(山手町99番地)
山手の谷戸坂上一帯は、幕末から明治にかけてイギリスとフランスの軍隊駐屯地となっていた。両国は文久三年(1863)に居留民の保護を目的として山手に軍隊を派遣した。港の見える丘公園からゲーテ座、横浜山手聖教会の一帯に英軍がフランス山地区に、フランス軍が駐屯していた。
山手の移り変わり
山手のブラフ積み
山手町99番地は、明治四年(1871)、アメリカ海軍病院用地として貸与された。明治後期には近代的な病院に建て替えられたが、大正十二年(1923)の関東大震災により倒壊し、昭和二年(1927)、病院跡地に神奈川県測候所(現・横浜地方気象台)が建設された。
外国人が居留した山手地区は絶壁状の地形だったことから、ブラフ(bluff)と呼ばれていた。造成の際の石積みはブラフ積みと呼ばれ、今も山手地区のみならず横浜市内から横須賀や東京でも見られる。
(岩崎博物館)
岩崎博物館
明治十八年(1885)四月、この地に居竜外国人のための劇場「パブリック・ホール」が開場した。アマチュア劇団の芝居や音楽会等様々な催し物が行われた。設計は、フランス人ポール=ピエール・サルダによるもので、建坪270坪、地上二階、地下一階の赤レンガ造りであった。明治四十一年(1908)十一月、ゲーテ座と改名した。やはり大正十二年(1923)の関東大震災で倒壊したが、それまで外国人の社交場としての役割を果たした。
ゲーテ座跡
もともとゲーテ座は明治三年(1870)十二月にオランダ人M・J・B・ノールトフーク=ヘフトが設立したゲーテ座がその前身で、英語のThe Gaiety Theatreが訛ったものである。Gaietyとは英語で陽気とか快活という意味で、文豪ゲーテとは無関係なのである。
(横浜ユニオン教会)
捜真学院発祥の碑
現在、神奈川区中丸に校舎を有する捜真女学校は、アメリカ人宣教師シャーロット・ブラウンにより山手67番地の聖書印刷所で誕生したキリスト教学校である。シャーロットの夫ネイサン・ブラウンも、宣教師であった。明治二十四年(1891)、山手34番地に、明治四十三年(1910)に現在地に移転した。
(フェリス女学院)
フェリス女学院は、アメリカ人宣教師メアリー・E・キダーが明治三年(1870)に創立した学校である。開校当初は「キダーさんの学校」と呼ばれていたが、明治八年(1875)、校舎を新築したとき、米国改革派教会外国伝道局総主事父子の名を記念して「フェリス・セミナリー」と名づけられ、その後、フェリス和英女学校、横浜山手女学院と改名し、昭和二十五年(1950)、再びフェリス女学院と改称して今日に至っている。
フェリス女学院フェリスホール
この場所は、明治七年(1874)十二月九日、メキシコ観測隊ならびに日本水路寮の海軍中尉吉田重親らにより、金星の太陽面経過観測に成功した場所でもある。