史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

野田 Ⅱ

2022年03月05日 | 千葉県

(海福寺)

 海福寺の最寄駅は東武野田線の梅郷駅である。駅の近くを日光東往還道(流山街道)が走っている。徒歩十数分で海福寺に行き着く。

 

海福寺

 

 野田市山崎964の海福寺は、岸田城主岡部長盛の開基と伝えられる。その縁で、墓地の奥に岡部長寛の墓がある。長寛の墓の前には石の鳥居が建っているので、直ぐにそれと分かる。

 

正五位岡部長寛墓

 

 岡部長寛は、文化六年(1809)の生まれ。父は岸和田藩主岡部長慎。天保二年(1831)、一族である岡部外記長貞の家を継いだ。しかし、安政二年(1855)、弟の十三代藩主長発が死去し、世子幼少のため同年二月、宗家を襲封した。以後、動揺する幕末の政局の中にあって藩務を統括し、慶応三年(1867)十二月、諸侯が京都に召されると、家老岡部結城を上京させて藩を勤王方に列せしめ、慶応四年(1868)、鳥羽伏見の戦いでは、倒幕側について藩の保全に努めた。同年九月の改元の大赦令により、先に家政紊乱により処された差控を許され、ついで十二月二十八日、在任十三年にして致仕し、長発の遺子長職に代を譲った。明治二十年(1887)、年七十九で没。

 

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佐原 Ⅲ

2022年03月05日 | 千葉県

(観福寺つづき)

 

故 香取少宮司兼權少教正伊能頴則之墓

 

 伊能頴則(ひでのり)の墓を訪ねるため、観福寺を再訪した。観福寺には、伊能姓の墓所がいくつか見られるが、頴則の墓は伊能忠敬の墓所からほんの十メートルほど進んだ場所にある。

 伊能頴則は、文化二年(1805)の生まれ。下総国埴生郡飯田村の神山魚貫ほかに学び、嘉永元年(1848)、家業の呉服商をすてて、江戸本所亀沢町に居住、皇学を教授した。嘉永六年(1853)、佐原に帰住し、元治元年(1864)、香取尚古館学師となり、同年八月には香取神宮神官となった。明治元年(1868)、東京に出て、神祇官に勤めた。明治二年(1869)八月、大学大助教となり、令義解を御前にて講じた。明治五年(1872)、大講義、明治八年(1875)、香取神宮少宮司となり、ついで権少教正となった。下総地方の国学指導に神山魚貫とともに努め、また国書蒐集にも努めた。歌風は古今風であり、画は大雅堂風を好む文人でもあった。明治十年(1877)、年七十三で没。

 

(浄国寺)

 

浄国寺

 

清宮家墓地

 

常隂清宮秀堅墓

 

 清宮家の墓所は生垣で囲まれており、その前には大きな鳥居が建てられているので、遠くからでも直ぐに分かる。(香取市佐原イ1973)

 清宮秀堅は文化六年(1809)、佐原の生まれ。父は武彦といい、詩画をよくした文化人であった。秀堅は若くして父母と別れ、祖母に育てられた。幼名は秀太郎、のちに総三郎と改め、通称は利右衛門、号は常隂。幼時から学問を好み、津宮の久保木竹窓、潮来の宮本茶村に学んだ。二十七歳で名主となり、天保十三年(1842)、三十四歳のとき領主の津田氏に仕えた。以来、二十年余り、津田氏の財産を管理し、苗字帯刀を許された。明治五年(1872)、印旛県に出仕し、歴史、地理の講義、調査を行った。明治六年(1873)、新治県の地誌編集に従事し、香取、海上、匝瑳の三郡を探訪して「三郡小誌」を著わした。私費を投じて佐原村や付近十七村の道路の改修を行い、新田開拓にも貢献した。明治十二年(1879)、年七十一で没。

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多古 Ⅱ

2022年03月05日 | 千葉県

(東禅寺)

 平安時代末、多古は桓武平氏の流れをくむ千葉氏の荘園「千田荘」の中心地であった。千葉氏の中興の祖千葉常胤は、源頼朝を援け、鎌倉幕府の成立に貢献し、千葉氏が下総最大の武士団となる礎を築いた。以来、勢力は全国におよんだが、千葉氏一族の内乱がたびたび起き、千田荘もその舞台となった。

 享徳四年(1455)には、千葉宗家の千葉胤直は千葉城を追われ、子供や弟を引き連れて千田荘まで逃れた。胤直と側近は多古城に拠って応戦したが、敢え無く陥落し、胤直らは東禅寺で自害した。この地は千葉宗家終焉の地となったのである。東禅寺墓地に並ぶ七基の五輪塔は、千葉胤直らの墓と伝わる。(多古町寺作117)

 

東禅寺

 

 千葉胤直らの墓は、本堂から少し離れた丘の上にあり、その周りに狭い墓地がある。ほとんどが並木姓の墓石であるが、その中に並木栗水(りっすい)の墓がある。

 

配中村氏 並木栗水翁 墓

 

 並木栗水は、文政十二年(1829)の生まれ。幼名は左門。のちに栗水と号した。二十一歳で大橋訥庵の門に入って勉励し、思誠塾の塾長となった。在塾七年で佐原に帰り、螟蛉塾を開き、慶応二年(1866)、郷里久賀村に移った。志士的な動きはせず、郷党の子弟の教育に専念し、御所台先生と称された。大橋陶庵、楠本碩水らと交遊があり、経学・詩文に優れ、書も巧みであった。時流の外にあって学者、教育者としての生涯を貫いた。北総地区の名士で、その門から出た者も多い。大正三年(1914)、年八十六で没。

 

(螟蛉塾跡)

 東禅寺から県道120号に戻り北上して、最初の交差点(台作バス停がある)を左折して六十メートル行ったところに並木栗水の顕彰碑が建てられている。ここが螟蛉塾跡である。螟蛉(めいれい)とは青虫のことであるが、「詩経」にあるジガバチが螟蛉の子を背負い、七日間で化して自分の子とした故事に因んで「養子」の意味もある。弟子は師の後ろ姿を見て育つという教育指針のもと、師と弟子が日々生活をともにした。希望者は、何年でも学ぶことができたという。(多古町御所台171)

 

栗水並木先生之碑

 

 石碑の題字は徳富蘇峰。

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八街

2022年03月05日 | 千葉県

 コロナ感染拡大を受けて、ずっと野球の練習ができなかったが、このところ急速に感染者数が減少したため、二年振りに市川のグラウンドで練習を行うことになった。

 当方も半年前に還暦を迎えたが、この二年の間にチームメイトの中には、十キロ以上のダイエットに成功した者、大型バイクを乗り始めた者、外車を手放して軽自動車に乗り換えた者など、それぞれそれなりに変化があったらしい。

 久しぶりにバットを握ったが、若者の速球にも振り負けずに打ち返すことができて「まだ行けるんじゃないか」という自信を得ることができた。

 せっかくなので、この機会に午前中の練習の後、千葉県下の八街、多古、佐原(香取市)の史跡を回ることにした。天候にも恵まれ、充実した史跡の旅を楽しむことができた。

 

(新勝寺八街分院)

 

新勝寺八街分院

 

 八街市の新勝寺八街分院の駐車場に西村郡司の顕彰碑が建てられている(八街市ほ1046)。渋沢栄一の篆額。小牧昌業撰文、齋藤利恆(芳洲)の書。大正七年(1918)九月の建碑。

 

贈従五位西村郡司翁碑

 

 西村郡司は文化十一年(1814)の生まれ。生地は北足立郡門前村(現埼玉県さいたま市見沼区)。初め江戸深川で商業を営んだ。安政六年(1859)、神奈川開港の直後、同地に赴き貿易に従事した。この頃、渋沢栄一と交友があった。奥羽征討の師起こると、軍資として一万両を献じ、五口俸を給され、称氏帯刀を許された。維新後明治政府は東京府の流民救済のため、下総の旧幕府の牧野(佐倉七牧)を開放し、開墾会社をつくり、明治二年(1869)四月、窮民を募って帰農させた。この時、郡司は三井八郎右衛門らとともに会社の頭取にあげられた。郡司は翌明治三年(1870)、現・八街市の北半を占める旧柳沢牧の開墾に当たった。明治五年(1872)五月、会社は解散したが、郡司はその後も現地に住み、地主として開墾を続けた。無住の原野が今日の八街市となるに至った町づくりの功労者である。明治二十八年(1895)、年八十二で没。

 

(けやきの森公園)

 

けやきの森公園

 

 けやきの森公園の用地は、明治二年(1869)、西村郡司が開墾会社事務所を開設した際に確保された場所である。その後、昭和二十六年(1951)から平成二年(1990)まで、八街農林保育園として使用された。(八街市ほ239‐6)

 

けやきの森公園

 

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