(ペール・ラシェーズ墓地)
ペール・ラシェーズ墓地正門
午前八時に開門
明治六年(1873)一月十日、この日の午後、岩倉使節団は市内の墓地を訪ねている。久米邦武は〈地名ヲ問フヲ失ス〉と書き残しているが、恐らく市内最大の墓地であるペール・ラシェーズ墓地のことだろう。
――― 此区域ノ内ニ、一条ノ大路ト、墓間ノ車路トヲ除クノ外ハ、大抵余地アルナシ、貧人ハ木ヲ以テ墓標トス、十字形ヲ造リテ、之ヲ黒ク塗タルモアリ、白キモアリ、中人ハ石塔石龕(ほこら)ヲ建ル、大家ハ石ヲ以テ霊室(たまや)ヲ建テ、約十畳敷計リ、室内ニ石ノ方格ヲ造リ、棚架ノ如クシ、棺ヲ葬リ蔵ム、此霊室一宇ヲ建ルニハ、地代百磅(ポンド)ニ上リ、霊室一宇ノ費五百磅ニスキ、且其地代ハ年年ニ払フ、其費額ニ耐ヘ難シ、只巨室豪家ノミ、永ク保存スルヲ得ル、一根ノ石塔モ、亦之ニ准シテ地代アリ、故ニ中人ヨリ以下ハ、埋葬ノ頃ニハ、其仕届ケモツツケトモ、多年ノ後ハ廃シテ、又他人ノ屍ヲ以テ、其上ニ埋葬スルモノ多シトナリ、
埋葬料を最初のうちは毎年払い続けていても、時間が経つにつれて支払う縁者がいなくなる。時間が経過とともに、所謂無縁墓になることも珍しくない。土葬を続ける限り「他人の屍の上に埋葬」するなどといったことも普通にあり得ることだろう。この有り様を見れば日本の火葬はいかにも合理的だと思うのである。
この墓地には佐賀市材木町の豪商野中元右衛門が葬られている。
野中元右衛門は古水と号した。烏犀圓本舗第六代源兵衛の長男として生まれ、第八代を継いだ。慶應三年(1867)のパリ万博に派遣されたが、現地に到着早々客死した。五十五歳。【5区】
大日本肥前野中元右衛門之墓
ペール・ラシェーズ墓地には初代駐日領事ベルクールや幕府の軍事顧問団シャノワーヌやブリュネ、あるいはメルメ・カションの墓がある。見つけられるかどうか分からないが、時間の許す限り歩いてみることとしたい。
ベルクール(Duchesne de Bellecourt)は、安政四年(1857)、一等書記官として使節グローに随行して、中国、日本に赴いた。初代駐日フランス総領事兼外交代表として安政六年(1859)六月より文久元年(1861)四月まで滞日(文久元年正月全権公使に昇任)。江戸三田の済海寺を公館とし、宣教師ジラールらを館員に持ち、開国初期における幕仏外交に当たった。貿易の拡大、外人殺傷事件の処理など、在日外交団の有力者として活躍したが、概ね英代表オールコックに追従していた。辞職後、チュニス代理公使、バタヴィア総領事等を歴任した。レンガ造りの壁に添うように墓が置かれている。【17区】
GUSTAVE
DUCHESNE DE BELLECOURT
FAMILLE CHANOINE
Charles Sulpice Jules Chanoine
シャノアン(Charles Sulpice Jules Chanoine)あるいはシャノワーヌとも読まれる。1835年の生まれ。幕末、幕府が歩・騎・砲三兵改革のため、教官派遣を仏国に求め、外相ルイの同意を得て、中国分遣隊参謀長シャノアンが教官団長に任命された。慶應二年(1866)、契約を結んだ一行は、慶應三年(1867)正月、横浜に到着。同年六月、軍制に関する提案を行い、同年中頃より慶應四年(1868)正月まで約半年本格的訓練が行われた。幕府崩壊後、明治政府は教官団の解散を決定し、同年七月訓練は廃止され、一行は八月帰国。帰国後陸相となったが、ドレフュス事件に連座して辞職した。明治六年(1873)の岩倉使節団の来仏に際し、市内案内役を務めている。1915年、年八十で没。【8区】
General Jules Brunet
1838-1911
ブリュネは1838年の生まれ。幕府の招聘したフランス陸軍教官の一人。団長シャノアンとともに慶應二年(1866)、来日した砲兵大尉で、幕軍の訓練に当たったが、幕府崩壊後、同教官団は新政府により解約された。これを不服としたブリュネは、数名の同僚とともに榎本武揚の軍に投じ、箱館に籠城して政府軍との交戦に協力した。同地において彼の築城、砲塁に関する知識が活用された。敗戦のため仏艦に逃れたが、フランスは局外中立をとっていたため、また新政府からの抗議もあり、禁固刑に処された。のち公使ウートレーによりサイゴンに追放された。【68区】
PATRIAM DELEXIT
VERITATEM COLVIT
アドルフ・ティエール(Louis Adolphe Thiers)はフランスのブルジョア政治家(1797~1877)。七月王政以降、政治に関与したが、ナポレオン三世と対立した。普仏戦争でナポレオン三世が退位し第二帝政が崩壊すると、臨時政府首相となり、パリ・コミューンを激しく弾圧した。1871年、第三共和政初代大統領として共和制を維持しようとしたが、王党派によって不信任をうけ退陣した。岩倉使節団がパリを訪れたとき、大統領としてこれを迎えた。大統領辞任後も議員を続け、1877年、八十歳にて病死。55区の一角に巨大な墓が建てられている。
FAMILLE OUTREY
ベルクールのあとを受け、日本公使となったウ―トレーの墓である。それまでロッシュが徳川方に肩入れしてきた中にあって明治新政府樹立直後の慶應四年(1868)閏四月着任、難しい舵取りを迫られた。ウ―トレーの主要な使命は、明治初年の維新動乱期において、旧幕府以来の懸案解決と戊辰戦争における日仏紛争の解決にあった。前者については慶應三年(1867)正月、来日した仏軍事教官の雇傭関係の消滅、横須賀製鉄所の引継問題であり、後者は箱館戦争に際して榎本軍に加担した仏軍人ブリュネらの処分で、彼は局外中立の立場からこの問題にあたった。明治四年(1871)九月離任。【82区】
メルメ・カションの墓はさっぱり分からなかった。ペール・ラシェーズ墓地にはロッシーニ [4区]、プーランク [5区]、ショパン [14区]、ビゼー[68区]といった作曲家の墓もある。
A
GEORGES BIZET
1838-1875
ビゼーといえば歌劇「カルメン」や「アルルの女」で知られるが、個人的には彼が一曲だけ残した軽快な交響曲が大好きである。
A FRED CHOPIN
「ピアノの詩人」と称されるショパンの墓である。ショパンは言うまでもなくポーランドの出身だが、パリに移ってここで生涯を閉じた。ショパンの墓前にはたくさんの花が置かれていた。
FRANCIS POULENC
プーランクは比較的知名度が低い作曲家かもしれないが、彼の「オルガン、弦楽合奏とティンパニのための協奏曲」は従来のオルガンの重厚にして壮麗なイメージを覆した名曲である。
ROSSINI
ロッシーニは言うまでもなくイタリアの作曲家であるが、フランス・パリにも所縁が深い。どういう経緯か分からないが、ペール・ラシェーズ墓地の一等地に墓がある。
(ヴァンセンヌ城)
ヴァンセンヌ城(Château de Vincennes)はパリの東郊外にあり、十四世紀に建てられた巨大な城郭である。明治六年(1873)一月十八日、岩倉使節団はこの城を訪ねている。
――― 「ワンセーヌ」城ハ、「チャールス」第五ノ時ニ築造セル城ニテ、高サ五十四メートルノ高櫓アリ、尽ク石ヲ以テ築キ起ス、石階二百六十級ニテ、上頂ニ達スヘシ、此ヨリ一望スレハ、巴黎府ヲ隔テ、「モンワレヤン」ノ砲台ト正ニ相対ス、巴黎東方ノ一要害ナリ、先年普軍囲攻ノトキ、此城ト全ク相射ルコトナク、此城ノ西ナル、岡上ノ塁ト相射シテ以テ、独リ完存スルヲ得タリトナン、
ヴァンセンヌ城
「村の塔」
「村の塔」と呼ばれる正面玄関で入場料を支払い敷地内に入る。
ヴァンセンヌ城
サント‐シャペル
ステンドグラス
小城塞
ヴァンセンヌ城
古典様式の館
窓の外枠に付属していた彫刻