(松樹院)

松樹院
故駿府城代信濃守松平君之墓
松樹院の門前から北に十メートルほど行った角を右折して坂を上ったところに松平忠明の墓がある。
松平忠明は、豊後岡藩主の二男に生まれ、旗本松平家の養子となった。寛政十年(1798)、幕府の命を受け蝦夷地の奥地まで探索した。享和二年(1802)、駿府城代に就任。火災により粗末な仮宮のままであった静岡浅間神社の再建に尽くしたが、その途中の文化二年(1805)死去。駿府の人々は、「有り難いご城代さん」と呼んでいた。自分が死んだら、浅間神社の木遣りの音頭の聞こえるところに葬って欲しいとの遺言に従って、この地に墓が作られた。
(山岡鉄舟邸址)
山岡鉄舟邸址を探してこの付近を歩き回っていて、一人の老人と目が合った。在り処を尋ねると、
「二本目の筋を左に折れたところにある」
と教えていただいた。何のことはない。自分が自動車を駐車した目の前にあった。
山岡鉄舟邸址

山岡鉄舟邸址
山岡鉄舟は、明治元年(1868)、駿府藩若年寄格幹事役に付くと、翌明治二年(1869)には静岡藩権大参事として、この場所に住み旧幕臣の無禄移住者の生計確保のために奔走した。城下の治安維持にも努めるなど、八面六臂の活躍であった。さらに殖産興業にも意を尽くし、牧之原大茶園や清水次郎長の富士裾野開拓を後押しした。明治五年(1872)、西郷隆盛らの強い要請を受け、十年間という期限を切って明治天皇の侍従となり、青年天皇の人格形成に大きな影響を与えた。
山岡鉄舟邸址碑は、説明書きのある場所から北寄りの歩道上に再建されている。

松樹院

故駿府城代信濃守松平君之墓
松樹院の門前から北に十メートルほど行った角を右折して坂を上ったところに松平忠明の墓がある。
松平忠明は、豊後岡藩主の二男に生まれ、旗本松平家の養子となった。寛政十年(1798)、幕府の命を受け蝦夷地の奥地まで探索した。享和二年(1802)、駿府城代に就任。火災により粗末な仮宮のままであった静岡浅間神社の再建に尽くしたが、その途中の文化二年(1805)死去。駿府の人々は、「有り難いご城代さん」と呼んでいた。自分が死んだら、浅間神社の木遣りの音頭の聞こえるところに葬って欲しいとの遺言に従って、この地に墓が作られた。
(山岡鉄舟邸址)
山岡鉄舟邸址を探してこの付近を歩き回っていて、一人の老人と目が合った。在り処を尋ねると、
「二本目の筋を左に折れたところにある」
と教えていただいた。何のことはない。自分が自動車を駐車した目の前にあった。

山岡鉄舟邸址

山岡鉄舟邸址
山岡鉄舟は、明治元年(1868)、駿府藩若年寄格幹事役に付くと、翌明治二年(1869)には静岡藩権大参事として、この場所に住み旧幕臣の無禄移住者の生計確保のために奔走した。城下の治安維持にも努めるなど、八面六臂の活躍であった。さらに殖産興業にも意を尽くし、牧之原大茶園や清水次郎長の富士裾野開拓を後押しした。明治五年(1872)、西郷隆盛らの強い要請を受け、十年間という期限を切って明治天皇の侍従となり、青年天皇の人格形成に大きな影響を与えた。
山岡鉄舟邸址碑は、説明書きのある場所から北寄りの歩道上に再建されている。