史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「ええじゃないか」 西垣晴次著 講談社学術文庫

2021年11月27日 | 書評

幕末も押し迫った慶應三年(1867)の十一月、のちに「ええじゃないか」と呼ばれた集団的乱舞が各地で発生したことは良く知られている。本書は昭和四十八年(1973)に初版が刊行され、その八年後に再版されたものを底本として、凡そ五十年の歳月を経て再々刊されたものである。このことは、「ええじゃないか」をここまで掘り下げた研究としては、本書に肩を並べるものがこの五十年出現しなかったということを意味しているのかもしれない。

「ええじゃないか」の歴史的意義については、「民衆が体制崩壊に一定の役割を果たした」と積極的に評価するものと、「維新史上のナンセンス」と消極的にしか評価しないものと、今なお二分されている。

消極的な評価が大勢を占める中、「幕府の人民支配を一か月近く麻痺させた」(井上清)、「この運動の基底には「封建的共同体」からの解放感が強く打ち出されている」(津田秀夫)といった積極的評価も現れている。

私もこれまであまり「ええじゃないか」を意識することはなかったが、本書を読み終わっても、積極的に評価すべきなのか、消極的評価で良いのか、判断がつきかねている。

「ええじゃないか」の地理的な広がりについて本書で初めて知ることができた。「ええじゃないか」の発生は、慶応三年(1867)八月、名古屋でお札が降ったのが最初といわれている(ほかに横浜説、駿河説三河説もあり)。これがたちまち四方に伝播し、九月に大津・駿府、十月には京都・松本、十一月には大阪、西宮、東海道一帯、横浜、伊勢、淡路、阿波、讃岐、会津へと波及した。ただし、関東、奥羽、北陸、あるいは中国、九州では見られない。

慶應三年(1867)という年は、天明以来の飢饉が相つぎ、開国の影響を受けて米価を中心とした物価は高騰し、民衆の生活は極度に苦しかった。幕府や武士に対する不信感が最高潮に達した時期であった。民衆の不安や不満が「ええじゃないか」に集約されたという側面は確かにあったであろう。

政治的にはどうだろう。福地桜痴は「京都方の人々が人心を騒擾せしむるために施したる計略」と観察している。岩倉具視の伝記では「具視が挙動もこの喧騒のためにおおはれて、自然と人目に触るることを免れた」と伝えている。あるいは土佐の大江卓は自ら札を作ってそれを降らせたと証言を残している。当時陸援隊に属していた田中光顕も「この踊りにまぎれて大阪から堺に脱出することができた」と回顧している。「ええじゃないか」が討幕派の動きを幕府側の目から隠したのは事実かもしれない。しかしながら、意図的なものとは言い難いし、政治的に大きな役割を果たしたとするには無理がある。

慶應三年(1867)の「ええじゃないか」の先駆け的運動となったのが、「おかげ参り」である。江戸で伊勢への群参が見られたのは、寛永十五年(1638)を皮切りにほぼ六十年周期だったという。その記憶が消え去らないうちに次の「おかげ参り」が起こったのである。「ええじゃないか」もその延長線上に位置づけることができよう。大正四年(1915)にやや小型の「ええじゃないか」踊りが京都で発生したというのも、その流れを意識したものかもしれない。しかし、その後は「ええじゃないか」やおかげ踊りに類するような集団的狂騒・乱舞といった現象は見られなくなってしまった。

日本人は毎年開かれる地域の祭りなどで、日頃の鬱憤を晴らす術を身に付けたのかもしれない。だとしたら、コロナを理由に地域の行事を延期するのもええ加減にしないと、何時かどこかで「ええじゃないか」が復活することになるかもしれない。

 

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「河鍋暁斎戯画集」 山口静一 及川茂編 岩波文庫

2021年11月27日 | 書評

先日も埼玉県蕨市にある河鍋暁斎記念美術館を訪れたばかりである。決して我が国の画壇における評価は高いとはいえないが、個人的にはこのところ妙に気になる存在となっている。

暁斎の特徴は、何といってもその多彩な画風であろう。伝統的な日本画から水墨画、錦絵や本書で特集されている戯画まで、極めて幅広い。この特徴を裏付けているのが、暁斎の確かなスケッチ力である。

本書は、ユーモア溢れる戯画を集めたものである。この時代、まだ呼称が固まっておらず、戯画、漫画、楽画,鈍画など、暁斎自身も様々な呼び方をしているが、現代風に言い換えると風刺画が一番近いだろう。今日、新聞や雑誌でよく見る風刺画の源流に位置するものである。

我が国では風刺画を芸術作品として評価することはあまりないかもしれない。暁斎の風刺画を芸術として評価したのは、むしろ海外の美術愛好家であった。今日、暁斎の作品の多くが海外の美術館に収蔵され、第二次世界大戦の戦火も逃れることができたのも、その結果ということができる。

本書は暁斎の魅力あふれる戯画を満載した一冊であるが、惜しむらくは文庫本のページの大きさに収めるために、かなり縮小されていることである。ただでさえ暁斎の絵はかなり細密であるが、老眼の身にはよく見えない。ましてそこに添えられている文字はほとんど解読不能である。本書を手引書として、できれば現物を原寸大で鑑賞したいものである。

風刺画は、機智、諧謔味、風刺性、毒気、観察眼が命である。文明開化に狂奔する民衆の姿は、風刺画家暁斎の格好の題材であった。ひたすら文明開化に反感を抱き、旧時代を懐かしんだのが、万亭応賀(まんていおうが)であった。

万亭応賀は本名を服部孝三郎という戯作者で、狂歌、戯文を得意とした。維新後、暁斎と組んで数々の中本(ちゅうぼん)、半紙絵を残したが、反時勢的態度は日を追ってエスカレートしていった。確かに俄かに西洋人の服装を真似て、和洋折衷の奇怪なファッションは、どう見ても滑稽である。ウサギが儲かると聞けば、一斉にウサギ飼いだし街にウサギが溢れかえった。金儲けに奔走する庶民の姿は、応賀の目にはあさましく映ったに違いない。福沢諭吉が「学問のすすめ」で「天は人の上に人をつくらず」と説くと、応賀は「学問雀」を出版し、「天は人の上に人を作り、人の下に人を作るものなり」と皮肉った。

しかし、文明開化、西欧化の流れは止めようがなかった。次第に応賀の風刺は人目をひかなくなり、注文も減っていった。著作を出しても、初編のみで中断し、跡が続かなかった。晩年は失意と貧困の中、反時代的著作に精力を使い果たし、明治二十三年(1890)、下谷の裏店に没した。

何時の時代も「あの頃は良かった」と昔を懐かしみ、時代に適応できない人間はいるものである。かくいう私も、DXだの、SDGsだの、あるいはカーボンニュートラルだと叫ばれる昨今の風潮に正直ついて行けていない(今もって我が家の自動車はガソリン車である)。多少軽薄との批判を浴びようとも、時代の流れについていく努力はしないといけない。反対側にいて批判だけをしていると、時代の敗者になるだけなのである。

 

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「頭山満」 嵯峨隆著 ちくま新書

2021年11月27日 | 書評

頭山満は、安政二年(1855)に生まれ、終戦直前の昭和十九年(1944)に八十九歳の天寿をまっとうした。言わば、明治維新から敗戦までの歴史を繋いだ人物の一人である。

この人物には「右翼の巨頭」という形容がつきまとう。彼は一貫して反英米を主張し、太平洋戦争が始まると「今度こそ息の根が止まるほど手厳しくやっつけて、将来二度と斯様な事態を引き起こさぬやう、禍根を徹底的に絶滅せねばならぬ」といった好戦的な発言を発信し続けた。

頭山は国権主義者であると同時に、強烈な皇国意識の持ち主であった。「右翼の巨頭」というイメージは決して誤ってはいないが、しかしそれだけではこの人物の一面を表しているに過ぎない。

本書の副題は、「アジア主義者の実像」である。頭山のアジア主義の原点はなんと西郷隆盛にあるという。彼は、西郷没後の明治十二年(1879)に西郷の旧宅を訪ねている。そこで出迎えたのは、川口雪蓬であった。川口が来意を尋ねると「西郷先生に会いに来た」と答えた。彼がいうには「西郷先生の身体は死んでも、その精神は死なないはずだ。私はその精神に会いに来たのだ」というのである。

「征韓」を唱えた西郷隆盛とアジア主義は、結びつかないかもしれない。しかし、西郷が終生信奉した斉彬は、アジアが連携して西欧に対抗すべきという考え方を持っていたというし、西郷がその思想を受け継いでいても不思議はない。西郷は、自身の政治思想をまったく書き残していないが、「西郷南洲翁遺訓」の次の一節がそのよすがになるかもしれない。

――― 実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己れを利するは野蛮ぢゃと申せし。

頭山満がどうやって西郷のアジア主義思想を感得したのかはっきりしないが、彼のアジア主義の起点を西郷に求めることは、今日有力な説になっているという。頭山の国家像は、西郷のいうような「強国にして正義」、即ち弱小国を哀れみ、文明化を手助けするというのが理想であった。弱小国を略奪し苛斂誅求してその国を苦しめる帝国主義は最も卑しむべきことであった。

頭山のアジア主義は、極めて実践的であった。彼が支援したアジアの活動家・革命家は、朝鮮の金玉均、中国の孫文、インドのラース・ビハーリー・ボースらである。本書ではあまり触れられていないが、無位無官の頭山が、これだけ外国の革命家を支援できた背景には、圧倒的な経済力があった。彼の収入源は鉱山経営などだったという。

歴史が物語っているように、金玉均も、孫文もボースも、自国の革命の主役にはなれなかった。孫文は明治四十五年(1912)、中華民国臨時政府を樹立し、臨時大総統に就いた。しかし袁世凱にその地位を奪われ、武力で中国を追われ、日本に二度目の亡命を果たす。孫文は大正十三年(1924)、死去するが、遂に政権を奪回することはできなかった。頭山の支援した革命家が自国で政権を獲れなかったことは、彼の大きな誤算だったであろう。

 

黄君克強之碑

 

右は鶴見總持寺にある黄君克強(黄興)之碑である。克強とは黄興の字である。孫文とともに辛亥革命を主導した革命派のリーダーである。黄興は、大正五年(1916)、滞在中のアメリカから日本経由で帰国しようとしていた。この時、總持寺では革命派の陳其美の追悼会が開かれ、頭山も同席している。しかし、黄興と頭山が面談をした記録は残っていないという。

帰国した黄興は疲労が重なり吐血し、そのまま帰らぬ人となった。その二年後、頭山、犬養毅、寺尾亨らが発起人となって、犬養毅の筆によってこの石碑が建てられた。今は森の中に埋もれるように建っており、そばの小径を通っても、近くに石碑があることに気が付くことすら難しい。

 

日本同志援助中國革命追念碑

 

もう一つ、鶴見の總持寺境内にたつ碑を紹介したい。日本同志援助中國革命追念碑は汪精衛(兆銘)の書。汪は孫文の側近として辛亥革命を推進した人物である。昭和十四年(1939)、日本では中国で親日政権の樹立を画策しており、汪精衛の担ぎ出し工作が進められた。汪は昭和十五年(1940)、南京国民政府の成立を宣言した。汪は頭山を「慈父の如し」と慕っていた。昭和十六年(1941)に汪が日本を公式訪問した際には、天皇に謁見した後、頭山にも面会している。頭山は蒋介石が日本に背いたことを不快に思っていた。一方で、反蒋・親日を掲げる汪精衛には大いに期待したであろう。

蒋介石の重慶政府との和平も画策され、一時頭山を中国に派遣する計画もあったが、その計画も幻と消え、戦争終結の芽は摘まれた。歴史が物語るとおり、太平洋戦争が始まり、戦争は泥沼化するのであった。

頭山にとって英米を撃滅する戦争は、待ちに待ったものであった。「皇国日本」が英米に負けるわけがないと信じて疑わなかった。昭和十九年(1944)十月、頭山は我が国の敗戦を見ることなく、御殿場の別荘で永眠。享年八十九。

彼が終生願っていた打倒英米も果たすことができず、日中の和平も提携も夢と消えた。あの戦争から七十年以上が経過したが、日中の間には深い溝ができたままである。恐らく共産党独裁が続く限り、この溝は永遠に埋まらないのではないか。この現実を見たら頭山は怒り狂うかもしれない。

 

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