(大林寺)
仙台出張の日、例によって早朝から活動を開始し、市内の孝勝寺、大林寺、真福寺を訪問した。本当は自転車を借りる予定であったが、生憎の雨で、自転車は断念した。傘をさして歩くことになった。
孝勝寺では、戊辰戦争では参謀を務め、戦後は一関県参事や水沢県権令等を歴任した増田歴治(繁幸)の墓を探したが、増田姓の墓すら発見できず。
次いで大林寺で石母田但馬の墓を探した。石母田家の墓は二か所あり、そのうちの一つに石母田忍先生の墓があったが、これは石母田但馬頼至とは別人と思われる。
雨は強くなってきたし、これ以上墓地を歩く気力が萎えてしまった。次回以降の宿題である。
大林寺
石母田忍先生之墓
石母田但馬の父は、石母田勇記。一家格高清水邑主石母田氏の支族である。性温順で、兵学、和漢学に通じ、藩内では尊王攘夷派に属した。安政元年(1854)、建白におよび、以後再三尊攘の趣意を藩主伊達慶邦に建言したが、観念的な域を脱することができなかった。明治元年(1868)の戊辰戦争の終結に活躍した。藩論を降伏に導き、自ら使者となって相馬口の交渉にあたった。のち仙台藩権大参事に任じられ、東京邸庁にあって中央との交渉にあたり、儀部寮、軍部寮の事務を総轄した。
帰宅後、仙台在住の竹さんに調べていただいた結果、石母田但馬の墓は、現在大林寺にはないのではないか、とのことである。さらに孝勝寺の増田歴治の墓も存在していないとの情報をいただいたので付記しておく。
さらに竹さんに調べていただいた結果、石母田忍とは、漢学者で、号は耐庵。斉藤鹿水(真典)の弟。明治二十三年(1890)、六十二歳で没したという人物で、石母田但馬とは血縁関係はないようである。
(真福寺)
真福寺の道を挟んで向かい側に広い墓地がある。中央を貫く道の行き当りに富田家の墓があり、そこに富田鉄之助、小五郎兄弟の墓がある。
真福寺
龍勝院倫阿慧光居士(富田小五郎の墓)
富田小五郎は鉄之助の兄。遠藤文七郎、塩森左馬介、大松沢掃部輔とともに仙台藩四天王と称された。戊辰戦争では、岩城口小名浜大隊長となり転戦した。藩が降伏したのを不満とし、小五郎等の勇義第一大隊は徹底抗戦すべく、茂ヶ崎大年寺に屯在し戦闘に備えたが、結局戦わずに解散した。戦後は家禄没収され、禁固に服した。明治二十五年(1892)、年五十八歳で没。
鐵畊居士瘞髪之塔(富田鉄之助の墓)
富田鉄之助の墓である。
富田鉄之助は、天保六年(1835)の生まれ。父は仙台藩着座格で三千石を禄する富田壱岐。安政三年(1855)、二十二歳で江戸に出て、勝海舟の塾に入り、蘭学、航海術、砲術を習得した。慶應三年(1867)、アメリカに渡り、翌明治元年(1868)、帰国した。その後、ニューヨーク総領事、清国上海総領事、イギリス公使館一等書記官、大蔵大書記官を歴任し、明治二十一年(1888)、日本銀行総裁になった。翌年、松方正義大蔵大臣と議合わず職を去ったが、明治二十三年(1890)、貴族院議員に勅選され、その翌年には東京府知事となった。明治二十七年(1894)、知事を辞した後は、富士紡績会社、横浜火災保険会社の創設などに貢献した。大正五年(1916)、年八十二歳にて没。
かつて東京の護国寺にあるとされている富田鉄之助の墓を、墓地を歩き回って探したが、特定することができなかった。今回、ようやく出会うことができて感無量であった。
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