史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

相良 Ⅱ

2017年12月15日 | 静岡県
(浄心寺)


浄心寺

 浄心寺には新門辰五郎の妻の墓がある。何故、ここに辰五郎の妻の墓があるのか、よく分からないままであるが、まずは墓を探し当てることに専念しよう。
 意外とあっさりと見付けることができた。誰が置いてくれたか知れないが、墓の前に「↑ 新門の妻」というプレートがあったのである。


遊樂院妙善信女(新門辰五郎の妻の墓)

 墓石に色々と記されているので、それを解読できれば、辰五郎の妻がここに葬られた経緯なども分かると思うが、目を皿にして見ても読み取れない。

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御前崎

2017年12月15日 | 静岡県
(池宮神社)
 御前崎市佐倉の池宮神社は、敏達天皇の時代(584)に社殿が造営されたという長い歴史を持つ神社である。その後、社殿が大破するまで衰退したが、室町時代には今川氏の崇敬を受けて再興。しかし、この場所は武田氏、徳川氏の争奪戦場となり、戦火によって社殿や神宝、旧記、古門書の大部分を焼失した。江戸時代に入って徳川家の庇護を受け再興した。社殿は桜ヶ池のほとりに建てられていて、神社の境内というより、広大な公園のような空間である。


池宮神社


池宮神社
(徳川慶喜書)

 社殿に掲げられている「池宮神社」の文字は徳川慶喜の書である。

 神社の資料展示室には関口隆吉関係の文書や年譜などが展示されている。「いま甦る 幕末、維新の隠れた希代の英傑 関口隆吉」という妙に力の入ったキャッチコピーが目につく。どうして池宮神社資料展示室に関口隆吉関係資料が展示されているのか、今一つよく分からないが、非常に充実した展示となっている。


池宮神社資料展示室
(関口隆吉関係)


桜ヶ池

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菊川

2017年12月15日 | 静岡県
(洞月院)
 菊川市加茂の洞月院に関口隆吉の顕彰碑が建てられている。


洞月院

 関口隆吉は天保七年(1836)、江戸の生まれ。幕臣の子に生まれた隆吉は、幕府崩壊後、一家を挙げて、父の郷里に近い静岡県月岡村(現・菊川市月岡)で開拓に従事し、牧の原の茶園開発の功労者となった。その後、明治新政府に見出されて、山形県、山口県、静岡県の各県令を歴任し、明治十九年(1886)、初代静岡県知事に就任した。明治二十二年(1889)、鉄道事故による負傷が原因で死去。五十四歳。この石碑は、関口隆吉の数々の事績が刻まれている。洞月院が関口家の菩提寺だった関係でここに顕彰碑が建立されることになった(関口隆吉の墓は、静岡市内臨済寺に移されている)。書は勝海舟。


関口隆吉氏の碑

(長池公会堂)


織部鳬山先生之碑

 長池公会堂の向い辺りに織部鳬山(ふざん)の碑がある。織部鳬山は、延享元年(1744)の生まれ。少年の頃から学問が好きで、大草太郎左衛門(榛原町)に教えを受けた。二十七歳のとき、江戸に出て澤田東江の門下で勉学に励んだ。昌平黌の教授となる一方、雉子橋内豆腐屋敷(東京丸の内)で私塾を開き、門弟は町人から旗本大名まで二千余に及んだといわれる。八十七歳のときに郷里に戻って、地元の人を教え、頼みに応じて書をかいた。渡辺崋山とも親しく、崋山も加茂の鳬山の家を訪れたことがあった。天保十二年(1841)に死去。

(沢水加宗源寺墓地)


大谷内龍五郎源幸重墓

 沢水加(さばか)公会堂の裏手の崇源寺墓地に大谷内(おおやうち)龍五郎の墓がある(崇源寺は廃寺)。側面には「大賢院彰義幸重居士」という法名が刻まれている。
 大谷内龍五郎は、彰義隊九番隊長。上野戦争の後、旧幕臣は大挙して静岡に移住したが、生活は困窮した。解党して新しく職を探そうというグループとそれに反対する正義派に分裂して対立した。正義派は首領として大谷内龍五郎を担いた。正義派は待遇改善を静岡藩庁に訴えたが聞き入れてもらえず、これを妨害するのは解党派の齋藤金三郎、上野岩太郎らの仕業だと信じた彼らは、齋藤と上野を斬殺した。事態の終結を図った大谷内龍五郎は、斎藤と上野の遺児に介錯させて自ら命を絶った。当時は仇討が禁じられていたので、これが最後の仇討といわれる。龍五郎三十六歳であった。

実は私は、「最後の仇討」と呼ばれる事件の現場をこれまで複数訪れている。秋月、高野山、紀伊河内国境、金沢等々。「最後の」と形容のつくものがいくつも存在しているというのは、いかにも変だが、誰も苦情をいうこともないので、こうして併存しているのである。少なくとも仇討禁止令が出たのは明治六年(1873)のことであり、明治三年(1870)の大谷内龍五郎の自刃を「最後」とするのは無理がある。

(山田家)
 大谷内龍五郎が寄宿していた山田家が、宗源寺墓地に近い場所にある。今も山田家には、龍五郎の辞世などが保管されているという。


山田家
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掛川 Ⅱ

2017年12月10日 | 静岡県
(横須賀城)


横須賀城


横須賀城址

 掛川市西大渕の横須賀城は、横須賀藩三万五千石の城である。城主は大須賀氏のほか、渡瀬氏、有馬氏、能見氏、井上氏などが入れ替わったが、天和二年(1682)に西尾氏が封じられて以降、幕末まで続いた。幕末の藩主は西尾忠篤。鳥羽伏見戦後、最後まで藩論は決しなかったが、東海道鎮撫軍が東上するに及び恭順と決した。徳川家の駿府移封に伴い、安房花房に転封された。

 横須賀城は全国的にはまったく無名な城であるが、予想外に見事な石積みに出会えて、大いに満足した。

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2017年12月10日 | 静岡県
(大洞院)


大洞院


侠客石松之墓(左) 清水次郎長翁碑(右)

 森町は、次郎長の子分として有名な「森の石松」の出身地である。橘の大洞院は、奥まった山の中にある静かな寺院である。その駐車場の脇に石松の墓がある。
 この墓は、昭和五十四年(1979)に再建された三代目のものである。最初にこの付近(御影井戸)に石松の墓が建てられたのは昭和十年(1935)のことであった。昭和二十八年(1953)には清水次郎長翁碑も建立されたが、その頃より「商売繁盛」「勝負運がつく」という風評が流れ、墓石が削られ始め、次第に墓に書かれた文字が消えて、丈も低くなる始末であった。そこで昭和五十二年(1977)二代目の墓が建てられたが、その二年後に墓石ごと盗難に遭い、昭和五十四年(1979)現存する三代目のものが建立されたのである。

(天宮神社)


天宮神社


森の石松ゆかりの地

 天宮神社境内に「森の石松ゆかりの地」と記された石碑がある。天宮神社と石松の関係は不詳ながら、隣接する新屋旅館は、石松が子供の頃起居した養家であり、当然ながら天宮神社も遊び場となったであろう。

(新屋旅館)


新屋旅館

 森の石松は、七歳から十四歳の間、ここで過ごした。石松の手になるという刀痕が残っているそうである。
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浜松 引佐

2017年12月10日 | 静岡県
(井伊谷城跡)
 井伊谷城は、井伊氏が築いた山城である。山頂の標高は115メートルで、麓に自動車を置いて急な坂を登ると汗が噴き出る。城郭などは見られないが、防御のために築かれた土塁の跡を確認することができる。


井伊谷城跡


城山から井伊谷の街を見下ろす


(龍潭寺)
 今年の大河ドラマは「おんな城主 直虎」である。幕末明治期を外れると、途端に興味が失せてしまう私は、もちろん今年の大河ドラマを一回も見ていないが、ドラマの舞台となっている井伊谷(浜松市北区引佐町井伊谷)がブームとなっていることは容易に想像できた。大河ドラマで取り上げられる以前から、井伊家所縁のこの土地を訪ねて見たいと思っていたが、今回浜松を起点として県西部の史跡を巡るにあたって、井伊谷アタックを敢行することにした。覚悟はしていたが、予想以上の人出であった。特に龍潭寺は、順路を前に進めないほどの混雑であった。やはり大河ドラマの宣伝効果は絶大である。大河ドラマと関係なく、史跡を見て回りたいというだけの人間にしてみれば、この混雑は迷惑この上ない。大いに時間をロスすることになった。
 龍潭寺は、井伊家の菩提寺である。御霊屋に井伊家歴代の位牌が安置されているほか、墓地には初代共保、二十二代井伊直盛、二十三代直親、二十四代直政らの墓がある。


龍潭寺


龍潭寺庭園

小堀遠州作と伝わる龍潭寺の庭園は、江戸時代初期に築かれたといわれる。中央に守護石、左右に仁王石、正面に礼拝石(坐禅石)が配され、更に池の型が心字池となっていて寺院庭園として代表的な庭となっている。数多くの石組みと築山全体で鶴亀が表現されているという。


御霊屋
(井伊家歴代の位牌)


井伊家歴代の墓

 初代共保(1010~1093)らの墓である。なお井伊直虎(次郎法師)の墓は、左手四基並ぶ墓のうち、奥から二番目のものである。

(井伊共保公出生の井戸)


井伊共保公出生の井戸

 初代井伊共保が生まれたとされる場所で、井戸が残されている。田圃の中に白壁で囲まれている。井伊氏にまつわる聖地として、歴代当主が厚く尊崇していた。井伊氏の家紋は橘であるが、旗幕には「井」印を用いた。井伊直弼もこの地を訪れ、歌を残している。その歌を刻んだ歌碑が置かれている。

 王(わ)き以(い)徒(つ)る岩井の水能(の)そこ清ミ くもり那(な)き世乃影そ見えつゝ


井伊直弼歌碑

 この狭い空間にもたくさんの観光客が訪れていた。頭を下げて歌碑の前を空けてもらい、何とか一枚撮影させてもらえた。

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浜松 Ⅱ

2017年12月10日 | 静岡県
(西來院)


西來院

 毎月数回沼津事業所に足を運んでいるが、今回沼津行きが金曜日に当たったため、駅前で開かれた懇親会に出席した後、各駅停車で浜松に向かうことにした。各駅停車で沼津から浜松まで二時間以上もかかる。急ぐ旅でもないし…と言ってみたものの、さすがに二時間は長かった。
 夜中に雨が降ったようであるが、朝には止んでいた。この日は、静岡県西部を自動車で回る。冬の日は短い。効率よく回らなければならない。もちろん、昼食など取っているヒマはない。

 この日の最初の目的地は、浜松市広沢の住宅街にある西來院である。墓地には、戦国時代の悲劇の女性、築山御前の墓がある。築山御前は、松平元信と称した時代の徳川家康の妻で、長男信康、長女亀姫を生んだ。同盟関係にあった織田信長から謀反の疑いをかけられ、天正七年(1579)、長男信康とともに殺害された。行年三十八。家康はこれを哀れみ、懇ろにこの地に葬らせた。


築山御前の墓
(法名:清池院殿潭月秋天大禅定法尼)

 私の目当ては、築山御前の墓ではない。会津藩士北原雅長の墓がここにある。


北原雅長墓

 北原雅長は、天保十三年(1842)、会津藩家老神保内蔵助の次男(兄は神保修理)に生まれ、のちに北原家を継いだ。戊辰戦後には萱野権兵衛の自刃に立ちあった。後に長崎県吏となり、日下義雄長崎県知事に見いだされ、明治二十二年(1889)初代長崎市長となった。東京下谷区長を務めた後引退。その後は浜松で和歌に親しみ、大正二年(1913)七十二歳で没。京都守護職時代の会津藩の動向を記した「七年史」を残した。

(大聖寺)
 中区幸四丁目の大聖寺もやはり住宅に囲まれた場所にある。この墓地に清水次郎長の子分、小政(本名山本政五郎)の墓がある。


大聖寺

 小政は、浜松に生まれ、十一歳から次郎長が預かって育てた、生粋の子飼いの子分である。次郎長の教育の結果、「剽悍殺伐」と称されるほど、素早くしかも平然と人を殺す一匹狼に成長した。修羅場の次郎長を助けたが、次第に一家の秩序をはみ出し、暴走して重荷になっていく。「大政・小政」と並び称される大政は、組織のオルガナイザーであり、参謀といった円満さを備えるが、小政は激すると何をするか分からないという恐さがあった。


山本政五郎墓

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五日市

2017年12月02日 | 東京都
(五日市会館)
 五日市は、かつて五日市町として独立した自治体であったが、秋川市と合併してあきるの市の一部となった。昔の五日市町役場(現・あきの市役所出張所)、五日市会館の前(五日市中学敷地内)に五日市憲法草案之碑が建てられている(あきる野市五日市409‐2)。


五日市憲法草案之碑

 五日市憲法草案というのは、明治十四年(1881)に深沢権八を中心とする五日市学芸講談会の有志と、宮城県栗原郡白幡村(現・栗原市志波姫)に生まれ、五日市勧能学校の教師としてこの地を訪れていた千葉卓三郎が中心となって起草した私擬憲法草案のことである。昭和四十三年(1968)、当時東京経済大学教授であった色川大吉氏らによって、近くの深沢家の土蔵から発見された。この草案が起草されたのは、大日本帝国憲法制定の約十年も前のことであるが、司法・立法、行政の三権分立が明確に規定され、国民の権利に多くの条文がさかれているなど、自由民権思想に影響を受けた民主的な内容となっている。
 この石碑は、先人の偉業を顕彰し、後世の人々に知ってもらうため、昭和五十四年(1979)に建立されたものである。同主旨のものが、千葉卓三郎の生地と墓所(仙台市)の三ヶ所に同時に建てられたという。

(まいまい坂)


まいまい坂

 五日市から青梅に通じる古道を青梅道という。まいまい坂は、小机平から急坂を下り、三内川に至る坂道のことで、かたつむり(まいまい)の殻に似て、曲がりくねっていることからまいまい坂と名付けられたと伝えられる(あきる野市三内329付近)。
 慶応二年(1866)六月、名栗村(現・埼玉県)正覚寺で蜂起した十数万人の世直し一揆の一部隊は、この坂を経由し五日市を目指した。五日市側では、まいまい坂を防衛線として鉄砲と竹槍で武装した約九百の農兵隊を小倉台地上に配置し、一揆勢を待ち受けた。六月十七日未明、ほら貝を吹き鳴らして突入する一揆勢に対し、農兵隊は鉄砲の一斉射撃と竹槍部隊により反撃し、二時間に及ぶ攻防の結果、一揆勢は死者二名、怪我人二十一人、召捕り二十一人を出して敗退した。

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護国寺 Ⅵ

2017年12月02日 | 東京都
(護国寺つづき)
 護国寺は松平不昧(治郷)をはじめとして、茶を好んだ数寄者の墓が多い。小雨のそぼ降る中、護国寺境内を歩いた。


除闇


石燈籠

 不老門を入って右側に、石灯籠が集められた一角がある。実業家として名を成し、引退後は茶人として数寄者としても有名になった高橋義雄(箏庵)は、奈良の三月堂、元興寺、栄山寺など名物の模造石灯籠二十基を護国寺境内に寄進した。箏庵は、親交のあった西園寺公望に揮毫を依頼し、石灯籠の前に碑を建てた。建碑は大正十二年(1923)。


紀念碑

 「紀念碑」とだけ記されているが、西南戦争に従軍した東京警視隊の戦死者二十人を慰霊するために明治十三年(1880)に建立されたものである。題額は伏見宮嘉彰親王。撰文幷書は中村正直。


箏庵居士墓(高橋義雄墓)

 高橋義雄は、近代の茶の湯を代表する茶人である。号は箏庵といった。文久元年(1861)、水戸藩士高橋常彦の四男に生まれ、水戸の私塾自彊舎に学び、明治十四年(1881)、福沢諭吉が時事新報の記者を要請するために特待の塾生を募集したのに応じて慶應義塾に学んだ。翌年、時事新報の記者となったが、記者生活に満足せず、米英に外遊した。帰国後、井上馨の推薦で三井銀行に入社。その後、三井呉服店、三井鉱山などに勤務し、三越百貨店の誕生にも貢献するなど、実業界で地位を築いた。三井合名会社の理事となったが、明治四十四年(1911)、五十一歳のときに隠退し、余生を趣味である茶の湯に生きた。箏庵が茶の湯を始めたのは、三井銀行入行の翌年で、折しも文明開化に飽きた人々が日本古来の文化に興味を持ち始め、茶の湯の担い手もこれまでの政府高官から町人から財界人に移っていった時期に当たる。井上馨や三井物産社長の益田孝(鈍翁)、日本麦酒社長の馬越恭平(化生)らとともに、型にはまらない自由闊達な茶の湯を賛美した。昭和十二年(1937)、七十七歳で没。


松平不昧(治郷)の墓

 松平治郷は、出雲松江藩七代藩主。江戸時代を代表する大名茶人である。号は不昧。茶風は「不昧流」として現代まで続いている。天徳寺にあった松平治郷の墓を、国元に改葬するという話を聞きつけた高橋義雄が、当時の松平家当主を説いて護国寺に移設することを実現したという挿話が伝わる。

 箏庵の墓の近くに黒い扉で閉ざされた墓所がある。安田善次郎の墓である。


安田家墓所


安田氏累代墓
(安田善次郎墓)

 安田善次郎は天保九年(1838)、富山生まれ。行商・商店奉公等を経て、元治元年(1864)、両替商を開業。安田銀行(のちに富士銀行)、帝国海上保険(のちの安田火災海上保険、現・損保ジャパン)等を擁する安田財閥を築いた。明治十五年(1882)、日銀創立に関わり理事に就任。大正十年(1921)、大磯の別荘で国家主義者朝日平吾により刺殺された。東大安田講堂などを寄付したことでも知られる。

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