史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

水戸 常磐共有墓地 Ⅲ

2010年06月02日 | 茨城県
(常磐共有墓地 Ⅲ)


贈正五位 有賀半彌墓

 有賀(ありが)半弥は、天保十年(1839)に生まれた。平生から外国人の横暴を憎み、文久元年(1861)五月二十八日、高輪東禅寺にイギリス人を襲い、そこで闘死した。二十三歳。


原市之進 婦人松本氏 墓

 徳川慶喜の謀臣、原市之進は天保元年(1830)に水戸藩士の家に生まれ、幼時から才学抜群、従兄の藤田東湖から大きな期待をかけられ、江戸の昌平黌に進んで名声を高めた。水戸に帰ると、史館や弘道館に務め、同時に私塾を開き後進を育てたが、一橋慶喜から請われて近侍して、深い信頼を得た。慶喜の将軍就任後、兵庫開港問題で反幕派から憎まれ、慶応三年(1867)八月、三十八歳で暗殺された。


蓮田一五郎君墓表

 蓮田一五郎は、やはり桜田烈士の一人。天保四年(1833)に水戸藩属吏の家に生まれ、幼少より篤学、文筆に巧みであったという。斎藤監物と行動を共にし、国事に奔走した。桜田門外の変では負傷して老中脇坂邸に自首。熊本藩邸に拘禁された後、翌文久元年(1861)七月二十六日斬首された。年二十九。


松宇西宮宣明君 曁夫人甲藤氏之 墓

 西宮宣明(のぶあき)は、水戸藩の学者。弘道館訓導。松宇は雅号。天保十年(1839)には異本八種を校訂し、「常陸風土記」を公刊した。天保十二年(1841)から明治十五年(1882)まで「松宇日記」を残した。明治元年(1868)、新政府に出仕し、山陵調査に当たった。藩内の藤田東湖、会沢正志斎らのほか、藩外では橘守部、伴信友とも交友があった。年八十二で没。


贈正五位林五郎三郎 婦人鮎澤壽美子 墓

 林五郎三郎は、天保三年(1832)の生まれ。前藩主徳川斉昭に仕え、万延元年(1860)には弘道館舎長に選ばれた。文久二年(1862)には一橋慶喜に随従して上京。翠紅館に会合して攘夷の機運を促進した。元治元年(1864)の乱では、潮来の陣営にあって筑波勢と気脈を通じ、潮来勢を率いて那珂湊の榊原新左衛門を支援し、城兵との交戦で戦死した。年三十三。


伊大夫鮎澤君墓

 鮎澤伊大夫は、文政七年(1824)に生まれた。実兄は高橋多一郎。天保末年に鮎澤家の養子となって家督を継いだ。弘化元年、藩主徳川斉昭が幕府より処罰を受けると、雪冤運動に奔走した。このため役禄を召し上げられたが、安政元年復職した。安政五年(1858)八月、江戸の日下部伊三治宅にて薩摩の有馬新七と会見し、国事に関し意見を交わした。安政の大獄では終身禁固に処されたが、文久二年(1862)許されて帰藩。元治甲子の乱では、松平頼徳を護衛して水戸に向かったが、水戸城に籠る市川三左衛門らに入城を拒否され。城兵と交戦するに至った。その後、武田耕雲斎に属して西進したが、木曽路で別れて入京し、大徳寺に隠れた。明治元年(1868)正月、藩政回復の勅書を奉じて東下し、城下を脱走した市川三左衛門らを北越に追討した。同年十月一日、水戸城に進入しようという市川勢と弘道館に戦って戦死した。年四十五。


贈正四位孫弐郎金子君墓表

 桜田門外の変の首謀者の一人、金子孫二郎の墓である。藩の歩行目付、吟味役、奥祐筆、郡奉行などを歴任したが、弘化元年(1844)、藩主斉昭が幕府によって処分を受けると、藩政回復を計って職を免じられ、閉居処分を受けた。嘉永二年(1849)、許されて復職し、斉昭の藩政改革をよく補佐した。反射炉建造や海防強化にも尽力した。安政五年(1858)、再び斉昭が罪を得、続いて勅書問題が発生すると、高橋多一郎と謀って西国に壮士を派遣し、諸藩協力して佐幕攘夷の実行を期した。斉昭父子謹慎・閉居となり、家老安島帯刀らが処刑されるに至って、大老襲撃を決心して、暗殺を指揮した。自身は襲撃に加わらず、薩摩の有村雄助とともに品川にて待機した。一報を受け取ると、直ちに西上したが、四日市に到着したところで薩摩藩の捕吏に捕えられて伏見奉行に引き渡された。江戸に護送された後、文久元年(1860)七月、斬刑に処された。五十八歳。


従六位海後宗親(磋磯之介)墓

 海後磋磯之介(かいごさきのすけ)は、脱藩して大老井伊直弼襲撃に参加した烈士の一人。高橋多一郎、斎藤監物らに接して感化され、佐野竹之介らとも親交があった。大老襲撃後、現場を脱して大阪に向かったが、探索が厳しかったため、郷里に戻って身を隠し、更に奥州より越後に入り追捕を逃れた。文久三年(1863)尊攘派が藩政を回復すると水戸に戻った(この頃、菊池剛蔵と改名している)。明治後は警視庁に奉職し、晩年は郷里で余生を送り、七十六歳で没した。桜田門外の変に加わった中で、明治まで生き延びたのは増子金八と海後磋磯之介の二人のみである。

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水戸 常磐共有墓地 Ⅱ

2010年06月02日 | 茨城県
(常磐共有墓地 Ⅱ)


藤田小四郎墓

 父は藤田東湖。母は土岐氏。天保十三年(1842)に生まれ、性機敏にして才知に富み、書画をよくした。文久三年(1863)の藩主慶篤上京に随従して、諸藩の有志と交友を持った。攘夷の朝命が実行されないことを嘆き、自ら上京して事を謀ろうとしたが、山国兵部(喜八郎)に抑えられた。更に鳥取藩有志と東西呼応して挙兵を約したが、これも首領に仰ごうとした家老武田耕雲斎に戒められた。小四郎は町奉行田丸稲之衛門(山国兵部の実弟)を説き、遂に元治元年(1864)三月、筑波山に兵を挙げた。藩内で転戦した末に同年十二月に敦賀で加賀藩に降伏。翌二月斬罪に処された。二十四歳。


杉浦(羔二郎)家之墓

 杉浦羔二郎(こうじろう)は、文政六年(1823)の生まれ。安政五年(1858)藩の執政となった。翌年の勅書返納の際には東奔西走したが、文久元年(1860)の高輪東禅寺英国公使館襲撃事件に水戸藩士が関与していた責任を負って免職謹慎を命じられた。元治元年(1864)の天狗党の騒乱では、筑波挙兵に関わったとされて再び隠居謹慎に処された。天狗党の動乱が藩内戦となるに及び、保守派の市川三左衛門に排斥投獄され、獄中に亡くなった。四十四歳であった。


故辰之介山口君墓

 常盤共有墓地には桜田門外の変に参加した二十名のうち、十一名が眠っている。今年(平成二十二年)は桜田門外の変から百五十年目に当たる記念の年である。茨城県では今年の秋の封切を目指して「桜田門外の変」(吉村昭原作)を映画化を進めている。地元では千波湖畔に巨大なオープンセットが築かれ、大いに盛り上がっている。全国的には龍馬ブームであるが、水戸周辺に限れば局地的に「桜田門外の変ブーム」が起きているのである。私もこれに便乗して茨城県内に散在する桜田烈士の墓を訪ねることにした。

 山口辰之助も桜田烈士の一人。天保三年(1832)に生まれ、万延元年(1860)の時点で二十八歳であった。郡奉行目付等の職を務め、武術や歌道に通じた。安政六年(1859)には藩主の雪冤運動に加わって大挙して江戸に向かい、長岡駅に屯集した。桜田門外の変で重傷を負って、引き上げ途上、自刃した。


贈正五位 故醫正本間(玄調)先生墓

 本間玄調は、水戸藩の侍医。弘道館教授。天保十四年(1843)に弘道館に医学館が開設されると、その教授となった。とくに種痘の研究と普及に功績があった。この頃、多くの人命を救うという意味から「救」という通称を藩主斉昭から下賜された。はじめ医学の大家原南陽に学び、さらに長崎に出てシーボルトから蘭医学を、紀伊では華岡青洲より外科術を学んだ。内外科に関する著書を多数残した。明治五年(1872)六十九歳で死去した。


黒澤忠三郎勝算墓

 黒澤忠三郎は、やはり桜田門外の変に加わった水戸藩士の一人である。大関和七郎は実弟。安政五年(1858)の勅書回達、翌年の雪冤活動に奔走して、閉居処分を受けた。桜田門外の変では重傷を負って、老中脇坂安宅邸に自訴し、同年七月十一日、熊本藩邸で亡くなった。三十一歳。


贈正五位 大関和七郎之墓

 大関和七郎は、実兄黒澤忠三郎と行動を共にし、大老井伊直弼襲撃に参加した。事件後、江戸熊本藩邸に自訴。のちに富山藩邸に拘留され、文久元年(1861)七月、死罪に処された。年二十六。


子之次郎廣岡君之墓

 広岡子之次郎(ねのじろう)は、天保十一年(1840)に生まれた。母は黒澤勝正の娘であり、桜田烈士の黒澤忠三郎、大関和七郎とは従兄弟ということになる。嘉永三年(1850)藩士広岡則孝の養子となって家督を継いだ。原市之進に学び、剣を渡辺清左衛門、大胡律蔵に就いて修業した。桜田門外の変では重傷のため、和田倉門辰ノ口番所に至ったところで自刃した。二十一歳であった。


尼子久恒(長三郎)君墓

 尼子長三郎は、天保十二年(1841)床几廻りに選ばれ、安政二年(1855)馬廻組となる。文久元年(1861)には長州藩邸において側用人美濃部又五郎らと列席して会合を開き、ニ藩提携の途を開いた。文久三年(1863)藩主慶篤の上京に従い、諸士の間で攘夷の実行を力説奔走中、急死した。年四十六。ニ男尼子久次郎は天狗党の挙兵に参加して囚中に十九歳で落命している。

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