(菅原神社)
菅原神社
国府津は大磯や小田原と並ぶ別荘地であった。明治には大鳥圭介や大隈重信がこの地に別荘を構えた。晩年を迎えた徳川慶喜も冬になると大鳥圭介の別荘で過ごしたといわれる。大鳥圭介の別荘は法秀寺に隣接する住宅地辺りにあったと推定されるが、残念ながらそれらしいものは何も残っていない。
菅原神社には、大鳥圭介が揮毫した扁額が残されているらしいが、これも残念なことに現認することはできなかった。
(菅原神社)
菅原神社
国府津は大磯や小田原と並ぶ別荘地であった。明治には大鳥圭介や大隈重信がこの地に別荘を構えた。晩年を迎えた徳川慶喜も冬になると大鳥圭介の別荘で過ごしたといわれる。大鳥圭介の別荘は法秀寺に隣接する住宅地辺りにあったと推定されるが、残念ながらそれらしいものは何も残っていない。
菅原神社には、大鳥圭介が揮毫した扁額が残されているらしいが、これも残念なことに現認することはできなかった。
(小和田)
明治天皇御小休所阯
茅ヶ崎市小和田の東海道に面した住宅の前に明治天皇御小休所阯碑が建てられている。明治元年(1868)十月十日、明治天皇東幸の途上、この地で小休をとったことを記念して、昭和三十六年(1961)に建立されたものである。
辻堂駅から小和田まで徒歩で十五分程度。前日にWEBで調べたところでは片道三キロメートル、往復すればどんなに急いでも一時間はかかると見積もったが、実際歩いてみると思いのほか近かった。
(神明社)
神明社
下永谷神明社の本殿傍らに忠魂碑と西南戦争戦没軍人之碑がある。
忠魂碑
西南戦歿軍人之碑
忠魂碑は横浜市長平沼亮三の書。平沼亮三は政治家であり、日本体育協会長や日本陸上競技連盟会長、東京六大学野球連盟会長などを歴任し、のちに野球殿堂入りも果たしている。先ほど訪れた戸部の願成寺に墓がある。
西南戦歿軍人之碑は神奈川県令野村靖の書。明治十二年(1879)の建立。
(願成寺)
願成寺
願成寺前の道は保土ヶ谷道と呼ばれ、保土ヶ谷宿から戸部村、横浜村に通じる道である。この先の坂は、「くらやみ坂」という物騒な名前で、安政六年(1859)、横浜開港とともに取締のために関門が設けられていた。
くらやみ坂脇には、牢屋敷や処刑場が設けられていた。元治元年(1864)の鎌倉事件と呼ばれる外国人殺傷事件の加害者は、この近くの戸部刑場で処刑されたため、願成寺墓地に彼らの墓がある。
フランス人水平殺害事件および鎌倉事件犯人の墓
左から鳶の小亀の墓
間宮一の墓(中)清水誠治の墓(右)
鎌倉事件が発生したのは元治元年(1864)十月二十二日。攘夷派の浪士が、鎌倉八幡宮のそばの茶屋で一休みしようと馬から下りた二人のイギリス人士官を斬殺した事件である。両名とも相前後して捕縛され、戸部刑場で処刑された。清水誠治二十五歳、間宮一は十八歳だったとされる。
鳶の小亀は、慶応二年(1866)二月、関内の遊郭で酒に酔って乱暴を働いていたフランス人水兵を、そこに居合わせた力士の鹿毛山長吉が投げ飛ばし、駆け付けた鳶職の亀吉(通称小亀)が、鳶口で殺したと伝えらえる。小亀は鹿毛山の罪も一身に引き受け、戸部刑場の露と消えた。
劔空寂晃信士(鳶の小亀の墓)
(伊勢山皇大神宮)
伊勢山皇大神宮
伊勢山皇大神宮(いせやまこうたいじんぐう)は明治三年(1870)に政府と県が中心になって創建された神社である。境内に注目すべき石碑がいくつか建てられている。
横濱伊勢山碑
鳥居近くに建てられているのが横浜伊勢山碑である。神社創建の由緒が記されている。三条実美の篆額。明治七年(1874)建碑。
表忠碑
表忠碑は、日露戦争で戦没した横浜商業学校出身者の慰霊碑である。題字は乃木希典による。
明治十年西征陣亡軍人之碑
伊勢山皇大神宮は、かつて野毛山招魂社と呼ばれ、神奈川県の護国神社としての役割を担っていた。境内の片隅にある明治十年西征陣亡軍人之碑はその名残である。西南戦争における県内戦没者の慰霊碑で三条実美の書。建碑は明治十二年(1879)である。
顕善彰義碑
明治十年西征陣亡軍人之碑の傍らに顕善彰義碑がある。この碑は明治十四年(1881)建立。当時の神奈川県令野村靖の篆額。
彰忠碑
彰忠碑は、裏参道側の茶室の前に建てられている。日清日露戦争における戦没者の慰霊碑で、大山巌の題字。明治四十年(1907)建碑。