(極楽寺)
極楽寺
桑名藩士の墓
大村市郎治(左)と長島民蔵の墓である。
大村市郎治は、桑名藩致人隊。下横目。慶應四年(1868)五月十九日、越後与板大山で負傷。同月二十五日、庄内にて死亡。二十歳。
長島民蔵は桑名藩大砲隊。慶應四年(1868)、九月二十日、羽前寒河江にて負傷。庄内大山で死亡。二十四歳。
(総穏寺)
総穏寺
鳥海家(新之助)之墓
鳥海新之助は、庄内藩水夫隊副長。東田川郡藤島村在住。慶應四年(1868)九月十一日、羽前関川で戦死。三十三歳。
清水五一墓
誠鎗院専念良要居士(手塚要人)墓
(禅源寺)
禅源寺
松森胤保之墓
松森胤保は、文政八年(1825)、庄内藩士長坂市右衛門の長子として鶴岡城下に生まれた。藩校致道館で学んだほか、宝蔵院流の槍術、大坪流馬術にも長じた。文久二年(1862)に家督を継ぎ、翌年には物頭、さらに支藩である出羽松山藩の付家老を命じられた。慶應三年(1866)十二月の薩摩藩邸焼討事件では松山藩兵の指揮をとった。戊辰戦争でも松山藩の軍務総裁に任じられ、合わせて本藩の参謀を兼ね、上山、新庄、秋田各地を転戦した。維新後は、明治二年(1869)松嶺藩大参事、松山藩校里仁館の惣管、山形県会議員、酒田戸長などを歴任した。同時に科学者としても調査、研究に勤しみ、物理、化学、工学、史学、考古学など、興味の対象は果てしなく、著書七百を越えたという。明治二十五年(1892)六十八歳にて逝去。
研堂黒崎君之墓
書家として名を成した黒崎研堂の墓である。父は庄内藩家老酒井了明(静眠)。戊辰戦争で勇名を馳せた酒井了恒(玄蕃)は実兄。十七歳のとき戊辰戦争がおこり、農兵小隊長として出陣した。維新後は、松が岡の開墾場の経営に参加した。幼少のころから書に優れ、研鑽を重ねて庄内における書道興隆の基礎を作り、多くの門弟を育てた。また、金融機関済急社(のちの荘内銀行の前身六十七銀行)の社長を務め、明治三十四年(1901)には町会議員となった。昭和三年(1928)、七十七歳にて死去。
(安国寺)
安国寺
石原倉右衛門墓
石原倉右衛門は藩の中老。嘉永元年(1848)、兄の早世のため家督を継いだ。慶應三年(1867)十二月の三田薩摩藩邸焼討にあたってその指揮をとり、翌年の戊辰戦争では主将として吹浦口に出陣した。慶應四年(1868)六月、新潟で列藩同盟の重臣会議に出席して、同地における武器購入交渉を終え、従者三名を従えての帰途、羽後松が崎で上陸した新政府軍に遭遇して戦死。年三十であった。庄内藩では戦後、石原倉右衛門を開戦責任者として届け出たため、家名断絶となった。のちに倉右衛門の弟、隼馬が嫡子となって酒井姓を賜り、家が再興されることになった。
故正五位松本十郎君墓
松本十郎は、天保十年(1839)、庄内藩物頭戸田文之助(子隠)の長子として生まれた。旧姓名は戸田摠十郎。はじめ致道館に学び、文久三年(1863)より父に従って蝦夷地の庄内藩警備地区天塩、苫小牧に在勤。慶應三年(1866)、転じて江戸市中取締の任に当たった。戊辰戦争では、酒井了恒(玄蕃)の指揮する二番大隊の幕僚として活躍した。降伏後は、姓名を松本十郎と改めて、東京に赴き黒田清隆ら新政府の首脳と交友を深めて藩の戦後工作に奔走した。明治二年(1869)、黒田の推挙により北海道開拓判官に任じられた。明治六年(1873)大判官に進級。しかし、アイヌの人権擁護を主張する松本十郎は、開拓長官黒田と意見が合わず、明治九年(1876)、三十八歳のとき官を辞して鶴岡に帰った。大正五年(1916)、七十八歳にて死亡。
義顯院笹以翼(笹平九郎)墓
笹平九郎は、庄内藩服部平蔵組。鶴岡高畑在住。慶應四年(1868)、七月二十八日、羽前赤倉越にて戦死。墓の側面に刻まれた銘によれば、斥候に出て戦死。この墓には遺髪が収められたらしい。
脩善院中邨正氏(中村七郎右衛門)墓
中村七郎右衛門は、天保十三年(1842)、庄内藩士中村七郎兵衛の嫡男に生まれた。若年より剣術に長じ、慶應三年(1867)、元家老酒井右京が切腹した際には、右京の依頼によって介錯をつとめた。戊辰戦争では銃隊頭を命じられて、清川口に出陣。更に長岡に転戦したが、長岡落城の報に接して会津、米沢を経て山形に帰り着いた。晩年は悠々自適の生活を送り、磯釣り名人として知られた。明治四十年(1907)六十六歳にて死去。
子隠戸田君(戸田文之助)墓
松本十郎の父、戸田文之助(子隠、摠蔵)の墓である。

極楽寺

桑名藩士の墓
大村市郎治(左)と長島民蔵の墓である。
大村市郎治は、桑名藩致人隊。下横目。慶應四年(1868)五月十九日、越後与板大山で負傷。同月二十五日、庄内にて死亡。二十歳。
長島民蔵は桑名藩大砲隊。慶應四年(1868)、九月二十日、羽前寒河江にて負傷。庄内大山で死亡。二十四歳。
(総穏寺)

総穏寺

鳥海家(新之助)之墓
鳥海新之助は、庄内藩水夫隊副長。東田川郡藤島村在住。慶應四年(1868)九月十一日、羽前関川で戦死。三十三歳。

清水五一墓

誠鎗院専念良要居士(手塚要人)墓
(禅源寺)

禅源寺

松森胤保之墓
松森胤保は、文政八年(1825)、庄内藩士長坂市右衛門の長子として鶴岡城下に生まれた。藩校致道館で学んだほか、宝蔵院流の槍術、大坪流馬術にも長じた。文久二年(1862)に家督を継ぎ、翌年には物頭、さらに支藩である出羽松山藩の付家老を命じられた。慶應三年(1866)十二月の薩摩藩邸焼討事件では松山藩兵の指揮をとった。戊辰戦争でも松山藩の軍務総裁に任じられ、合わせて本藩の参謀を兼ね、上山、新庄、秋田各地を転戦した。維新後は、明治二年(1869)松嶺藩大参事、松山藩校里仁館の惣管、山形県会議員、酒田戸長などを歴任した。同時に科学者としても調査、研究に勤しみ、物理、化学、工学、史学、考古学など、興味の対象は果てしなく、著書七百を越えたという。明治二十五年(1892)六十八歳にて逝去。

研堂黒崎君之墓
書家として名を成した黒崎研堂の墓である。父は庄内藩家老酒井了明(静眠)。戊辰戦争で勇名を馳せた酒井了恒(玄蕃)は実兄。十七歳のとき戊辰戦争がおこり、農兵小隊長として出陣した。維新後は、松が岡の開墾場の経営に参加した。幼少のころから書に優れ、研鑽を重ねて庄内における書道興隆の基礎を作り、多くの門弟を育てた。また、金融機関済急社(のちの荘内銀行の前身六十七銀行)の社長を務め、明治三十四年(1901)には町会議員となった。昭和三年(1928)、七十七歳にて死去。
(安国寺)

安国寺

石原倉右衛門墓
石原倉右衛門は藩の中老。嘉永元年(1848)、兄の早世のため家督を継いだ。慶應三年(1867)十二月の三田薩摩藩邸焼討にあたってその指揮をとり、翌年の戊辰戦争では主将として吹浦口に出陣した。慶應四年(1868)六月、新潟で列藩同盟の重臣会議に出席して、同地における武器購入交渉を終え、従者三名を従えての帰途、羽後松が崎で上陸した新政府軍に遭遇して戦死。年三十であった。庄内藩では戦後、石原倉右衛門を開戦責任者として届け出たため、家名断絶となった。のちに倉右衛門の弟、隼馬が嫡子となって酒井姓を賜り、家が再興されることになった。

故正五位松本十郎君墓
松本十郎は、天保十年(1839)、庄内藩物頭戸田文之助(子隠)の長子として生まれた。旧姓名は戸田摠十郎。はじめ致道館に学び、文久三年(1863)より父に従って蝦夷地の庄内藩警備地区天塩、苫小牧に在勤。慶應三年(1866)、転じて江戸市中取締の任に当たった。戊辰戦争では、酒井了恒(玄蕃)の指揮する二番大隊の幕僚として活躍した。降伏後は、姓名を松本十郎と改めて、東京に赴き黒田清隆ら新政府の首脳と交友を深めて藩の戦後工作に奔走した。明治二年(1869)、黒田の推挙により北海道開拓判官に任じられた。明治六年(1873)大判官に進級。しかし、アイヌの人権擁護を主張する松本十郎は、開拓長官黒田と意見が合わず、明治九年(1876)、三十八歳のとき官を辞して鶴岡に帰った。大正五年(1916)、七十八歳にて死亡。

義顯院笹以翼(笹平九郎)墓
笹平九郎は、庄内藩服部平蔵組。鶴岡高畑在住。慶應四年(1868)、七月二十八日、羽前赤倉越にて戦死。墓の側面に刻まれた銘によれば、斥候に出て戦死。この墓には遺髪が収められたらしい。

脩善院中邨正氏(中村七郎右衛門)墓
中村七郎右衛門は、天保十三年(1842)、庄内藩士中村七郎兵衛の嫡男に生まれた。若年より剣術に長じ、慶應三年(1867)、元家老酒井右京が切腹した際には、右京の依頼によって介錯をつとめた。戊辰戦争では銃隊頭を命じられて、清川口に出陣。更に長岡に転戦したが、長岡落城の報に接して会津、米沢を経て山形に帰り着いた。晩年は悠々自適の生活を送り、磯釣り名人として知られた。明治四十年(1907)六十六歳にて死去。

子隠戸田君(戸田文之助)墓
松本十郎の父、戸田文之助(子隠、摠蔵)の墓である。
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