史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

十津川 Ⅱ

2010年05月09日 | 奈良県
(風屋)


天誅組風屋本陣跡碑

 風屋の集落の中に「老人憩の家」があり、その庭にダムに面して「天誅組風屋本陣跡」の石碑が建っている。「老人憩の家」が分からなくて交番で聞いたところ、その交番のすぐ隣であった。おまわりさんは腕に仔犬を抱いたまま、場所を教えてくれた。
 九月十六日、天辻を放棄した天誅組は風屋に本陣を移した。このとき京都の御所の警衛に就いていた十津川郷士は約二百。彼らは政変によって天誅組が朝敵になることを説き、天誅組に参加した千余人の十津川郷士は去就に苦しんだ。最終的には、本陣の置かれた福寿院(現在はダムに水没)で、天誅組と十津川郷士団の代表が会見し、十津川郷士の離脱が決した。同時に天誅組も十津川郷に滞陣することができなくなり退去を決定。同日、伴林光平一行は退路を求めて先発隊として十津川を出発した。

(滝川口)


伴林光平歌碑

世を棄てゝ くまばや汲まん 白菊の
花の中ゆく 瀧川の水

瀧川の里にて 伴林光平

 十津川退去を決した天誅組は、伴林光平、深瀬繁理らを退去の間道を探るために先行させた。彼らは滝川より花瀬、嫁越峠を越えて北山郷白川に出た。歌碑はそのとき滝川で光平が詠んだ歌である。
 光平は鷲家口の戦闘では辛うじて逃れたが、河内の国境岩船山付近で捕えられ、翌年京都六角獄舎で斬殺された。年五十二。

(野尻)


明治維新の志士 正五位中井庄五郎生誕之地

 中井庄五郎は、弘化四年(1847)十津川村野尻に生まれた。資性剛直、膂力衆に過ぎ、居合の達人といわれる。文久三年(1863)十七歳のとき上平主税とともに京都に上り、御所の守衛に就いた。同年の天誅組の変には鎮撫使に従ってこれを治めた。坂本龍馬の横死を悲憤し、慶応三年(1867)十二月七日、新選組隊士を酒楼天満屋に襲撃した。数名を殺傷したが、自らも創を負って死亡した。二十一歳。


水路橋

 中井庄五郎生誕地碑の頭上には、十津川第一発電所の巨大な水路橋がまたがっている。

(十津川歴史民族資料館)


十津川歴史民族資料館

 十津川の道の駅の目の前に十津川歴史民俗資料館がある。ここに中井庄五郎の佩刀が展示されているというので、立ち寄ってみた。
 しかしながら、歴史民俗資料館の開館時間は十七時までで入館は十六時まで。私がここに行き着いたのは十六時半で本来まだ開館しているはずの時間であったが、正門には鍵がかけられ、資料館の人たちは身支度を済ませて帰ってしまった。

(十津川高校)
 十津川高校は、元治元年(1864)に開校された郷校文武館の流れを汲み、平成二十六年(2114)に創立百五十周年を迎えるという歴史ある学校である。
 元治元年(1864)二月、孝明天皇の内勅により文武館開設の沙汰が下った。その年の五月には学習院儒官中沼了三が着任した。当時は折立村の松雲寺(現・折立中学校内)に仮校舎が置かれたが、慶応元年(1865)に折立平山の新館舎に移転した。


十津川高校


中沼了三先生頌彰碑

 校庭の横に中沼了三頌彰碑がある。
 中沼了三は、文化十三年(1816)に隠岐国周吉郡中村に生まれ、天保六年京都に出て、鈴木遺音の門に学んだ。遺音の没後、学舎を開いて子弟の教育に当たった。門下には西郷従道、川村純義、桐野利秋、中岡慎太郎らがいる。嘉永年間には学習院の儒官として奉職。このころ十津川郷士と交わり、郷校開設に協力した。
 維新後は、新政府に出仕し、明治天皇の侍講、昌平学校一等教授等を歴任した。のち新旧思想の対立から三条実美、徳大寺実則と大激論の末、辞表を提出して野に下った。明治九年(1876)の神風連の乱では、了三の言辞が疑惑を招き、一か月ほど拘禁されたこともある。晩年には大津に湖南学舎を開くなど、生涯を通じて後進の育成に尽くした。明治二十九年(1896)、八十一歳にて京都で死去した。


文武館創立七十年記念碑

 中沼了三頌徳碑のすぐ近くに創立七十年を記念して建てられた石碑がある。この石碑が建立されたのは、昭和九年(1934)のことである。十津川高校のHPによれば、当時は「十津川中学文武館」と称していたようである。


浦武助先生像

 十津川高校の校舎の前に浦武助の胸像が置かれている。浦武助は大正十年(1921)に文武館長に就いたが、その直後火災により平山にあった校舎を全焼。学校の休廃止論・存続論が巻き起こったが、浦は存続再建に精魂を傾け、遂に現在地である込之上への移転再建を果たした。このことで“文武館中興の祖”と称されている。


剣豪中井亀治郎先生之碑

 十津川高校の前の国道端に「剣豪中井亀治郎先生之碑」と記された碑が建っている。中井亀治郎は、桃井春蔵とその高弟黒谷左六郎に剣を学び、三年足らずで奥義を究めたという。明治二十五年(1892)以降、帰郷して文武館およびその近郷で剣術を指南した。

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