史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

二本松 Ⅵ

2012年10月02日 | 福島県
(少林寺)


少林寺


井上広吉墓

 井上広吉は、夫卒。若宮町の人。慶應四年(1868)、七月二十九日、二本松城郭外にて戦死。

(龍泉寺)


龍泉寺


伊右衛門墓

 農兵。下長折村の農民。慶應四年(1868)、七月二十七日、小浜村にて戦死。


利右衛門墓

 夫卒。安達郡糠沢村の人。七月二十七日、糠沢村上ノ内にて戦死。

 伊右衛門、利右衛門とも「幕末維新全殉難者名鑑」には、姓が記されていないが、龍泉寺の墓石には、両名とも高橋という姓が刻まれている。


二本松藩二名墓
(浅見主税 吉田清太夫 墓)

 浅見主税と吉田清太夫の二名の合葬墓である。
 浅見主税は、六人扶持、広間番。農兵司令士。慶應四年(1868)、七月二十九日、油井村天主館にて戦死。
 吉田清太夫は、八十石。広間番。慶應四年(1868)七月二十九日、二本松城郭外にて戦死。

(金色墓地)


朝河八太夫墓

 朝河八太夫は、五人扶持切米八両、大番。砲方。武衛流砲術師範、七月二十九日、二本松城大手前にて戦死した。
 朝河家では、ウタの先夫が天狗党討伐にさいして戦死、続いて八太夫(ウタの義父)も戊辰戦争で戦死したため、二本松藩士宗像治太夫の次男、正澄を婿として迎え朝河家を継がせた。ウタと正澄の間に生まれたのが、のちの歴史家朝河貫一博士である。朝河家の墓域中央には、朝河貫一の墓がある。

 先ごろ、福島原発事故の国会事故調査報告書において、黒川清委員長が朝河貫一博士の言を引用して、注目を集めた。以下、その一節である。
――― 日露戦争に勝利した後の日本国家のありように警鐘を鳴らす書『日本の禍機』を著し、日露戦争以後に「変われなかった」日本が進んで行くであろう道を、正確に予測していた。

 日本が日露戦争の勝利に酔い痴れているときに、ひとり冷静に日本の行く末を見ていた背景には、透徹した歴史家の眼もあったに違いない。同時に朝河博士が「賊」とされた二本松藩の出身だったことも影響していたのではないか。

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二本松 Ⅴ

2012年10月02日 | 福島県
(鏡石寺)


鏡石寺


戦死二人墓

 田子文吉と長吉という二人の二本松藩夫卒の墓である。田子文吉は、城下亀谷町の鉄砲鍛冶である。長吉も同じく亀谷町の人で、ともに七月二十九日、二本松城郭外で戦死した。

(光覚寺)


光覚寺


菱田宗吉郎墓

 菱田宗吉郎は、大垣藩士。慶應四年(1868)、七月五日、磐城白河城にて戦死した。二十歳。

(光現寺)


光現寺


松田嘉蔵墓

 松田嘉蔵は、五人扶持。徒士小頭格作事棟梁大工。慶應四年(1868)、七月二十九日、二本松城郭内で戦死。

(法輪寺)


法輪寺


安部井又之丞墓

 安部井又之丞は、安部井磐根の父。百六十石。勝手方勘定奉行、郡奉行格。慶應四年(1868)、七月二十九日、二本松城本丸跡で自刃。六十五歳。


安部井磐根墓

安部井磐根は、天保三年(1832)、安部井又之丞の長男に生まれた。名は清介。通称は惣右衛門。磐根は維新後の名である。
弘化三年(1846)十五歳のとき、父に従って江戸に出て奏者番を命じられた。国学者本居宣長に傾倒し、古事記伝全巻を書写したという。戊辰戦争では、勤王を貫き、会津・仙台藩への藩使者に随行して帰順工作に奔走した。維新後は、若松藩の少参事、権典事などを歴任し、自由民権運動にも参加した。福島県議長、初代安達郡長を務めた後、明治二十三年(1890)には帝国議会開設にともなって衆議院議員に選出された。大正五年(1916)八十四歳にて死去。


小沢幾弥墓

 小沢幾弥は、小沢左内の弟。二本松少年隊。七月二十九日、二本松城郭内にて戦死。十七歳であった。


服部数右衛門墓

 服部数右衛門墓は、六人扶持、給人格、馳走兼金払役。丹羽右近隊に属した。慶應四年(1868)、七月二十九日、二本松城郭外にて戦死。

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二本松 Ⅳ

2012年10月02日 | 福島県
(台運寺)


台運寺


別家月岡家之墓
(月岡貞之助の墓)

 月岡貞之助は、郷左衛門弟。慶應四年(1868)七月一日、白河口追原にて戦死。


平島孫左衛門墓

 平島孫左衛門は、二百五十石、先手物頭。従卒隊長であった。慶應四年(1868)、七月二十六日、小野仁井村にて負傷、のち死亡。


青山助之丞墓

 青山助之丞は、青山半蔵の弟。木村銃太郎大砲方。七月二十九日、大壇一文字石にて戦死。二十一歳。このときともに薩摩軍に斬り込んだ山岡栄治とともに、敵軍から「二勇士」と称えられた。


奥田氏代々之墓
(奥田午之助墓)

 奥田午之助は、権之助の長男。二本松少年隊の一員。七月二十九日、成田村竹ノ内にて戦死。十五歳。


上崎鉄蔵墓

 上崎鉄蔵も少年隊。上崎織衛の長男。木村銃太郎手大砲方。七月二十九日、二本松城郭内にて戦死。十六歳。
 戊辰戦争五十年忌法要で、鉄蔵の母スマは「言の葉の 耳に残るや 今朝の秋」と詠んだ。


中村久次郎墓

 中村久次郎は、中村幾馬の弟。樽井弥五左衛門隊に属した。七月二十七日、糠沢村上ノ内で戦死。

 本久寺、正慶寺、台運寺、法輪寺、大隣寺いずれも戦死した二本松藩士の墓が、実はまだまだ存在しているのだが、どうも私は二本松の寺とは相性が良くないのか、うまく見つけられなかった。「広い墓地で目当ての墓を見つける」という競技があれば、東京都の代表にくらいなれる自信はあったが、今回の二本松訪問ですっかり自信を失ってしまった。言い訳がましいが、日照りの中、墓地を歩き回るには相当の体力と根気が必要である。この日のあまりの暑さに、目標とした墓が見つけられなくても簡単にくじけてしまった。

(蓮華寺)


蓮華寺


岡山篤次郎墓

 岡山篤次郎は、岡山持二の子。木村銃太郎手大砲方。七月二十九日、二本松城郭外にて戦死。十三歳。
 岡山篤次郎は、出征に際して、戦死したときに直ぐにわかるように、母親に全ての所持品に名前を書いてもらったという。副隊長の二階堂衛守と二人で木村隊長の首を運んでいるところを、大隣寺門前で銃撃されて重傷を負った。

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二本松 Ⅲ

2012年10月02日 | 福島県
(本久寺)


本久寺


遊佐辰弥墓

 本久寺には、二本松少年隊の一人、遊佐辰弥の墓がある。遊佐辰弥は、慶應四年(1868)七月二十九日、二本松城郭外にて戦死。十三歳。

(善性寺)


善性寺


大桶勝十郎墓

 大桶勝十郎もやはり二本松少年隊の一員で、木村銃太郎手大砲方。七月二十九日、二本松城郭内新丁にて戦死。十七歳。

(顕法寺)


顕法寺


田中三治墓

 顕法寺には田中三治の墓がある。田中三治は、樽井弥五左衛門隊に属し、七月二十七日、糠沢村上ノ内の民家に宿陣しているところを薩摩藩軍に襲われて戦死。十六歳であった。

(正慶寺)


正慶寺


木村銃太郎墓

 木村銃太郎は、砲術師範木村貫治の長男で、四人扶持、広間番。大砲方。少年隊隊長として勇戦した。七月二十九日、大壇口にて戦死した。二十二歳であった。木村は左腕と腰に銃弾を受け身動きが取れなくなった。副隊長の二階堂衛守に介錯させた。少年たちは素手で土を掘って、隊長の遺体を埋めた。


鈴木内蔵墓

 鈴木内蔵は、四人扶持、広間番。遊撃隊に属した。七月二十九日二本松城郭内における戦闘で戦死。


小倉健輔墓

 小倉健輔は彦根藩士である。陣馬方取調役。九月十四日、若松城外郭にて戦死。二十七歳。


(大森此母)戦死の碑

 大森此母は、七十石。広間番。慶應四年(1868)、八月二十一日、会津石筵村母成峠にて戦死。

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二本松 Ⅱ

2012年10月02日 | 福島県
(大隣寺)


義光院達山壽雲居士
(成田才次郎墓)

 成田才次郎は、二本松少年隊に所属。成田外記右衛門の長男。木村銃太郎手大砲方。慶應四年(1868)、七月二十九日、二本松城郭内にて戦死。十三歳。長州藩小隊長白井小四郎を突き刺して討ち取ったが、その場で自身も撃たれて死亡した。


丹羽一学之墓

 丹羽一学は、文政六年(1823)に生まれた。父は、二本松家老丹羽富寿。天保五年(1834)、家督を相続し六百石を賜る。安政五年(1858)には上総富津海岸警備に就いた。元治元年(1864)には家老職となった。慶應四年(1868)四月の奥羽列藩同盟会議が白石城で開かれると、二本松藩代表として参加した。新政府軍による総攻撃を翌日に迎えた七月二十八日、恭順か徹底抗戦かで城内は激論が交わされたが、丹羽一学の「死を賭して信義を守るは武士の本懐」というひと言で抗戦が決した。一学も炎上する本丸で自刃した。四十六歳であった。

辞世

風に散る 露の我が身は いとはねど
心にかかる 君が行く末


月照院心空霊明居士
(丹羽新十郎墓)

 丹羽新十郎は、藩老丹羽石見の子、和左衛門の養子である。名は茂正。二百五十石。郡代から側用人となった。慶應四年(1868)七月二十九日、二本末城内で自刃した。四十三歳。


丹羽和左衛門弘道墓

 丹羽和左衛門は、三百石。郡代、城代、軍事奉行。民事殖産に功績があったという。戊辰戦争が起こると、和平を主張したが容れられなかった。七月二十九日、二本松城中で自刃。六十六歳。


二階堂衛守信近墓

 二階堂衛守は、六人扶持、広間番。慶應四年(1868)、七月二十九日、二本松城郭外にて戦死。二本松少年隊の副隊長であり、隊員のうちで三十三歳と最年長であった。木村銃太郎隊長を介錯したあと、岡山篤次郎とその首を運んでいるところを銃撃され、戦死した。隊長、副隊長を失った二本松少年隊は、混乱に陥り、大半が戦死することになった。

(真行寺)


福井松五郎墓

 白井小四郎の墓の両側に福井松五郎と平野梅次郎という二人の長州藩士が葬られている。
 福井松五郎は、長州藩第四大隊夫卒。萩魚棚の町人。七月二十九日、二本松にて戦死。


平野梅次郎墓

 平野梅次郎も、同じく長州藩夫卒。長府の出身。慶應四年(1868)八月、会津若松にて負傷、二本松の病院で死亡。二十四歳であった。

(観世寺)


観世寺

前回、二本松、本宮を訪ねたのは三年前の夏であった。あの時は会津若松がメイン・ターゲットであり、時間が余ったので二本松、本宮も立ち寄ったというのが正直なところで、十分な下調べもできていなかった。
最初の訪問地は、三浦権太夫の墓のある観世寺である。安達ヶ橋を渡るとすぐに観世寺の堂宇が目に入る。
観世寺は、歌舞伎や謡曲に登場する鬼婆の住まいである岩屋や出刃包丁を洗った血の池、鬼婆の墓「黒塚」などがあり、観光客も多い。地方の寺で拝観料を取られることに少々驚いた。


三浦権太夫墓

 幸いにして三浦権太夫の墓は、拝観料を払って入る必要がない場所にある。
 三浦権太夫は、天保八年(1837)に藩の勘定奉行三浦善之助の子に生まれた。幼少より学問を好み、剣術、弓馬槍術にも長じた。嘉永六年(1853)に藩主丹羽長富に出仕し、安政二年(1855)以降は藩主に扈従して前後三度にわたって江戸に上った。安政五年(1858)丹羽長国が封を継ぐと、富国強兵を説く藩政改革の意見書を提出したが、そのことで獄に繋がれることになった。獄中でも脛毛を集めて筆を作り、建白書を書いたと伝えられる。戊辰戦争では王師に抗することに反対したが受け入れられず、農兵司令として出陣した。三浦は鏃のない矢を新政府軍に射込み抵抗する意思がないことを示すと、自ら陣中で割腹して果てた。年三十二であった。

(供中口古戦場)


三浦権太夫義彰戦死の地

 前回、二本松を訪ねた際に、いくら走り回っても行き着かなかったのが、三浦権太夫戦死の地である。今回は、安達ヶ橋を歩いて昇って周囲を見回してようやく発見した。
 三浦が戦死したのは、供中(ぐちゅう)口と呼ばれる阿武隈川の西岸であった。


三浦義彰戦死處碑

 三浦権太夫については、長谷川伸「佐幕派史談」(中公文庫)に収められている「脛毛の筆」に詳しい。三浦は狩衣姿で戦場に現れ、農兵を解散して、独り壮烈な自刃を遂げた。新政府軍の兵士も勤王の士と知って深く敬意を表したと伝えられる。
 辞世

 あす散るも 色は変わらじ 山桜

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福島 Ⅱ

2012年10月02日 | 福島県
(小峠古戦場)


小峠古戦場


土湯スカイラインからの眺望

 土湯スカイラインの途中に古戦場を示す説明板が建てられている。福島市の小峠は、仙台藩を先鋒とする新政府軍が陣を構え、大峠に布陣する会津藩と対峙した古戦場である。両軍は数時間にわたって激しく大砲を撃ち合ったが、夕暮れに至っても勝敗は決せず、両軍互いに退いて終結した。土湯スカイラインからの眺めは、ただただ山が折り重なっているだけである。よくもこれほど山深い場所で攻防を繰り広げたものだと感銘を受けた。

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白石 Ⅱ

2012年10月02日 | 宮城県
(陣馬山)


明治戊辰年閏四月二十日於奥州信夫郡福島駅□□所殺年三十四
奥羽鎮撫総督参謀長州藩士世良修蔵之墓

 前回白石市を訪ねたのは、もう六年前になる。その際、世良修蔵の墓を見逃したことがずっと心残りであったが、今回、山形北部から福島、二本松、本宮の史跡を訪問するに当たって、(とても“ついで”と呼べるような位置関係ではないが)山形県金山町から白石を訪問することにした。

 世良修蔵の墓は、白石市内陣馬山という小さな丘の上に建っている。慶應四年(1868)四月十二日、福島の旅籠金沢屋に宿泊していた世良修蔵一行は寝込みを襲われ、阿武隈川河原で斬首された。世良修蔵の首級は白石市森合の月心院(現在、廃寺)に葬られたが、明治三年(1870)、現在地に改葬され、明治八年(1875)に宮城県により墓碑が建立された。

 世良修蔵の墓には、「明治戊辰年閏四月二十日於奥州信夫郡福島駅□□所殺年三十四」と刻まれている。□□の箇所は「為賊」という二文字であったと言われるが、賊と呼ばれた東北の人が、夜陰にまぎれてこの文字を削り取ったのであろう。


参謀附属長州藩士勝見善太郎
参謀附属長州藩士松野儀助 墓
参謀世良修蔵従者繁蔵

 勝見善太郎は、長州報国隊所属。十九歳であった。松野儀助は世良修蔵の従者で、大島久賀村の農民猶助の二男。十六歳。繁蔵は、世良修蔵の馬丁で、萩魚棚の町人という。いずれも福島で世良修蔵とともに捕えられ、斬殺された。


世良修蔵の墓の現状

 世良修蔵の墓前には、明治九年(1786)の明治天皇の東北巡幸に随行した木戸孝允が寄贈した石燈籠があったが、崩壊してこなごなであった。世良修蔵や従者らの墓も土台と墓石が無残にもずれてしまっている。さらに崩落の恐れもあるため、墓所の周りにはロープが張られていた。

 世良修蔵の墓と対面して呆然とするよりほかなった。東日本大震災から一年五カ月が経過して、白石市内ではほとんど震災の傷跡を実感することはないが、ここはほとんど震災直後の状態のままとなっている。マスコミでは盛んに「復興の遅れ」が指摘されているが、確かに優先して復旧すべきは被災地の住民の生活であり、史跡や墓石が崩れていようとそれに着手するのが後回しにされるのは仕方あるまい。とはいえ、貴重な史跡は、何とかして元に戻して欲しいと願うばかりである。

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