史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

神川 Ⅲ

2021年11月13日 | 埼玉県

(金讃神社)

 神川町二ノ宮の金讃(かなさな)神社は、延喜式神名帳にも名を残す古社である。かつては武蔵国二の宮と称され、地名の二の宮はこれに由来している。鬱蒼とした森に囲まれ、清浄な空気に包まれている。

 

金讃神社

 

木村(九蔵)翁頌徳碑

 

 最初の鳥居をくぐって右手の山に木村九蔵頌徳碑と九蔵の甥、木村豊太郎の顕彰碑が建てられている。

 木村九蔵は、弘化二年(1845)上野国緑野郡高山村(現・群馬県藤岡市)に生まれ、元治元年(1864)、新宿村寄島(現・上川町大字新宿)の木村家を継いだ。少年時代から養蚕法の改良に励み、火力を利用して換気乾燥する温暖飼育法を開発し、明治五年(1872)に「一派温暖育」と名付けて発表した。明治十年(1877)、「養蚕改良競進組」を結成して、温暖育の普及に努め、明治十三年(1880)には新品種の繭「白玉新撰」を世に出した。明治十七年(1884)には「養蚕改良競進社」と改称し、木村豊太郎、浦部良太郎を副社長として組織の充実を図り、養蚕伝習所を児玉町に開設して、養蚕技術の指導にあたった。また各地に支部を設けて指導員を派遣した。これにより競進社の飼育法と白玉新撰は全国に広まった、明治二十七年(1894)には農村振興に大きく貢献したことに対し緑綬褒章を受けている。明治三十一年(1898)、五十四歳で没。

 木村翁頌徳碑は、明治三十二年(1899)の建碑。題額は伊藤博文の書。

 

木村豊太郎君之碑

 

 この石碑は、伯父木村九蔵と競進社を作り副社長となった木村豊太郎の功績をたたえ、大正七年(1918)四月に金鑚神社境内に設置された。渋沢栄一の撰文および書。

 

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坂戸 Ⅲ

2021年11月13日 | 埼玉県

(大智寺)

 坂戸市石井の大智寺は広い境内を持つ寺院である。本堂は教会のような建物である。広い墓地の一番片隅に井上淑蔭(よしかげ)の墓がある。

 雨は降ってくるし、蚊の攻撃は容赦なく、極めてストレスフルな掃苔となった。井上淑蔭の墓の写真を撮り終えたら、逃げるようにしてこの場を立ち去ったが、それでも両腕、両脚を無数に蚊に噛まれてしまった。

 

大智寺

 

智性院権中教正顕徳泰譲居士

(井上淑蔭の墓)

 

 井上淑蔭は、文化元年(1804)の生まれ。文化十三年(1816)、十三歳のとき、比企郡中山村の小松庵鈴木氏の門に入り、十七歳で江戸に出て清水浜臣に入門。林信海とも親交があった。二十四歳のとき、「隠郷談」をかき、のち清河八郎門に入って尊王攘夷論者となった。西川練造、桜国輔らと活躍した。しかし、契沖(1640~1701)の著わした「古今余材抄」を読んで、考証・考古学者に転じた。明治二年(1869)、新政府に出仕し、大学中助教、明経・文章両局兼開校御用、二年後辞官し郷里石井に閉居した。権中教正まで上がった。明治十九年(1804)、八十三歳にて没。

 

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本庄 Ⅳ

2021年11月13日 | 埼玉県

(塙保己一旧宅)

 

塙保己一旧宅

 

 関越道を北上して、本庄市に入ると小さな看板が現れるが、そこに描かれているのが塙保己一である。本庄市出身の有名人と問われても、なかなか思い浮かばないが、その中にあって塙保己一は教科書にも載っている全国区の著名人である。では塙保己一が何をした人かと訊かれると、おそらく本庄市出身者であっても正確に答えられる人は少ないだろう。

 

史蹟 塙保己一舊宅

 

 塙保己一は延享三年(1746)に武蔵国児玉郡保木野村(現・本庄市児玉町保木野)に生まれた。七歳で失明し、十五歳のとき江戸に出て、当道座(とうどうさ)に入門して、雨富検校の弟子となった。賀茂真淵らにも弟子入りし、学問の道に進んだ。生来の記憶力の良さに加え、弛まぬ努力の結果、国学者としての地位を築いた。国学の研究を進め、寛政五年(1793)には幕府に申し出て和学講談所を創立し、安永八年(1779)から四十一年をかけて「群書類従」を編纂、刊行するなど多大な貢献を果たした。文政四年(1821)には総検校となったが、この年の九月、七十六歳で亡くなった。

 

贈正四位塙保己一先生誕生地遺跡

 

 本庄市児玉町保木野には、入母屋造り、茅葺二階建ての生家が残されている。塙保己一は、ここで生誕し、幼児を過ごしたもので、保己一の父卯兵衛の代に建てられたものと伝えられている。つまり築二百七十年を越えると推定されるが、今も末裔の方がここに居住しているのは驚きである。

 

(塙保己一公園)

 

和學院殿心眼智光大居士

(塙保己一の墓)

 

 塙保己一は、文政四年(1821)に逝去し、四谷の安楽寺に埋葬されたが、明治十九年(1886)に安楽寺の墳墓の土を持ち帰って先祖累代の墓地の西隅に碑を建てて慰霊したものが現在に伝わっている。

 

塙先生百年祭記念碑

 

 大正十年(1921)、塙保己一没後百年の記念式典が盛大に行われた。この際、全国から寄附を募って塙先生百年記念碑が建立された。題額は渋沢栄一、撰文は当時の東京帝国大学名誉教授芳賀矢一。

 

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館林 Ⅴ

2021年11月13日 | 群馬県

(善長寺つづき)

 

善長寺

 

長山家之墓(長山甚平の墓)

 

 長山甚平は天保九年(1838)の生まれ。藩主移封の後を追って弘化三年(1846)、父とともに館林に移り、藩校に入って経史を学び、逸才の誉れがあった。のち同藩長山甚兵衛の嗣となり、大目付に挙げられ百石を給された。慶應四年(1868)の戊辰戦争では軍監を命じられ、幕僚とともに東北各地を転戦。凱旋後、白河、三春、会津等の残留兵とりまとめのため出張し、負傷者の救護、戦没者の供養を行った。同年、藩主領内に招魂祠を祭祀するや、そのことに預り以後社掌として奉仕し、かたわら藩事績等の編纂に従事した。明治二十七年(1894)、年五十七で没。

 

普昌院賢応徳孝居士(普賢寺武平の墓)

 

 普賢寺武平は文政十二年(1839)の生まれ。父は館林藩出羽分領の郡奉行であったが、幼時同藩普賢寺基忠の養子となった。弘化元年(1844)、十六歳で出仕し広間番士となり、天保七年()林奉行に進み、以後、小納戸頭、側用人を歴任。文久三年(1863)幕府において征長の議が起こると、藩主秋元志朝に長州と骨肉の親があるをもって、公武の間を調停するに及び、正使岡谷繁実に従い京都および防長の間を往来し、斡旋調停に努めた。明治二年(1869)、館林藩権参事にあげられ、禄二十石を加増されたが、明治三年(1870)、年四十二で病没した。

 

(法輪寺つづき)

 

村山家(村山具瞻の墓)

 

 村山具瞻(ともみ)は、嘉永元年(1848)の生まれ。父は館林範中老村山勘解由。戊辰戦争では徒士隊長として藩兵を率いて東北各地を転戦、会津若松城下鶴沼川において諸藩に先んじて困難なる敵前渡河を敢行し、軍監桐野利秋はその行為を激賞して菊章の指揮旗を与えた。凱旋後、中隊司令官に任じられたが、いくばくもなく東京警視庁に奉職。権大警部、中警部長を歴任し、明治十年(1877)の西南戦争では西郷隆盛との旧誼を重んじて辞任。以降、製塩業に従事していたが、明治十六年(1883)、帰郷し邑楽郡長となり名園躑躅ヶ岡の復興などに尽力した。明治二十五年(1892)、年四十五で没。

 

根岸家墓(根岸鉄次郎の墓)

 

 根岸鉄次郎は文政十一年(1838)、館林藩物頭役の家に生まれ、幼少より武技を好み、ことに馬術に練達した。万延元年(1860)、藩命により津軽に赴き馭法を学んだ。同年、抜擢されて藩校の馬術師範となった。慶應三年(1867)、軍馬奉行となり軍馬隊を編成し、戊辰戦争における活躍の素地をつくった。同年十二月、中老職に進み三百石を給された。慶應四年(1868)、政府軍が東下するという報に接すると、老臣たちと図って使者を西上させ、勤王の素志を訴えて、藩の動向を明らかにした。明治二年(1869)、参政となった。明治十年(1877)には士族の金禄をもとに第四十国立銀行を館林に創立し、その頭取となった。明治二十六年(1893)、年六十六で没。

 

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間々田

2021年11月13日 | 栃木県

(間々田八幡宮)

 

間々田八幡宮

 

 間々田八幡宮の創建は古く、約千二百有余年前の天平年間に勧請されたものと伝えられている。

 JR宇都宮線間々田駅からは四キロメートルほど離れているので、間々田八幡宮までタクシーを使うことにした。運転手さんは、あまり間々田八幡宮まで客を乗せることがないらしく、しきりに

「この道であってますか。」

と尋ねるので、困ってしまった。私だって初めてなのである。

 

狛犬

 

 境内には推定樹齢五百年という御神木があり、愛敬あふれる顔をした狛犬があり、ぶらぶら散歩するだけでも楽しい。

 拝殿裏の森の中に明治天皇遥拝所碑がある。大正元年(1912)の建立。

 明治天皇は明治九年(1876)と明治十四年(1881)の二度にわたって東北巡幸に出ているが、この石碑が一回目か二回目か、どちらを記念したものか不明である。

 

明治天皇遥拝所

 

妙斎田口翁碑

 

 田口妙斎の顕彰碑である。撰文は森鷗村(保定)、篆額は楠本正隆、金井之恭の書。

 田口妙斎という人は、手元の「明治維新人名事典」(吉川弘文館)にも掲載されていない無名の人物であるが、小山歴史研究会の大島猛氏が詳細を調査している。以下は大島猛氏の「間々田八幡宮の碑と像について」に拠る。

 

(間々田四丁目共同墓地)

 田口妙斎の墓は、間々田四丁目の共同墓地にある。田口家の墓が無数にあるので、そこから妙斎の墓を探し出さねばならない。

 

田口家累代之霊

 

妙斎道一信士(田口妙斎の墓)

 

 田口妙斎は、下都賀郡間々田の人。文化五年(1808)に生まれた。諱は道一、号は思水。七歳にして龍昌寺の東林上人について句読を受ける。十二歳のとき伯父である会津若松建福寺の住職霊州祖澄について仏学を二年間修めた。さらに会津の米澤季四郎に漢学を九年間学び、次いで高津留川について詩文章を五年学んで、故郷間々田に帰った。帰郷後、私塾を開いて子弟を教育した。その教えを受けた者は一千余人に及んだという。明治十七年(1884)二月没。

 

(間々田保育園)

 

間々田保育園(蒙求堂跡)

 

 田口妙斎は間々田で蒙求堂(もうきゅうどう)という名の塾を開いていた。現在の間々田保育園の場所である。蒙求堂は、明治五年(1872)の学制発布以降修道館とも称されていたが、間々田尋常小学校に引き継がれ、さらに小山市役所間々田支所となった。

 

(間々田三郵便局)

 

田口妙斎生家跡

 

 間々田三郵便局に隣接する駐車場が田口妙斎の生家跡である。ここには現在蔵が建っているのみである。

 

 ここから間々田駅まで一・五キロメートルほど歩かなくてはならない。ちょうど目の前にコミュニティバスのバス停があり、ほとんど待ち時間なく間々田駅行きのバスが来た。ほかに乗客はおらず、貸し切りであった。運転手さんに料金を尋ねると

「六十五歳以上は百円です。」

との答え。「そうか六十五歳以上に見えるのか…」と軽いショックを受けた。背筋を伸ばして歩かなくてはならない。

 

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