(出流山 満願寺)
出流山 満願寺
出流山満願寺は、慶応三年(1867)十一月末に江戸薩摩藩邸を出た浪人が倒幕のために挙兵した出流山事件の舞台となった場所である。
栃木市内から出流山まで約十五キロメートル。単調な道のりであったが、田舎なのに大きなダンプトラックが行き交うので油断はならない。ダンプトラックが多いのは、出流山の入口に石灰鉱山があるためである。三十分ほど自動車を走らせて、ようやく満願寺に行き着く。
満願寺山門
出流山事件は、今や忘れられた史実と化しているといっても良いだろう。背後には幕府の後方を霍乱しようという薩摩藩の存在があったという。相良総三、竹内啓、権田直助、会沢元助、西山謙之助らが率いる浪士約三百は、満願寺に立て籠もること十日余りで、幕府の命を受けた足利藩、壬生藩、真岡代官に鎮圧された。生け捕りにされた四十八名が処刑されている。幕末の“あだ花”のような事件である。
(大平山神社)
吉村昭の長編小説「天狗争乱」は、水戸天狗党が栃木の大平山に立てこもるところから始まる。天狗党は元治元年(1864)四月十四日から翌月五月末まで、約1ヵ月半にわたり、大平山神社の塔頭の一つである連祥院に滞陣した。当時の天狗党総帥は田丸稲之右衛門。神衛隊を率いる藤田小四郎も、田丸に従っていた。
太平山神社
水戸天狗党大平山本陣跡
現在の大平山神社には、天狗党に関わる史跡は、ほとんど残されていない。随神門前の石段をしばらく下ると、栃木市観光ボランティアが建てた木柱があり、そこに水戸天狗党大平山本陣跡の由来を記してある。
更に随神門前の舗装道路を進むと、謙信平に出る。ここから栃木方面を見下ろすことができる。
天狗党鎮魂碑
ほとんど読み取れないが、「懐昔勤王士 義旗此地揚 方今頼無事 題石米元章 紀元二五四一年」と刻まれているらしい。明治十四年(1881)、この地を訪れた高鍋藩主秋月種樹が発起人となって建碑されたものである。
謙信平からの眺望
(定願寺)
定願寺
栃木市内の定願寺は、元治元年(1864)の天狗党の乱の際、天狗党が本陣を置いた寺である。栃木の街は、天狗党田中愿蔵隊により全焼した。
(正仙寺旧侍墓地)
正仙寺には墓地が残されているのみで、建物らしきものは見当たらない。よくお寺が幼稚園を経営しているケースを見かけるが、どうやらここでは幼稚園だけが存続しているように見える。
正仙寺旧侍墓地
吹上町は、今や栃木市の一部でしかないが、かつて独立した一藩であった。
吹上藩は、有馬氏一万石の小藩である。有馬氏は、久留米有馬氏の分家でありながら、紀州徳川家に従っていたため譜代扱いとなっていた。天保十三年(1842)にこの地に転封されて吹上藩を立藩した。幕末の藩主は、有馬氏弘。戊辰戦争に際して官軍に恭順を決し、奥州まで派兵した。維新後、吹上藩は廃藩置県と同時に栃木県および宇都宮県に統合された。従って吹上藩の存在は、三十年という短期間であった。
戊辰戦争で吹上藩兵は四名の戦死者を出した。これに対して朝廷より下された賞典禄の一部を、藩老らが藩主を欺いて横領したため、正義派と称する武士九名が江戸藩邸を襲い、藩老らの首を挙げて自訴した。正仙寺旧侍墓地には、彼ら忠義の士の墓がある。
(一乗院)
一乗院
会津藩士の墓
一乗院には、戊辰戦争で戦死した会津藩士江花七之助と柴謙介の墓がある。官軍の墓は多いが、この地域で旧幕府側の兵士の墓が残されているのは、珍しい。
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出流山 満願寺
出流山満願寺は、慶応三年(1867)十一月末に江戸薩摩藩邸を出た浪人が倒幕のために挙兵した出流山事件の舞台となった場所である。
栃木市内から出流山まで約十五キロメートル。単調な道のりであったが、田舎なのに大きなダンプトラックが行き交うので油断はならない。ダンプトラックが多いのは、出流山の入口に石灰鉱山があるためである。三十分ほど自動車を走らせて、ようやく満願寺に行き着く。
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満願寺山門
出流山事件は、今や忘れられた史実と化しているといっても良いだろう。背後には幕府の後方を霍乱しようという薩摩藩の存在があったという。相良総三、竹内啓、権田直助、会沢元助、西山謙之助らが率いる浪士約三百は、満願寺に立て籠もること十日余りで、幕府の命を受けた足利藩、壬生藩、真岡代官に鎮圧された。生け捕りにされた四十八名が処刑されている。幕末の“あだ花”のような事件である。
(大平山神社)
吉村昭の長編小説「天狗争乱」は、水戸天狗党が栃木の大平山に立てこもるところから始まる。天狗党は元治元年(1864)四月十四日から翌月五月末まで、約1ヵ月半にわたり、大平山神社の塔頭の一つである連祥院に滞陣した。当時の天狗党総帥は田丸稲之右衛門。神衛隊を率いる藤田小四郎も、田丸に従っていた。
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太平山神社
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水戸天狗党大平山本陣跡
現在の大平山神社には、天狗党に関わる史跡は、ほとんど残されていない。随神門前の石段をしばらく下ると、栃木市観光ボランティアが建てた木柱があり、そこに水戸天狗党大平山本陣跡の由来を記してある。
更に随神門前の舗装道路を進むと、謙信平に出る。ここから栃木方面を見下ろすことができる。
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天狗党鎮魂碑
ほとんど読み取れないが、「懐昔勤王士 義旗此地揚 方今頼無事 題石米元章 紀元二五四一年」と刻まれているらしい。明治十四年(1881)、この地を訪れた高鍋藩主秋月種樹が発起人となって建碑されたものである。
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謙信平からの眺望
(定願寺)
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定願寺
栃木市内の定願寺は、元治元年(1864)の天狗党の乱の際、天狗党が本陣を置いた寺である。栃木の街は、天狗党田中愿蔵隊により全焼した。
(正仙寺旧侍墓地)
正仙寺には墓地が残されているのみで、建物らしきものは見当たらない。よくお寺が幼稚園を経営しているケースを見かけるが、どうやらここでは幼稚園だけが存続しているように見える。
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正仙寺旧侍墓地
吹上町は、今や栃木市の一部でしかないが、かつて独立した一藩であった。
吹上藩は、有馬氏一万石の小藩である。有馬氏は、久留米有馬氏の分家でありながら、紀州徳川家に従っていたため譜代扱いとなっていた。天保十三年(1842)にこの地に転封されて吹上藩を立藩した。幕末の藩主は、有馬氏弘。戊辰戦争に際して官軍に恭順を決し、奥州まで派兵した。維新後、吹上藩は廃藩置県と同時に栃木県および宇都宮県に統合された。従って吹上藩の存在は、三十年という短期間であった。
戊辰戦争で吹上藩兵は四名の戦死者を出した。これに対して朝廷より下された賞典禄の一部を、藩老らが藩主を欺いて横領したため、正義派と称する武士九名が江戸藩邸を襲い、藩老らの首を挙げて自訴した。正仙寺旧侍墓地には、彼ら忠義の士の墓がある。
(一乗院)
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一乗院
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会津藩士の墓
一乗院には、戊辰戦争で戦死した会津藩士江花七之助と柴謙介の墓がある。官軍の墓は多いが、この地域で旧幕府側の兵士の墓が残されているのは、珍しい。