史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

東山七条 Ⅲ

2020年12月19日 | 京都府

(耳塚公園)

 

耳塚

 

 豊国神社の鳥居の前に耳塚がある。耳塚は十六世紀末、豊臣秀吉が朝鮮半島に侵攻した文禄・慶長の役に関わる遺蹟である。秀吉旗下の武将は、古来一般の戦功のしるしである首級の代わりに、朝鮮軍民男女の鼻や耳を削ぎ、それを塩漬けにして日本へ持ち帰った。秀吉の命によりこの地に埋められ供養の儀がもたれたという。秀吉が起こしたこの戦争は、朝鮮半島の人々の根強い抵抗によって敗退に終わったが、朝鮮民衆の受難を今に伝えている。

 

明治天皇御小休所下京第廿七區小學校阯

 

 耳塚に隣接する耳塚公園には、明治天皇が明治五年(1872)五月三十日に行幸したことを記念した石碑が建てられている。

 

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二条城 Ⅲ

2020年12月19日 | 京都府

(二條若狭屋)

 

二條若狭屋 本店

 

明治天皇歌碑

 

 二條若狭屋は大正六年(1917)創業という和菓子店で、二条城の東に本店がある。その店の前に明治天皇の御製碑が建てられている。明治三十九年(1906)の御製である。

 

 もろともにたすけあひつつ国民の

 むつみあふ世ぞたのしかりける

 

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円山公園 Ⅴ

2020年12月19日 | 京都府

(祇園)

 

薩土討幕之密約紀念碑

 

 祇園は京都市内でも随一の繁華街である。夜の賑わいに比して、昼間はそこはかとなく脱力感の漂う街と化す。その一角に昨年(令和元年(2019))薩土討幕之密約紀念碑が建てられた。この場所は、実際に密約が結ばれた小松帯刀邸ではなく、密議が交わされた祇園の料亭近安楼跡である。

慶応三年(1867)五月十八日、土佐藩の乾退助、福岡藤次(のちの孝弟)、中岡慎太郎と広島藩の船越洋之助(のちの衛)が近安楼で武力討幕の密談を交わした。その三日後、中岡の仲介で薩摩の西郷と乾退助との間で薩土討幕の密約が結ばれた。乾は国もとに帰り、軍制の改革、近代式練兵を行ってその日に備えたが、一方で坂本龍馬の提唱する大政奉還論を主体とした薩土同盟が後藤象二郎によって結ばれている。乾は大政奉還に猛反対するが、山内容堂によって解任されてしまった。しかし、同年十二月二十八日、風雲急を告げると、西郷隆盛は土佐藩に対し出兵を要請。この時、容堂は「この戦争は薩長と会桑との私闘であり、戦闘に参加してはならない」と厳命を下したが、それに反して慶応四年(1868)正月四日の伏見での戦いに土佐藩兵(山田喜久馬、吉松速之助、山地忠七、北村長兵衛ら)は参戦した。遅れて土佐から乾退助も出陣し東征軍に加わった。土佐藩が明治新政府で薩長肥とともに一角を占めることができたのは、薩土密約により討幕の兵を出したことが大きな意味を持つことになった。

 

 

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徳島 Ⅳ

2020年12月12日 | 香川県

(眉山公園)

 

明治天皇景仰碑

 

 標高290メートルの眉山の山頂付近に明治天皇景仰碑が建てられている。本来であれば、ここから徳島市内の眺望が楽しめるはずだが、この日は雨で視界不良であった。

 この石碑は教育勅語の渙発四十周年を記念して、昭和七年(1932)に竣工したものである。先の大戦後、碑とその周辺は荒廃がひどかったが、明治維新百周年を期して、四国放送の特別協力を得て、原型に近い状態で復元された。題字は東郷平八郎。

 下部には明治天皇が明治三十七年(1904)に詠んだ御製が刻まれている。

 

 よもの海みなはらからと思ふ世に

 など波風のたちさわぐらむ

 

明治天皇像

 

 眉山中腹には明治天皇尊像がある。

 

(眉山)

 

福浦元吉旌忠之碑

 

 福浦元吉旌忠之碑は、八幡神社の裏側、中島錫胤や蜂須賀茂韶らの石碑がある場所にある。ひと際大きな石碑なのに、前回訪問時(もう十五年以上も前になる)には写真を取り忘れていた。福浦元吉は淡路島洲本出身の商人。同じく淡路島出身の古東領左衛門に触発されて尊攘運動に奔走するようになり、文久三年(1863)の天誅組の挙兵に参加した。九月二十五日、鷲家口にて藤本鉄石とともに壮絶な死を遂げた。三十五歳。旌忠之碑は明治三十一年(1898)建立。北畠治房撰文、蜂須賀茂韶篆額。

 

水竹新井先生之碑

 

 春日神社の裏、八坂神社境内に水竹新居先生碑がある。庚午事件から四十年後に建立されたもので、水竹の事績が刻まれている。

 

(清水寺)

 

清水寺

 

 清水寺には小倉富三郎の遺髪墓があるはずだったが、残念ながら見つけられず。

 

(善学寺)

 善学寺には幕末を代表する算術家、暦学者である小出長十郎の墓があるはずだが、これも発見できず。移葬されたものと考える。

 

善学寺

 

(本福寺)

 この日は朝から雨だった。レンタカーを調達するまでの時間、駅前でレンタサイクルを借りて高松市内の寺院や墓地を回れるだけ回ろうという計画を立てていたが、この雨では断念せざるを得なかった。結局、レンタカーを手に入れてから活動スタートとなったので、一時間以上のロスであった。

それでも高松市内から東かがわ、鳴門までは順調であった。県道41号線を通って石井町東覚円に至り、そこで志摩利右衛門の墓を探したが、さっぱり見当がつかなかった。再調査して出直すしかない。

天気予報ではこの雨は午後にはやむということだったが、「当たらなくてよい予報ほど的中し、当たって欲しい予報は外れる」という法則とおり、雨はやむことがなく終日振り続けた。雨の日の史跡探索は苦痛である。カメラは濡れるし、靴の中まで水が浸入してぐちゅぐちゅになった。その上、足もとはぬかるみ、目当ての史跡や墓に行きつかないとなるとストレスがたまる一方である(八王子に戻って早速防水仕様の靴と防水スプレーを買った)。

徳島市内では眉山山頂の明治天皇景仰碑、山腹の明治天皇像や福浦元吉旌忠之碑、新居水竹碑までは予定とおり行ったが、ここから躓いた。清水寺の小倉富三郎の墓や善学寺の小出長十郎の墓は見つけられず断念。本福寺の牛田九郎の墓も、寺の立てた説明には「牛田九郎の墓」と記載されているにも関わらず、探し当てることはできなかった。隣接する東照寺で小川錦司の墓を発見するのがやっとで、日没までまだ時間はあったがここで気力が果ててしまった。いずれ徳島は天気の良い日に再挑戦せねばなるまい。

 

本福寺

 

牛田九郎と下条勘兵衛は、明治三年(1870)の庚午事変の際、徳島藩兵が美馬の稲田家を襲おうとするのを名西郡下浦まで追い、中止を説得したが、藩兵側はなかなか応じない。二人はその場で屠腹して説得しようやく藩兵は引き返した。

 

(東照寺)

 小川錦司は徳島藩士。明治三年(1870)の庚午事変で稲田家襲撃に関与したため同年九月蓮花寺にて切腹を命じられた。十八歳という若さであった。

 

東照寺

 

小川錦司民金

 

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鳴門

2020年12月12日 | 徳島県

(北灘)

 

伊能忠敬上陸地点

 

 伊能忠敬は、四国にも測量に訪れている。忠敬が四国に入ったのは文化五年(1808)十一月五日のことで、「測量日記」には「五日朝晴天西風六ツ前引田村出立 乗船シテ阿州板野郡碁之浦へ着 此夜晴天測量」と簡潔に記されている。この時、測量隊を受け入れ協力したのが、讃岐国大内郡馬宿出身の久米通賢であった。久米通賢は、大阪で間重富の下で暦学・数学を学んだ。文化三年(1806)、高松藩の測量方に採用され、領内の実測測量地図を作成した実績があり、伊能忠敬のサポート役としてはうってつけであった。

伊能忠敬が上陸した鳴門市の碁之浦は香川県から国道11号線を東進すると県境をまたいで直ぐの場所である。港の入り口に木製の大きな記念碑が建てられている。

 

碁の浦港

 

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東かがわ

2020年12月12日 | 香川県

(馬宿)

 

久米通賢墓

 

 久米通賢(みちかた)は、通称栄左栄門。安永九年(1780)、讃岐馬宿村の生まれ。高松藩の天文測量方となり、文化五年(1808)、伊能忠敬が讃岐を測量した時には案内役を務めた。文政九年(1826)、郷方普請奉行に任命され、文政十二年(1829)、坂出東、西大浜一〇一町歩の塩田を完成した。同時に銃器なども製作した。天保十二年(1841)、没。

 

紀功碑

 

 久米家の墓地の近くには、久米栄左栄門通賢を顕彰する紀功碑が建てられている。昭和二十六年(1951)の建立。

 

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高松 Ⅲ

2020年12月12日 | 香川県

(円座町)

 

小橋家墓地

 

 円座町の田んぼの真ん中に勤王一家小橋家の墓がある。

 

贈正五位 香水小橋先生之墓

 

 小橋安蔵は文化五年(1808)の生まれ。父は儒医小橋道寧といった。香水は号。八歳で大内郡南野村に出て伊藤弘に漢書、算術を修めた。十八歳で父を失ったが、大阪に出て篠崎小竹、後藤松陰らを訪い、また江戸に遊んで古賀侗庵、藤森弘庵、大槻磐渓に学んだ。弘化三年(1846)、再び江戸に出て米艦渡来の状を詳らかにして国防の急務を覚り、奮然として国事に尽くそうとし、翌年高松藩に戻り、貧民の救恤、海防について上書したが、斥けられた。安政元年(1854)、越後の長谷川鉄之進が来り、ともに義挙を企てて軍資器物の調達にあたった。やがて子の友之輔が江戸から帰ると、太田次郎、村岡宗四郎らに軍器調製を担当させた。文久三年(1863)八月、大和行幸を聞き、兵器弾薬を整えて一族と丸亀を発しようとしたが、政変のため水泡に帰した。このとき友之輔は長州に走り、安蔵は捕らえられて兵器は没収され、翌元治元年(1864)、自宅幽閉に処され、慶応元年(1865)には友之輔の累をもって投獄された。明治元年(1868)、政府軍が高松に入るに及んで出獄した。明治五年(1872)、年六十五で没。

 

贈正五位 小橋友之輔君墓

 

 小橋安蔵は、高松藩における勤王派の中心的人物であった。松平頼該(左近)、松崎渋右衛門と親交があり、弟木内順二、小橋橘陰、妹村岡箏子とその子宗四郎、太田次郎らを尊王攘夷運動に巻き込んだ。安蔵の子、友之輔も父の影響を受けて尊王の志厚く、長州に走って元治元年(1864)の蛤御門の変に参加して戦死。十九歳であった。特旨をもって正五位を贈られた。

 

(法然寺)

 

法然寺

 

 法然寺は、建永二年(1207)、讃岐に流された浄土宗開基法然上人ゆかりの満濃町生福寺(しょうふくじ)を高松藩初代藩主松平頼重が現在地に松平家菩提寺として再興した寺院である。

 寛文八年(1668)、以前からこの地にあった勝(ちぎり)神社を現在の雌山に移し、多くの門や堂を完成させるのに三年余の歳月を費やした。今も建物には当時建てられたものが多く残っている。

 

般若台

 

 雄山山頂の般若台には初代頼重を始めとした歴代藩主、一族の墓碑が二百二十二基も立ち並び、圧巻である。

 

高松松平家墓所

 

厚徳院殿閃蓮社温誉知遠源懿大居士

(松平頼聡の墓)

 

 松平頼聡(よりとし)は天保五年(1834)の生まれ。嘉永六年(1853)、頼胤の世子となり、従四位下侍従に叙任され宮内大輔を称した。文久元年(1861)、家督を継いで讃岐守を称した。文久三年(1863)、はじめて朝覲、ついで岩清水社行幸に供奉した。元治元年(1864)七月、禁門の変に参内、御所の守衛に任じられた。ついで長州征伐の命を受けて発したが、翌慶應元年(1865)帰藩。慶應四年(1868)、鳥羽伏見の戦いでは方向を誤って官位褫奪、京都藩邸を没収されたが、翌二年(1869)には赦されて高松藩知事に任じられ、廃藩までその任にあった。明治三十六年(1903)、年七十で没。

 

正二位勲一等伯爵松平頼壽之墓

 

 松平頼壽(よりなが)は明治七年(1874)の生まれ。頼聡の八男。母は千代子(井伊直弼の娘)、妻は水戸藩主徳川昭武の娘昭子。昭和八年(1933)、貴族院副議長に就任すると、その四年後には近衛文麿総理大臣のもとで貴族院議長に就任し、昭和十九年(1944)、六十九歳で没するまでその職にあった。貴族院葬で送られている。

 

(本堯寺)

 

本堯寺

 

松平頼該霊廟

 

 円座町の本堯寺には、松平頼該(左近)の霊廟がある。

 松平頼該(よりかね)は、文化六年(1809)の生まれ。通称は左近、雅号は金岳といった。父は高松藩主松平頼儀。第三子に生まれたが、二兄が夭折したため家督を継いでもおかしくなかったが、故あって家を継がず江戸邸より香川郡宮脇村に隠退して世を避けた。藩主頼胤は頼該に廩米として千五百石を給した。弘化元年(1845)、嫡母池田氏が病むと聞くと、高松を発し江戸に至り、目黒の別邸で看病すること四か月で帰った。文武の才あり、特に仏典に精通し、宗藩水戸の徳川斉昭に傾倒して尊王の志厚く、藩士長谷川宗右衛門、松崎渋右衛門や草莽の有志、小橋安蔵、日柳燕石、藤川将監(三渓)らと声息を通じ、天下の名候、志士と交わって王事に尽瘁した。文久三年(1863)正月、藩主頼聡のために京師に至り、水戸の執政武田耕雲斎、大場弥右衛門(一真斎)らと会見し、両藩多年の紛糾を解決した。同年五月、孝明天皇は内勅を頼聡に伝え、頼該をして一藩の軍務に参与させたが、頼聡は幕府を憚って決せず、ついに素志を貫徹することができなかった。ついで八月、大和の義挙があった。頼該は同志とこれに応じようとしたが、事敗れて果たさず、翌元治元年(1864)七月、禁門の変に長州藩兵が敗走するや、桂小五郎が来て潜伏するのを庇護し、また高杉晋作、中岡慎太郎らも来讃して彼を頼った。やがて事顕れ、頼該一党は悉く捕らわれて藩獄に下り、頼該自身も海防諮問の職を辞した。慶應四年(1868)正月、鳥羽伏見において高松藩は徳川氏を助けたことをもって新政府軍の来攻にあい、藩論沸然としたが、頼該の尽力により藩論を恭順に決して兵火を免れた。同年八月、年六十にて没した。

 

 本堯寺の頼該霊廟は、木造平屋建で瓦葺き。墓のある奥殿と拝殿が相の間で繋がれる複合社殿形式で、武家の霊廟としては稀有なものである。

 

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高松 Ⅱ

2020年12月12日 | 香川県

(中央商店街北部三町ドーム)

 

常盤橋跡

 

 常盤橋は、かつて高松城外堀に架かっていたもので、生駒家の時代は門出橋と呼ばれていた。松平頼重が入城後、常盤橋と名付けられた。曲輪と城下町を結び、木造高欄付の橋であった。橋の北側には番所があり、南側には高札場があった。

 常盤橋は、城下町から各地に通じる街道の起点となった重要な橋で、南へ丸亀町から仏生山、金毘羅街道へ、東は片原町から志度・長尾街道へ、西は兵庫町から丸亀街道へ通じていた。外濠は明治以降、南側から少しづつ埋められ、明治二十七年(1894)には十メートル余りになり、常盤橋も南北十二メートル、幅九メートルとなっていた。明治三十三年(1900)には外濠は完全に埋められ、その一~二年後には橋は撤去された。

 

(中央公園)

 

中央公園

 

 この日は朝から雨であった。天気が良ければ早朝からレンタサイクルで市内を走り回る計画であったが、生憎の天気のため、レンタカーを調達するまでの時間を使って、ホテルから歩いて行ける中央公園と浄願寺だけを訪問することにした。

 

浄願寺 正一位白禿大明神跡地

 

 中央公園は、今となってはどこにでもある公園に過ぎないが、かつてここは浄願寺の敷地であった。

 高松藩は親藩であり、鳥羽伏見の戦いでは徳川方に与したため、時の藩主松平頼聡(よりとし)は官位を剥奪された。頼聡は、一門の松平頼該(よりかね)に善後策を検討させた。官軍を迎え撃つという過激論を抑えて、恭順の方針を定め、執政小川又右衛門久成と伏見の総督であった小夫(おづま)兵庫を切腹させて首を差し出し、自らは城を出て浄願寺にて謹慎した。慶應四年(1868)四月、罪を赦され官位も復された。

 公園内に浄願寺跡であることを示す何かが残っていないか探したところ、植え込みの中に小さな石碑があるのを見つけた。ハゲさんと名付けられたタヌキのマスコットは、その昔浄願寺に住み着いていたタヌキをモデルにしたもの。このタヌキは茶釜に化けたまま売られてしまい、毎日丁寧に磨かれたためすっかり頭がツルツルになってしまったという。

 

ハゲさん

 

(浄願寺)

 

浄願寺

 

 浄願寺は中央公園から数百メートル離れた場所に移転しているが、その規模はすっかり縮小して、気の毒なくらいである。

 

(石清尾八幡宮)

 

石清尾八幡宮

 

 石清尾(いわせお)八幡宮の境内に長谷川宗右衛門の顕彰碑が建てられている。昭和十年(1935)九月建碑。

 

長谷川(宗右衛門)君表忠碑

 

(姥ヶ池墓地)

 

柏原學而 配露木常子 之墓

 

 姥ヶ池(ばあがいけ)墓地は、山の斜面に造成された広大な墓地である。ここから目当ての墓を見つけ出すのは絶望的かと思われた。ところが、自動車を停めたすぐ目の前に柏原学而の墓はあったし、松崎渋右衛門の墓も比較的その近くにあった。なかなか勘が冴えている。

 

 柏原学而は、緒方洪庵に学び蘭医学を身に付けた、徳川慶喜の侍医として江戸から京都に移り住み、幕末の嵐を将軍と行動をともにした。幕府崩壊後は、渋沢栄一とともに慶喜の心情をよく理解していた一人で、生涯を慶喜のいる静岡で過ごす決心をし、慶喜の起居する浮月楼の北側の隣接地に居を構えた。以後、その地で開業し、静岡では得難い名医として知られた。患者に貴賤や貧富の差をもうけずに一親同仁診療に応じたので、市民から深く敬愛された。静岡の人々は彼を「大名医者」と呼んだ。板垣退助が静岡を訪れた際、気分が優れず柏原学而に診察を乞うたが、板垣の医者を迎える態度が気に食わず、診察もせずに引き去ったという。明治二十一年(1889)十一月、慶喜が静岡を去ると、明治四十三年(1910)、七十六歳の生涯を静岡紺屋町の自宅で閉じた。静岡市の清水寺に墓があり、高松市姥ヶ池の墓は分骨したものである。

 

松崎渋右衛門之碑

 

佐敏彦之霊(松崎渋右衛門の墓)

 

 松崎渋右衛門は、文政十年(1827)の生まれ。諱は佐敏。達斎、毎夕、松緑などと号した。嘉永六年(1853)、米艦浦賀に来航すると、藩主松平頼胤は幕命をもって芝の浜御殿を警衛することになり、渋右衛門はこれに扈従し大いに尽くした。文久元年(1861)、世子頼聡が封を継ぐと、主命をもって京摂の間を奔走した。ときに高松藩は宗家水戸藩と溝があり、その和解に努めた。京師滞在中、水戸藩竹田耕雲斎と尊攘のことを謀り大いに周旋した。元治元年(1864)四月、藩主に従って入洛。各藩の志士と交流した。同年七月、長州藩の兵が禁闕を犯すと、廷臣の間に天皇の叡山動座の議が起こったが、渋右衛門の建議により中止となり、高松藩兵をもって禁闕を護衛した。のち藩論が一変したため、佐幕派のため獄に下ること数年、明治元年(1868)に至りようやく朝命をもって獄を脱し、十二月再び藩政に参与し、ついで執政に就いた。明治二年(1868)には満濃池を修築し大いに民利を起こし、また朝命を受けて神櫛王の墓を修築した。同藩異論者十四名のために暗殺された。年四十三。

 姥ヶ池の松崎家の墓地に入ると、松崎渋右衛門之碑が目に入るが、本墓はその傍らの「佐敏彦之霊」と刻まれた小さい墓であろう。

 

(峰山墓地)

 

贈正四位長谷川宗右衛門秀驥墓

 

 長谷川宗右衛門は、享和三年(1803)生まれ。若くして諸国を歴遊。藤田東湖、会沢正志斎、梁川星巌、頼三樹三郎、梅田雲浜らと交わり、常に幕府の失政と皇室の衰微を嘆いた。藩主松平頼恕の近侍となり、頼恕と世子頼胤との不和の和解を図った。文政九年(1826)、幕府が高松藩の封を移すという議が起こると、水尾紀の三藩と幕府の要職の間を奔走してそれを止めた。弘化元年(1845)、徳川斉昭が幕府の嫌疑を受けるにあたり、上書して冤を解くことに奔走した。嘉永六年(1853)、米艦浦賀に来航すると、「海防危言」三部を著わし、一を三条実万、一を徳川斉昭、一を松平慶永に献じ、また藩の重臣松平左近(頼該)の謀議に与った。安政四年(1857)、屏居を命じられたが、翌五年(1858)亡命して京都に入り、梁川、頼、梅田、僧月照と謀り、信濃に入り江戸を経て水戸に至り、高橋多一郎の家に潜匿し、諸士とともに勅旨遵奉のことを謀った。ついで大獄が起こり、京都より大阪へ逃れたところで縛に就き、その子速水とともに江戸の伝馬町の獄に投じられた。吉田松陰と同囚であった。安政六年(1859)十月、宗右衛門父子は高松の獄に移され、文久二年(1862)九月、朝命により解獄の内旨があり赦された。元治元年(1864)七月、長州藩が禁闕を犯すと、藩命を受けて大阪、京都に入り、要路に会い事を解いた。慶應元年(1865)、致仕し、長州に入って高杉晋作と謀議した。慶應四年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いにおいて高松藩が朝敵とされると、京師に出て参与中沼了三を頼って書を朝廷に上り、陳情して事なきを得た。のちしばしば藩主を諫めて獄に下り、明治二年(1869)二月、朝旨をもって解かれた。明治三年(1870)九月、病を得てまさに没すというとき「我、生前皇居を拝し地に入らん」と、病をおして船に上り、播磨灘に至ったところで没した。年六十八。

 

長谷川速水之墓

 

 長谷川速水(はやみ)は、宗右衛門の二男。天保六年(1835)の生まれ。七歳より剣法を海保帆平、槍術を山田某に学び、その傍ら弓馬水泳の術を修めた。十五歳にして藩の世子頼聡の近侍となる。つとに勤王攘夷を志し、水戸藩に出入りして武田耕雲斎、会沢正志斎、斎藤監物、杉山千太郎、勝野豊作らと交わり、また薩摩の日下部伊三治、西郷隆盛、有馬新七、有村治左衛門らと時事を論じた。安政五年(1858)、父宗右衛門が亡命すると屏居を命じられた。父が水戸にあることを知り、自らも亡命して赴こうとしたが能わず、大阪にて自首して縛に就き、江戸伝馬町の獄に繋がれた。この時、吉田松陰と室を同じくし、親しくその薫陶に接したといわれる。ついで父とともに高松の獄に送られた。万延元年(1860)八月、食事後胸間の苦痛を訴え、苦悶すること半年にして獄死した。年二十六。

 

 長谷川父子の墓は、てっきり峰山墓地の高いところにあるだろうと思い込んで、そちらばかりを探したが一向に見つからない。結局、最前列に並んでいた。何度も階段を上がり下がりしたが、そのお陰で小夫兵庫と小河久成の墓を発見することができた。両名の墓は、事前の調査によれば西方寺にあるはずだったので、峰山墓地のあと訪ねる予定にしていたが、結果的にその手間は省けた。

 

楳谿小夫君之墓(小夫兵庫の墓)

 

 小夫(おぶ)兵庫は、文政九年(1826)生まれ。高松藩家老。楳谿は号。名は正容。慶應四年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いでは、小河久成とともに藩兵を指揮して新政府軍と戦った。戦後、責任者として小河久成とともに切腹を命じられた。四十歳。

 

小河久成之墓

 

 小河又右衛門久成も小夫兵庫とともに戦争責任者として自刃を命じられた。二十七歳。

 

讃岐故儒學芝山先生後藤守中之墓

 

 後藤芝山は、享保六年(1721)生まれ。江戸に出て林榴岡に入門し、昌平黌に学んだ。安永九年(1780)藩校講道館を開き、初代総裁に就任した。芝山が創始した四書五経の訓点は「後藤点」と呼ばれ、広く知られた。門人に柴野栗山がいる。天明二年(1782)、没。

 

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丸亀 Ⅱ

2020年12月12日 | 香川県

(正宗寺)

 

正宗寺

 

村岡宗四郎墓

 

貞靖孺人墓(村岡箏子の墓)

 

 村岡箏子(ことこ)は、高松藩の勤王家小橋家に生まれ、十七歳で醤油醸造を営む丸亀の越後屋(村岡家)に嫁いだ。三十八歳で夫を亡くし、以後女手一つで子供を育てながら、越後屋の主人として家業を支えた。その一方、自宅の土蔵を勤王倒幕の密談所や宿泊所、武器弾薬の保管場所に提供するなど、明治の初めまで約十五年にわたり、勤王の志士を支援した。

 村岡宗四郎(そうしろう)は、箏子の末子として生まれ、母や周囲の影響を受けて、勤王の志をもって成長した。文久元年(1861)、叔父の小橋安蔵らの依頼により、自宅地下の石室で火薬、弾丸、臼砲などを密かに製造し、保管していた。文久三年(1863)、これらの兵器を持って上京し、倒幕計画に参画しようとしたが、直前になって中止となった。慶應二年(1866)、勤王家土肥大作に続き、宗四郎も自宅に監禁され、翌年一月に二十二歳の若さで亡くなった。

 箏子はその三年後の明治三年(1870)、五十六歳で生涯を終えた。箏子の墓に刻まれている貞靖は号、孺人は妻という意味である。

 

(玄要寺)

 玄要寺本堂の写真を撮ろうと思ったが、その前に墓地に行き着いてしまったため、本堂を見ないままになってしまった。

 

京極高朗墓所

 

 播州龍野城主京極高和が丸亀城主になって以来、明治二年(1869)の版籍奉還まで七代二百十年余にわたり、西讃岐は京極家によって統治された。七人の藩主のうち五人までは滋賀県坂田郡清滝の徳源院に墓があるが、六代藩主京極高朗(たかあきら)の墓所だけが丸亀南条町の玄要寺にある。高朗の墓所は、南北約九メートル、東西約二十メートルの土塀に囲まれ、「従五位京極高朗之墓」と刻まれた墓石がある。門や扉には京極家の四ツ目の家紋が刻まれている。

 高朗は、二代藩主高豊と並ぶ名君とされ、文化八年(1811)、十四歳で丸亀藩主となり、嘉永三年(1850)まで四十年にわたり、丸亀発展の基礎を築いた。詩文に通じ、琴峰、陶水と号して、約一万首の漢詩を創り、「琴峰詩集」を残した。藩主としても、新堀湛甫の築造、団扇作りの奨励をはじめ、海運、産業、文化に功績を残した。明治七年(1874)、七十七歳で没した。

 

雲関院殿前壱州刺史透翁道信大居士

(京極高琢の墓)

 

 京極高琢(たかてる)は、多度津藩五代藩主。藩政では防波堤の建造、港の築造などに功があった。慶應三年(1867)、五十七歳で没。

 

中邨三蕉壽蔵

 

 中村三焦は、文化十四年(1817)生まれ。亀井昭陽、帆足万里に学び、江戸に出て安積艮斎に師事した。藩主の侍講や藩校正明館教授を務め、維新後は小中学校の教師となった。明治二十七年(1894)死去。七十八歳。

 

菅原薫子之墓(若江薫子の墓)

 

 若江薫子(におこ)は、天保六年(1835)の生まれ。父は伏見宮殿上人若江修理大夫量長。若年より学を志し、岩垣月洲の門に入り、その学才は早くより聞こえ、また和歌にも達していたといわれる。一条忠香女寿栄君(のちの昭憲皇太后)の入内が内定すると、慶応三年(1867)九月よりその読書の稽古に参仕。孝経などを講じた。入内後も宮中に祗候していたが、平生より攘夷論を主張し、西洋化してゆく時勢に対する慷慨の念よりしばしば建白書を提出し、政府当局より不穏当と認められる言動もあったため、明治二年(1869)頃、宮中出入りを停止された。一説に幽閉されたとも伝えられる。明治九年(1876)頃、備前から讃岐の辺りを遍歴し、のち丸亀の岡田東洲の塾に落ち着いたが、明治十四年(1881)、不遇のうちに同地に没した。年四十七。その死に当たり皇后より金百円が下賜された。

 若江氏は菅原氏の出とされ、墓石には菅原薫子と刻まれている。

 

(丸亀護国神社)

 

丸亀護国神社

 

明治天皇行在所址碑

 

明治天皇丸亀行在所趾

 

 丸亀税務署と護国神社の間に明治天皇丸亀行在所址碑が建っている。一基は頂上に銅製の鳳凰像を頂く堂々たる石碑で、題字は東伏見宮依仁親王による。

 

(三船病院)

 

三船会館

 

 柞原(くばら)町の三船病院の一画にある三船会館は、丸亀県の庁舎として新築された丸亀行在所の建物の部材を活用して聖蹟記念館として再建したもの。屋根の形などに行在所の面影が偲ばれる。建物の前に「明治天皇丸亀行在所建物」碑が建てられている。

 

明治天皇丸亀行在所建物

 

(太助灯籠)

 

金毘羅講燈籠

 

明治天皇丸亀御上陸並御乗艦地

 

 丸亀港奥の岸壁上に「明治天皇丸亀御上陸並御乗艦地」と記された石碑が建てられている。明治五年(1872)七月四日、明治天皇が上陸したことを記念したものである。近くには天保年間に設置された金毘羅講燈籠(太助灯篭)が建っている。

 

 

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佐柳島

2020年12月12日 | 香川県

(高見島)

 

新なぎさ2号

 

 多度津から佐柳島に渡る船(フェリー)は、多度津港から出る。六時五十五分の朝一番の船に乗るには、前日多度津での宿泊が不可欠である。多度津駅前に一軒だけあるビジネスホテルを予約した。受付の女性は話好きで、チェックインする際に「お仕事ですか」「明日はどちらへ」と矢継ぎ早に質問を投げかけてくる。

 「佐柳島に」と答えると言下に「ネコですか」と聞かれた。佐柳島は「猫の島」として有名で、一説には人口(約七十名)よりも猫の数の方が多いともいわれている。もとより猫に興味はないし、実は最近野良猫が我が家の庭に入り込んで、それだけならまだしも時々脱糞までしていくものだから、どちらからというと猫嫌いになっているのである。

 

 佐柳島行きの船は、大半が釣り客であった。途中、高見島に立ち寄る。片道約五十分である。

 万延元年(1860)、アメリカに渡った咸臨丸の水夫の多くは塩飽諸島の出身であった。うち高見島からは四名、佐柳島からは二名が参加した。

 高見島は、お椀を伏せたような綺麗なシルエットをもった島である。

 

高見島

 

(長崎の埋め墓)

 

佐柳島

 

埋め墓

 

 佐柳島には、北の長崎と南の本浦の二つの港がある。長崎で下船して集落の北のはずれにある埋め墓(うずめはか)を見に行くことにした。

 佐柳島は、全国的にも珍しい、埋め墓と詣り墓の両墓制であった。埋め墓は、遺体を土葬するものである。石塔を建てて霊魂を祀るのが詣り墓である。詣り墓は、日常的に我々が見ている墓と同じものである。流石に昨今は土葬というわけにいかないので、埋め墓に葬られることはないそうである。

 

(乗連寺)

 長崎から三十分ほど歩くと島の南端の集落である本浦に行き着く。乗蓮寺は海援隊士佐柳(前田)高次の菩提寺である。

 

 佐柳高次は佐柳島本浦の出身。佐柳高次というのも変名の一つで、通称は前田常三郎、浦田運次郎という変名も使ったという。勝海舟の門下であったとか、長崎海軍伝習所で水夫に採用されたという説もあるが定かではない。咸臨丸乗組員名簿の塩飽水主二十七人中、常三郎とあるのが佐柳のことであるとされている。

 

乗蓮寺

 

 乗蓮寺の閻魔堂の前に「佐柳島の誇り」と刻まれた碑が置かれている。ここに二人の名前が記されている。一人は、平田富蔵、もう一人が佐柳高次である。

 平田富蔵は、万延元年(1860)アメリカに渡った咸臨丸の水夫として太平洋を渡ったが、サンフランシスコにて客死。冨蔵の墓はサンフランシスコのコルマ墓地にあるが、乗蓮寺には詣り墓がある。

 

佐柳島の誇り

 

和去唐卒(冨蔵の墓)

 

 墓石表面には「和去唐卒」と刻まれている。「和ヲ去テ唐ニ卒ス」と読むのだろうか。墓石側面には「萬延元年申三月十日 行年廿七才 俗名冨蔵」と書かれている。

 

唯悟道戒信士(前田高次の墓)

唯心妙道新女(同妻ミツの墓)

 

 佐柳高次はワイル・ウエフ号が遭難した時、当直であった。いろは丸事件の際にも、当直士官を務めていた。「佐柳島の誇り」によれば、「坂本龍馬の片腕として、その優れた操船術を駆使し大いに活躍」とある。しかし、「いろは丸事件と竜馬」(鈴木邦裕著 海文堂)では「いくら長い乗船経験があろうと、水夫は水夫であり、水夫長(甲板長)であろうが、士官見習以上の役職で乗船しなければ、当直や操船を指揮できる士官としての知識技能を学ぶ機会は与えられない」と彼の技量に懐疑的である。墓石によれば、明治十四年(1881)死去。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」では、水戸藩出身となっているが、もちろんそれは事実に反している。

 

(本浦埋め墓)

 

本浦の埋め墓

 

 本浦の埋め墓は、乗蓮寺に隣接している。その高い方の壁際に佐柳高次の埋め墓がある。前田高平と連名の墓石となっているが、前田高平という人が、高次の兄弟なのか父なのか分からない。

 

前田高次(埋め墓)

 

 十時に本浦を出る船で多度津に戻る。本浦港の待合室周辺には数えきれない猫がたむろしている。ベンチに座ると呼びもしないのに、猫が膝の上に乗ってくる。この島の猫は完全に人に慣れきっているのである。このオッサンが餌をくれる気配がないことを察知すると、すごすごと膝から降りて去っていった。

 

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