史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

森下 Ⅱ

2020年10月24日 | 東京都

(長慶寺)

 長慶寺の門前に「近代小学校発祥地 東京府小学第六校 深川小学校誕生之地」とやや文字の多い石碑が建てられている(江東区森下2‐22‐9)。

 長慶寺には、明治三年(1870)、東京府が小学第六校を設置した。明治四年(1871)、文部省が直轄小学校とすることを示達。明治五年(1872)、学制が公布されると、翌明治六年(1873)、官立小学第六校は第六中学区一番小学深川学校と命名された。

 

長慶寺

 

深川小学校誕生之地

 

 現在、深川小学校は地下鉄森下駅の南側二百メートルの場所に移転している。

 

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橋場

2020年10月24日 | 東京都

(橋場一丁目)

 Google Mapを何気なく見ていると、橋場一丁目のマンション辺りに「山内容堂別邸跡」という表記を発見した。早速、現地に行って確かめてみた(台東区橋場1‐36)。周囲をかなり綿密に歩き回ったが、史跡を表すようなものは何もなかった。

 

山内容堂別邸跡付近

 

 明治初年、隅田川に面したこの付近は別荘地として人気が高かった。三条実美の対鷗荘もこの近くである。山内容堂は晩年、隅田川沿いのこの地に「綾瀬草堂」と名付けた別邸を建て、妾を十数人抱え、酒におぼれる日々を過ごしたとされる。明治五年(1872)、積年の飲酒が元で脳溢血により倒れた。四十七才であった。

 

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上野 Ⅺ

2020年10月24日 | 東京都

(東京国立博物館つづき)

 

東京国立博物館平成館

 

初代町田久成館長像

 

 平成館の前に平成二十八年(2016)、初代館長町田久成像が建立された。

 町田久成は、薩摩藩の名族に生まれ、幕末には藩命を受けて欧州に留学した。維新後は文化行政を担い、博物館の初代館長として上野博物館の建設や博覧会開催に尽力した。辞官後、出家して園城寺子院の住職となり「石谷」と号した。

 この日の目的は町田久成の胸像見ることにあった。東京国立博物館の敷地内に入るには、新型コロナウイルス感染対策の一環として現在日にちと時間を指定したチケットを事前の予約・購入する必要がある。特別展は開催されていない日であったが、常設展だけでも千円もする。一応、目的は達成したが、千円も払ったことだし、せっかくだから博物館の常設展示を見ていくことにした。結論から申し上げると、千円でも十分お釣りがくるくらい素晴らしい展示であった。日本国民なら一度は見ておきたい。

 

高村光雲作 「老猿」

 

 高村光雲の「老猿」は明治二十六年(1893)の作。シカゴ万国博覧会に出品され優等賞を得た。「幕末回顧談」(岩波文庫)によれば、光雲は栃の木の良材を求めて栃木県の鹿沼から三、四里山奥に入り込んだ発光路という寒村まで赴いている。切り倒した木を二か月もかけて川伝いに東京まで運んだ。光雲はこの作品を手がけるために、猿茶屋から猿を借りてきて自宅の物置に飼い、身近に猿を観察した。猿が時々縄を解いて逃げ出し、大騒ぎになったこともあったという。

 写真では見慣れた作品であったが、実物は想像以上に大きく、眼光鋭い猿の像は見応えがあった。

 

頼光大江山入図大花瓶

 

邪鬼

 

 明治五年(1872)、横山孝茂、弥左衛門父子による合作。明治六年(1873)のウィーン万国博覧会に出品されたもの。息を忘れるほどの精緻さである。

 

川村清雄「形見の直垂(虫干)」

 

 川村清雄は、初代新潟奉行を務めた川村修就の孫。幕府の開成所で英学と画学を学んだ。維新後、ニューヨークに渡って西洋画を学び、以後パリやヴェネツィアで油彩画を学んで、明治十四年(1881)に帰国して大蔵省印刷局に奉職した。勝海舟、徳川吉宗、家定、慶喜、天璋院篤姫らの肖像を描いている。海舟は、清雄を我が子のように可愛がり、自身の屋敷には清雄の絵以外は架けなかったといわれる。明治三十二年(1899)一月十九日、海舟の訃報を聞いた清雄は号泣してその死を悼んだ。海舟の柩は洗足池畔の墓所に移されたが、その時の陪柩者の一人に選ばれた。「形見の直垂」に描かれる少女が身に付けている白い直垂は、この時のものである。少女の周囲には、海舟の胸像や柩、遺品が並べられている。清雄はこの作品の完成に十年を費やした。

 

(上野公園つづき)

 

黒門跡

 

 上野公園の入り口近く、西郷隆盛像の下が黒門のあった場所である。現在、その場所には黒門をイメージした壁泉が置かれている。黒門は寛永寺の総門である。公園入口付近には、御橋または三橋と呼ばれる橋があって、寛永寺の正面入口となっており、その先に黒門があった。上野戦争では、黒門付近で激しい銃撃戦が交わされた。焼け残った黒門は、明治四十年(1907)、荒川の円通寺に移築された。

 

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江戸川橋 Ⅴ

2020年10月24日 | 東京都

(江戸川公園)

 

神田川

 

 文久三年(1863)、神田川の水力を利用し、最新の輸入機械を導入した関口大砲製造所が造られた。建設責任者は、小栗上野介、工場長は武田斐三郎であった。江戸川公園では神田上水の取水口遺構が見られる。関口大砲製造所はこの近くにあったとされる(文京区関口1‐26‐4)。

 

神田上水取水口

 

 井の頭池を源流とする我が国初の上水神田上水は、大洗堰で水位を上げ、上水路で水戸屋敷(現・後楽園一帯)に入れた。そこから地下を、樋を通して神田、日本橋方面に給水するものであった。大洗堰の取水口に上水の流水量を調節する「角落(かくおとし)」と呼ばれる板をはめこむための石柱が設けられた。大洗堰は、神田上水取水口遺構から百メートルほど西側にあったとされる。江戸川公園内には、当時の石柱が移設されている。

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