史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

墨田 Ⅶ

2021年03月20日 | 東京都

(多聞寺)

 墨田区墨田5‐31‐13の多聞寺は、江戸時代中期に建造されたとされる茅葺の山門を持つ、古刹である。山門前の毘沙門天碑は、榎本武揚の筆。

 

多聞寺

 

毘沙門天碑 正二位子爵榎本武揚

 

小山氏代々墓

 

 多聞寺墓地には、小山氏の墓所がある。小山松五郎は、八百松という料理屋を営んでいたが、関東大震災による焼失し、墨田公園開設のため跡地も買収された。松五郎の墓は、谷中霊園にもあるが、いずれも親交の深かった勝海舟の揮毫。多聞寺の墓碑裏には「明治十八年十月 三代孫松五郎建之」とある。

 

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早稲田 Ⅸ

2021年03月20日 | 東京都

(穴八幡宮)

 

穴八幡宮

 

 明治後、蘭方医松本良順は早稲田の自宅を構え、私立病院蘭疇舎を設立した。現在の早稲田中学校・高校の位置だそうである。

 早稲田中学・高校に近い穴八幡宮には良順が寄進した鳥居が奉納されている。

 

正四位勲二等松本順拜書

 

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根津 Ⅲ

2021年03月20日 | 東京都

(大名時計博物館)

 

大名時計博物館

 

 大名時計博物館は、大名時計を集めた全国的にも珍しい博物館である。大名時計というのは、江戸時代大名家お抱えの時計師が製作したものである。陶芸家上口愚朗氏が生涯をかけて収集したものが展示されている(台東区谷中2‐1‐27)。

 

勝山藩下屋敷跡

 

 この場所は、勝山藩下屋敷跡であり、博物館の門の前に石碑が建てられている。

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日暮里 ⅢⅩⅠ

2021年03月20日 | 東京都

(谷中霊園つづき)

 

従六位神谷傳兵衛之墓

 

 「デンキブラン」で有名な神谷バーの創業者神谷傳兵衛は、八歳の折、姉の嫁ぎ先である尾張国知多を訪れ、酒造業の繁栄を目にしたことから酒造業を志したといわれる。慶應三年(1866)、十一歳のときには既に自身で商売を始めていたという。明治五年(1872)、経営不振により商売が失敗すると、横浜の外国人居留地にあったフランス人経営の洋酒会社に入社。オーナーが帰国すると、東京麻布の天野酒店に移った。明治十三年(1880)、独立して浅草に一杯売り酒店みかはや銘酒店を開業した。神谷バーの前身である。明治十四年(1881)には輸入ワインを再生した蜂印香鼠葡萄酒(はちじるしこうざんぶどうしゅ)の販売を始めた。日本人の口に合うように輸入ワインにハチミツや漢方薬を加えて改良したものであった。明治三十一年(1898)には茨城県牛久に神谷葡萄園を開設し、その三年後には国産ワイン第一号を完成させた。明治三十六年(1903)、牛久醸造場(現・シャトーカミヤ)を竣工。酒造業以外にも日本石油精製や九州炭鉱汽船など多くの企業設立にも関わった。大正十一年(1922)、六十六歳にて没。【天王寺墓地】

 

小山家代々之墓(小山松五郎の墓)

 

 料亭「八百松」を開いた小山松五郎の墓である。残念なことに八百松は関東大震災を受けて閉鎖されてしまった。松五郎は勝海舟と親交が深く、海舟は松五郎の料理だけでなく、その人柄にも信頼を置いていたようで、土地の売買なども委ねていたようである。小山家の墓は、谷中霊園のほかに墨田の多聞寺にもあるが、ともに勝海舟の揮毫。谷中霊園の墓石には、「明治十二年九月 小山家代々之墓 勝安芳書 松五郎建之」と刻まれている【甲9号10側】

 

増田數之助墓

 

 増田数之助は、川口の鋳物師で、兄の増田安次郎とともに数多くの大砲を鋳造した。蘭学塾を始めた若き勝海舟に諸藩から大砲製造の依頼が舞い込むようになった。この時、海舟は増田数之助に大砲の鋳造を頼んだ。当時、大砲製造には賄賂がつきもので、六百両の野戦砲を製造するのに三百両もの礼金をとるのが常であった。海舟は賄賂を拒み、その分、純度の高い丈夫な大砲を作るように命じた。依頼を受けた増田数之助も当初は大金を持って行ったらしいが、海舟は突っ返し、ひどくいじめてやったと回想している。墓碑銘は海舟の揮毫による。【乙8号5側】

 

(感應寺)

 感應寺には、森鴎外の史伝「渋江抽斎」で知られる渋江抽斎の墓がある。墓碣銘は抽斎の事績を漢文で刻んだもので、漢学者海保漁村の撰文。書は書家小島成斎による。

 

感應寺

 

抽斎渋江君墓碣銘

 

 渋江抽斎は、文化二年(1805)の生まれ。諱は全善、字は道純。抽斎は雅号である。弘前藩の侍医の家に生まれたが、江戸に住した。長じて医を伊沢蘭軒、池田京水に、儒を市野迷庵、狩谷棭斎に学んだ。文政五年(1822)、家督を継いで表医者となり、また家伝の一粒金丹製法の伝授を受けた。天保十四年(1843)、躋寿館講師を命じられ、嘉永二年(1849)には医業出精により将軍家慶に謁見を許された。安政元年(1854)躋寿館医書彫刻手伝を命じられて「医心方」の校正に当たったが、業半ばでコレラに罹患して没した。年五十四。著書の「経籍訪古志」(森枳園共撰)は我が国における中国古書の解題中、最も完備したものといわれる。

 

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