(洞月院)
菊川市加茂の洞月院に関口隆吉の顕彰碑が建てられている。

洞月院
関口隆吉は天保七年(1836)、江戸の生まれ。幕臣の子に生まれた隆吉は、幕府崩壊後、一家を挙げて、父の郷里に近い静岡県月岡村(現・菊川市月岡)で開拓に従事し、牧の原の茶園開発の功労者となった。その後、明治新政府に見出されて、山形県、山口県、静岡県の各県令を歴任し、明治十九年(1886)、初代静岡県知事に就任した。明治二十二年(1889)、鉄道事故による負傷が原因で死去。五十四歳。この石碑は、関口隆吉の数々の事績が刻まれている。洞月院が関口家の菩提寺だった関係でここに顕彰碑が建立されることになった(関口隆吉の墓は、静岡市内臨済寺に移されている)。書は勝海舟。
関口隆吉氏の碑
(長池公会堂)
織部鳬山先生之碑
長池公会堂の向い辺りに織部鳬山(ふざん)の碑がある。織部鳬山は、延享元年(1744)の生まれ。少年の頃から学問が好きで、大草太郎左衛門(榛原町)に教えを受けた。二十七歳のとき、江戸に出て澤田東江の門下で勉学に励んだ。昌平黌の教授となる一方、雉子橋内豆腐屋敷(東京丸の内)で私塾を開き、門弟は町人から旗本大名まで二千余に及んだといわれる。八十七歳のときに郷里に戻って、地元の人を教え、頼みに応じて書をかいた。渡辺崋山とも親しく、崋山も加茂の鳬山の家を訪れたことがあった。天保十二年(1841)に死去。
(沢水加宗源寺墓地)
大谷内龍五郎源幸重墓
沢水加(さばか)公会堂の裏手の崇源寺墓地に大谷内(おおやうち)龍五郎の墓がある(崇源寺は廃寺)。側面には「大賢院彰義幸重居士」という法名が刻まれている。
大谷内龍五郎は、彰義隊九番隊長。上野戦争の後、旧幕臣は大挙して静岡に移住したが、生活は困窮した。解党して新しく職を探そうというグループとそれに反対する正義派に分裂して対立した。正義派は首領として大谷内龍五郎を担いた。正義派は待遇改善を静岡藩庁に訴えたが聞き入れてもらえず、これを妨害するのは解党派の齋藤金三郎、上野岩太郎らの仕業だと信じた彼らは、齋藤と上野を斬殺した。事態の終結を図った大谷内龍五郎は、斎藤と上野の遺児に介錯させて自ら命を絶った。当時は仇討が禁じられていたので、これが最後の仇討といわれる。龍五郎三十六歳であった。
実は私は、「最後の仇討」と呼ばれる事件の現場をこれまで複数訪れている。秋月、高野山、紀伊河内国境、金沢等々。「最後の」と形容のつくものがいくつも存在しているというのは、いかにも変だが、誰も苦情をいうこともないので、こうして併存しているのである。少なくとも仇討禁止令が出たのは明治六年(1873)のことであり、明治三年(1870)の大谷内龍五郎の自刃を「最後」とするのは無理がある。
(山田家)
大谷内龍五郎が寄宿していた山田家が、宗源寺墓地に近い場所にある。今も山田家には、龍五郎の辞世などが保管されているという。
山田家