史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

掛川 Ⅱ

2017年12月10日 | 静岡県
(横須賀城)


横須賀城


横須賀城址

 掛川市西大渕の横須賀城は、横須賀藩三万五千石の城である。城主は大須賀氏のほか、渡瀬氏、有馬氏、能見氏、井上氏などが入れ替わったが、天和二年(1682)に西尾氏が封じられて以降、幕末まで続いた。幕末の藩主は西尾忠篤。鳥羽伏見戦後、最後まで藩論は決しなかったが、東海道鎮撫軍が東上するに及び恭順と決した。徳川家の駿府移封に伴い、安房花房に転封された。

 横須賀城は全国的にはまったく無名な城であるが、予想外に見事な石積みに出会えて、大いに満足した。

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2017年12月10日 | 静岡県
(大洞院)


大洞院


侠客石松之墓(左) 清水次郎長翁碑(右)

 森町は、次郎長の子分として有名な「森の石松」の出身地である。橘の大洞院は、奥まった山の中にある静かな寺院である。その駐車場の脇に石松の墓がある。
 この墓は、昭和五十四年(1979)に再建された三代目のものである。最初にこの付近(御影井戸)に石松の墓が建てられたのは昭和十年(1935)のことであった。昭和二十八年(1953)には清水次郎長翁碑も建立されたが、その頃より「商売繁盛」「勝負運がつく」という風評が流れ、墓石が削られ始め、次第に墓に書かれた文字が消えて、丈も低くなる始末であった。そこで昭和五十二年(1977)二代目の墓が建てられたが、その二年後に墓石ごと盗難に遭い、昭和五十四年(1979)現存する三代目のものが建立されたのである。

(天宮神社)


天宮神社


森の石松ゆかりの地

 天宮神社境内に「森の石松ゆかりの地」と記された石碑がある。天宮神社と石松の関係は不詳ながら、隣接する新屋旅館は、石松が子供の頃起居した養家であり、当然ながら天宮神社も遊び場となったであろう。

(新屋旅館)


新屋旅館

 森の石松は、七歳から十四歳の間、ここで過ごした。石松の手になるという刀痕が残っているそうである。
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浜松 引佐

2017年12月10日 | 静岡県
(井伊谷城跡)
 井伊谷城は、井伊氏が築いた山城である。山頂の標高は115メートルで、麓に自動車を置いて急な坂を登ると汗が噴き出る。城郭などは見られないが、防御のために築かれた土塁の跡を確認することができる。


井伊谷城跡


城山から井伊谷の街を見下ろす


(龍潭寺)
 今年の大河ドラマは「おんな城主 直虎」である。幕末明治期を外れると、途端に興味が失せてしまう私は、もちろん今年の大河ドラマを一回も見ていないが、ドラマの舞台となっている井伊谷(浜松市北区引佐町井伊谷)がブームとなっていることは容易に想像できた。大河ドラマで取り上げられる以前から、井伊家所縁のこの土地を訪ねて見たいと思っていたが、今回浜松を起点として県西部の史跡を巡るにあたって、井伊谷アタックを敢行することにした。覚悟はしていたが、予想以上の人出であった。特に龍潭寺は、順路を前に進めないほどの混雑であった。やはり大河ドラマの宣伝効果は絶大である。大河ドラマと関係なく、史跡を見て回りたいというだけの人間にしてみれば、この混雑は迷惑この上ない。大いに時間をロスすることになった。
 龍潭寺は、井伊家の菩提寺である。御霊屋に井伊家歴代の位牌が安置されているほか、墓地には初代共保、二十二代井伊直盛、二十三代直親、二十四代直政らの墓がある。


龍潭寺


龍潭寺庭園

小堀遠州作と伝わる龍潭寺の庭園は、江戸時代初期に築かれたといわれる。中央に守護石、左右に仁王石、正面に礼拝石(坐禅石)が配され、更に池の型が心字池となっていて寺院庭園として代表的な庭となっている。数多くの石組みと築山全体で鶴亀が表現されているという。


御霊屋
(井伊家歴代の位牌)


井伊家歴代の墓

 初代共保(1010~1093)らの墓である。なお井伊直虎(次郎法師)の墓は、左手四基並ぶ墓のうち、奥から二番目のものである。

(井伊共保公出生の井戸)


井伊共保公出生の井戸

 初代井伊共保が生まれたとされる場所で、井戸が残されている。田圃の中に白壁で囲まれている。井伊氏にまつわる聖地として、歴代当主が厚く尊崇していた。井伊氏の家紋は橘であるが、旗幕には「井」印を用いた。井伊直弼もこの地を訪れ、歌を残している。その歌を刻んだ歌碑が置かれている。

 王(わ)き以(い)徒(つ)る岩井の水能(の)そこ清ミ くもり那(な)き世乃影そ見えつゝ


井伊直弼歌碑

 この狭い空間にもたくさんの観光客が訪れていた。頭を下げて歌碑の前を空けてもらい、何とか一枚撮影させてもらえた。

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浜松 Ⅱ

2017年12月10日 | 静岡県
(西來院)


西來院

 毎月数回沼津事業所に足を運んでいるが、今回沼津行きが金曜日に当たったため、駅前で開かれた懇親会に出席した後、各駅停車で浜松に向かうことにした。各駅停車で沼津から浜松まで二時間以上もかかる。急ぐ旅でもないし…と言ってみたものの、さすがに二時間は長かった。
 夜中に雨が降ったようであるが、朝には止んでいた。この日は、静岡県西部を自動車で回る。冬の日は短い。効率よく回らなければならない。もちろん、昼食など取っているヒマはない。

 この日の最初の目的地は、浜松市広沢の住宅街にある西來院である。墓地には、戦国時代の悲劇の女性、築山御前の墓がある。築山御前は、松平元信と称した時代の徳川家康の妻で、長男信康、長女亀姫を生んだ。同盟関係にあった織田信長から謀反の疑いをかけられ、天正七年(1579)、長男信康とともに殺害された。行年三十八。家康はこれを哀れみ、懇ろにこの地に葬らせた。


築山御前の墓
(法名:清池院殿潭月秋天大禅定法尼)

 私の目当ては、築山御前の墓ではない。会津藩士北原雅長の墓がここにある。


北原雅長墓

 北原雅長は、天保十三年(1842)、会津藩家老神保内蔵助の次男(兄は神保修理)に生まれ、のちに北原家を継いだ。戊辰戦後には萱野権兵衛の自刃に立ちあった。後に長崎県吏となり、日下義雄長崎県知事に見いだされ、明治二十二年(1889)初代長崎市長となった。東京下谷区長を務めた後引退。その後は浜松で和歌に親しみ、大正二年(1913)七十二歳で没。京都守護職時代の会津藩の動向を記した「七年史」を残した。

(大聖寺)
 中区幸四丁目の大聖寺もやはり住宅に囲まれた場所にある。この墓地に清水次郎長の子分、小政(本名山本政五郎)の墓がある。


大聖寺

 小政は、浜松に生まれ、十一歳から次郎長が預かって育てた、生粋の子飼いの子分である。次郎長の教育の結果、「剽悍殺伐」と称されるほど、素早くしかも平然と人を殺す一匹狼に成長した。修羅場の次郎長を助けたが、次第に一家の秩序をはみ出し、暴走して重荷になっていく。「大政・小政」と並び称される大政は、組織のオルガナイザーであり、参謀といった円満さを備えるが、小政は激すると何をするか分からないという恐さがあった。


山本政五郎墓

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