史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「地形で読む日本 都・城・町はなぜそこにできたのか」 金田章裕著 日経プレミアシリーズ

2022年02月26日 | 書評

歴史を相手にしていると、どうしても自分の好きな、あるいは興味のある時代に集中してしまい近視眼的になってしまいがちである。個人的には幕末維新といわれる時期から前後三十年というところが私の学習対象範囲となっているが、それ以外の時代になると、学生時代に授業で習った程度の知識しか持ち合わせておらず、しかも今となってはほとんど記憶も薄れている。

本書は日本史を地理学的にアプローチしたもので、しかも古代から近代に至る変遷を俯瞰しようというものである。改めて歴史を長期的に俯瞰することの重要性を実感することができた。

町の風景を毎日見ていてもその変化を感じることは難しいが、十年三十年という長い時間をかけて定点観測してみると、著しく変化していることが分かる。特に都市部は短い時間で変化するが、地方ほどその周期は長い。

我が国が「倭」と呼ばれていた時代から平安京が定められるまでの数百年間、為政者が交代するたびに都(みやこ)が変わった。藤原京、飛鳥京、難波宮、長岡京、恭仁京などが思い浮かぶが、考えてみれば、どうしてこうも頻繁に都が遷る必要があったのだろうか。

斎明天皇の時代、飛鳥と難波の二か所に宮があった。当時は大陸との外交・交流も盛んであって、その便利のためにも臨海部に拠点を持つ必要があったのだろう。

いわゆる白村江の戦い(662)以降、唐が高麗を滅ぼすと、唐の襲来に備えて天智帝の時代に高安城(現・奈良県平群郡)が築かれた。さらに天智六年(667)、都はずっと内陸部の大津に遷された。

大津遷都は、防御を優先した内陸への空間的移動というだけではなく、琵琶湖水運の利用を考慮した立地であった。

壬申の乱(672)で勝利した天武天皇は飛鳥に宮を戻し、天武天皇の遺志を継いだ持統天皇は飛鳥西北方に藤原京を建設した。天智天皇の第四皇女に生まれた元明天皇は平城京遷都を計画した。本書によれば、長く政治中枢だった飛鳥には有力豪族の拠点が比較的多く、そこから距離をおいて新たに権力を集中させようという意図があったと推定している。つまり過去のしがらみからの脱却が平城京遷都の目的だったというのである。

その後、聖武天皇によってさらに北方の恭仁(くに)京へ遷都した。恭仁京は泉川(木津川)の南北両岸に位置していたとみられ、水運を強く意識した立地であった。聖武天皇の後にも保良京(近江)、長岡京への遷都があったが、いずれも長続きせず、延暦十三年(794)、桓武天皇により平安京が都と定められた。平安京は造都以後、変遷を経ながらも千年以上都として続いた。筆者は、「淀川、木津川、宇治川などの河川や琵琶湖、瀬田川などの水運が絡んでいたのは明らか」であり、「中枢の都城にとって水運が重要な要件だった」としている。内陸という印象の強い京都であるが、陸上交通のみならず、水運も重要な交通手段として備えていたからこそ、千年にわたって都として維持継続できたのである。

本書では都に続いて城の変遷を取り上げている。当初城と言えば、防御に有利な山城が基本であった。古代山城と総称されるものから始まり、戦国時代初期に至るまで住居を兼ねた山城が多く築かれた。

しかし、戦闘よりも領国経営が重視されるにつれ、山城から平城に居城が移されることになった。あるいは山城はそのまま残しておきながら主要施設を麓に移設した例、山城が破却されて代わりに平城が建設された例もある。

近世の城には、いずれも主要道が城下に通じていた。城下の町屋地区と街道や街路との結びつきが極めて重視された。確かに各地の藩庁跡を訪ねていると、それぞれが街道(現代では国道)で結ばれていることに気が付く。概ね一筆書きで巡ることができる。それは決して偶然ではなく、歴史的な必然なのである。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「五日市憲法」 新井勝紘著 岩波新書

2022年02月26日 | 書評

本書は、明治維新百五十年目の平成三十年(2018)に発刊されたものである。五日市憲法は、その五十年前、つまり明治維新百年目の昭和四十三年(1968)に五日市の旧家の「開かずの土蔵」で発見された。一般には五日市憲法は、東京経済大学の色川大吉教授(当時)によって発見されたとされているが、厳密にいえば、色川大吉の率いるゼミ生の手によって発見されたのである。

本書によれば、五人のゼミ生が手分けをして薄暗い土蔵の中の担当エリアを決め、筆者は二階の左奥に陣取ったという。たまたま近くにあった「小さな弁当箱ほどの竹製の箱」を開けてみると、古めいた風呂敷包みが出てきた。その中身は一群の文書史料で、その中にあった「日本帝国憲法」がのちに五日市憲法と呼ばれる代物であった。五日市憲法が発見された瞬間である。つまり筆者新井勝紘氏は、正真正銘の五日市憲法の発見者なのである。

開かずの土蔵から五日市憲法が発掘された歴史的瞬間は、感動的あるいは衝撃的なシーンを想像するが、筆者は同じ風呂敷包みから出てきた学芸講談会や学術討論会の規約や規則の方が気になって、「これこそが新発見史料」と思っていた。日本帝国憲法の方は大日本帝国憲法の写しだろうというくらいの認識しかなかったという。これが歴史のリアルであるし、のちに歴史的大発見とされるものも案外最初はその程度の扱いなのかもしれない。

筆者が大学を卒業するとき、色川教授から「君は二十代の若さで、歴史研究者が一生かかっても出会えるかどうかのビック史料に出会ってしまったが、この経験がよかったのかどうかは、これからの君次第だよ」と言われたのだそうだ。流石に人生の先達は、重みのある、しかも正鵠を得たことを言うものである。因みに色川教授は、昨年(令和三年(2021)、九十六歳の高齢で世を去った。

結局、筆者は五日市憲法とそれを残した千葉卓三郎と、それから五日市憲法を生んだ五日市の政治風土などについて、その後半世紀にわたって研究を続けることになった。この歴史的史料との邂逅が筆者の人生を変えたというか、規定したといっても過言ではない。発見者としての筆者は、この史料に真摯に向き合い続けたといっても良いだろう。本書は筆者の研究のほんの一端でしかないが、筆者の想いが伝わるものとなっている。

明治十三年(1880)、全国の結社が集まって国会期成同盟なるものが立ち上げられた。国会期成同盟は、同年十一月に第二回の大会を開催し、そこで第三会までに各々の結社が憲法草案を作成し、それを持ち寄り審議することが決議された。この時期、各地の結社を中心に憲法草案の作成作業が活発化した。その一連の動きの中で五日市憲法も生まれたのである。しかし、時に明治十四年の政変などで政局が紛糾し、政府は期成同盟の機先を制する形で、「国会開設の詔」を発布した。国会期成同盟は、国会開設の宿願が果たされたと判断し、憲法草案の審議は棚上げにし、国会開設に向けた新党結成の動きを優先させた。明治十四年(1881)、板垣退助を総理、中島信行を副総理とする、日本で初めての政党となる自由党が結成された。一方、各地で起草された憲法草案は宙に浮いたかっこうとなってしまった。

本書で紹介されているように、この時期、栃木、盛岡、仙台、名古屋、京都、松江、福岡、熊本などで各結社が憲法起草に取り組んでいたことが判明している。五日市憲法もその中の一つに過ぎないという見方もできる。

五日市憲法の特徴は、三権分立をとった上で、国民の権利保障と行政府に対する立法府の優位性にある。詳細は本書第二章「五日市憲法とは何か」に譲るが、「国会は、其議決に依りて憲法の欠典を補充するの権、総て憲法に違背の所業は之を矯正するの権、新法律及憲法変更の発議の権を有す」「戦争なき時に際し、臨時に兵隊を国中に置かんと欲せば、元老院民撰議院の承諾なくしては、決して之を行ふ可からざる者とす」などと、天皇の軍事大権を事実上制限したものとなっている。天皇の絶対的軍事大権を保証した大日本帝国憲法とは対照的な条文となっている。

大日本帝国憲法を起草した伊藤博文は、民権派の知識人を「ヘボクレ書生」と見下し(明治十五年(1882)九月六日付、松方正義宛て書簡)、民権派の草案を参照した形跡は全く認められない。民権派の草案を少しでも参考にしていたなら…と今更ながら思ってしまう。

筆者は、五日市憲法を発見した縁で、昭和五十四年(1979)に建立された五日市の「五日市憲法草案之碑」、千葉卓三郎の墓所である仙台市の資福寺境内の「千葉卓三郎顕彰碑」、栗原市志和姫町の「千葉卓三郎顕彰碑」の除幕式に招待されている。歴史に埋もれていた千葉卓三郎を掘り起こし、世に知らしめた筆者の功績は非常に大きい。実は私も、この三つの石碑は既に踏破しているが、この石碑の蔭に筆者の地道な研究があったことを改めて知ることができた。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする