史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

茅場町 Ⅲ

2020年10月10日 | 東京都

(相鉄フレッサイン日本橋茅場町)

 

電燈供給発祥の地

 

 明治二十年(1887)、十一月二十一日、東京電燈会社がこの地に我が国初の発電所を建設し、同月二十九日から付近の日本郵船会社、今村銀行、東京郵便局などの顧客に向けて伝統の供給を開始した。これは我が国における配電線により最初の電燈供給であった(中央区日本橋茅場町1-3-10)。

 

 

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日本橋 Ⅳ

2020年10月10日 | 東京都

(みずほ銀行兜町支店)

 

銀行発祥の地

 

みずほ銀行兜町支店(中央区兜町4‐3)の門前に、銀行発祥の地を示すレリーフがはめこまれている。明治六年(1873)六月十一日、我が国最初の銀行である第一国立銀行がこの地に創立された。建物は「三井組ハウス」と呼ばれた和洋折衷の五階建てのもので、その姿がレリーフに描かれている。みずほ銀行の前身は、第一勧業銀行と富士銀行と日本興業銀行であるが、さらに遡れば、第一勧業銀行は第一銀行と日本勧業銀行が合併したもの。第一銀行は創立当初第一国立銀行と称していたが、明治二十九年(1896)に改称したものである。

 

銀行発祥の地(渋沢栄一と建物の歴史)

 

 日本銀行発祥の地のレリーフのあるみずほ銀行兜町支店の西側の壁にこの場所にあった建物の歴史がパネル展示されている。最初のパネルには渋沢栄一の大きな肖像が掲載され、渋沢栄一が中心となって、この場所に第一国立銀行が創立されたことが解説されている。最初の建物は、清水組の第二代清水喜助の設計施工によるもの。洋風の建物に日本屋根・塔を組み合わせた擬洋風建築であった。明治三十五年(1902)には辰野金吾の設計によるもので、大正十二年(1923)の関東大震災では火災の被害はあったものの、倒壊は免れた。現在の建物は昭和五十一年(1976)に竣工した四代目である。

 

(日証館)

 現在、日証館のある場所は、かつて渋沢栄一邸のあった場所である(中央区日本橋兜町1-10)。この場所に渋沢邸が竣工したのは明治二十一年(1888)。辰野金吾の設計による堅牢な石造の屋敷であった。

 

日証館

 

 現在の建物は昭和三年(1928)に竣工したものであるが、一階部分のアーチ状の窓は、旧渋沢邸にも採用されたデザインを踏襲したものかもしれない。

 

(兜神社)

 日証館に隣接する兜神社は明治十一年(1878)の創建。同年、兜町に東京株式取引所(東京証券取引所の前身)が設立されると、関係者一同の鎮守として兜神社が造営された。主祭神は商売の守護神倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。社殿には三条実美の揮毫により「倉稲魂命」の御神号が奉安されている。

 

兜神社

 

(阪本小学校)

 

中央区立阪本小学校

 

 明治五年(1872)九月四日、明治政府により学制が公布された。従来、学問は武士階級のものであったが、これを機に国民全員が身分にかかわらず教育を受けられることになった。第一大学区第一中学区第一小学区の小学校は阪本小学校である。阪本小学校は、開校当時から同じ場所にある最古の小学校である。長らく改築工事が行われていたが、ようやく真新しい校舎を見ることができるようになった(中央区日本橋兜町3-15)。

 

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越中島 Ⅲ

2020年10月10日 | 東京都

(東京海洋大学つづき)

 

明治天皇聖蹟

 

 東京海洋大学の正門から少し南に行くと、巨大な明治天皇聖蹟碑が建っている。

 明治三年(1870)九月八日、調練の御親閲のため、明治天皇が越中島に行幸した。その後も明治天皇は明治五年(1872)九月十五日に近衛三兵の操練を天覧。同六年(1873)十二月九日には、陸軍練兵天覧のため、同八年(1875)六月七日には、海軍大砲試験天覧のため行幸。以上、四回の行幸を記念して昭和十九年(1944)に建立されたものである。書は近衛文麿。

 

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小菅

2020年10月10日 | 東京都

(東京拘置所)

 私が東京拘置所を訪れたとき、門前にはたくさんのマスコミが押しかけており、これから拘置所に入所する誰かを待ち受けていた。ここでは日常的に見られる光景なのであろう(葛飾区小菅1-35-1)。

 

東京拘置所と煉瓦工場

 

 現在東京拘置所のある広大な敷地は、寛永年間(1624~1634)、徳川家光が関東郡代伊奈半十郎忠治に下屋敷の土地として与えたもので、およそ十万八千坪の広さがある。八代将軍吉宗の時代には、遊猟時の御膳所として小菅御殿が造営された。寛政四年(1792)に伊奈氏が失脚すると、老中松平定信の建議により、飢饉や大水、火災などの災害に備えて、小菅御殿の一画に江戸町会所の籾倉が建設された。

 維新後、この土地は全て明治政府に引き継がれた。当初は小菅県庁舎、小菅仮牢として使用され、廃藩置県後、民営による我が国初の洋式煉瓦工場が設立された。

 明治五年(1872)二月二十六日、和田倉門内元会津藩邸から出火した火災により、銀座、築地一帯は焼け野原となった。明治政府は、再建される家屋の全てを煉瓦造りとすることを決定。同年十二月、東京府は川崎八右衛門に製造を依頼した。川崎は小菅に新式のホフマン窯を次々と設置して生産高を増やした。明治十一年(1878)には内務省が敷地ごと煉瓦製造所を買い上げ、同地に獄舎を建て「小菅監獄」と命名した。西南戦争で敗れた賊徒多数が収容され煉瓦製造に従事し、図らずも文明開化の一端を担った。ここで養成された優秀な煉瓦技能囚は全国各地に移送され、各地の集治監で囚人煉瓦製造に活用された。小菅で製造された煉瓦は、銀座や丸の内、霞が関の旧法務省本館、旧岩崎邸などに使われた。東京湾の入り口に築造された海上要塞の第二海堡にも使われ、近代日本の首都東京や文明開化の象徴である煉瓦建物に貢献した。

 

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