけ第一条「広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ」とした第一条は有名である。天皇親政という一種の独裁制と公議世論とは概念上相互に矛盾し、衝突するものであった。明治新政府は、矛盾を抱えたまま船出したのである。

本書には「佐々木高行日記にみる明治政府と宮廷」という少々長ったらしい副題が付されている。佐々木高行は「その風貌も手伝ってか、保守的で頑迷固陋な政治家であるとの印象がつきまとう」が、筆者によれば、彼の目は意外にも「早くから海外に開かれていた」という。佐々木は明治四年(1871)の岩倉使節団にも随行して外遊を経験し、各国の司法施設をこまめに視察している。その中で、やみくもに守旧的態度を固持したのではなく、「日本古来の伝統に根ざした政治の発展に」思いを馳せるようになった。彼自身も自嘲的に自らの思想を「頑固論」と称しているが、「漸進改革論」と呼ぶのが妥当であろう。生涯を通じて「漸進改革」は佐々木の変わらぬ主張であった。

長く明治天皇の君側にあって輔導に功績があったと言われるのが、熊本藩出身の儒学者元田永孚である。元田は佐々木の思想形成にも多大な影響を与えたし、天皇親政運動の理念的支柱でもあった。

明治十年(1877)十月、天皇の側近に陪侍する役職として新たに侍補の職が設けられた。この時、任官されたのが徳大寺実則、吉井友実、土方久元、元田、高崎正風、米田虎雄、鍋島直彬(なおよし)、山口正定ら。遅れて佐々木高行、建野郷三が任命された。天皇親政に向けて侍補らは次第に結束を固めていった。

翌明治十一年(1877)三月、佐々木は一等侍補に就任した。侍補の中でも、次第に元田と佐々木が指導的立場を占めるようになっていく。大久保利通を宮内卿に就けることにより天皇親政の実を挙げようという運動が、大久保暗殺によって頓挫すると、佐々木らは天皇に「馬術のみならず政治に関心を持つように」直訴した。侍補らの必死の上奏に天皇は涙ながらに改心を約束したという。

大久保宮内卿構想辺りから、侍補らの政治運動の主導権は、元田から佐々木に移行していた。所詮元田は学者であり政治力は高くなかった。そこに佐々木という政治力に富む人材を得て、彼に政治的な調整を委ねたというのが実態かもしれない。筆者が佐々木に注目した所以である。

伊藤博文が大久保のあとを継いで内務卿に就くと、侍補グループは有司専制批判を強めた。侍補らが人事にまで容喙したことで鮮明に対立するようになった。それは、欧化主義を進める伊藤と漸進主義の佐々木との対決でもあった。結局、政府は侍補職の廃止を決めた。それでも佐々木は、天皇からの厚い信任を背景に元老院や武官とも結んで政府を批判し続けた。佐々木の思想の根底にあったのは、薩長藩閥政治への反発であるが、それと同じくらい重みをもっていたのが民情安定であった。何よりも佐々木の政治運動に私利私欲を満たすことや自己の権力拡大といった要素がほとんど感じられず、それが彼の言動の説得力の背景にあるのかもしれない。

明治十四年(1881)十月、佐々木は参議兼工部卿に就任する。一連の佐々木の政治活動を猟官運動とする見方もあるが、筆者は「政府内部から改革を推進しようとしたに違いない」と好意的に見ている。佐々木らの「天皇親政論は、結果としてその後も明治国家体制の形成の上に深い痕跡をとどめることになった」と高く評価している。佐々木高行という、あまり目立たない人物の功績を浮き彫りにした一冊である。

 

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