(八柱霊園)
JR武蔵野線東松戸駅から徒歩十分。都立八柱霊園は、敷地面積一平方キロメートル、東京ドーム二十個分という途方もない広さを持つ霊園である。
5区1種5側13番に柔道家嘉納治五郎の墓がある。治五郎の実家は摂津御影村で酒造・廻船業を営んでいた。父治朗作は、幕府廻船方御用達を務め、和田岬砲台の建造を請け負い、勝海舟を経済的に支援したことで知られる。明治新政府に招聘されて上京。治五郎もこれに従って東京に上り、東京大学に入学。のちに柔道を極め、講道館を開いて柔道の普及に尽くした。明治四十二年(1909)には東洋初の国際オリンピック委員会委員にも就いた。昭和十三年(1938)、エジプト・カイロでの国際オリンピック総会帰国途上の船内で肺炎にて死去。七十七歳。
嘉納治五郎之墓
頌徳碑
傍らの頌徳碑は、正二位大勲位公爵西園寺公望の題額。撰文は文学博士諸橋轍次(『大漢和辞典』編者)。
広大な八柱霊園の西の端に近い場所に、谷中霊園の無縁墓がある。かつてここに坂本龍馬の許嫁(いいなずけ)として有名な千葉佐那子が眠っていた。千葉佐那子は、明治二十九年(1896)、五十九歳で亡くなったが、妹はまの夫熊木庄之助の名で谷中霊園に埋葬された。その後、佐那子の墓は無縁となり、谷中霊園の整理に伴って、八柱霊園の無縁墓に合葬された。昨年(平成二十八年(2016))八月、熊木庄之助の子孫に当たる方が、没後一二〇年を機に、練馬区の仁寿院に改葬した。
谷中霊園無縁墓
(千本浜公園)
沼津公園
千本浜公園入口に建つ石柱である。西園寺公望の書。この公園は明治四十年(1907)に開園されたが、この頃、西園寺公望はしばしば千本浜の仙松閣ホテルに滞在しており、別荘も建てようとしていた(用地まで取得していたが、最終的に取りやめている)。付近は沼津御用邸もあり、別荘地として栄えた場所であった。
間宮喜十郎頌徳碑
千本浜公園には、文学碑や顕彰碑が多数建立されているが、その中の一つ。篆額は西園寺公望。公望六十二歳の作。間宮喜十郎は、慶應義塾出身の教育者。明治初期の沼津の教育に貢献した人物である。碑文は明治四十三年(1910)に書かれ、明治四十四年(1911)に建立されている。
沼津公園
千本浜公園入口に建つ石柱である。西園寺公望の書。この公園は明治四十年(1907)に開園されたが、この頃、西園寺公望はしばしば千本浜の仙松閣ホテルに滞在しており、別荘も建てようとしていた(用地まで取得していたが、最終的に取りやめている)。付近は沼津御用邸もあり、別荘地として栄えた場所であった。
間宮喜十郎頌徳碑
千本浜公園には、文学碑や顕彰碑が多数建立されているが、その中の一つ。篆額は西園寺公望。公望六十二歳の作。間宮喜十郎は、慶應義塾出身の教育者。明治初期の沼津の教育に貢献した人物である。碑文は明治四十三年(1910)に書かれ、明治四十四年(1911)に建立されている。
(安楽寺)
青梅市成木1‐583の安楽寺は、青梅市でもかなり外れ、埼玉県飯能市寄りの山間の集落の中にある。
安楽寺
安楽寺墓地に慶応二年(1866)の武州世直し一揆の首謀者の一人、中村喜左衛門の墓がある。
中村喜左衛門は、通称を惣五郎といったことから、「悪惣」とも呼ばれた。喜左衛門は、村で組頭をしており、人望の厚い人物だったようである。喜左衛門は、名栗村の島田紋次郎と出会い、示し合わせて蜂起し、青梅、新町そして長岡新町の清水弥平次宅を襲った。一揆終結の後、江戸送りとなり、中追放という判決を受け、所持していた田畑屋敷も取り上げられた。喜左衛門は明治三年(1870)、九月十九日没。墓石に並んで法名が刻まれている妻ときは、夫に先立って慶應三年(1867)四月に没している。安楽寺は広い墓地を持つ。この中から喜左衛門の墓を探すのはなかなか骨がおれた。墓地には中村家の墓が複数あるが、西村家の墓域の一隅にある。
光喜動了信士(中村喜左衛門の墓)
このところ世直し一揆が気になっている。幕末から明治初年にかけて、全国的に一揆またはうちこわしが頻発した。一揆のほとんどは生活苦の改善や徴兵や徴税に反対するものであったが、いずれも短期間で鎮圧され、首謀者は処刑・投獄されて終わっている。いわゆる「正史」で取り上げられることは少ないが、中央の政局にどのような影響があったのだろうか。
青梅市成木1‐583の安楽寺は、青梅市でもかなり外れ、埼玉県飯能市寄りの山間の集落の中にある。
安楽寺
安楽寺墓地に慶応二年(1866)の武州世直し一揆の首謀者の一人、中村喜左衛門の墓がある。
中村喜左衛門は、通称を惣五郎といったことから、「悪惣」とも呼ばれた。喜左衛門は、村で組頭をしており、人望の厚い人物だったようである。喜左衛門は、名栗村の島田紋次郎と出会い、示し合わせて蜂起し、青梅、新町そして長岡新町の清水弥平次宅を襲った。一揆終結の後、江戸送りとなり、中追放という判決を受け、所持していた田畑屋敷も取り上げられた。喜左衛門は明治三年(1870)、九月十九日没。墓石に並んで法名が刻まれている妻ときは、夫に先立って慶應三年(1867)四月に没している。安楽寺は広い墓地を持つ。この中から喜左衛門の墓を探すのはなかなか骨がおれた。墓地には中村家の墓が複数あるが、西村家の墓域の一隅にある。
光喜動了信士(中村喜左衛門の墓)
このところ世直し一揆が気になっている。幕末から明治初年にかけて、全国的に一揆またはうちこわしが頻発した。一揆のほとんどは生活苦の改善や徴兵や徴税に反対するものであったが、いずれも短期間で鎮圧され、首謀者は処刑・投獄されて終わっている。いわゆる「正史」で取り上げられることは少ないが、中央の政局にどのような影響があったのだろうか。
(上名栗)
飯能市上名栗の正覚寺は、慶應二年(1866)の武州世直し一揆の際、この寺で蜂起したことで歴史に記録されることになった。周囲には何もない、山奥の静かな寒村である。
近くにこの一揆を指導した、島田紋次郎、新井豊五郎の墓もあるらしいが、少し歩き回ったくらいでは見つけることはできなかった。
正覚寺
飯能市上名栗の正覚寺は、慶應二年(1866)の武州世直し一揆の際、この寺で蜂起したことで歴史に記録されることになった。周囲には何もない、山奥の静かな寒村である。
近くにこの一揆を指導した、島田紋次郎、新井豊五郎の墓もあるらしいが、少し歩き回ったくらいでは見つけることはできなかった。
正覚寺