史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

パリ Ⅶ

2023年09月16日 | 海外

(ペール・ラシェーズ墓地)

 

ペール・ラシェーズ墓地正門

午前八時に開門

 

 明治六年(1873)一月十日、この日の午後、岩倉使節団は市内の墓地を訪ねている。久米邦武は〈地名ヲ問フヲ失ス〉と書き残しているが、恐らく市内最大の墓地であるペール・ラシェーズ墓地のことだろう。

 

――― 此区域ノ内ニ、一条ノ大路ト、墓間ノ車路トヲ除クノ外ハ、大抵余地アルナシ、貧人ハ木ヲ以テ墓標トス、十字形ヲ造リテ、之ヲ黒ク塗タルモアリ、白キモアリ、中人ハ石塔石龕(ほこら)ヲ建ル、大家ハ石ヲ以テ霊室(たまや)ヲ建テ、約十畳敷計リ、室内ニ石ノ方格ヲ造リ、棚架ノ如クシ、棺ヲ葬リ蔵ム、此霊室一宇ヲ建ルニハ、地代百磅(ポンド)ニ上リ、霊室一宇ノ費五百磅ニスキ、且其地代ハ年年ニ払フ、其費額ニ耐ヘ難シ、只巨室豪家ノミ、永ク保存スルヲ得ル、一根ノ石塔モ、亦之ニ准シテ地代アリ、故ニ中人ヨリ以下ハ、埋葬ノ頃ニハ、其仕届ケモツツケトモ、多年ノ後ハ廃シテ、又他人ノ屍ヲ以テ、其上ニ埋葬スルモノ多シトナリ、

 

 埋葬料を最初のうちは毎年払い続けていても、時間が経つにつれて支払う縁者がいなくなる。時間が経過とともに、所謂無縁墓になることも珍しくない。土葬を続ける限り「他人の屍の上に埋葬」するなどといったことも普通にあり得ることだろう。この有り様を見れば日本の火葬はいかにも合理的だと思うのである。

 

 この墓地には佐賀市材木町の豪商野中元右衛門が葬られている。

 野中元右衛門は古水と号した。烏犀圓本舗第六代源兵衛の長男として生まれ、第八代を継いだ。慶應三年(1867)のパリ万博に派遣されたが、現地に到着早々客死した。五十五歳。【5区】

 

大日本肥前野中元右衛門之墓

 

 ペール・ラシェーズ墓地には初代駐日領事ベルクールや幕府の軍事顧問団シャノワーヌやブリュネ、あるいはメルメ・カションの墓がある。見つけられるかどうか分からないが、時間の許す限り歩いてみることとしたい。

 

 ベルクール(Duchesne de Bellecourt)は、安政四年(1857)、一等書記官として使節グローに随行して、中国、日本に赴いた。初代駐日フランス総領事兼外交代表として安政六年(1859)六月より文久元年(1861)四月まで滞日(文久元年正月全権公使に昇任)。江戸三田の済海寺を公館とし、宣教師ジラールらを館員に持ち、開国初期における幕仏外交に当たった。貿易の拡大、外人殺傷事件の処理など、在日外交団の有力者として活躍したが、概ね英代表オールコックに追従していた。辞職後、チュニス代理公使、バタヴィア総領事等を歴任した。レンガ造りの壁に添うように墓が置かれている。【17区】

 

GUSTAVE

DUCHESNE DE BELLECOURT

 

FAMILLE CHANOINE

Charles Sulpice Jules Chanoine

 

 シャノアン(Charles Sulpice Jules Chanoine)あるいはシャノワーヌとも読まれる。1835年の生まれ。幕末、幕府が歩・騎・砲三兵改革のため、教官派遣を仏国に求め、外相ルイの同意を得て、中国分遣隊参謀長シャノアンが教官団長に任命された。慶應二年(1866)、契約を結んだ一行は、慶應三年(1867)正月、横浜に到着。同年六月、軍制に関する提案を行い、同年中頃より慶應四年(1868)正月まで約半年本格的訓練が行われた。幕府崩壊後、明治政府は教官団の解散を決定し、同年七月訓練は廃止され、一行は八月帰国。帰国後陸相となったが、ドレフュス事件に連座して辞職した。明治六年(1873)の岩倉使節団の来仏に際し、市内案内役を務めている。1915年、年八十で没。【8区】

 

General Jules Brunet

1838-1911

 

 ブリュネは1838年の生まれ。幕府の招聘したフランス陸軍教官の一人。団長シャノアンとともに慶應二年(1866)、来日した砲兵大尉で、幕軍の訓練に当たったが、幕府崩壊後、同教官団は新政府により解約された。これを不服としたブリュネは、数名の同僚とともに榎本武揚の軍に投じ、箱館に籠城して政府軍との交戦に協力した。同地において彼の築城、砲塁に関する知識が活用された。敗戦のため仏艦に逃れたが、フランスは局外中立をとっていたため、また新政府からの抗議もあり、禁固刑に処された。のち公使ウートレーによりサイゴンに追放された。【68区】

 

PATRIAM DELEXIT

VERITATEM COLVIT

 

 アドルフ・ティエール(Louis Adolphe Thiers)はフランスのブルジョア政治家(1797~1877)。七月王政以降、政治に関与したが、ナポレオン三世と対立した。普仏戦争でナポレオン三世が退位し第二帝政が崩壊すると、臨時政府首相となり、パリ・コミューンを激しく弾圧した。1871年、第三共和政初代大統領として共和制を維持しようとしたが、王党派によって不信任をうけ退陣した。岩倉使節団がパリを訪れたとき、大統領としてこれを迎えた。大統領辞任後も議員を続け、1877年、八十歳にて病死。55区の一角に巨大な墓が建てられている。

 

FAMILLE OUTREY

 

 ベルクールのあとを受け、日本公使となったウ―トレーの墓である。それまでロッシュが徳川方に肩入れしてきた中にあって明治新政府樹立直後の慶應四年(1868)閏四月着任、難しい舵取りを迫られた。ウ―トレーの主要な使命は、明治初年の維新動乱期において、旧幕府以来の懸案解決と戊辰戦争における日仏紛争の解決にあった。前者については慶應三年(1867)正月、来日した仏軍事教官の雇傭関係の消滅、横須賀製鉄所の引継問題であり、後者は箱館戦争に際して榎本軍に加担した仏軍人ブリュネらの処分で、彼は局外中立の立場からこの問題にあたった。明治四年(1871)九月離任。【82区】

 

 メルメ・カションの墓はさっぱり分からなかった。ペール・ラシェーズ墓地にはロッシーニ [4区]、プーランク [5区]、ショパン [14区]、ビゼー[68区]といった作曲家の墓もある。

 

A

GEORGES BIZET

1838-1875

 

ビゼーといえば歌劇「カルメン」や「アルルの女」で知られるが、個人的には彼が一曲だけ残した軽快な交響曲が大好きである。

 

A FRED CHOPIN

 

「ピアノの詩人」と称されるショパンの墓である。ショパンは言うまでもなくポーランドの出身だが、パリに移ってここで生涯を閉じた。ショパンの墓前にはたくさんの花が置かれていた。

 

FRANCIS POULENC

 

 プーランクは比較的知名度が低い作曲家かもしれないが、彼の「オルガン、弦楽合奏とティンパニのための協奏曲」は従来のオルガンの重厚にして壮麗なイメージを覆した名曲である。

 

ROSSINI

 

 ロッシーニは言うまでもなくイタリアの作曲家であるが、フランス・パリにも所縁が深い。どういう経緯か分からないが、ペール・ラシェーズ墓地の一等地に墓がある。

 

(ヴァンセンヌ城)

 ヴァンセンヌ城(Château de Vincennes)はパリの東郊外にあり、十四世紀に建てられた巨大な城郭である。明治六年(1873)一月十八日、岩倉使節団はこの城を訪ねている。

 

――― 「ワンセーヌ」城ハ、「チャールス」第五ノ時ニ築造セル城ニテ、高サ五十四メートルノ高櫓アリ、尽ク石ヲ以テ築キ起ス、石階二百六十級ニテ、上頂ニ達スヘシ、此ヨリ一望スレハ、巴黎府ヲ隔テ、「モンワレヤン」ノ砲台ト正ニ相対ス、巴黎東方ノ一要害ナリ、先年普軍囲攻ノトキ、此城ト全ク相射ルコトナク、此城ノ西ナル、岡上ノ塁ト相射シテ以テ、独リ完存スルヲ得タリトナン、

 

ヴァンセンヌ城

「村の塔」

 

 「村の塔」と呼ばれる正面玄関で入場料を支払い敷地内に入る。

 

ヴァンセンヌ城

サント‐シャペル

 

ステンドグラス

 

小城塞

 

ヴァンセンヌ城

古典様式の館

 

窓の外枠に付属していた彫刻

 

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パリ Ⅵ

2023年09月16日 | 海外

(モンパルナス墓地)

 モンパルナス墓地で、鮫島尚信、入江文郎、楢崎頼三という三名の日本人の墓を掃苔する。広大な墓地で目当ての三名の墓を探し当てたときは、人知れず満足感を覚えた。

 

 鮫島尚信(なおのぶ)は、弘化二年(1845)の生まれ。薩摩藩士。文久元年(1861)、オランダ医学研究生として長崎に遊学し、ついで英学を何礼之、瓜生寅に学ぶ。帰藩後、薩藩開成所の訓導師となった。慶應元年(1865)、薩藩留学生としてイギリスに留学。このとき野田仲平と変名を用いた。渡英後はロンドン大学のウイリアムソン教授の世話により、ロンドン大学のユニバーシティ=カレッジの法文学部に進学し、主として文学を学んだ。慶應二年(1866)の夏休みに吉田清成とともにイギリスの外交官オリファントに伴われアメリカに遊び、トマス・レーク・ハリスに出会い彼の感化を受けた。慶應三年(1867)七月、森有礼、長沢鼎、松村淳蔵、畠山良之助らと渡米してハリスの結社である「新生社」に入り、ぶどう園で働きながら学んだ。しかし、王政復古の報が伝わると、ハリスの勧めもあって森とともに明治元年(1868)六月帰国。同年七月、徴士外国官権判事、ついで議本体裁、明治二年(1869)には東京府判事、権大参事、明治三年(1870)に外務省に転じ外務大丞、ついで駐英・仏・独・北連邦少弁務大臣に任じられ、フランス在勤となった。中弁務使、弁理公使から明治六年(1873)には特命全権公使に進んだ。この頃、岩倉使節団をパリで迎えている。明治八年(1875)帰国し、明治十一年(1878)まで寺島宗則外務卿の下で外務大輔を務めた。明治十一年(1878)一月、フランス特命全権大使となり、ついでベルギー、スペイン、ポルトガル、スイス公使兼任となって外交官としての将来を嘱望されたが、在職中パリで客死した。年三十六。【10区】

 

日本特命全権公使鮫島尚信之墓

 

入江文郎(ふみお)は、天保五年(1834)の生まれ。出身は出雲国島根郡松江。父は松江藩士入江元範。幕末維新期のフランス語学の第一人者。二十一歳で江戸に出て官医竹内玄洞につき苦学のうち蘭学を修めた。また横浜に在るとき仏国通弁ウェーブよりフランス語を習得し、文久元年(1861)、蕃書調所教授方、文久二年(1862)、外国方翻訳掛を兼ね、松江藩邸の洋学教授を務めた。文久三年(1863)、西洋学教授方、慶応元年(1865)、開成所教授手伝役、慶応二年(1866)には教授職となった。幕命により横浜に赴き翻訳にあたり、陸軍所の翻訳にも従事した。明治元年(1868)、開成所二等教授、明治二年(1869)、大学中博士、明治四年(1871)、教育制度視察のため欧州に派遣され、フランスに滞在。明治五年(1872)文部省出仕となった。明治六年(1873)、留学生総代となるも、明治十一年(1878)一月、パリの客舎において病没した。年四十五。日本公使館員、留学生同朋が議してモンパルナス墓地に葬られた。東京青山霊園にも墓碑がある。【13区】

 

博士入江文郎之墓

 

楢崎頼三は弘化二年(1845)の長州萩の生まれ。初め萩明倫館に学んだ。文久元年(1861)十月、藩世子前詰となり、文久三年(1863)五月、下関に出て攘夷戦に参加した。元治元年(1864)四月、楢崎殿衛豊資の養子となり、同年七月世子に従って上京したが、禁門の変により引き返した。慶應元年(1865)五月、干城隊に入り、慶応二年(1866)六月の幕長戦に半隊司令として芸州口に出陣。慶應三年(1867)十一月、第一大隊に属し討幕のために出軍、慶應四年(1868)二月、中隊司令となり、東山道先鋒として進軍。ついで東北各地を転戦した。明治三年(1870)十月、兵部省より仏国に差遣を命じられて横浜を出帆。明治六年(1873)には留学生取締となったが、明治十二年(1879)、パリ滞在中肺病のため死亡した。年三十一。白虎隊生き残りの飯沼貞吉を庇護したことでも知られる。【6区】

 

楢崎頼三之墓

 

 モンパルナス墓地には作曲家サン=サーンス【6区】やセザール・フランク【26区】の墓もある。

 

FAMILLE

SAINT-SAENS

 

 サン=サーンスの作品では「動物の謝肉祭」「交響曲第三番「オルガン付き」」が有名。

 

CESAR FRANCK

1822-1890

 

 フランクといえば交響曲ニ短調がずば抜けて演奏機会が多く、あたかも「一発屋」のような印象があるが、実はヴァイオリン・ソナタにも愛らしい作品がある。フランスを代表する作曲家の一人である。

 

(パリ天文台)

 

パリ天文台

 

 パリ天文台(l'Observatoire de Paris)は1672年に完成したというもので、現役のものとしては世界最古の天文台である。

 岩倉使節団がこの天文台を訪れたのは明治六年(1873)一月二十二日の午後であった。久米邦武は「オフスセル、ウェルトア」と表記している。

 

――― 天文台ニ至レハ、官長四人案内ヲナシテ、台中ヲ示ス、望遠鏡ノ大サハ、英国ノ緑威(グリンウィッチ)ニ同シ、此台ニテ、近三十年来発明セル星ハ、スヘテ一百〇六アリ、其他ノ望遠鏡数種アル内ニ、重サ四千「キロガラム」ニ及フモノアリ、又一千八百六十九年ニ「フーコー」氏発明ノ、望日鏡アリ、時計ノ歯輪ノ如キ仕掛ヲ以テ、日光ヲ逐(お)ヒテ、鏡面ヲ転旋セシム、他ノ一鏡ヲシテ、日光ヲ透シテ、此鏡面ニ映射セシムル器械ナリ、

 

LE VERRIER

1811-1877

 

 天文台の前に立つ像は、海王星などを発見したことで知られる天文学者ル・ヴェリエ。岩倉使節団がパリ天文台を訪問した際、天文台長を務めていたはずだが、ル・ヴェリエが使節団一行と面会したのかは不明。

 

(カタコンブ)

 カタコンブとはローマ期(120年~5世紀)に使われていた採石場の跡を利用し、パリ市内の共同墓地に葬られていた無縁仏六百万体を納骨した地下墓地である。1785年からおよそ百年かけて移したとされる。

 「米欧回覧実記」でも「カタゴム」として紹介されているが、彼らが実際にこの地を訪れたかどうかは不明。

 

――― 白骨ヲ地底ナル隧道ニ積ミタル所アルトナリ、此中ニハ常ニ人ヲイレス、此ニ至リシモノノ話シニ、中ニ骨ヲ以テ棚ヲ結ヒ、垣ヲタタミ、種種ノ飾リヲナシテ、中ニ瓦斯ノ燈ヲ点シタリト、開化ノ余事、玩弄ヲ冢中ノ枯骨ニ及ホスハ、噫(ああ)亦甚タシ、

 

 久米邦武はさすがにこれはやり過ぎと言いたいのだろう。

 

 

カタコンブ

 

 エッフェル塔の観覧に予想以上に時間を費やしてしまい、エッフェル塔を出たときには、ほとんどカタコンブの予約時間に近かった。地下鉄を使うのが最速である。ところが、地下鉄に乗ろうとすると、どういうわけだか私のNavigo Cardが拒否されて、改札を通り抜けることができない。仕方なく、自転車(Valib)に跨ってカタコンブを目指したが、自転車だと時間がかかり過ぎて、このままでは営業終了時間にも間に合わなくなってしまう。思い直して自転車をやめて地下鉄の別の駅から試すと、今度は問題なく改札を通ることができた。それでもカタコンブを予約していた時間を半時間ほど過ぎてしまったが、係の人はこころよく通してくれた。

 全長一・五キロメートルに及ぶ地下回廊は、さすがに夏でも涼しい。人の骨が無数に積まれた光景は決して趣味の良い見世物とは思わないが、暑さを避けて身も心も冷やすには良い場所である。

 

カタコンブ

 

(パリ植物園)

 広大な敷地内に植物園、動物園、展示館や研究機関などを併設した公園となっている。植物園はルイ十三世の時代に、王の主治医が薬草園として造ったものが起源となっている。文久の遣欧使節団もこの植物園を訪問している。

 

パリ植物園

 

デージー

 

デルフィニウム

 

(バスティーユ広場)

 有名なバスティーユ監獄のあった場所は、現在バスティーユ広場となっている。広場の中央には七月革命記念柱が立っている。七月革命というのは、1830年七月、パリで民衆が蜂起し、政府軍と市街戦をたたかい、シャルル十世が亡命し、オルレアン家のルイ・フィリップが即位した事変をいう。

 

バスティーユ広場

 

「芸術の都」パリはもう一つの顔も持つ。古くからパリでは民衆による暴動が繰り返されてきた。史上もっとも有名な事件がフランス革命(1789~1795年)であろう。フランス革命は典型的なブルジョア革命と言われるが、武装化した市民がバスティーユ監獄を襲撃するなど民衆の動きが重要な役割を果たした。その後もパリの民衆は、ことあるたびに団結し集団で要求を押し通そうとした。その典型が1871年のパリ・コミューンかもしれない。

 

パリの民衆はこれに味をしめたのか、頻繁に暴動を起こすようになる。近いところでは、本年六月にパリ郊外で少年が警官に銃で撃たれたことをきっかけに各地で抗議活動が起きているし、同様の事件は2005年にも起きている。実は日本ではニュースにもならないようなストライキやデモに至っては、フランス国内では極めて日常的に発生している。背景には貧富の差であったり、人種差別や移民問題、宗教問題があるといわれているが、もっとも根底には暴動を起こすことで歴史を動かしてきた成功体験があるのではなかろうか。

 

(ビュット・ショーモン公園)

 ビュット・ショーモン公園(Parc des Buttes-Chaumont)は、十九世紀後半、採石場の跡に建造された公園である。

 

ビュット・ショーモン公園

 

 「米国回覧実記」によれば

――― 其美挙中ノ一ナリ、此苑ニ遊ヒ、仮山ノ上ヨリ回瞰スレハ、巴黎東南部ノ市街ハ、屋瓦鱗ヲ敷テ、烟突ハ森森トシテ、黒烟ヲ吹キ、清空ニ雨ナラサルノ陰ヲ催シ、夕陽ノ赭(あか)瓦壁ヲ映射スルハ、晩霞モ為メニ黄ナリ、此ハ巴黎製作場ノ集ル所ニテ、此苑ニ盤遊スル住民ハ、平常其中ニ止息シ、労作ヲナス職工ナリ、馬鈴薯、玉蜀黍ヲ食ヒ、垢衣弊屣(こういへいし)ヲ穿チ、烟煤ノ中ニ奔走シテ、場主ヨリ傭給ヲ受ケテ、生計トナスモノナリ、日曜日ニ至ル毎ニ、彼「バーテブロン」苑ニハ、華麗ノ馬車、輪輪相衒(あいふく)ムトキ、此苑ニハ夫婦相携ヘ、爺嬢相伴ヒ、歩シテ逍遥ス、両苑ノ景象同シカラサレトモ、其繁華ヲナシ、快爽ヲ受クルハ、一ナリ、

 

 つまり、ブローニュの森に来遊するのは裕福な人たちであるのに対し、ビュット・ショーモン公園には日頃工場で働く労働者だという。久米邦武は、当時のパリの住民に階級の差があることを敏感に感じ取っていたのである。

 

 ビュット・ショーモン公園は市民の憩いの場所となっている。早朝からジョギングや犬の散歩を楽しむ人がたくさんいる。夏でもパリの朝は気温二十度を下回り、ひんやりするくらいである。この季節に運動をするなら、日が高くなる前がお勧めである。

 パリ市民は、犬のリードを付けずに散歩する人が多い。犬の糞も回収せずにそのまま捨て置く人も少なくない。フランス人は、この悪しき習慣を植民地であるベトナムにも残していった。とすれば、彼らの罪は深い。

 

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パリ Ⅴ

2023年09月16日 | 海外

(シャン・ド・マルス公園)

 シャン・ド・マルス公園(Champ de Mars)は、慶応三年(1867)のパリ万博の会場となり、以後1937年まで計五回の万博会場となっている。この公園の突き当りに有名なエッフェル塔が建っているが、エッフェル塔(Tour Eiffel)が建てられたのは1889年のことであり、幕末の万博の際には影も形もなかったのである。

 

エッフェル塔

 

 1867年の万博は日本が初めて正式に参加したものとなった。幕府・薩摩藩・佐賀藩が参加した。薩摩藩は「日本薩摩琉球国太守政府」という名称で出品し、あたかも独立した国家のような体裁で参加した。幕末の政争がそのままパリに持ち込まれたような様相を呈した。

 このとき商人清水卯三郎が茶屋をこしらえ、そこに三人の柳橋の芸者を座らせた。これが大変な評判を呼んだといわれる。

 

シャン・ド・マルス公園

 

予約時間にはこの行列

 

エッフェル塔よりシャン・ド・マルス公園を望む

 

 エッフェル塔は非常に混雑するので「予めチケットを買っておいた方が良い」とガイドブックに出ていたので、出国前に予約しておいた。それでも想像を絶する大混雑で、予約した時間に中に入れたものの、そこからエレベータに乗るのに四〇分以上を要し、地上二階でエレベータを乗り換える際にも数十分待たされてしまった。この後、カタコンブの予約時間が迫っていたので、最上階滞在時間は三分で、すぐさま折り返し、二階から階段を滑るように駆け下りた。

 エッフェル塔はパリを代表するランドマークの一つであることは間違いない。でも、高さは東京タワーと変わらないし、東京タワーがさほど混雑しないことを考え合わせると、エッフェル塔の人気の高さは謎である。

 

(パリ下水道博物館)

 

パリ下水道博物館

 

 パリ下水道博物館(Musée des Égouts de Paris)は、当地における下水道の歴史を振り返る博物館である。パリの下水道の歴史は、ナポレオン三世の時代まで遡り、その頃、巨大なネットワークが市内に張り巡らされた。

 

パリ下水道博物館

 

 岩倉使節団も明治六年(1873)一月十六日、パリの下水隧道を見学している。

 

――― 巴黎ノ壮観中ノ一タリ、其隧道ハ、地底八メートルノ底ヲ回ル、大溝、中溝、小溝アリ、各街ヨリ渓ヲナシテ下リ来リテ小溝ニ入ル、小溝ノ幅ハ中溝ニ同シケレトモ、左右ノ人道狭キノミ、中溝ノ幅一メートル半モアルヘシ、深サ四尺、左右ニ道アリ、ミナ灰土(かいど)ヲ鞏固シ、石ヲ以テ砌トシ、底トス、周囲ノ宇ハ、大ナル孤形ノ洞ナリ、高サ一身有半ニテ、灰土ヲ塗リ、上水ノ管、及ヒ電線ヲ此ニ結架シテ、隧中ニ遍シ、

――― 此水道ハ千八百五十年、拿破侖三世ノ剏意(そうい)ニテ、七千五百万フランクノ金ヲ費シ、鑿成(さくせい)セリ、此隧道ノ中ニ落込ム、府中雑物ヲ混シタル汚水、日ニ総テ一億メートル立方ヲ収メテ、之ヲ府ヲ離ル、約七英里、アニヤ村トイフ処ニ至ラシメ、近傍村里ノ耕作肥料トナシ、余剰ハセイン河ニ注入スルト云、

 灰土とは火山灰の混じった土のことをいう。

 

 博物館と称している。確かにパリ下水道の歴史に関する展示もあるが、実際に今も使われている下水道をそのまま公開している。ありのままのドブ臭いにおいがリアルである。

 

(アンヴァリッド廃兵院)

 アンヴァリッド廃兵院(Hôtel des Invalides)は、軍事博物館や教会などを併設した施設。数多の著名な将軍が眠るが、何といってもナポレオンの墓があることで有名である。

 

アンヴァリッド廃兵院

ナポレオンの廟堂

 

 ナポレオンは、広く知られるとおりセントヘレナ島に幽閉され、そこで死亡し一時埋葬されたが、彼の遺志に従い1840年にパリに戻されアンヴァリッド廃兵院に墓が設けられた。

 フランス革命後の混乱に乗じて、軍事独裁政権を確立したばかりでなく、欧州各国との戦いに勝利してフランスの勢力を拡大したナポレオンの威名は幕末の日本にまでとどろいていた。文久年間にパリに入った使節団もナポレオンの墓を訪ねている。

 

アンヴァリッド廃兵院

北側の門

 

 アンヴァリッド廃兵院には、四か国艦隊が長州藩を攻撃した際に戦利品として持ち帰った青銅砲があるというので隈なく探した。しかし、残念ながら発見することができなかった。

 鹵獲した大砲は、北側の門の辺りに置かれているのと中庭にも多数ある。一説には長州藩から獲得した大砲は山口県に返還されたといわれているので、それでここにはもう存在していないのかもしれない。

 

フランス軍が戦利品として持ち帰った青銅砲

 

フランス軍が戦利品として持ち帰った青銅砲(中庭)

 

ナポレオン二世像

 

 英雄ナポレオンとその後帝政を引き継いだナポレオン三世に挟まれて、ナポレオン二世はまったく知名度が低い人物であるが、ナポレオンの子で、二週間だけ帝位についた人物。二十一歳という若さで亡くなっている。

 

ナポレオンの墓

 

ジョゼフ・ナポレオンの墓

 

 ジョゼフ・ナポレオン(Joseph Napoleon)はナポレオンの兄。ナポレオンの意図を受けて、ナポリの王位に就き、継いでスペイン王ホセ一世としてスペインを統治した。1844年七十六歳にて死去。

 

(リュクサンブール公園)

 

リュクサンブール公園

 

リュクサンブール公園

 

 パリ市内には広大な公園がいくつもある。リュクサンブール公園(Le Jardin du Luxembourg)もその一つである。十七世紀に開かれた美しい公園で、園内には自由の女神像もある。

 「米国回覧実記」でも「レキセンボルク」宮の大苑と表記しているが、「「セイン」河の西」としているのは南の誤りではないか。

 「米国回覧実記」では「リクセンブルク」の宮苑の南にあるという礦山学校についても触れられている。今もその同じ場所にパリ国立高等鉱業学校が存続しているというのは、ちょっと驚異的だと思う。

 

パリ国立高等鉱業学校附属資源博物館

 

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パリ Ⅳ

2023年09月16日 | 海外

(ブローニュの森)

 ブローニュの森(Bois de Boulogne)は、パリの西に拡がる広大な公園である。その面積は約850ヘクタールを誇り、マロニエやカシワ、カエデ、アカシアなどの木々が植えられている。公園の南には全仏オープン・テニスで有名なローラン・ギャロス(Stade Roland Garros)があるほか、美術館や競馬場なども併設している。

 「米欧回覧実記」で「バーテブロン」「ボアデブロン」と表記されているのがブローニュの森のことである。

 

ブローニュの森

アンフェリュール湖

 

 久米邦武らが明治六年(1873)二月二日にブローニュの森を訪れた時は前日の雪で「風趣添えたり」といった光景だったようである。当時は禽獣園、即ち動物園があったようだが、現在園内に動物園らしきものは見当たらない。

――― 「ボァーデ・ブロン」ハ、巴黎第一ノ公苑ニテ、米国新約克(ニューヨーク)ノ「セントラルパーク」ニモ、超越スヘキ名苑タリ、

と絶賛している。

 

ブローニュの森

レンタルボート屋

 

 自然豊な森に包まれた公園は市民の憩いの場所であるが、同時に昼間から娼婦が出没する場所として知られる。私がブローニュの森を通過した際にも、ぶよぶよの肉体を露出した娼婦何名かとすれ違った。見るからに威圧的で、とてもお近づきになりたいとは思えなかった。

 

(モン・ヴァレリアン要塞)

 「米欧回覧実記」にたびたび「モンワレヤン」ノ砲台として登場するが、いったいどこのことかしばらく特定できなかった。「実記」を解読するのに、一番の難点はカタカナで記載されている固有名詞である。ある日パリ市内の地図を眺めていて、「モン・ヴァレリアン要塞」のことだと閃いた。

 

モン・ヴァレリアン要塞

 

 使節団一行は、明治六年(1873)一月十七日、「モンワレヤン」を訪ねている。

 

――― 此ハ凱旋門ヨリ約ニ英里許ノ西ニアリテ、突兀ノ岡上ヲ占メテ築キ起ス、路易非立王(ルイ・フィリップ)ノトキニ成リタルモノニテ、巴黎周囲ノ要害ニ於テ、最モ肝要ナル地形ヲ占メ、其備ヘ厳重ナルコト、名高キ砲台ナリ、去ル七十一年ニ、普国(プロシア)ト媾和ノ議ヲハジメシトキ、普ノ執政「ビスマルク」氏カ、此山ヲ普国ニ渡サハ、和議ヲトトノヘシトテ、和議ヲ拒ミシモノナリ、

 

モン・ヴァレリアン要塞

現地説明板より

 

 現在、モン・ヴァレリアン要塞は米軍施設となっており中に入ることはできない。上空からこの要塞を俯瞰することができれば、箱館の五稜郭のように綺麗な五角形をしているはずである。

 

フェシュレ・テラスから

(Terrasse du Fécheray)

 

 ブローニュの森の中心部からモン・ヴァレリアン要塞まで距離にして五キロメートル足らず。自転車で三十分もかからないと読んでいたのだが、実際は急勾配のため電動自転車も歯が立たず、途中で自転車を乗り捨てて歩くことになった。汗が目に入って、目を開けていられないほどであった。モン・ヴァレリアン要塞を訪問される場合は、公共交通機関もしくはタクシーを利用されることをお勧めしたい。

 パリ市内を見渡すことのできる小高い丘の上にあるからこそ、この街を守護できるというものである。

 

(セーヌ川)

 

セーヌ川

船で遊覧するのも人気の高いツアー

 

 セーヌ川(la Seine)がパリの街を東西に横切っている。川の北側を右岸(Rive Droite)、南側を左岸(Rive Gauche)と呼ぶ。以下「米欧回覧実記」の描写。

――― 「セイン」河ハ、其幅倫敦府ノ達迷斯(テームス)河ヨリハ狭シ、水清クシテ流急ナリ、河ニ架セル橋ハ、総テ二十八条アリ、其内十六橋ハ石橋、七ハ懸橋、三ハ鉄骨石肉ノ橋ナリ、余ハ辺鄙ノ木製橋ナリ、河岸ニハ石垣匣ヲナシ、道路砥ニ似テ、河ニ漕スル小舟、岸ニ達スレハ、石階ヲ拾フテ登ル、宛トシテ屋中ノ如シ、河中ニ洗房ノ舟ヲ浮ヘ店トスルモノアリ、中流ニ至リ、両股ニ分レテ又合ス、中ニ二島ヲ出ス、之ヲ「イルサン、ロイ」「イルドラシート」ト云、島上ニ官衙ヲ建テ、寺観ヲ築ク、傑閣雄楼、峨峨トシテ聳エ、蜃楼ヲ夕日ニ幻セルカ如シ

 

(シテ島)

 ルーヴル美術館の東にポンヌフ橋があり、この橋を渡るとセーヌ川の中州のシテ島(Ile de la CIte)に行くことができる。シテ島には有名なノートルダム寺院があり、この島の歴史は紀元前三世紀まで遡ることができるという。

 ポンヌフを日本語にすると「新橋」であるが、実はシテ島に架かる橋としては最古のものである。

 

ポンヌフ橋

 

ポンヌフ橋

 

 どうでも良いことであるが、東京新橋に「ポンヌフ」という立ち食い蕎麦屋があったことを思いだした。

 

(パリ造幣局博物館)

 

パリ造幣局博物館

 

 ポンヌフ橋をそのまま直行し対岸に渡って右折したところにパリ造幣局博物館(Monnaie de Paris)がある。

 岩倉使節団が造幣寮を訪れたのは、明治六年(1873)一月七日のことである。久米邦武は「ホテルデモニー」と表記しているが、当時は稼働中の造幣工場であった。

 

――― 其屋宇ノ宏大ナルハ、英米ノ上ニ出ツ、此寮今ヨリ二百年前ニ、路易第十四世ノ建シ所ナリ、此寮中ニ各国ノ貨幣ヲ集メ蓄フ、スヘテ三四万種アリ、

 

 中国の貨幣のみならず、日本の貨幣に至るまで収集していることに驚嘆している。その後、実際に金銀銅貨を製造しているのを見学し、その様子を細かく記録している。当時の造幣は人力で刻印していた。彼らの目には「一種の奇工」と映ったようである。

 

(フランス学士院)

 パリ造幣局博物館をさらに西に進むと丸いドームをもつフランス学士院(Institut de France)が建っている。

 

フランス学士院

 

 文久の遣欧使節団も学士院を訪問したと記録が残されている。

 

ニコラ・ド・コンドルセ像

 

 学士院の前に立つ銅像は、ニコラ・ド・コンドルセ侯爵(1743~1794)像である。コンドルセは、数学者であり、哲学者であり、政治家でもあった。

 

(ノートルダム寺院)

 明治六年(1873)一月二日、この日大使岩倉具視は外務省に新年の挨拶に出向き、久米邦武らは副使に従って接伴掛マーシャル氏の案内で有名なノートルダム寺院を見学している。

 

――― 此寺ハ、巴黎諸寺ノ内ニテ、第一ト称スル壮麗ナル寺ナリ、「セイン」河ノ西浜ニアリ、前面ニ双尖ノ高塔ヲ築キ起ス、外壁ノ雕刻、藻眼、精工風致ヲキハメ、内景ノ輪奐(りんかん)、藻絵満面ニシテ、金光爛然、目ヲ輝カサゝルナシ、一双ノ塔頂ハ、未タ完成ニ及ハサレトモ、実ニ美観ヲ極メタリト云フヘシ、

 

 ヨーロッパの諸寺院と比べれば我が国の本願寺など「草庵の如し」と卑下している。

 

ノートルダム寺院

 

 ノートルダム寺院(Notre Dame de Paris)は平成三十一年(2019)四月十五日の火災により正面のファサードを除き、屋根や尖塔が焼け落ちた。この寺院は、フランス国民の心の拠りどころともいわれ、貴重な歴史遺産でもある。早期の復旧が望まれるが、現在のところあと一年ばかりかかる見込みという。

 

(コンシェルジュリー)

 

コンシェルジュリー

 

 コンシェルジュリー(Conciergerie)とは、一見すると要塞のような建物であるが、フランス革命時には牢獄として使用され、マリー・アントワネットが収容された独房が今もそのまま保存されているという。

 「米欧回覧実記」では「プリゾン・デ・ラサン」と表記している。

 

――― 巴黎ニテ第一ノ大牢獄ナリ

――― 此牢獄ニハ、死罪ノモノヲ入レス、大抵入牢一年以下ヲ限ル、是ヨリ以上ハ、別ニ牢アリテ、此ニ移ス、即軽罪人ノ懲役場ナリ、

 

(パレ・ド・ジャスティス)

 

パレ・ド・ジャスティス

 

 コンシェルジュリーの南にあるのがパレ・ド・ジャスティス(Palais de Justice de Paris)である。「米国回覧実記」では「ロュールト・デ・アスェー」と表記するが、原語不明。

 

――― 此ハ仏国裁判所の首(はじめ)ニテ、「セイン」河島ノ上ニアリ、其建築ハ市街ヘ凹状ヲ面シ、正面ニ広キ石階アリテ、礼拝堂ニ入ル、(中略)此ニ古来ヨリ酷罰惨刑ノ状ヲ画ク、大木ヲ抱カシメテ圧挫スルモノ、首ヲ斬リ飛スモノ、烙シ殺スアリ、焼キ殺スアリ、締ルアリ、裂クアリ、以テ後来ノ刑ヲ掌ルモノ、戒メトス、裁判所ノ正堂ヲ以テ、礼拝ノ堂トナスハ、米欧各国ノ通例ナリ、

 

 その後、実際の裁判の様子を見学している。代言師「ヂュリー」が裁判に立ち、罪人に代わって抗弁する姿を興味深く見ているが、一方でこれを日本で行おうとすると難しいとかなり悲観的である。日本は伝統的に官に従順であるし、たとえ官を恐れず「強項敢言」する者がいたとしても、法理に詳しい者はいないというのが、その理由である。実際に我が国で欧米流の近代的弁護士法が制定されたのは明治二十六年(1893)のことである。

 

 写真を撮ろうとすると、中から守衛の人が出てきて誰何された。写真を撮っても良いか尋ねたら「良い」との返事。さらに料金を払えば中に入れると教えてくれた。ただし開場は午前八時。この日ヴェルサイユ宮殿へのツアーに申し込んでいた私は、パレ・ド・ジャスティス見学を見送らざるを得なかった。

 

(サン=ルイ島)

 

サン=ルイ島

(Ile Saint-Louis)

 

 サン=ルイ島のことを「米国回覧実記」で「イルサン、ロイ」と紹介している。

 

(マリオノー)

 マリオノー(Marionnaud)というのは、フランスの化粧品メーカーらしい。そのパリ支店のある場所(59 Rue des Petits Champs)に文久年間、フォルタン文房具店があった。

 パリを訪れた福沢諭吉は、フォルタン文房具店で手帳を購入し、パリでの見聞を記録した。のちに「西航手帳」と呼ばれる。

 

マリオノー(Marionnaud)

 

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