会津若松 会津若松駅周辺 |
会津若松駅 白虎隊士像・弥勒寺・廣澤家祖先之墳墓・西軍墓地・官軍諸道軍監牧野茂敬墓(小笠原唯八の墓)・長藩戦死十三人墓・戊辰 薩藩戦死者墓・官軍 備洲藩・土佐藩戦死者の墓・大垣 戦死二十人墓・融通寺・町野久吉首塚・町野源之助重安主水の墓・町野源之助妻女家内墓・慈光院常譽忠勇居士(長谷川栄助の墓)・武藤英惇墓・勇心院顯譽忠立居士(小池源五郎の墓)・実成寺・智現院殿良雄仁達日誠居士(蜷川友次郎の墓)・義専院勇猛日現居士(蜷川文次郎の墓)・梶原景保之墓・梶原家墓地・威徳院・稽古堂阯・常光寺・梅宮家之墓(梅宮源蔵の墓)・澤田家之墓(澤田鉄右衛門安久の墓)・中条茂平の墓・滝谷建設工業・鈴木屋利兵衛商店・妙法寺・中野平内翁之墓・中野コウの墓・日新館遺構日新館遺構・久福寺・吉川寅松の墓・自在院・西軍 戦死者墓・法印啓傳・忠良院勇讃道悟○居士(斎藤新吾の墓)・勇諦院争戦道照居士(佐藤喜七の墓)・清林寺・真譽實相清居士(梅宮源五郎の墓)・但心寺・専福寺・官軍兵士二人之墓・野出家之墓・筆扇塚・蕉雨先生碑・穴沢吉之助の墓・下坂家先祖代々之墓・真龍寺・柿沢勇記の墓・宇南山家之墓(宇南山壮平の墓)・福原勝吾吉春 行年三十四・當山第十世清涼院善順墓・釋種證同居士 釋胤義觀居士(大橋源蔵と大橋愛助の墓)・本覚寺・佐治次助墓・佐治為秀墓・三善家(長道)之墓・戊辰殉難 木村一族之墓・鈴木家之墓・復属之碑・蚕養国神社・若松第一幼稚園・海老名李昌 海老名リン |
会津若松 鶴ヶ城周辺 |
鶴ヶ城・秋月悌次郎詩碑・新島八重像・司馬遼太郎文学碑・遠藤敬止翁頌徳碑・萱野国老殉節碑・佐川官兵衛顕彰碑・西郷四郎顕彰碑・会津戊辰戦争慰霊之碑・西郷邸跡・西郷頼母の妻 千恵子の辞世が刻まれた碑・旧会津藩家老内藤邸跡・沼澤邸跡・会津戊辰戦争終結の地・山川三兄妹生誕の地・大山捨松生誕の地・萱野権兵衛 郡長正屋敷跡・柴四朗・柴五郎生誕の地・甲賀町口門跡・興徳寺・松平容保歌碑・秋月 三原 原田 家先祖代々之墓(秋月登之助の墓)・池上家累代之墓・外島家塋域・清水屋旅館跡・会津藩校日新館跡・日新館天文台跡・山本覚馬 新島八重生誕の地・一ノ堰村ニテ戦死 星保記 行年三十五歳 越後口ニテ戦死 星勇八 行年十六歳・高畑家之墓・大町通り・白虎隊飯沼貞吉生家跡・会津工業高校前 町に歴史あり ~松江春次~・松江春次記念館・松江春次翁(松江春次記念館)・会津風雅堂・松江豊寿顕彰碑 |
会津若松 飯森山周辺 |
自刃した白虎隊士の墓・戦死白虎隊士の墓・少年隊士慰霊碑・会津藩殉難烈婦碑・吉田伊惣次篤志碑・松平容保公弔歌碑・白虎隊士 遠藤嘉竜二墓碑・白虎隊碑・飯沼貞雄之墓・白虎隊殉難詩碑・白虎隊士像・白虎隊自刃の地から会津市内を臨む・郡上藩 凌霜隊之碑・宇賀神堂・戸ノ口堰洞窟・白虎隊記念館 白虎隊士像・水戸藩諸生党鎮魂碑・十六橋橋脚・酒井峰治と愛犬クマの銅像・白虎隊伝承史学館・旧滝沢本陣・戊辰戦争弾痕・刀痕・一箕八幡神社・妙国寺・紀念塔・殉節 白虎隊士之霊・白虎隊士 自刃仮埋葬地 |
会津若松 東山周辺 |
旅館向瀧・庄助の宿 瀧の湯・西郷祝近墓(西郷永四郎の墓)・忠誠霊神碑・正三位松平容保之墓・松平容保之墓・松平家之墓・貞義院妙心日輝大姉 智光院薫治日勝童子 慶樹院妙榮日久大姉 (杉田やえ 杉田薫治 杉田みわの墓)・会津武家屋敷・戊辰戦争戦没者供養塔・徳川家臣 佐々木只三郎源高城墓・天寧寺・会津士魂碑・早乙女貢・報國院殿公道了忠居士 紫雲院殿鏡光妙心大姉(萱野権兵衛夫妻の墓)・郡長正之墓・酒井伊佐美之墓・酒井安平之墓・勇進院殿忠山誠劒居士(南摩弥佐衛門の墓)・南摩勝子 節 寿 辛 墓・田中玄清墓(田中土佐の墓)・田中玄光墓・貫天院殿純忠誠義大居士(近藤勇の墓)・歳進院殿誠山義豊大居士(土方歳三慰霊碑)・近藤勇辞世歌碑・近藤勇の墓の近くにある松の切株・野田家供養塔(野田清次郎の墓)・仁進院忠節剣義居士(伊東悌次郎の墓)・伊東俊吾の墓・伊東祐順之墓・忠肝仁劔居士(相馬孫一の墓)・忠肝劔光居士(梁瀬勝三郎の墓)・勇進院忠山誠劔居士(遠山為善の墓)・間瀬利貞(新兵衛)之墓・間瀬利直(岩五郎)拝石・上田兼教之墓・誠忠院殿武嶽仁劔居士(上田新八郎の墓)・劔向道顯信士(一瀬晴治の墓)・木村家之墓(木村常之助の墓)・愛宕神社・松平容保公之像・武信神霊 信忠神霊(窪田伴次の墓)・正法寺・佐原蘇梅翁之墓(佐原盛純の墓)・神尾家之墓(神尾武右衛門の墓)・荒川家之墓(荒川勝茂の墓)・大龍寺・沼澤七郎之墓・林氏合葬之 林安儀(又三郎の墓)・林安定(林権助の墓)・斎藤幸元墓・小田磯之助之墓・神戸民治 岩蔵 墓・籾山充盛墓・畑五郎左衛門墓・大龍寺戊辰戦争殉難殉節供養碑・山本家之墓・新島八重歌碑・丹羽蔟(にわやから)能由墓・勇戦良義居士(吉田義助の墓)・忠心院戦山義勝墓(佐藤次郎八の墓)・永井氏七人之墓・鏡清院殿壽室妙觀大姉 妙臺院殿英照鏡湏大姉 清要院室圓妙真大姉 誠光院觀室一露大姉 (沼沢道子 貞子 やや子 すが子の墓)・沼沢家家臣の墓・義○院殿智山良戦居士 ○○院殿義道了居士(赤埴酉四郎、赤埴定蔵の墓)・源明院義山良忠居士 忠徳院殿義翁祖心居士 心如院源忠智徳居士 (国府辰次郎 篤三郎 源十郎の墓)・赤埴平八の墓・唐津藩士の墓・井上浄光寺・藤森家之墓・御薬園・御茶屋御殿・浄光寺・今泉岫雲墓・勝見裔 日向家代々之墓(日向勝見の墓)・日向氏之墓(日向左衛門の墓)・海老名リン像・真勇院忠道日義居士(原新五右衛門の墓)・天寧寺町土塁・宗英寺・露照院堅道良固居士(上島良介の墓)・極楽寺・宗川家之墓・山室家累代墓 |
会津若松 小田山周辺 |
小田山・小田山西軍砲陣跡から鶴ヶ城を見下ろす・西軍砲陣跡・小田山城冠木門・丹羽能教墓・田中玄宰墓・恵倫寺・柴家の墓・柴四朗墓・柴五郎墓・柴太一郎盛道墓・柴家属之墓・諏訪家累代精霊(諏訪伊助の墓)・小川家先祖之墓(小川鉱太郎 房次郎 郷左衛門の墓)・桃澤家之墓(桃澤弾右衛門の墓)・光稠神霊(林次郎の墓)・建福寺・故長岡藩総督 河井継之助君埋骨遺跡・善龍寺・奈與竹之碑・西郷千恵子辞世碑・二十一人之墓・保科八握髯翁墓 妻飯沼千恵子位・高木家累代之墓(検事従四位勲四等高木盛之輔所有墓所)・生駒真道墓・神保内蔵助源利孝之墓・神保巌之助之墓・元典獄 正五位勲四等藤澤正啓墓・誠忠院義白虎勇居士(藤澤啓治の墓)・会津藩士 伴百悦墓・両角先祖之墓 両角大三相知之墓(両角大蔵の墓)・中邨重成 重一 墓・加賀山翼先生墓・下司庄三郎 下司伊兵衛 同妻イ ク 下司庄四郎 之墓・久室了昌信士(辰野源之進 辰野平太の墓)・宮下清之烝守真 同妻墓・全忠院雄嶽道英居士(下平庸三郎の墓)・中邨重成之墓 中邨重一之墓(中村謙治・中村帯刀の墓)・先祖代々 井上恒之助之墓・信忠院盡勝勇義居士(井口信太郎の墓)・赤羽四郎之墓・儀覺善忠居士 儀相忠勇居士 忠覺真儀居士(小日山善次郎 友四郎 覚次郎の墓)・真如院弧松獨立居士(外山錫次郎の墓)・小平捨次郎の墓・勇進院教譽義達居士(小笠原主膳の墓)・生駒直道墓(生駒五兵衛の墓)・池上當恕瑩(池上新兵衛の墓)・北邑尚衛孝政墓(北村直衛の墓)・小室金吾左衛門之墓・忠倫院義孝○○居士(池上貞之助の墓)・宝積寺・史跡 会津藩大窪山墓地・西郷常次郎 西郷常四郎 西郷武八郎 西郷與宇・橋爪幸茂墓・橋爪幸久墓・横山主税常忠霊神・横山常尹墓・中野半三郎 同 五郎 遥拜碑・野矢常方先生墓地・野矢家の墓・忠了院義運日明居士(鈴木義衛の墓)・智光院忠義日勇居士(名越藤次郎の墓)・西川重大墓(西川半之丞の墓)・飯沼一正墓・真輝彦神霊(飯沼友次郎の墓)・飯沼家之墓・上崎家之墓(上崎且馬の墓)・坂本義續墓(坂本宇兵衛の墓)・竹崎忠成墓(竹崎郷助の墓)・浮洲七郎之墓・淄川先生墓(高津平蔵の墓)・高津家之墓(高津豊太郎の墓)・帽山先生之墓(安部井帽山の墓)・和田義方後妻 同義室妻 同長女 墓(和田コマ ナカ ミワの墓)・飯河光義之墓・高橋家之墓(高橋清左衛門の墓)・伊藤光隆墓・沢田名垂先生墓地・片桐喜次墓(片桐八十次郎の墓)・赤羽家瑩域 忠肝義精居士(赤羽衛門の墓)・黒河内清次郎 野村新平 黒河内只四郎の墓・荒木久米吉の墓・荒木留吉の墓・桐林秋露居士・山田貢之墓(山寺貢の墓)・尚正神霊(服部栄の墓)・義勇神霊(中野勝江の墓)・牧原奇平墓・政良神靈 政誠神禮 政忠神禮(河原岩次郎 勝太郎 キク クニ 善左衛門の墓)・直義神霊(牧原文吾の墓)・壽昌院義山忠道居士(向山利信の墓)・有賀満武之墓・忠達義照居士(高橋栄次郎の墓)・常盤盛輔○○(常盤数馬の墓)・杉浦家(杉浦丈右衛門の墓)・長崎尚志之墓・武輝彦神靈(有賀左司馬の墓か)・忠信院殿釋種義教(志賀勘兵衛の墓)・田村三省之墓・池内重徳之墓・一應了心信士(田代仙太郎の墓)・吉田忠輝 同妻律子之墓・神保内蔵助妻之墓・木本新吾墓 |
会津若松 南郊 |
明光寺・戊辰戦役殉難者の碑・戊辰戦争戦死者の墓・光明寺・会津藩老一瀬要人戦死之墓・山本権八之墓ほか戦死者の墓・泰雲寺・内藤氏家属墓・墓誌・内藤可穏次男 梶原平馬墓・鳳樹院泰庵霊明居士供養塔・武川信臣墓・上田氏家属墓・威光院普覚清忠居士(元木吉之助の墓)・原早太墓 大竹親豪之墓(大竹主計の墓)・内藤得道の墓・慈光寺・義範道覺居士(林忠吾の墓)・陸軍大将柴五郎の碑 湯殿山供養塔・常金寺・鈴木重光墓 鈴木重季之墓・洞雲寺・戊辰年戦死十三人之墓・長谷川常隆 勝蔵 墓 綿引喜伝治墓 |
会津若松 西郊 |
会津新選組記念館・砲弾・阿弥陀寺 御三階楼・藤田家之墓(斎藤一の墓)・戦死墓・戊辰戦役五十年祭記念碑・萱野長修遥拜碑・報国尽忠碑・復禄記念碑・進義院剣光尽忠居士 黒河内伝五郎 百太郎 百次郎 墓・鈴木庄蔵墓・大運寺・野矢常方翁拜石・金田家累代之墓・長命寺・築地塀・長命寺戊辰懐古碑・戦死墓・鈴木五朗 同妻 三郎 墓・諏方神社・野矢常方顕彰碑・秀長寺 秀長寺古戦場址入口・佐川官兵衛歌碑 供養塔 秀長寺古戦場碑・赤塚家之墓・山浦 國・住吉神社・会津藩戦勝地跡・大法寺・磯上内蔵之丞の墓・長谷川家之墓・秋山彦左衛門墓・会津藩士秋月悌次郎生誕之地・スネル邸・新城寺・安芸藩士川本久次郎碑・越後長岡藩士殉節之墓入口・本光寺・長岡藩士殉節之碑・無縁戦死供養・河瀬重則墓・会津戊辰戦争激戦の地 上米塚の渡し・中野竹子殉節之地碑・中野竹子像・柳橋(涙橋)・如来堂 史蹟 新選組殉難地・宝光院・實翁道安信士・戊辰戦争戦死者の墓・宝寿院・古田傳之助遥拜墓・紀念碑・川村謙益妻高知氏 同末児李四郎 墓 |
会津若松 北郊 |
十六橋・十六橋橋脚・有栖川熾仁親王殿下親植松碑・長工師ファン・ドールン君像・大野ヶ原 白虎隊奮戦の地碑・戊辰戦役 滝澤峠戸ノ口原西軍殉難者 九十八士 供養塔・戸ノ口原戦死者供養塔・小池繁次郎功成墓 戦死四人 戦死廿人 戦士十六人 戦死小沢新十郎之墓・村松常盤墓 鈴木三郎戦死之墓 安藤物集馬墓 ほか・戦死十六人墓 戦死六人墓・金堀山神社・戦死十一人之墓・金堀の滝・沓掛峠入口・戦死十八人墓・金堀城跡・舟石茶屋跡・旧街道の石畳・舟石・会津藩校日新館・武講と水練水馬池・山川健次郎先生・什の掟・東明寺・聞法院義阿忠専居士(渡邉治左衛門の墓)・好川家之墓(好川瀧三郎・瀧之助兄弟の墓)・三澤家代々墓(三澤留吉の墓)・古川春英墓・秀安寺・義山道勇信士(小原庄助の墓)・赤城家代々之墓(赤城佐代之助の墓)・鈴木徳次之墓・勇心院忠譽光運居士 義誠院進譽○恵居士(小原房吉 忠次郎の墓)・相原家代々墓・義勇院淨譽忠○居士(大岩元四郎の墓)・大岩家之墓・松江家之墓 |
猪苗代 |
亀ヶ城址・亀ヶ城址公園・西円寺・勝軍山戦死之墓・官軍 土藩 中島與一郎光尹墓・戊辰戦役 母成峠古戦場・戊辰戦役 東軍殉難者慰霊碑・西郷頼母歌碑・東軍殉難者埋葬地 |
会津美里 |
法用寺・招魂場・伊佐須美神社・武井柯亭翁之墓・従八位野田進翁之墓・安楽寺・西郷栄之進信光・観音寺・笹沼泰造墓・武田真墓 新妻豊記墓・戦死八人墓・田母神金吾墓・吉田善七義忠墓・高橋家之墓・会津薬師寺・本田勇墓・白鳳山公園からの眺望・明治戊辰役萱野隊記念碑・萱野隊長之碑・死節碑・遠藤家之墓・徳祜院釋種道順居士(水野多門の墓)・水野瀬戸右衛門共同窯跡・釋種義亮信士(吉川秀蔵の墓)・安西助十郎墓・忠道院義観日賢居士(岸清兵衛の墓)・戦死四十人墓・会津戦役七士之墓・源右衛門墓 |
喜多方 |
大谷古墳公園・長岡藩四人墓・泉福寺・西郷近潔(勇左衛門)夫妻之墓・西郷刑部一家之墓・芥川斗機時中之墓・舘林藩戦死之墓・塚越富五郎(小栗上野介従者)終焉の地・塚越富五郎慰霊碑・示現寺総門・瓜生岩子之墓・瓜生岩子之像・清流寺不動堂・飯沼貞吉ゆかりの地・長福寺・佐川官兵衛之墓 佐川官兵衛妻墓・瓜生岩子刀自裁縫教授所跡碑・金刀比羅神社・官軍松代藩五人墓・満福寺・日向家代々之墓・北町公園・瓜生岩子刀自生誕之地碑・佐牟乃神社・瓜生岩子像・安勝寺・明治戊辰戦死標・長岡藩戦死墓・上遠野六郎墓・官軍松代藩戦死五人墓・光明寺・官軍松代藩士之墓・杉の下墓地・義士中根米七墓・佐藤銀十郎墓・中眼寺・浅井信次郎先生之碑・阿弥陀寺・明治戊辰戦死供養塔・研堂星孚之墓・廣安院濟譽民山寶生居士(三本住庵墓) |
会津坂下 |
束松事件の地・松坂平左衛門墓・会津戊辰戦争 玄武隊 松坂平右衛門の墓・弾痕ののこる道標・定林寺・真島儀右衛門墓・法界寺・慰霊 戊辰役殉難碑・中野竹子(小竹女史之)墓・烈婦中野竹子女史之英霊碑・江川銀平墓・光照寺・戦死六人之墓・光明寺・小倉藩二名墓・茂原岩之助墓・市川権次墓・城取家(やい)之墓・勝方寺・町野家・南摩家殉難の地碑・徳正寺・光林院諦譽明散浄清居士(佐瀬嘉左衛門墓)・心清水八幡神社・吉田松陰東北遊日記碑・西光寺・父母如在(武田惣吉の墓) |
西会津 |
常楽寺・山本栄三郎墓・岡村半四郎・中田良平墓・薩藩 官軍先鋒 吉田譽藤二清次墓・龍泉寺・安藤元四郎墓 |
柳 津 |
円蔵寺・弾痕・頼三樹三郎詩碑・只見川・忠孝院義達日勇居士(内川源吾の墓) |
金 山 |
山ノ内家之墓(山之内大学墓)・小沼安士之墓 横田善通之墓 中丸俊成之墓・山内家屋敷跡・小沼雄八墓
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只 見 |
河井継之助記念館・再現された河井継之助終焉宅(矢沢家)・河井継之助像・ガトリング砲を操作する河井継之助・司馬遼太郎の書・医王寺・河井継之助墓・長谷部家住宅・新福寺・加賀藩卒森川余所之助墓 |
南会津 |
照国寺・河原田包彦追悼碑・慈恩寺・官軍戦死十九人墓・田島陣屋跡・官軍墓(山本他人輔墓) |
昭 和 |
戊辰の役古戦場跡・野村新平墓・会津藩戦死二人之墓・佐藤音之助墓・小杉半蔵墓・官軍戦死九人之墓 |
下 郷 |
大内宿・正法寺・笹沼金吾墓・戦死二十四人墓・小出勝之助墓 |
福 島 |
福島城址・福島城本丸跡・福島稲荷神社・長藩世良修蔵霊神碑・長楽寺・仙台藩烏天狗組之碑・浅草屋宇一郎之碑・瓜生岩子之像・宝林寺・長藩 野村十良墓 長藩 中村少次郎墓 紀州 山口忠右衛門安正・小峠古戦場・土湯スカイラインからの眺望・陣屋跡史績公園・足守藩瀬上陣屋跡・八島田陣屋跡・和光神社・溝口主膳正碑・常光寺・追善供養塔・英光院忠道釼元居士(渋川市十郎の墓)・官軍 西島新蔵永重墓・福島護国神社・招魂之碑 |
福島 飯野 |
東栄寺・住吉神社・大桂寺・大高廣儀居士(高野広八の墓) |
伊 達 |
興国寺・松前藩士の墓・安岡正煕(藤田克馬)之墓・菅野八郎の生家跡・菅野八郎自刻の碑・留此而祈直・大寶軒椿山八老居士(菅野八郎の墓)・仙林寺・熊坂適山・蘭斎合作画碑・熊坂蘭斎翁墓 |
二本松 |
霞が城箕輪門・二本松城本丸跡・二本松少年隊の像・大城代 内藤四郎兵衛 戦死之地碑・丹羽和左衛門 安部井又ノ丞 自尽の地碑・二本松少年隊顕彰碑・二本松少年隊レリーフ・大壇口古戦場 二勇士の碑・二本松少年隊 隊長 木村銃太郎 戦死之地碑・大隣寺・二本松少年隊 副隊長 二階堂衛守 岡山篤次郎 戦死之地碑・二本松少年隊士供養塔・二本松少年隊士の墓・会津藩 仙台藩 戊辰戦役供養塔・歴代藩主霊廟・九代長富公の墓・義光院達山壽雲居士・丹羽一学之墓・月照院心空霊明居士(丹羽新十郎墓)・丹羽和左衛門弘道墓・二階堂衛守信近墓・真行寺・白井小四郎の墓・福井松五郎墓・平野梅次郎墓・二本松少年隊 小沢幾弥 戦死之地碑・観世寺・三浦権太夫墓・三浦権太夫義彰戦死の地・三浦義彰戦死處碑・本久寺・遊佐辰弥墓・善性寺・大桶勝十郎墓・顕法寺・田中三治墓・正慶寺・木村銃太郎墓・鈴木内蔵墓・小倉健輔墓・(大森此母)戦死の碑・台運寺・別家月岡家之墓(月岡貞之助の墓)・平島孫左衛門墓・青山助之丞墓・奥田氏代々之墓(奥田午之助墓)・上崎鉄蔵墓・中村久次郎墓・蓮華寺・岡山篤次郎墓・鏡石寺・戦死二人墓・光覚寺・菱田宗吉郎墓・光現寺・松田嘉蔵墓・法輪寺・安部井又之丞墓・安部井磐根墓・小沢幾弥墓・服部数右衛門墓・少林寺・井上広吉墓・龍泉寺・伊右衛門墓・利右衛門墓・二本松藩二名墓・朝河八太夫墓 |
本 宮 |
薬師堂・美正貫一郎建臣之碑・舘林藩士らの墓・阿武隈川・安達太良神社・弾痕・金礼寺・賢教院明譽義秀居士(笠間一之進墓)戊辰の役 城之内古戦場跡・軍卒合葬墓・戊辰役戦歿者英靈塔・軍卒合葬墓・戊辰役戦歿者合葬塔・近藤彌右衛門之墓・石雲寺・小田井蔵太一成之碑・糠沢直之允の墓 |
三 春 |
舞鶴城址・明治戊辰役三春藩烈士碑・紫雲寺・磐州河野(広中)先生塋髪家・井上弥太右衛門墓 近藤楠馬墓 江口精馬墓 日下専六墓 新兵衛墓・龍穏院・戊辰之役忠魂碑・本木弥三郎墓・官軍 伊集院貞之助墓 |
郡 山 |
安積国造神社・安積天満宮・郡山邨八幡神祠之碑・正二位三條西季知詠書碑・安積艮斎記念館・昆斎先生之像・昌平黌教授贈従四位昆斎安積先生誕生地・開成山公園・開拓の群像碑・開拓の群像 大久保利通・開成山大神宮・旧二本松藩士族 入植者の碑・阿部茂兵衛銅像・中條政恒翁頌徳碑・開拓碑・故薩摩守正六位下安藤君之墓・重満靈神墓・石筵古戦場跡・石筵古戦場周辺の風景・観音寺・大森久之助墓・橋本次郎七之遺跡・正福寺・松本喜次郎(新選組隊士)墓・千手院伏龍寺・大竹一郎・善吾墓・感應寺・大慶養道清信士(渡部四郎墓)・長泉寺・会津藩士 鈴木作右衛門墓・先祖古川民伊之墓・川村今助墓 石澤勝之助戦死墓・明治天皇駐蹕御遺跡碑・長泉寺・佐藤雄助友章墓・大久保神社・牛庭原 旧松山藩士族 入植者の碑 |
大 玉 |
玉泉寺・久保鉄次郎・豊三郎墓・吉村熊之助墓・戦死三十一人墓・西軍四人墓 二本松少年隊墓 |
須賀川 |
正覚院 |
小 野 |
普賢寺・薩摩藩吉井甚之助墓 |
西 郷 |
戦死供養塚・七仏薬師堂・深谷政右衛門墓・戦死供養塔・戊辰桜・大龍寺・戦死墓・會藩 齊藤久太郎清盛墓・穴薬師・班宗寺・斎藤孫吉墓 大河原弥太郎墓・雲昌院義勇法岸居士(内山忠之右衛門の墓) |
白 河 |
史跡 白河関跡・古關蹟の碑・空堀と土塁・白河城・戊辰薩藩戦死者墓・長州大垣藩戦死六名墓・戦死墓・会津藩銷魂碑・田辺軍次君之墓・稲荷山神社・西郷頼母歌碑・龍興寺・海老名衛門碑・戦死塚・常宣寺・南無阿弥陀仏碑 会津藩戊辰戦死十二士之墓 笹沼金六墓・三坂喜代之助墓・明治戊辰 戦死塚・阿部内膳正煕之墓・萬持寺・藝藩 加藤善三郎光義之墓・関川寺・棚倉藩小池理八 戦死霊供養塔・仙藩石川大之進源春幸之墓・戦死供養塔・皇徳寺・戦死人供養塔・誠忠院義勇英劒居士(菊池央の墓)・竹本亀吉之墓 安之助墓・羅漢山人墓 小原庄助の墓・永蔵寺・戦死供養塔・長寿院・忠魂碑・長州藩士の墓・土佐藩士の墓 慶応戊辰殉国者墳墓・円明寺橋・南無阿弥陀仏碑・丹羽長重公廟・二本松藩士慶応戊辰役戦死之霊・聯芳寺・福島藩十四人碑・仙台藩士戊辰戦没之碑・戦死供養塔・観音寺・大垣藩三名墓・岡勝熊墓・浅野外祐墓・大平八郎墓・戊辰戦役旧大垣藩士酒井元之丞戦死之跡・南湖・松平定信像・南湖神社・棚倉藩鎮英碑・官軍大竹繁三郎之墓・戊辰役 戦死之碑・戦死墓・宝積院・古山孫四良 丹羽新吾宗方 佐々木廣之助 墓・観音堂・戊辰戦死供養塔・戦死供養塔・無縁塚・清光寺・増淵勝蔵墓・専念寺・渋井家之墓(渋井小次郎墓)・大統寺・當寺玉鳳賢邦哲長〇〇禅師(賢邦の墓)・脇本陣柳屋跡・明治天皇白河行在所附御膳水・柳屋旅館跡・旅館久下田屋・小峰寺・善澄墓?・戦死供養碑・妙徳寺・徳潤院釋意裕居士 潤法院釋妙誠大姉(市川方静の墓)・妙関寺・内儀家之墓(内儀茂助の墓)・戊辰役戦死之碑・仙臺 斎藤善次衛門戦死供養・戦死数名埋葬塔・戊辰戦死之碑・戦死数名埋葬塔・戦死霊魂供養 |
白河 表郷 |
正金寺・水戸浪士 江幡雄四郎・仙藩西田林平墓・鹿島神社・内儀茂助墓 |
白河 東 |
長伝寺・高田藩忠干碑 戦死集霊供養塔・釜子陣屋跡 |
矢 吹 |
幸福寺・小針重雄君瘞髪之碑・本内幸三郎墓・大福寺・仙台藩星内蔵太墓 仙藩竹村哲治墓 仙台藩水沢隊士墓・松前福山 小原文平克定 |
古 殿 |
松陰先生遊跡處碑 |
浅 川 |
永昌寺・戦死霊魂供養塔・畠山源三郎の墓 |
棚 倉 |
亀ヶ城跡碑・棚倉城址・大欅・蓮家寺・弔魂之碑・官軍土藩 公文力之助義盛・元治甲子殉難諸君之霊 三界万霊塔・長久寺・本立院道全日忠信士(本橋久兵衛の墓)・蓮生寺・植村半蔵の墓・降福寺・太源院儀道了忠居士(太田友治の墓)・権田東左衛門の墓・蓮台寺・力戦院武勇軍功居士(武川子之吉の墓)・常隆寺・髙刃院忠顯義勇居士(本多九右衛門の墓)・奥原三吉墓 |
塙 |
田中愿蔵刑場跡・安楽寺・水戸天狗党 田中愿蔵、高橋幸之助、西山常蔵の墓 |
新 地 |
龍昌寺・佐藤貞助墓・鈴木一郎左衛門墓 戦死四十人合葬墓・観音堂からの眺め・仙台藩松山隊勇戦地碑・今泉薬師堂・戦死塚・駒ヶ嶺城跡・仙台藩士誤審戦没之碑・戦死塚・戊辰戦没者碑 |
相 馬 |
相馬中村城址・大手門一ノ門・慶徳寺・長州藩士・館林藩士らの墓・圓應寺・目迫新左衛門墓・熊川兵庫墓(村田半左衛門墓)・興仁寺・戊辰戦争戦死者の墓・亜屈小次郎墓・齋藤高行 二宮文の墓・佛立寺跡・岡源右衛門墓・脇本喜兵衛墓・門馬先生之墓・洞雲寺・太田清左衛門墓・荒井又蔵墓 鳥取藩五人墓(倒壊)村松幸三郎墓・堀内覚左衛門墓・伊藤半七郎 中川源八郎墓・津金甲太墓・官軍墓地・長藩 美和内蔵主之墓・土田衝平之墓・松脇後左衛門墓・草野正辰の墓・地蔵堂・金蔵院跡・誠明先生(二宮尊徳)墓 慈隆尊師墓 |
南相馬 |
小高神社・小高城址・戊辰戦死之神霊碑台座 |
富 岡 |
龍台寺・精義隊碑と精義隊士の墓 |
広 野 |
戊辰戦役 二ツ沼古戦場・修行院・長州藩士藝州藩士の墓 |
いわき |
安藤対馬守信正公銅像・忠魂碑・天田愚庵邸・天田愚庵像・良善寺山門・戊辰戦争弾痕・安藤信正墓・平藩墓地・欣浄寺・征討軍兵士の墓・性源寺・戊辰戦争戦没者之墓・因州藩士墓・龍ヶ崎美術館・丹後沢公園 平城跡・明治天皇像・子鍬倉稲荷神社・長源寺・薩摩藩士の墓・末續寺・藝州 林熊太郎髙貞墓・庚申堂・広島藩士の墓・龍光寺・長州藩 藝州藩士の墓・筑前藩井上新蔵包道墓・因藩 永本甚助 村澤伊八郎正知 梶山運八定暉 墓・磐城郡四倉村 甚之助墓・因州砲隊長近藤類蔵孝俊墓・薬王寺・戊辰戦蹟之碑・笠間藩士 山下鶴三郎清伸墓・平第六小学校・笠間藩神谷陣屋跡 奉公碑・立鉾鹿島神社・為戊辰役各藩戦病歿者追福・湯長谷藩館跡・湯長谷藩館址・龍勝寺・因州藩士墓 出井栄三郎忠一 中村佐助正之 松岡弥吉貞信 入江忠三郎忠一 谷口喜久喜勝 墓・壱番砲隊同士中・蔵福寺・為戦死供養・供養塔・仙台藩三名墓・真福寺・長藩 良城隊 安田源佐衛門藤原治壽墓・水子供養塔にて・浄光院・柳河藩 今村関之丞藤原泰孝墓・柳川藩 十時仙之進太神惟義墓・仙臺藩戦死者之碑・戊辰役戦歿者 仙臺藩士 為大内進冥福・戊辰役戦死者の碑・三二 忠臣戦死墓・史蹟 泉藩本多家墓所入口・従三位本多忠伸墓・子安観音堂・明治戊辰五月廿八日 北白川宮能久親王御遺蹟・贈従五位松井秀簡墓・殉國 吉田松陰先生遊歴之地碑・松堂院・大寶寺・櫻関室直養墓(室櫻関の墓)・真木光之墓・飯野八幡宮・櫻関室先生碑・白井遠平翁の像 |
仙台 青葉 |
青葉城 伊達政宗騎馬像・青葉城隅櫓・天逸若生君碑銘・本丸址より 仙台市・昭忠塔・伊達政宗胸像・林子平顕彰碑・桜岡神社・明治天皇御駐輦所趾・青柳文庫跡地・瑞鳳寺・鹿児島県人七士の墓・西南の役 旧仙台藩士戦没者弔魂碑・龍雲院・林子平の墓・細谷十太夫の墓・細谷地蔵・龍宝寺 多宝塔・日浄寺・坂時秀(坂英力)之墓・仙臺藩国老坂英力君碑・輪王寺・飯沼貞雄墓・仙岳院・輪王寺宮公現親王北白川宮能久親王 御座所・清浄光院・星恂太郎碑・東昌寺・横田家累世之墓(横田官平の墓)・和田織部為恭墓・和田織部遺訓碑・覚範寺・遠藤允信(文七郎)顕彰碑・千葉源左衛門平常俊墓・資福寺・千葉家之墓(千葉卓三郎の墓)・千葉卓三郎記念碑・全玖院・武道良雄居士 齋藤藤行一字子敬之墓・松源寺・小山家歴代之墓(小山六之丞墓)・充国寺・遠藤敬止墓・遠藤清直(嘉竜二)墓・若生文十郎墓・但木家之墓(但木土佐の墓)・眞田家之墓(真田喜平次の墓)・下田家之墓(下田勇治の墓)・濱田家先祖代代之墓(濱田源五郎の墓)・富田家之墓(富田哲之助の墓)・青柳文庫跡・蘇生白虎隊士 飯沼貞吉終焉之地碑・乃木将軍遺愛の松・芭蕉の辻・大聖寺・同慶寺・森田孫九郎墓・安養寺・澤口家之墓(庄子傳三郎の墓)・大門寺・天主僕約瑟小松之墓(小松龍蔵墓)・光明寺・本郷文大夫源時保墓・秀林寺・大槻家歴代之墓(大槻安広の墓)・荒井家之墓(荒井宣行の墓)・永昌寺・有路家之墓(有路徳治墓)・鈴木家之墓(鈴木市郎左衛門墓)・従七位松倉恂墓・荘厳寺・倉兼小兵衛貞秀之墓・忠兵義了信士(進藤小四郎墓)・江巌寺・顯□義遼居士(若生善四郎の墓)・林宅寺・飯澤左久馬源頼進之墓 |
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仙台 若林 |
藩校 養賢堂跡・林子平像・仙台中将重村朝臣遺愛學興繁榮松・勾当台公園・谷風梶之助像・泰心院山門(旧仙台藩藩校養賢堂正門)・志茂又左衛門藤原實明之墓・義學良忠居士(志茂丁吉墓)・林香院山門・林香院・東海林家之墓・善導寺・松音寺・忠勝院英俊道勇居士 源良知之墓(安田竹之輔の墓)・高橋家之墓(高橋陣伍の墓)・保春院・玉蟲拙斎之墓・龍泉院・塩沼家之墓・光寿院・三國家歴代之墓(三國平八の墓)・栽松院・及川家之墓(及川英之丞の墓)・正楽寺・佐佐木三郎兵衛壽綱夫妻墓・孝勝寺・中村權十郎藤原盛成墓・柘植家先祖累代親縁諸精霊之墓・相如院亦然日實居士・洞林寺・従六位遠藤温之墓・廣田家霊塔(廣田琢治の墓)・坂元家之墓(坂元小四郎の墓)・瑞雲寺・浦川家之墓(浦川与五郎の墓)・常林寺・戦死供養塔・冷源寺・遠藤家之墓(遠藤東右衛門の墓)・大安寺・大窪家歴代之墓(大窪徳衛の墓)・佛眼寺・本内家之墓(本内幸三郎の墓)・山家正蔵源頼季之墓・円福寺・忠應良勇信士(金成十四郎の墓)・菅野家之墓(菅野周蔵の墓)・東華学校遺址碑・阿部春之助藤原正春墓・戊辰殉難六士碑・長称寺・佐々木家之墓(佐々木彦市の墓)・大林寺・石母田忍先生之墓・真福寺・龍勝院倫阿慧光居士(富田小五郎の墓)・鐵畊居士瘞髪之塔(富田鉄之助の墓) |
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仙台 宮城野 |
榴ヶ岡天満・星恂太郎碑・額兵隊 見国隊戦死弔魂碑・見国隊隊長二関源治碑・大和神社・和田織部為泰之碑・善応寺・蒙古の碑・仙台八坂神社・明治天皇聖蹟碑・明治天皇聖蹟碑・ミヤギノハギ・日本近代詩発祥の地・藤村の詩碑「潮音」 |
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仙台 太白 |
鹿落観音・幕臣二名墓(安田幹雄 枩平兵庫守)・長徳寺・石田家代々墓(石田広治墓) |
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仙台 泉 |
林泉寺・千葉家之墓(佐川藤兵衛の墓)・櫻田迪君之墓(桜田良佐の墓)・櫻田景敬君墓・柳澤寺・大立目家之墓(大立目武治の墓) |
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大 和 |
保福寺・但木(土佐)成行墓・但木土佐招魂碑・戊辰役戦死者招魂碑 |
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大 郷 |
糟川寺・二関源治の墓・千葉愛石 累卵の碑・真観寺・大松澤家の墓・大松澤掃部輔衝實之墓・片倉家之墓(片倉郷治の墓) |
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大 崎 |
天性寺・坂本大炊平隆中之墓・茂林寺・千葉源左衛門平棠俊之墓・菊池忠治墓・桃源院・青木家之墓・誠孝院(青木与兵衛の墓)・香川斉の墓・祇劫寺・祇劫院殿前藝州太守林雙凍雲大居士(伊達定宗の墓)・今野家之墓(今野清治の墓) |
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大崎 小牛田 |
満徳寺・戊辰戦役招魂之碑 |
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大崎 鹿島台 |
わらじ村長鎌田三之助生誕の地・鳳谷先生之碑(小野寺鳳谷顕彰碑)・慈明寺・慈明寺山門・凌雲堂道樹玄秀居士(佐々木玄秀先生顕彰碑)・小野寺謙吾(鳳谷)之墓・鎌田三之助之墓・内海家之墓(内海市太郎の墓)・壽良長遠誠禅定門(内海市太郎の墓)・軽部佐右衛門の墓・高橋家代々之墓(高橋六右衛門の墓)・酬恩寺・駒場家之墓(駒場七三郎の墓) |
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大崎 岩出山 |
実相寺・羽州出兵戦死之碑・有備館正門・松窓寺・曽根忠右衛門の墓・吉岡家之墓(吉岡今之助の墓) |
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大崎 鳴子温泉 |
薩州三士の墓 |
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涌 谷 |
涌谷城・涌谷神社・戊辰戦歿諸士招魂碑・清浄院・廣雲軒大澤靈光禅居士(栗山辰三郎の墓)・白岩家之墓(白岩杢右衛門の墓)・見龍寺・栗軒十文字先生之墓・頌徳碑・桜井家之墓(桜井熊蔵の墓)・旭容院泰参心利居士(大平與市の墓) |
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美 里 |
玉蓮寺・當麻家・福厳寺・岡崎家之墓(岡崎善之丞の墓)・皎善寺・皎善寺霊廟門(旧西舘内門)・前權大講義後藤充康墓・法圓寺・戦没者慰霊之碑・今野家之墓(今野大吉の墓)・真禅寺・清水家之墓(清水和泉之助の墓)・武門中興 軍覺院義忠良鏡居士(清水和泉之助の墓)・佐藤家之墓(佐藤吉次郎の墓)・門間家代々之墓(門間菊三郎の墓)・東光寺・大〇院浄照成忠清居士(引地幸治の墓)・木村家之墓(木村五左衛門の墓)・今野家之墓(今野俊治の墓) |
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東松島 |
大槻俊斎先生誕生の地・清厳寺・廣維院義邦雄戦居士(邊見鷹治の墓)・如月庵・戊辰之役戦死安久津源左衛門之墓 |
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松 島 |
明治潜穴公園・鎌田三之助翁顕彰碑 |
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塩 竃 |
鹽竈神社・ブリュネの碑・築港の碑 |
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寒風沢島 |
しおじ号・造艦之碑・しばられ地蔵・十二支方角石・砲台場跡・砲台場跡から野々島陰田(かげた)島方面を臨む・前浜海水浴場・前浜から船入島・鷹島・沖鷹島・松林寺・化粧地蔵 |
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多賀城 |
多賀城・多賀城碑鞘堂・多賀城碑 |
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石 巻 |
鹿島御児神社・日和山からの眺望・志賀直哉と住吉町・折浜 榎本武揚艦隊集結地・洞仙寺・榎本武揚艦隊開陽丸乗組員・中井初次郎の墓・大聖不動明王・細谷十大夫碑・統禅寺・英翁院顕忠義仙居士(瀬上主膳墓)・飯野川八幡神社・仙台藩四名墓・仙台藩士戊辰戦没之碑・香積寺・戊辰當藩戦役紀念碑・日枝神社・當戊辰役五十年祭碑 戊辰役碑移転建立祭文碑・招魂碑 戦病没者芳名碑・龍石寺・顯中院白殘清風居士(斎藤善次右衛門墓)・桜井伊勢松墓 本田三十郎墓 山口七三郎墓・耕徳院・武田安之助信昌墓 智昭院殿真學道雄大居士・大智院殿義学道英大居士(武田杢介の墓)・武田家墓所からの眺望・林昌院・戦没勇士慰霊碑・岩淵家代々之奥津城(岩淵泰輔の墓)・鈴木鶴之輔藤信親墓・戊辰の役全殉難者 慰霊の碑・高徳寺・小関直之進の墓・津田家之奥城(鹿又貫之進の墓)・龍谷院・東日本大震災鎮魂碑・羽生玄栄翁碑・多福院・真橙院徳巖栄傳居士(勝又要七の墓)・慈恩院・長谷平直道之墓・久円寺・武藤家累世墓(武藤利直の墓)・西光寺・西光寺・舊仙臺藩真田君碑・真田幸歓妻齋藤氏墓・真田昌棟墓・青葉神社・僊臺藩牡鹿原開墾記念碑 |
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登 米 |
昌学寺山門・仁雄院忠参蘆洲居士(芦名靱負墓)・佐沼城跡・弔魂碑・香林寺・戊辰役戦没者之塔・福田寺・弾忠潔儀居士(池田亀太郎墓)・登米神社・登米招魂碑・本覚寺・米谷貫通先生墓(米谷吉郎右衛門墓)・冷松寺・招魂之碑 |
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栗 原 |
千葉周作生誕の地・孤雲屋敷・城国寺・贈四位遠藤允信公墓(遠藤文七郎墓)・金剛寺・梁川一家戦死英霊之碑・梁川頼親墓・氏家新太夫墓・長沼丹宮吉直墓・瑞満寺・仙台藩軍監 烈士 姉歯武之進顕彰碑・姉歯武之進平景澄墓およびその家臣の墓・柳徳寺・佐藤百助藤原艮勝之墓・五日市憲法草案者 千葉卓三郎出生之地・タクロン公園・千葉卓三郎顕彰碑 |
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気仙沼 |
煙雲館・落合直文のレリーフ・槐園歌碑・松岩寺・鮎貝太郎平盛房之墓 |
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加 美 |
芝多民部常則墓・芝多家之墓(芝多贇三郎の墓)・寛岳義(大沼寛左衛門の墓)・洞雲寺・額兵隊副隊長 武藤勝作墓・武藤家之墓・如幻院殿 古内實廣墓(古内可守の墓) |
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川 崎 |
小野家歴代之墓(小野亀代治の墓)・龍雲寺・川崎伊達家の墓・伊達邦賢墓誌 |
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村 田 |
龍島院・伊達宗高の墓・芝多・片平両家家臣先祖供養塔・聖功院殿英山鐵宗大居士(片平大丞の墓) |
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蔵 王 |
龍源寺・高澤家之墓(高澤忠吉の墓)・秋保家歴代之墓(秋保盛章の墓)・真田幸村公 血脈の地・真田幸清筆子塚・真田豊治墓碑・刈田嶺神社 |
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岩 沼 |
竹駒神社・鵜ヶ崎神社・戊辰役戦死弔魂之碑 |
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柴 田 |
大光寺・解脱院鋒安常担居士(柴田中務墓) |
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大河原 |
最勝院・浅草宇一郎墓 |
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亘 理 |
佐伯新之丞墓・亘理神社・戊辰戦役碑・戊辰殉難五十年祭紀念碑・板橋春吉の墓・真光寺・佐々木友五郎墓 |
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角 田 |
長泉寺・戊辰戦死之碑・清流院殿聯山祖遠大居士(石川邦光墓)・瀬谷家之墓(瀬谷一郎治の墓)・徳蔵寺・丹野家之墓(丹野平馬の墓) |
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山 元 |
金泉寺・菊池美作 荒庄三郎碑・菊池美作墓・徳本寺・碩寛院殿竹堂翠雨大居士 碩貞院殿竹窓香雨大姉(大條孫三郎墓)・山元町歴史民俗資料館・戊辰之義人之碑 |
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丸 森 |
旗巻古戦場之碑・明治戊辰戦死者供養碑・北砲台場跡・北砲台跡からの眺め・南砲台場跡・戦死塚(仙台藩士の墓)・常照寺・戊辰戦場之碑・遊仙寺・佐藤宮内墓・真龍院・招魂碑・神明社・戊辰戦死之碑・鹿島神社・戊辰役記念碑・西南戦争戦死者招魂之墓・南征戦死招魂之墳 |
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白 石 |
白石城・片倉小十郎景綱公頌徳碑・奥羽鎮撫総督参謀長州藩士世良修蔵之墓・参謀附属長州藩士勝見善太郎 参謀附属長州藩士松野儀助 墓・世良修蔵の墓の現状・久米部正親(猪野忠敬)墓・傑山寺 片倉子十郎景綱公像・一陽院殿景徳放光大居士(片倉邦憲墓)・佐藤隆郷墓・熱海貞爾墓 |
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鹿角 尾去沢 |
尾去沢鉱山 石切澤通洞坑・選鉱場跡・長泉寺・荒木田政次郎墓 |
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鹿角 花輪 |
恩徳寺・戊辰之役戦死者之墓・戊辰之役戦死者之墓・戊辰役追悼紀念碑・専正寺・圓徳寺 村山廉治墓 |
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鹿角 十和田 |
鹿角市先人記念館・内藤湖南先生誕生地碑・仁叟寺・戊辰戦没之碑 |
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大館 矢立 |
矢立峠遊歩道入口・伊能忠敬測量隊記念標柱・明治天皇御駐輦之地碑・矢立峠一里塚跡碑・矢立杉の碑・矢立杉株跡・吉田松陰の漢詩・東北遊日記・明治天皇御膳水・明治天皇御膳水・明治天皇矢立行在所碑・吉田松陰先生遊歴記念碑 |
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大舘 十ニ所 |
三哲山・成章書院趾・成章小学校・長興寺・官軍 秋藩 忍菊吉墓・官軍 秋藩 月居才助墓・官軍 秋藩 菊地順之助墓・官軍 秋藩 武田富蔵墓・官軍 秋藩 奈良善吉墓・官軍 秋藩 成田又右衛門墓・官軍 秋藩 羽澤半蔵墓 |
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大舘 比内 |
扇田神明社・戊辰激戦之地・忠魂碑・明治天皇巡幸紀念碑・官軍 吉田亥三郎秀一墓・寿仙寺・山城美与墓・烈婦山城みよ女之像 |
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大 舘 |
山王台日吉神社・史跡大館城主佐竹大和本陣跡・明治戊辰激戦之地・桂城公園・石田ローズガーデン 狩野良知・亨吉父子生家之跡・バラ・狩野良知・亨吉生家の跡・大館市立栗盛記念図書館・狩野父子顕彰碑・吉田松陰歌碑・模築 松下村塾・一心院・官軍 秋藩 河野鐡之助墓・河野通安墓(河野鐡之助旧墓)・官軍 秋藩 柏勝治墓・官軍 秋藩 石塚織之助墓・官軍 秋藩 長井久米松墓・官軍 秋藩 山内形之助墓・官軍 秋藩 山本宮三郎墓・官軍 秋藩 瀬尾直之助墓・瀬尾直之助包治墓(旧墓)・根本源三郎為成君墓・官軍 秋藩 根本源三郎為成君墓(旧墓)・官軍 秋藩 松岡政蔵墓・官軍 秋藩 下遠来助墓・遍照院・官軍 秋藩 佐川伊太郎墓・玉林寺・官軍 秋藩 根本兵右衛門墓・官軍 秋藩 石田政治墓 官軍 秋藩 石田正方墓(旧墓)・官軍 秋藩 秋元多吉墓・官軍 秋藩 岸慶治墓・浄應寺・官軍 秋藩 工藤金兵衛墓・官軍 秋藩 滝口定之助墓・宗福寺・官軍 秋藩 青柳又蔵墓・官軍 秋藩 青柳市之進墓・官軍 秋藩 青柳外記墓・官軍 秋藩 青柳長治墓・JR早口駅・岩瀬山戊辰戦争激戦跡・外川原・高陣馬 戊辰戦争激戦跡 |
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北秋田 |
薬師森古戦場 |
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能 代 |
清徳寺・戊辰役肥州八勇士墓・明治天皇富根御小休所・長慶寺・八幡神社・水門龍神社・史蹟 末社龍神社拝殿明治元年戊辰奥羽鎮撫副總督澤三位為量卿参謀大山格之助桂太郎多賀谷家知勤王密議之所・萩の台墓地公園 戊辰殉難者の墓・官軍 松山與七郎之墓・楞嚴院・官軍秋田藩 煤田文八・明治天皇行在所 |
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三 種 |
こまち食品工業㈱・明治天皇御小休所・正四位 勲二等 信太儀右衛門翁碑・儀右衛門公園・明治天皇御巡幸御小休所・歌橋・御巡幸紀念之碑・白鳥・明治天皇聖蹟碑 |
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五城目 |
五城目神明社・贈正五位白土右門之碑・常演寺・贈正五位 故秋田藩権大参事白土清直君之墓 |
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八郎潟 |
三倉鼻公園の地蔵・八郎潟・南面岡公園・南面岡碑銘・明治天皇行在所跡碑・小松宮殿下御手植之桜・正岡子規句碑・清源寺・明治天皇行在所記念碑・観農嘉蹟 |
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潟 上 |
円福寺・明治天皇大久保御小休所・明治天皇御駐輦趾・明治天皇北野御小休趾 |
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秋 田 |
久保田城 御隅櫓・佐竹義尭公銅像・佐竹義尭公の像・弥高神社・秋田八幡神社・中央図書館明徳館・久保田藩黌明徳館址・明治天皇聖蹟・平田篤胤大人終焉之地・五丁目橋・川反観音・平田篤胤先生誕生之地・砲術所跡・旧亀ノ丁新町・正覚寺・織田寅蔵平信之墓・聲体寺・官軍 吉川勇五郎忠行墓・故執政小埜岡府君之墓・吉川忠安之墓・鱗勝院・官軍 秋藩 仁平文九郎之墓・官軍 秋藩 樋口長吉之墓・官軍 秋藩 鎌田伊太郎之墓 官軍 秋藩 忠岩道性居士・官軍 隊長 瀬谷和三郎之墓・容斎佐藤府君之墓(佐藤時之助の墓)・傳法寺・秋田藩士の墓・武藤善太郎の墓・龍泉寺・設楽大助 設楽和一郎 墓・田所勇之進の墓・誓願寺・鯨岡家之墓(鯨岡嘉門の墓)・堀尾茂次晴之墓・郡奉行兼助教志賀先生之墓・龍湖志賀祐五郎墓・應供寺・秋田藩士の墓 |
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秋田 土崎 |
西船寺・肥州藩 池田敬重(池田助之進)墓・興安寺・伊州 佐兵衛墓 |
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秋田 金足 |
旧奈良家住宅・明治天皇北野小休所・今上皇帝行宮玉座 御小休 |
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秋田 北部 |
平田篤胤の墓・官軍 秋藩 大和久治之墓・官軍 秋藩 長井文之助之墓・天神林正之丞之墓・官軍 秋藩 福原藤四郎之墓・官軍 秋藩 古内冨之助之墓・野崎大内蔵徳壽之墓・天徳寺・佐竹氏菩提所・護国神社・高清水公園 秋田招魂社址・秋田城政庁跡・西來院・仙台藩殉難碑・全良寺・官修墓地 秋田藩士の墓・薩摩藩戦死者墓・長州藩合葬墓・肥前藩の戦死者・弘前藩の戦死者・故權大講義荒川秀種之墓(荒川久太郎の墓)・金輪五郎友行墓・正五位小野崎通亮之奥墓・官軍 湊貞治墓・官軍 少尉試補秋田蓮沼浩之墓・官軍 瀧澤信確胎髪之塚・官軍 諸井橘忠孝之墓・官軍 飯村直蔵之墓・宝塔寺・官軍 秋藩 松山才之助正孝墓・官修墳墓・大越國純之墓(大越季之助の墓)・白馬寺・関清治政久之墓・小野崎俊吉通張之墓・官軍 秋田藩菊地山三郎墓・松岳忠高居士(八代忠治の墓)・官軍 秋藩 田口傳八之墓・闐信寺・官軍 秋藩 渋川謙之進之墓・本念寺・官軍 秋藩 北川治三郎之墓・官軍 秋藩 桜田運太郎之墓・明治天皇御駐輦址・薪炭置場 |
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秋田 楢山 |
志賀為吉の墓・仰信寺・官軍 佐藤喜三郎顕忠墓・玄心寺・先祖累代之墓(安部才治の墓)・官軍 秋田藩高橋七之丞墓・満福寺・官軍 秋藩 館岡小太郎之墓・秀峰良善居士 慶巌洞忠居士(石川忠四郎の墓)・官軍 秋藩 斎藤正治之墓・官軍 秋藩 岡村杢之助之墓 |
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秋田 下北手 |
歓喜寺・官軍墓 |
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秋田 新屋 |
忠専寺・佐賀藩士の墓・天龍寺・樋口泉兵衛墓・葉隠墓苑佐賀藩士慰霊碑・佐賀藩士の墓 |
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秋田 下浜 |
本敬寺・松山藩士毛呂太郎太夫正孝戊辰之役長浜戦終焉之地碑・毛呂太郎太夫の墓・戊辰戦役長濵古戦場碑 |
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秋田 雄和 |
潜竜寺・普門院・新波橋・椿台城跡・椿台カントリークラブ・戊辰戦争砲台跡・陣笠墓地 五十嵐永吉墓・戊辰戦争糠塚森の決戦 |
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秋田 御所野 |
明治天皇御野立跡 |
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秋田 和田 |
明治天皇聖蹟・行幸坂紀念碑 |
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秋田 大張野 |
鬼子母神社・明治天皇聖蹟・駐蹕碑・士魂城之碑・明治天皇玉歩之聖趾 |
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大仙 協和 |
小種戊辰公園 戊辰役戦没者慰霊碑・萬松寺・戊辰戦役無縁慰霊碑・佐土原藩士慰霊碑・徳昌寺・官軍 鳥取藩 杉本文右衛門之墓・明治天皇行在所碑・御膳水碑・白糸の滝・明治天皇 御膳水跡 |
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大仙 大曲 |
大川寺・戊辰役戦死官軍碑・八幡神社・島津新八郎戦死記念碑・長福寺・戊辰役舊薩藩戦死者墓趾・薩摩藩墓地・満友寺・船通寺・庄内藩阿部千万太の墓 |
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大仙 角間川 |
角間川町川港親水公園・戊辰役鎮魂碑・覚善寺・渋川謙之進直正之墓 享年二十六歳 山縣此作頼親之墓 享年二十四歳 田所要蔵直忠之墓 享年二十二歳・浄蓮寺・官軍 鎌田勘三郎墓・新庄藩 美濃本藤三郎墓・藤木 秋田 夫卒 高橋喜八郎之墓 |
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大仙 刈和野 |
願龍寺・梅津源三郎墓・奥田多助墓・長浜忠七郎墓・本念寺・福岡藩、平戸藩士の墓・普洞院・三宅重右衛門墓・松田重助墓・秋田藩 夫卒信田長作墓・明治天皇聖蹟 |
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大仙 土川 |
円満寺・官軍 秋田 小木田敬吉・半道寺西野墓地 小松助左衛門墓・小松永三郎墓 |
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大仙 楢岡 |
南翁寺・新庄藩士・長崎振遠隊士墓 |
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大仙 神宮寺 |
神宮寺嶽・宝蔵寺・秋田藩士・長州藩主・薩摩藩士・長崎振遠隊士の墓・官軍 伊集院某の墓 |
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大仙 中仙 |
一ノ坪墓地 山田友蔵墓・仙台藩慰霊碑 |
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大仙 太田 |
竹村庫之丞戦死の地・竹村庫之丞宗信墓・霊仙寺・仙台藩八名墓 |
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大仙 豊川 |
南無妙法蓮華経(戦死之首塚) |
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大仙 下鶯野 |
官軍 鈴津重政霊神安鎮座 |
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仙 北 |
角館武家屋敷・常光院・官軍(大村藩・平戸藩戦死者)墓地・官軍 大村藩 浜田謹吾重俊墓・少年鼓手の碑・報身寺・官軍 秋田 陶貞蔵源光貞之墓・宇津巻天神・浜田謹吾銅像・百穂苑・大威徳山・岩瀬川原戊辰戦争顕彰之碑・戦死者墓・天寧寺・官軍 佐土彦七忠光墓・松庵寺・白坂兵右衛門忠利墓・本明寺・官軍 秋藩 植田新太郎之墓・龍泉寺・官軍 秋藩 武田七之丞墓 |
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美 郷 |
台蓮寺・戊辰ノ役戦没 仙台涌谷藩士之墓碑・円福寺・維新勤王 辻辰之助夫妻之霊・善巧寺・町野嘯二墓 |
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横 手 |
横手城・戊辰戦死碑・秋田神社・秋田神社(弾痕)・龍昌院・戸村家顕彰碑・沼田家之墓・戊辰戦死者墓所・春光寺・秋田藩士墓 長崎振遠隊墓・官軍 秋藩 斑目善左衛門廣敬碑・円浄寺・秋田藩月沢儀助墓・榎本武揚詩碑・正平寺・官軍 秋藩 赤尾関市兵衛為巳墓 |
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横手 平鹿 |
最香寺・新庄藩岡村頼母墓・永蔵寺・官軍 高橋庄右衛門墓 |
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横手 増田 |
新庄藩士の墓 |
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横手 大雄 |
耳取古戦場・秋田藩夫卒専蔵墓・折橋農村公園・戊辰戦死之碑・萬栄寺・陸戦軒田忠秋村信士 俗名菊地弁左衛門 |
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横手 雄物川 |
松雲寺・官軍 秋田藩 設楽和一郎墓 |
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横手 十文字 |
官軍 柴田傳之助墳墓 |
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湯 沢 |
安乗寺・岡田兵槌昌茂墓・清涼寺・中野惣吉重宗墓・本諦院殿衝山成立大居士 佐竹珍傳(早川輔四郎)墓・戊辰戦役五十周年記念 忠魂碑・雲岩寺・恭寧院大英良機居士(北条左金太の墓) |
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湯沢 岩崎 |
戊辰役忠魂碑・岩崎城跡 |
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湯沢 院内 |
信翁院・犬・官軍 小倉藩 上田篤兵衛墓・官軍 小倉藩 森田平右衛門墓・官軍 鍋島藩 古川善太郎墓・秋田藩 木村角右衛門墓・JR院内駅・史蹟 院内関趾・院内関所趾・仙台藩士 青山六之丞之碑・院内銀山 異人館跡・三番共葬墓地・官軍 小山勇墓 |
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由利本荘 岩城 |
天鷺城・図書館 長善館・藩校 長善館跡・亀田城・龍門寺・岩城隆邦の墓・岩城隆政の墓・忠徹儀孝居士(小田部忠蔵の墓)・太平寺・即安明心居士(石塚英治の墓)・正念寺・四倉安兵衛胤精墓・忠山英徹居士(芳賀賢助の墓)・天鷺神社・戊辰戦死碣・忠烈碑 |
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由利本荘 |
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由利本荘 矢島 |
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にかほ |
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筆者がいうように、板垣退助という名前は誰もが知っていながら、「意外にその事績は知られていない」のが実情である。板垣の人生は「一人五生」とも称される。つまり、幕末には土佐討幕派の中心人物であり、戊辰戦争では軍事指揮官としての名声を獲得し、明治初年には藩政改革を指導して明治政府の参議となった。しかし権力闘争に敗れて下野して以降、自由民権運動の指導者として活躍することになる。我が国初の政党内閣である隈板内閣が崩壊すると、急速に指導力を失い政界を引退、その後社会政策の推進にも力を尽くした。
土佐では明治維新を迎える時点で、藩外まで名の知られた志士は悉く落命していた。吉村寅太郎、武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎、いずれも維新前に無念の死を遂げた。維新前乾退助と称した板垣は、上士の出身であり、勤王党には属していなかったが、土佐藩の上士にしては珍しく尊王攘夷を主張していた。
山内容堂は、そんな板垣を「有為之才」があるとみて、藩の重職に登用した。板垣は容堂に対してたびたび諫言し、時には免職されることもあったが、それでも武市半平太のように命をとられることがなかったのは、(吉田東洋暗殺のような重罪を犯していなかったことは勿論であるが)板垣には「かわいげ」があったからかもしれない。人間が組織で生き残るには様々な能力が必要とされるが、案外「かわいげ」も重要な要素なのである。
鳥羽伏見の戦争が始まると、容堂はこれを薩長と旧幕府(会桑)の私戦とし、土佐藩兵が戦闘に加わることを厳禁した。これに反して板垣が藩の兵制改革で任命した隊長たちが戦闘に参加。鳥羽伏見の戦いは、薩長を中心とする新政府軍の圧勝に終わり、ぎりぎりのところで土佐藩は命運をつなげることができた。板垣は迅衝隊大隊指令兼仕置役に任命され、東山道先鋒総督府参謀として戊辰戦争を戦った。戦後の論功行賞では板垣は後藤象二郎と並んで永世禄千石が与えられた。この時、板垣は土佐閥を代表する存在に躍り出たと言って良いだろう。
明治二年(1869)四月九日には新政府の参与に任命された。政治家板垣退助の誕生である。政治家板垣退助の経歴は平坦ではない。明治六年の政変、さらに明治八年の政変でも権力闘争に敗れ、その後は在野で自由民権運動に傾注した。一般には自由民権運動の象徴的存在と認識されている。
筆者は、板垣の政治力は藩閥政治家の大久保利通や伊藤博文、あるいは大隈重信にも遠く及ばなかったと評する。確かに政治家に必要とされるしたたかさや意表をつく戦略性とは無縁であった。政治家を稼業とするには、あまりに正直で一本気であった(土佐でいう「いごっそう」そのものであった)。
板垣の弱さが如実に現れたのが明治十五年(1882)の外遊問題であった。明治政府は自由党の切り崩しを画策し、板垣総理を外遊させ発足間もない自由党の分断を図った。板垣は、政府の策略にまんまと乗り、明治十五年(1882)から翌年六月までヨーロッパへ渡航した。問題は外遊費の出所であった。馬場辰猪や大石正巳は、土倉庄三郎から出ているというが、その実は政府から間接的に出ていると追及した。これに対し板垣は土倉からのもので間違いないと反論した。後に解明されたところによれば、井上馨の斡旋により三井銀行から後藤に支出されたルートと土倉庄三郎からの二つのルートがあったという。板垣自身は第二のルートしか知らなかったのだろうが、板垣の外遊費を巡る疑惑は立憲改進党からの批判の的となったし、自由党内の党内抗争が激化し、板垣自身の清廉なイメージは著しく低下した。
追い打ちをかけたのが、辞爵事件であった。明治十七年(1884)に華族令が公布された。これを受けて明治二十年(1887)、板垣には伯爵が授与された。当時の首相伊藤博文は、再び活性化し始めていた民権派の機先を制し、在野指導者に叙爵を行うことで「官民調和」を一段と強化しようという政治的意図があった。明治維新以来、封建門閥を批判し、華族制度に反対していた板垣としては、爵位の辞退は当然のことであった。旧自由党系の関係者もほぼ全員が辞爵を薦めていたのである。板垣が自ら華族となれば、将来二院制が設置された場合、板垣は貴族から選出される上院議員にならざるを得ない。
板垣は再々辞爵を申し入れたが、度重なる明治天皇の却下を受けて、最後は伯爵位を拝受した。旧自由党系の関係者は「このような無節操な人物と将来ともに政治上の運動をすべきではない」と強く反発した。この辞爵事件も板垣の求心力を低下させる事件となった。
明治二十七年(1894)、日本は清国との戦争に勝利したが、三国干渉を受け遼東半島を放棄することになった。立憲改進党は三国干渉に対する伊藤内閣の責任を追及した。これに対し、自由党は伊藤内閣と提携し、ともに戦後経営を担う決意を表明した。明治二十八年(1895)四月、板垣は第二次伊藤博文内閣の内務大臣に就任した。この時、板垣は六十歳。明治八年(1875)の政変により下野して以来、二十一年という歳月が経っていた。板垣が入閣したことは、在野の政党政治家として名声を得てきた板垣のイメージダウンを招いた。当時のマスコミは「自由主義、自由党の死」と報じ、「板垣は生きているのに、自由は死んだ」と揶揄した。
明治三十一年(1898)、伊藤内閣が崩壊すると、いわゆる隈板内閣が成立した。隈板内閣では、大隈重信が総理大臣、板垣退助が内務大臣に就任した。振り返れば、板垣が総理に就任する最初で最後のチャンスであったが、この頃板垣は「自分は首相の器ではない」と繰り返し口にするようになっており、この頃から政界引退を意識するようになっていた。一方の大隈は、年齢では板垣と一歳違いであったが、首相就任に意欲を見せていた。この差が、板垣を総理にさせなかったのである。
大正八年(1919)七月十六日、板垣は東京芝公園の自宅で死去した。享年八十三。板垣は死に際して自分は一代華族論者であるから、必ず襲爵を辞退するよう嫡子に遺言した。板垣の死は、一代華族論を実行したことと合わせて報じられ、下火になっていた板垣人気に再び火が着いた。各地で銅像が建てられ、彼の政治家としての経歴は「自由党史」で伝説化されていった。決して政治家としては一流とはいえなかったし、成功したともいえないが、何故か板垣の周りには片岡健吉、河野広中、星亨、杉田定一、栗原亮一、植木枝盛といった人たちが集まり、彼を支え続けた。なかなか後世からは見えにくいが、どこか抜けているけど放っておけない人間的な魅力のある人だったのではないだろうか。
ということで、いきなりであるが、「車中泊入門」である。
これまで史跡を訪ねる中で、北海道、新潟、山形、宮城、岐阜などで車中泊を体験した。昨年のゴールデンウイークには、竹さんご夫妻と車中泊で広島県内を回った(考えてみれば、ご夫婦+おじさん一人という三人組の車中泊は珍妙だったかもしれない)。
振り返っていえるのは、どの車中泊でも良く眠れたことはない。寒さでとても寝付けなかったこともあるし、車の座席がフラットではなくて寝心地が悪かったこともある。人によっては「どこでも寝られる」という人もいるが(竹さんは間違いなくそのタイプであった)、私は睡眠に関しては他人より神経質なようである。だから、これまでできるだけ車中泊は避けてきた。
しかし、どれくらいの時間で目的の墓を発見できるか読めない史跡の旅は、どこで日が暮れて、どこで泊まることになるのか、事前に読めないことが多い。最後はいつも日没との戦いになってしまうし、手配していたホテルまでまだ距離があることもある。実は史跡の旅と車中泊は相性が良いのである。
来年の三月には定年を迎える。まだしばらく会社にはお世話になる予定であるが、これを機に、心地よい車中泊が可能な専用車を購入したいと思っている(その前に嫁さんを説得しないといけないが…)。
本書は、車中泊日数2500日以上という筆者の車中泊ノウハウが詰め込まれた一冊である。車中泊の旅をしようという人には、筆者が提唱する「車中泊マナー10カ条」を胆に銘じておくべきであろう。特に「ルールに従う」「迷惑をかけない」「マナー違反にならないか、判断しかねたらやめておこう」「ひっそり静かにが基本であることを忘れずに」というご指摘は、なるほどごもっともである。
足もとは、新型コロナ感染が終息しておらず、気安く地方に旅行できる雰囲気ではない。何時になったら、車中泊の旅を楽しめるのか全く先が見通せないが、当面は地図を見ながら頭の中で旅をシュミレーションするしかない。
本書「はじめに」では「日本の近代化のスタート地点とされ、奇跡のような革命と称賛されることが多い「明治維新」など、一歩踏み込めば暗殺および暗殺未遂事件のオンパレード」と解説しているが、そのとおりであろう。ペリー来航から明治改元までの十数年間で「百件を超える暗殺事件」が起こったという。比較的治安が良いといわれる我が国であるが、この時代に限っていえば、血で彩られていたといって過言ではない。
現代においては、たとえ相手が犯罪者であっても暗殺やテロは、非難の的となる。(一昔前のことになるが)オーム真理教の幹部や悪徳商法で社会問題化した豊田商事の会長が刺殺された事件でも、犯人は殺人者として裁かれた。
現代の目で幕末維新時の暗殺やテロを批判することは容易であるが、あまり意味のあることとも思えない。とはいえ、無抵抗のターゲットを斬殺しその首を衆人のもとにさらしたり、外国商船を砲撃して「洋夷与し易し」と浮かれる長州藩士を戒めた中島名左衛門を暗殺した事件など、狂気の沙汰としか思えない。明治政府は、テロ実行犯を靖国に合祀し贈位して顕彰したが、当時の道徳に照らしても褒められるような行為ではなかったのではないか。
思えば当時の武士階級は、殺傷能力の高い日本刀を常時携帯していた。銃社会である現代アメリカにおいて、乱射事件や殺傷事件が絶えないのも、手を伸ばせば身近なところに武器があるからであり、銃を無くせばそのような惨劇は減るのは自明のことである。同様に当時の日本は、武器を手にしていた(しかも切捨御免の特権まで与えられた)人がウロウロしていたわけで、テロや暗殺が横行したのもある程度の必然性があったのかもしれない。
本書は幕末維新期に発生した暗殺、テロ事件を羅列しているだけでなく、一つの興味深い論争を紹介している。明治十一年(1878)、大久保利通が暗殺されると、政府は直ちに官位を追贈し、大久保家を継いだ利和は侯爵に列せられた。
これを知った井伊家旧臣の遠城謙道は、井伊直弼への追贈を明治天皇に訴え出た。井伊直弼も大久保利通と同じように「忠君愛国」に身を捧げたにもかかわらず、いまだ冤罪が晴れていないとし「利通倘シ追賞スベクレバ、直弼モ亦追賞スベシ。直弼決シテ追賞ス可ラザレバ、利通モ亦決シテ追賞ス可ラズ。請フ、陛下其一拓ニテ此ニ処シ玉ンコトヲ」というのである。もちろん太政官はこの建白を受け入れなかった。
明治政府は一貫して井伊は悪役、井伊を暗殺した水戸浪士を「烈士」として顕彰してきた。しかし、世の中が落ち着くにつれ、旧臣の間から井伊直弼を「開国の恩人」として復権させようという動きが起こる。彼らは井伊の顕彰碑や銅像を建立しようとしたが、政府の圧力を受けてなかなか実現しなかった。横浜の戸部に井伊直弼の銅像が建てられたのは、明治四十二年(1909)のことである。
銅像の除幕式は、各国大使を招いて盛大に開かれるはずであった。ところが、当時はまだ維新に活躍した志士たちが健在であった。伊藤博文、井上馨、松方正義の三元老は憤慨し式をボイコット。元老大臣で出席したのは大隈重信だけであった。関係者が存命のうちは、冷静に事件を論じるのは難しい。その端的な例といえる。
今年は桜田門外の変から百六十年。十分な時間が経ったといえるが、大久保を顕彰し、井伊直弼は顕彰しない、あるいは水戸浪士を顕彰し、大久保暗殺犯はそうしないことを論理的に説明するのは難しい。
「創刊80周年限定復刊」と銘打って、岩波新書が往年の名著から厳選して復刊している。本書は、昭和五十年(1975)にその時点で十五年余りが経過していた旧版に、その後筆者自ら誤りや妥当性を欠いたものを訂正して再刊されたものである。だから「第二版」となっている。それにしても、今から四十五年も前のことであり、著者石井孝先生も平成八年(1996)にお亡くなりになっている。もはや古典的作品と呼んでもおかしくない本であるが、内容は刺激的である。昨今、「明治維新は薩長の謀略」「明治維新は、徳川から薩長が政権を略奪しただけ」だと主張する奇説が幅をきかせているが、本書を一読すれば、この時代において謀略は薩長の専売特許ではなく、幕府もそれに負けじと策略を巡らせていたことが分かる。
本書は「明治維新の舞台裏」と名付けられている。政局の裏側で外国人が大きく策動して日本人を操ろうとしている。そうした外国人の動きを明らかにしようというのが執筆の動機となっている。
薩摩藩、長州藩は、外国公使に対し「外交には反対ではなく、それどころか領内の港を開く用意もあるけれども、外国貿易を独占して大名の貿易への参加を排除しようとして、大君(将軍)がそれを妨げている」と主張した。長州藩は少なくとも四か国連合艦隊による下関襲撃までは攘夷を藩是としていて、部分的にはこの主張に違和感はあるが、貿易の利を幕府が独占していたのは事実である。雄藩は何とかして貿易による利益の分け前を自分たちにも…と要請するが、幕府は頑としてその一線は譲らなかった。
薩摩藩は「外交には反対ではない」と言いつつ、兵庫開港を幕府を揺さぶるための「最後の切札」として最大限利用した。薩摩藩は、家茂が亡くなり将軍が空席となった間隙を縫って、兵庫開港問題を雄藩による大名会議(諸侯の合議政治)によって協議して決することを画策した。薩摩藩の動きを察知した慶喜は、将軍に就任するや英・米・仏・蘭の四国代表を大阪城に招待し、そこで兵庫開港を言明した。将軍慶喜の政治的勝利であった。
この頃、幕府の親仏派・徳川絶対主義者たちは、フランスからの借款を得るために蝦夷地産物の開発権を抵当に入れるという劇薬を採ろうとしていた。筆者は「権力者にとっては、自国の独立よりもその権力の存続のほうがはるかに重大な関心の対象」であり「幕府はその断末魔にさいして、ただ一つの頼みの綱、借款を実現するために、蝦夷地の利権を外国の銀行に売り渡そうとした」と批判する。幸いなことに重大使命を帯びた栗本鋤雲がフランスで交渉に当たっている最中に、幕府は倒壊しこの借款は実現することはなかった。
兵庫開港を契機に、幕府は兵庫商社を設立して、貿易の利の独占を目論んだ。同時にフランス側でも「フランス輸出入会社」が設立され、フランスは日本の生糸を独占的に輸入しようとたくらんだ。幕府はその収益で武器弾薬を手に入れようとした。これが実現進展すれば日本の半植民地化は避けられなかったであろう。
大政奉還後、慶喜は大名から構成される上院と各藩一人ずつの藩士で構成される下院の上下両院制度を構想していた。自ら上院の議長を兼ね、両院会議で議事が決しないときは採決権を有するというものであった。
一見すると、明治政府が目指した公議政体論と似た構想のようでもある。しかし、飽くまでも徳川家の存続と繁栄を目指すトクガワ・ファーストであった。日本の近代化のためには遅かれ早かれ徳川家は排除されるべき存在だったのだろう。
本書を読むと、幕末の舞台裏でイギリスとフランスという二大国が暗闘していたことが手に取るように理解できる。我が国が西欧列強の植民地にならなかった理由について、巷間様々な説が唱えられている。もちろん市場としての魅力が劣っていたことが大きいと思うが、それに加えて両二大国が互いに牽制しあっていたことが結果的に日本にとって幸運だったように思う。
読み終わった本を本棚に並べようとして、四十五年前に買った同じ本を発見した。またやっちまった。
(府中市郷土の森公園)
府中郷土の森公園
府中市郷土の森公園は、体育館、プールや野球場、サッカー場、交通遊園などを備えた広大な公園である(府中市矢崎町5‐5)。郷土の森博物館のエリアは、博物館、復元建築物のほか、四季折々の花が楽しめる森林エリアが広がる。復元建築物としては、旧尋常小学校、旧府中町役場、旧府中郵便取扱所など府中市に残っていた歴史的建築物を集めて、維持保存展示しているのである。こうして貴重な文化財を一か所に集めて保存のために継続的に手をかけていくことは非常に意義があることだと思う。このような施設が全国的に拡がると良いのだが。入園料は大人三百円。
旧前田家住宅
前田家は、甲州街道府中宿を代表する商家で、明治天皇が兎狩りをした際には、休憩所や宿泊所として利用された。幕末には府中宿の脇本陣を務め、旅籠も営んでいた。明治天皇が利用した奥座敷も残っている。
明治天皇府中行在所
旧前田家住宅
玄関~奥座敷
(ニッセイ池袋ビル)
明治天皇御野立所跡
池袋駅から徒歩六~七分というニッセイ池袋ビルに明治天皇御野立所跡碑が建っている(豊島区東池袋1‐24‐1)。
明治天皇が当地を訪れたのは、明治八年(1875)十二月二十七日のことで、近衛兵の演習を観覧する途中、当地で休憩をとったとされる。
(渉成園)
名勝 渉成園
回棹廊(かいとうろう)
渉成園は東本願寺の飛び地境内地(別邸)である。十三代宣如上人が三代将軍徳川家光から東本願寺の東側の土地を寄進された。宣如上人は、承応二年(1653)に隠退して自らの隠居所をここに定め、渉成園と名付けた。文政年間には頼山陽が「渉成園記」を撰して「渉成園十三景」を紹介した。回棹廊の十三景の一つでえある。
渉成園は、創立以来、幾度かの火災に遭い、現在の建物は元治元年(1864)の蛤御門の変による炎上以後に再建されたものである。
十四代将軍家茂、十五代将軍慶喜も渉成園をことのほか気に入り、何度も訪れた。慶喜は「渉成園」と揮毫した額を残している。ほかにも尾張藩主慶勝や福井藩主松平慶永(春嶽)も渉成園に遊んだことが記録に残っている。
明治天皇御小休所枳殻邸
慶応四年(1868)三月二十一日、同年閏四月八日、明治五年(1872)六月四日、明治十三年(1880)七月十四日と、四回に渡り滞在している。明治十三年(1880)の滞在の折には、大宮御所から東本願寺に建物が移築されることになり、渉成園には車寄せが移築された(現在の大玄関の建物)。