(耕徳院)
耕徳院
耕徳院は、明暦元年(1655)、武田左馬之介貞信の子武田五郎左衛門充信が和渕に屋敷を構えた頃、現在地に移された。その縁で、以来武田家の菩提寺となっている。武田家の祖は、武田信玄の父信虎の十男信次とされ、大阪冬の陣の頃から伊達政宗と接触を持ち、信次の子の重次が政宗に仕え、貞信の時、二代藩主忠宗より拝領した。武田家邸は、和渕入ノ沢山におかれ、その跡地は今でも「お邸(やしき)」と呼ばれている。墓所は耕徳院墓地の一番上に位置している。
武田安之助信昌墓
智昭院殿真學道雄大居士
武田家墓所内に武田安之助の墓がある。
武田安之助は、千八百石。桃生郡和渕住。二番座召出格。小隊長として奇功があった。慶應四年(1868)七月二十八日、磐城熊川にて戦死。三十歳。
大智院殿義学道英大居士(武田杢介の墓)
武田家墓所からの眺望
眼下一面に水田が広がっている。
(林昌院)
林昌院
戦没勇士慰霊碑
林昌院の門前に戦没勇士慰霊碑が建てられている。この石碑は戊辰戦争から大東亜戦争までの戦死者の記念碑。昭和四十五年(1970)三月に建立された、比較的新しいものである。背面に桃生郡より戊辰戦争に出征した五名の名前が刻まれている。
(欠山墓地)
岩淵家代々之奥津城(岩淵泰輔の墓)
岩淵泰輔は、瀬上主膳家来。慶應四年(1868)五月一日、白河にて戦死。
鈴木鶴之輔藤信親墓
無縁墓石の中に鈴木鶴之助の墓がある。瀬上主膳家来。慶應四年(1868)五月一日、白河にて戦死。
(梅木屋敷)
瀬上主膳の墓のある統禅寺が所在する梅木屋敷に戊辰戦争の戦没者慰霊碑が建てられている。令和元年(2019)、戊辰戦争終結百五十年を記念して建てられた比較的新しいものである。
戊辰の役全殉難者 慰霊の碑
近代の夜明けに礎となった
先人たちの御霊安らかに
令和元年五月十八日
戊辰の役終結百五十年記念
慰霊碑建立奉賛者一同
この立派な石碑が建っているのは、岩淵家の敷地内である。竹さんご夫妻は、ここを訪れて、岩淵家の方に声をかけられ、欠山墓地に岩淵泰輔の墓のことを教えてもらったという。
(高徳寺)
高徳寺
小関直之進の墓
小関直之進は、慶応四年(1868)八月十一日、磐城駒ヶ峰にて戦死。
(千照寺墓地)
津田家之奥城(鹿又貫之進の墓)
鹿又(しかまた)貫之進は、桃生郡大立目家中。慶應四年(1868)七月十一日、羽前金山にて戦死。
鹿又貫之進の名前を、津田家の墓碑銘に見ることができる。津田家に生まれ、鹿又家を継いだ人らしいが、墓碑銘を確認しないと、ここに貫之進が葬られていることは分からない。竹さんの執念を感じる。墓標によれば、八月十一日、戦死。二十四歳とある。
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